須々万沼城(すすまぬまじょう)
須々万沼城の基本情報
通称・別名
- 沼城、遠徳山城、要害山
所在地
- 山口県周南市須々万本郷字要害
旧国名
- 周防国
分類・構造
- 輪郭式山城
天守構造
- -
築城主
- 不明
築城年
- 室町時代
主な改修者
- -
主な城主
- 江良賢宣、山崎興盛、山崎隆次
廃城年
- 弘治3年(1557)
遺構
- 消滅
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑(沼城址)、説明板
周辺の城
-
徳山城(山口県周南市)[8.5km]
末武城(山口県下松市)[10.7km]
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若山城(山口県周南市)[13.5km]
藤掛山城(山口県周南市)[14.0km]
三丘嶽城(山口県周南市)[14.4km]
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石城山神籠石(山口県光市)[22.1km]
須々万沼城の解説文
[引用元:Wikipedia「須々万沼城」の項目]
須々万沼城 (すすまぬまじょう)は、周防国都濃郡(山口県周南市須々万本郷)にあった日本の城。
概要
標高の低い丘の最上部に本丸を配した城で、険阻な城郭ではないが、当時は城の三方を沼に囲まれており、攻め難い城であったとされる。
沿革
須々万沼城は室町時代に築かれたとされるが、築城者は不明。
戦国時代の弘治元年(1555年)からの毛利元就による防長経略では、鞍掛合戦に続く大きな戦となった[1]。
大内氏の家臣・山崎興盛、江良賢宣らが籠城して、攻め寄せる毛利軍と度々戦った。小辻川を堰き止めて防備を強化して必死に抵抗したが、毛利軍は筵で沼を埋め立て、火縄銃で城内に射撃をして、城兵の戦意を喪失させていった。ついに弘治3年(1557年)に、城内へ毛利軍が乱入。城内に籠った一般人の老若男女1,500人(3,000人とする説もある)も斬殺され、城将山崎興盛・隆次親子は自害、城主の江良賢宣は城を出て降伏、須々万沼城は落城した。
城は落城後に廃城となったと思われる。
現在
現在の城跡は住宅や各種施設が建っており、遺構は残っていない。保福寺の正門前に説明板、裏手に沼城址の碑と説明板が建てられている。
なお、須々万地区を校区とする小学校は周南市立沼城(ぬまぎ)小学校で、沼城の名を校名にとどめて歴史を刻んでいる。
また、須々万にある山口県立徳山北高等学校の校歌にも「桜花 散るをも待たで沼城に 命を絶ちし名将の 心知らずや」の一節がある。
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須々万沼城の口コミ情報
2022年11月26日 大納言Z周防守369
須々万沼城
保福寺の北側の裏山にあるケアハウス周南が城跡。丘状になっているのでわかりやすい。丘の上にあるケアハウスの駐車場は、道が細いので、保福寺の前にある駐車場を使った方がいいと思われる。
1557年の毛利軍の攻撃では、城内に籠城した1500人(一説には3000人)の老若男女一般人も斬殺された。城を取り囲むようにお地蔵さまがならんでいるのは、殺された人達を供養するためだろう。
2022年11月26日 大納言Z周防守369
山崎伊豆守興盛自刃之地[須々万沼城 碑・説明板]
1557年の毛利軍の攻撃で籠城した大内氏家臣・山崎興盛が自害した場所。
2013年07月31日 長門守みはえる
須々万沼城
切ない感覚になりました
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山崎伊豆守興盛自刃之地(碑・説明板)
駐車場(駐車場)