若山城(わかやまじょう)

若山城の基本情報

通称・別名

富田若山城、周防若山城

所在地

山口県周南市福川

旧国名

周防国

分類・構造

連郭式山城

天守構造

築城主

陶弘護

築城年

文明2年(1470)

主な改修者

陶隆房

主な城主

陶氏

廃城年

弘治3年(1557)頃

遺構

曲輪、石垣、堀切、竪堀

指定文化財

県史跡(若山城跡)

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

勝栄寺(山口県周南市)[3.9km]
米光城(山口県周南市)[6.3km]
徳山城(山口県周南市)[8.4km]
敷山城(山口県防府市)[12.2km]
須々万沼城(山口県周南市)[13.5km]
末武城(山口県下松市)[14.8km]
右田ヶ岳城(山口県防府市)[15.7km]
藤掛山城(山口県周南市)[19.2km]
白水山城(山口県山口市)[21.6km]
大内氏城館(山口県山口市)[25.3km]

若山城の解説文



若山城(わかやまじょう)は、周防国都濃郡富田(現山口県周南市)にあった日本の城(山城)。守護大名大内氏の親族であり歴代その重臣でもあった陶氏の本城である[1]。県指定文化財。

概要 

連郭式の中世山城で、若山山頂(標高217メートル)の本丸を中心として、東側に伸びる尾根に二の丸と三の丸、西側に伸びる尾根には西の丸と蔵屋敷が配されていた。これらの連郭部分は差し渡し約400m。各所に空堀・竪堀があり、特に本丸の北東側には畝状竪堀の跡が多数現存する。西の丸の一部には石垣も見られる。山陽道や瀬戸内海を望む交通の要衝に位置しており、海からの攻撃を防ぐため、二の丸から本丸に連なる部分や東側の尾根などに壇床と呼ばれる段々状の曲輪がある。

若山の西側には的場川とそれを挟む狭い低地があり山口に至る街道を形成している。東側は深い谷を挟んで嶽山(標高364m)があり、その向こうの平野には陶氏の居館、平城の跡がある。

現在では若山城跡として整備され、二の丸・三の丸までは車で登ることができる(数台程度が駐車可能)。

沿革 

14世紀中頃 陶弘政(陶氏2代)が吉敷郡陶村より都濃郡富田保に移った。陶氏が富田保に入部したのは、同郡鷲頭庄(現・下松市)を拠点としていた大内氏庶流の鷲頭氏への対抗とされており、若山城の築城はこの際に行われたとの説もある。

文明2年(1470年)、応仁の乱で大内政弘が西軍の将として京に出陣中、政弘の伯父である大内教幸が東軍に通じ反乱を起こした(道頓の乱)。吉見氏など石見の国人もこの乱に呼応したため、大内領国の守りに就いていた陶弘護(陶氏7代)は防備のため若山城を築いた[2]。陶弘護は大内教幸を破り反乱を鎮圧するが、後年宴の席で吉見信頼に刺殺された。

天文19年(1550年)に主君大内義隆と対立した陶隆房(陶晴賢)が、謀叛に備え城の修築を行った。翌年、陶隆房が若山城にて挙兵した。山口を襲って義隆を自害に追い込んだのち(大寧寺の変)、大友晴英(義隆の甥)を豊後国から迎え大内義長として擁立、自身は晴賢と名を改め大内氏の実権を握った。

天文24年(1555年)、安芸国へ軍を進めた陶晴賢が厳島の戦いで毛利元就に大敗し自害。若山城を守る晴賢の子長房は晴賢に遺恨のあった杉重輔とその手勢200余人に急襲され三の郭を占拠された。長房は城を脱出したが追撃され自刃(長房の死はほかに1556年・1557年など諸説あり)した。

同年より毛利氏の防長経略が始まり、弘治3年(1557年)、陶長房亡き後は陶氏の遺臣が若山城を守っていたが、毛利方の降伏勧告に応じたため長屋小次郎を城番とし城兵200余人でこれを守備した。そこに山口方面より陶方の兵2000余人が押し寄せ、降伏した遺臣もこれに呼応し城内に火を放ったため落城となった。その後、大内氏を滅ぼして防長二州を制圧した毛利氏により廃城とされた。

昭和48年(1973年)、南陽町(新南陽市の旧名)が登山道を設置。昭和62年(1987年)に山口県の指定文化財となった。平成3年(1991年)頃より地元有志(現・陶の道を発展させる会)が中心となり城跡・登城道の整備、イベントの開催、NHK大河ドラマの誘致運動などを行った。平成22年(2010年)に築城540年記念事業として石碑建立やイベントなどが開かれた。

その他 

  • 城跡と登山道には桜が植樹され地元の花見名所になっている。
  • かつて陶氏家臣の登城に使われた道筋は「陶の道」の名で地元に知られ、平成16年に日本ウオーキング協会「美しい日本の歩きたくなるみち500選」にも選ばれている。
  • 前述のNHK大河ドラマ誘致活動の後、「毛利元就」で若山城を舞台とする場面が放映されている。

注釈 

出典 

参考文献 

若山城の口コミ情報

2023年04月01日 iCastle周防守SE2
若山城

二の丸・三の丸跡が駐車場で、舗装道がある普通車でも楽に登れます(途中で対向車とすれ違えるポイントもあるので安心)。

入口は国道2号の若山交差点より少し西に看板や幟旗があります。西から東に向かって走って左折で入ります(下り車線からは不可)。

地元の方がよく整備されています。眼下の眺望も良く、春は桜の季節にお花見気分でどうぞ。

2021年07月24日 弾正忠ランディ
若山城



国道沿いに登城口の看板があるので分かりやすいです。ちょうど陶晴賢公生誕500年です。二ノ丸まで車で登れますが道幅が狭いので注意。

2020年08月10日 織田上総介晃司
若山城

車では下り(福岡方面行き)は若山城に入る事ができず、道の駅「ソレーネ周南」で休憩がてら向きを上り(広島方面行き)に変えて進入。二の丸・三の丸跡まで車で行けます。登城口からの道中、川柳などありますが、わき道運転はしないで下さい。

若山城の近くにカープで活躍した「炎のストッパー」故津田恒実さんの母校・南陽工業があります。

若山城からは少し距離がありますが下松駅の北口に「北斗亭」南口に「紅蘭」と、二軒のラーメン屋があります。両店とも下松では有名なラーメン屋です。

2018年03月14日 カーネル
若山城

山陽線福川駅から

駅を背に北上して、国道2号で左折して西へ向かいます。国道2号は、渡っておく必要があります

『若山』の信号を超えると、若山城の看板があるので右に曲がり、舗装路をダラダラと登ります

この舗装路は、ようこそ!感が満載で、大好きです

駅から35分で林道の終点の駐車場。ここまで車で来れます

入口の案内図に従って、東の連続竪堀をみつつ横堀を歩き本丸へ。さらに奥に行くと西の丸・蔵屋敷跡。大雨だったので下界は見えませんでしたが、煙った西の丸の石垣がかっこよかったです

帰りは、国道2号に看板が出てた真福寺にお参りしてから駅へ。なぜか耳かきをいただいてしまいました

駅から往復して、1時間40分でした

2017年08月19日 征夷大将軍ひとりもん
若山城

通行止め解除されていました。
一部の方だけかもしれませんが、この城への愛情が凄い。狭い林道で脇見運転してしまいます。

2015年08月19日 柴崎権大納言幸助
若山城

国道2号線を東進していくと標識が見えてくるので、左折してひたすら登っていくと駐車場になっている広場に着きます。そこから本丸まで歩いて10分もかかりません♪

2011年10月03日 尼子民部少輔晴久
若山城

陶晴賢の居城です
厳島合戦の後、反旗を翻した杉氏によって攻められ、陶長房、貞明兄弟は自刃、陥落します

若山城の周辺スポット情報

 西の丸(遺構・復元物)

 新南陽商工会議所(御城印)

 トイレ(トイレ)

 駐車場(二の丸・三の丸跡)(駐車場)

 登山口(その他)

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