庭瀬城(にわせじょう)

庭瀬城の基本情報

通称・別名

芝場城、(庭瀬陣屋)

所在地

岡山県岡山市北区庭瀬

旧国名

備中国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

三村元親

築城年

戦国時代

主な改修者

戸川達安

主な城主

三村氏、井上氏、戸川氏、板倉氏

廃城年

明治2年(1869)

遺構

曲輪、石垣、横堀

指定文化財

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

撫川城(岡山県岡山市)[0.2km]
賀陽氏館(岡山県岡山市)[2.3km]
富山城(岡山県岡山市)[4.7km]
早島陣屋(岡山県都窪郡)[4.7km]
辛川城(岡山県岡山市)[4.9km]
備中高松城(岡山県岡山市)[6.1km]
亀山城(岡山県総社市)[6.9km]
福山城(岡山県総社市)[8.2km]
岡山城(岡山県岡山市)[8.3km]
天城陣屋(岡山県倉敷市)[9.4km]

庭瀬城の解説文

宇喜多家の重臣・戸川達安の城



庭瀬城(にわせじょう)は、岡山県岡山市北区にあった日本の城。戦国時代に築城されたが、江戸時代初頭に廃城となり、同地の二之丸に庭瀬藩庁を設け、庭瀬陣屋(にわせじんや)となった。別名芝場城(しばのじょう)。現在でも庭瀬地区には堀が張り巡らされており、城下町の名残りが色濃く残っている。

歴史 

戦国時代

備中国の三村元親が、備前国の宇喜多氏の侵攻に備える為に築かせたと伝えられている。

天正10年(1582年) 羽柴秀吉の備中高松城水攻めの際に、毛利方の国境防備の城「境目七城」の一つとなり、城主の井上就正と桂景信が800余人を率い守備する。この際、位置的に孤立した場所にあったため、吉川元春、小早川隆景に早々に撤退するように下命されていたが、就正はその命令に背き、秀吉軍との間で激戦が交わされた。就正の軍勢は秀吉に敗れ、宇喜多氏の領有となり、しばらくの間無城主となる。

当時の庭瀬城の縄割りは現在の撫川城まで有ったと伝えられており、かなりの規模であった事が想像できる。

江戸時代

慶長6年(1602年)、宇喜多氏の重臣であった戸川達安が入城、庭瀬藩を立藩し、城を改修。城を廃して二の丸に藩庁を設置し、庭瀬陣屋として整備。そして陣屋と鴨方往来周辺に陣屋町を造成した。

延宝7年(1679年)、4代目藩主戸川安風が僅か9歳で早世し戸川氏は断絶、改易となった。その後20年間は倉敷代官所と藩主が支配するようになる。

4年後の天和3年(1683年)、下総国関宿藩より久世重之が5万石で入封し、再び庭瀬城跡に陣屋を構えた。3年後の貞享3年(1686年)、重之は丹波国亀山藩に移封となった。7年の後、元禄6年(1693年)に大和国興留藩より松平信通が3万石で入封した。4年後の元禄10年(1697年)に信通は出羽国上山藩に移封となった。

この間の空領の期間は天領とされ、倉敷代官所の預かりとなった。

元禄12年(1699年)、板倉重高が2万石で入封し、以降は板倉氏が江戸時代の終わりまで約170年間支配した。

寛政5年(1793年)、板倉勝喜は城内に板倉氏中興の祖重昌、重矩父子を祭る清山神社を建て、社内に歴代の遺品を収蔵した。

明治時代

立成寺に表門が移築された。

近隣施設 

アクセス 

  • JR西日本 山陽本線庭瀬駅

庭瀬城の口コミ情報

2024年01月27日 焔耶
庭瀬城



住宅地の中にあります。駐車場はあるけど、道が狭い😅

2023年11月26日 ふみ
庭瀬城



住宅街の中に、ポツンと有りました。駐車場も、有り訪問しやすいです。

2023年09月17日 小太郎左衛門督南海道22國守
庭瀬城



城跡直近北側の駐車場に、未舗装ながら数台は楽に止めることができる。ただし車で行かれる方は狭路が多いので用心が必要。令和5年9月16日情報。

2022年12月22日 副将軍こうちゃん播守
庭瀬城



現地、無料駐車場有りで公園の方に簡易式🚻有ります🤚西に撫川城跡も有ります…徒歩5分以内☝️

2022年10月29日 RED副将軍
庭瀬城



備中の有力国人である三村氏の南東を守備する境目城🏯
⁡ 羽柴秀吉による中国侵攻の際は毛利氏により#境目七城 のひとつとして改修されました。

オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎

築城年代等は不詳。
寛治年間(1087年〜1093年)に吉備津宮の神官であった藤井久任により築かれたのが始まりとも云われます。
1559年には鶴首城の三村元親が宇喜多直家に対する備えとして改修したとされます。
1575年、宇喜多直家と毛利輝元が同盟を結んだことにより、宇喜多氏に遺恨を持つ三村元親は毛利氏から離反し織田信長に付きます。毛利輝元は小早川隆景を総大将として8万の大軍を派兵し、備中兵乱が勃発し三村氏は滅亡。
その後、庭瀬城は毛利氏の支配となり井上有景が城将として入城しました。
1579年には、宇喜多直家は毛利輝元との同盟を破棄し、織田信長に属します。
備前・備中の国境は一気に緊張が高まり、毛利氏は境目七城として改修し防備を固めます。
1582年、ついに羽柴秀吉が備中高松城に侵攻。その際、庭瀬城に井上有景は籠って羽柴・宇喜多軍と対峙。備中高松城の清水宗治の自刃により羽柴・毛利の和議が成立すると庭瀬城は宇喜多氏の属城となりましたが、まもなく廃城となりました。
1600年の関ヶ原合戦の戦功により戸川達安が備中国庭瀬に入封。庭瀬城の二の丸に陣屋を構え、城下町を整備しました。
1679年に当主の戸川安風が九歳で早世すると嗣子なく改易となります。
その後、久世氏、松平氏、板倉氏が続いて明治に至りました。

見所
現在は、清山神社の境内となり北側に駐車場もあります。
宅地化により遺構等は残存していませんが、湿地帯を要害とした平城であり、周囲に巡らされた水壕跡が今も残ります。

2022年01月06日 日向夏隠岐守
庭瀬城



城の北側に市が設置した駐車場があり、閑静な住宅街に堀と一体化した縄張りが認められます。往時は隣の撫川城と一体だったということです。

2021年10月12日 四間飛車左衛門佐とみー
庭瀬城



2021年10月10日、岡山での某イベントで戦った後、余勢を駆って岡山から山陽本線で2駅の庭瀬まで足を延ばして、庭瀬城に攻め込んできました。城までは小さな水路、袋小路に囲まれており、徒歩で城にたどり着くまで思わぬ苦戦を強いられました。水路、沼、入り組んだ道は一帯が城?防衛エリアだったことを想像させられます。

2021年09月06日 式部大輔 ほげらばり
庭瀬城



込み入った住宅街の中にあり、道幅狭いですが、駐車場も完備されており、リア攻めしやすいです。

2020年12月10日 ドクターイエロー左馬頭
庭瀬城



JR庭瀬駅から県道151号線を途中まで、そのまま直進して突き当たりを右に行くと庭瀬城跡の案内看板が目に入ってきます。駐車場も数台確保されており、更に庭瀬藩に関するパンフレットも用意されています。城内には清山神社や八幡宮が祀られており、古代蓮の大賀ハスも植栽され、初夏には淡紅色の蓮が堀割に彩りを添えます。八幡宮付近でリア攻め可能になります。R2.12.10訪城

2018年11月05日 織田上総介晃司
庭瀬城

撫川城前の駐車スペースに停めて住宅地を歩いてくればいいと思います。

水路と石垣が残り、城址には清山神社が建つ。

2017年07月17日 橘若狭守次郎吉
庭瀬城

水堀と僅かに石垣が残っているだけです。
石碑と説明板はありました。
すぐ近くにある撫川城跡には立派な野面積石垣や土塁、水堀が残っています。庭瀬城跡は撫川城跡のついでに訪れる程度でしょう。

2010年08月30日 ながしの権兵衛
庭瀬城

城址の東側に公園来客用の駐車場(5〜6台分くらい)スペースあり。
また吉備まちづくり研究会発行の「吉備・陵南歴史と文化の散歩道(周辺散策用の無料マップ)」を設置。写真入りで簡単な説明がなされており、ありがたいです。

庭瀬城の周辺スポット情報

 水堀(遺構・復元物)

 大手門跡(碑・説明板)

 陣屋の説明板(碑・説明板)

 木門跡(閂のある木の門跡)(碑・説明板)

 旧庭瀬港(内港)と常夜灯(碑・説明板)

 庭瀬藩戸川家墓所(不変院)(寺社・史跡)

 清山神社(寺社・史跡)

 簡易トイレ(トイレ)

 駐車場(駐車場)

 駐車場(駐車場)

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