三石城(みついしじょう)
三石城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 岡山県備前市三石
旧国名
- 備前国
分類・構造
- 連郭式山城
天守構造
- なし
築城主
- 伊東大和二郎
築城年
- 元弘3年〔南朝〕/正慶2年〔北朝〕(1333)
主な改修者
- -
主な城主
- 伊東氏、浦上氏
廃城年
- 天文23年(1554)頃
遺構
- 曲輪、石垣、土塁、堀切、井戸
指定文化財
- 県史跡(三石城跡)
再建造物
- 石碑
周辺の城
-
富田松山城(岡山県備前市)[10.4km]
鴾ヶ堂城(兵庫県赤穂市)[11.3km]
赤穂城(兵庫県赤穂市)[12.8km]
天神山城(岡山県和気郡)[14.1km]
白旗城(兵庫県赤穂郡)[15.0km]
保木城(岡山県岡山市)[16.9km]
大嶋城(兵庫県相生市)[17.9km]
感状山城(兵庫県相生市)[18.4km]
上月城(兵庫県佐用郡)[19.3km]
福岡城(岡山県瀬戸内市)[19.9km]
三石城の解説文
[引用元:Wikipedia「三石城」の項目]
三石城(みついしじょう)は、岡山県備前市三石にあった日本の城(山城)。岡山県の史跡に指定されている[1]。
概要
三石市街地の北側にある標高291mの天王山山頂に位置する中世の連郭式山城である。最上部に本丸、一段下に二の丸、更に一段下に三の丸がある。三の丸端には石垣が認められる。三の丸北の一段低い部分に馬場曲輪がある。馬場曲輪の北に大手門があり石垣が残存している。本丸北には堀切があり堀切を隔てて出丸の鶯丸がある。
歴史
『太平記』によれば鎌倉時代終末期の1333年(元弘3年/正慶2年)に三石保地頭の伊東大和二郎が南朝方に加勢し居館の背後にある天王山に城を築いたことに始まると伝えられている。大和二郎は西国から六波羅救援に向かう北朝方に対抗した。南北朝時代の1336年(建武3年/延元元年)には九州へ敗走する足利尊氏が家臣の石橋和義に守備を命じ新田義貞の追撃軍を足止めした。
赤松則祐が備前守護となると浦上宗隆が守護代となり1365年(貞治4年/正平20年)三石城に入城した。以後、室町時代から戦国時代にかけて概ね浦上氏の居城となった。
1441年(嘉吉元年)嘉吉の乱が起こる。赤松氏当主の赤松満祐は室町幕府6代将軍足利義教を暗殺し、山名持豊(宗全)を主力とする幕府軍に居城を攻撃され自害した。これにより備前は山名氏の配下となった。1467年(応仁元年)応仁の乱に乗じて満祐の甥・赤松政則が備前守護となり主家の守護復帰に尽力した浦上則宗も守護代に復帰した。政則の死後、則宗は養嗣子の赤松義村に家督を相続させ赤松氏の中で権勢を振るうようになり、次第に赤松家中で対立を深めていった。
則宗の2代後の当主・村宗の代になり主家との対立が決定的となる。1519年(永正16年)村宗は三石城に籠城し、赤松義村は三石城を包囲した。しかし浦上方は包囲軍を敗走させた。1521年(大永元年)には義村を幽閉し殺害した。こうして浦上氏は戦国大名となった。
村宗の嫡子・政宗が本城の室山城主、次男の宗景が三石城主となった。宗景は兄との不和から1554年(天文23年)播磨国境より離れた天神山城を築いて移り、三石城は放棄された。
参考文献
- 岡山県高等学校教育研究会社会科部会歴史分科会/編 『新版 岡山県の歴史散歩』 山川出版社 1991年 62-63ページ
- 藤井駿・市川俊介/著 『岡山文庫 岡山の城と城址』 日本文教出版 1968年 78-81ページ
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三石城の口コミ情報
2023年12月25日 気分爽快豊後守
三石城
前回北の駐車場から鶯丸を経由して登城した際は結構距離がありましたが、三石駅から行くと①の石垣、⑧の井戸を途中で見ることができ、こちらが正解のように思いました。
①三の丸の先の石垣には、朽ち果てた「第五展望所」の立札が。第三、第四はどこにあるのか?
②三の丸北は土塁となっている。
③堀切から南につながる横堀と土塁。
④写真では分かりづらいが連続する竪堀。
⑤大手門先の石積み。櫓台か?
⑥大手門跡。
⑦大手門を横から。
⑧千貫井戸には豊富な水が。
2023年09月11日 ビーンズマン左兵衛督
三石城
この城の驚いた点は、畝状竪堀群の多さ。他の城に比べて保存状態がいいのかもしれないが、城の大手門側はそこらじゅうに畝がある。
2023年07月26日 たまちゃん
三石城
登山口の階段前に縄張図が置いてあります。本丸近道を通ると三ノ丸下の石垣があり、本丸、大堀切、大手門石垣を通って下りてきました。第一見張り所から街が見下ろせます。
2022年07月18日 RED副将軍
三石城
大門跡の見事な石垣造りの桝形虎口、本丸と鶯丸を隔てる岩盤掘削の大堀切と連結する横堀は必見です✨
オススメ度 ★★★★★
1333年、南朝方の伊東大和二郎が居館の背後にある天王山に城を築いたことに始まりと伝わります。
1336年には北朝方の城となり、足利尊氏の軍勢を迎え入れて新田義貞の軍勢と戦った様です。
1365年、赤松氏が備前国守護となると、浦上宗隆が守護代として入城し代々の居城としました。
1496年に、主家である赤松政則が没すると、浦上則宗は養嗣子の赤松義村に家督を相続させ、赤松氏の中で力を強めますが、この頃から赤松家中で対立が深まります。
1519年、主家との対立から浦上宗村は赤松義村から謀叛の疑いをかけられ、赤松義村は三石城を包囲し、浦上村宗は籠城。しかし赤松義村は三石城を落とすことが出来ずに撤退。
1521年、浦上村宗は求心力を失った赤松義村を幽閉し殺害。浦上氏は戦国大名となりました。
その後、本拠地を室山城に移すと、三石城には次男の浦上宗景が城主となります。浦上宗景は、家督を継いだ兄の浦上政宗と不和であり、1554年に離れた天神山城に移ると三石城は廃城となりました。
見所
まず、城域に入ってしばらくすると、鶯丸と本丸を隔てる岩盤掘削の大堀切に圧倒されます。堀切の東端は竪堀となって落ち、西側は畝のある長大な横堀となり大手曲輪まで巡ります。
最高所の主郭は西側に土塁が巡り、東側は急峻な岩盤斜面となっています。土壇の東側には石積みが認められます。
主郭から南への尾根筋には二ノ丸、三ノ丸が連なり、周辺に帯曲輪を配置。三ノ丸の先端にも石垣が確認できます。
最大の見所は、主郭西側下にある大手曲輪の石垣造りの虎口。大門跡と呼ばれ、見事な桝形が形成されており、30分近く余すことなく様々な角度から観察しました。
西側斜面は畝状竪堀群がありますが、かなり浅くなっています。
行き方は、北側の深谷の滝から林道が続いており駐車場もあります。駐車場から尾根道を1kmくらい歩きますが、かなり上まで車で登ることができます。
2022年01月27日 【若】戦国左近将監
三石城
三石駅から西に約500m進むと麓からの登城口があります。Googleマップは変な所に案内するので、スッポト追加しときます。
片道約30〜40分あたりで登城できるそうです。僕は時間短縮のため、行き20分、帰り8分で攻城しました(笑)
登城口は整備されており、登りやすいです。5分くらい進むと尾根にでてきます。順路どうりに進んで行くんですが、岩盤が露出している所が多いので気をつけてください。途中に本丸への近道があります。おそらく三ノ丸を経由して本丸へと行くことができるのですが、大手曲輪や馬場を見逃す可能性あり。通常の道を進んだほうが良いと思います。個人的には標高約300mとは思えないほど楽な登城道で標高200mの富田松山城よりも全然疲れません。
城域に入ると大手門への道標あり。道標どうり進むと見事な石垣が現れ、大手門跡の標識がでます。大手は馬場や大手曲輪から横矢がかかっています。本当に見事な石垣なので是非見ていって下さい。(大手門横には分かりにくいが竪堀あり)大手門を抜けると大手曲輪にでます。曲輪北の土塁裏には石垣が積まれていますが、これも立派。
大手曲輪を右手に抜けると馬場跡の帯郭につきます。この帯郭の端にはⅣ郭の櫓台と思われる石垣があります。分かりにくいですが、個人的に三石城の中で一番立派な石垣だと思います。(本丸への近道はおそらくここに繋がっている)ここから三ノ丸、二ノ丸、本丸へと続きますが、いずれの郭にも大手側だけに土塁が施されています。二ノ丸と本丸の切岸は結構、鋭いです。本丸には看板があって、北には軍用石が転がっています。そのまま、北の道に降りると三石城名物の岩盤堀切が姿を現します。この堀切は本丸と鶯丸(うぐいす丸)を断つ大堀切で東に竪堀、西に空堀となって大手門まで伸びています。空堀の右側は土塁になっていて結構、分厚いです。このまま大手門まで戻って、帰路につきました。
一応、鶯丸には二重堀切があるそうですが、発見できませんでした。三石城に訪れる際には登城口をよくご確認の上で攻城ください。
2021年02月13日 八咫烏紀伊守鉄龍
三石城
車で林道を進み。登城口から駐車場まで。そこから尾根伝いに行けば片道30分強で行けます。
2021年01月11日 織田上総介晃司
三石城
深谷の滝を目指し、さらに林道を進んだ先の約5台停めれる駐車場に停め、北側よりリア攻め。
尾根伝いにアップダウンの道を約40分で到着。
南側の三石駅側からも登城口がありますがどちらが楽なんでしょうか?
備前市は備前焼(お好み焼きじゃないよ)が有名で多くの窯元があります。
備前市閑谷には岡山藩が建てた国宝の閑谷学校講堂があります。そちらにも訪れてみてください。
2019年09月19日 内記かずりヾ(・ε・。)
三石城
登城するには南麓の登城路を使いましょう。そして帰りも同じ道で帰りましょう。
自分は遠征最終日だったので車は借りずに山陽本線三石駅から徒歩で南麓の旧山陽道側の登城路入口に向かいました。道は整備されていて比較的登り易い部類に入ると思います。登城路の途中で「本丸への近道」という分岐にぶつかりますが、大手門を見落とす可能性がありますので近道しないようにしましょう。あまり近道っぽくないし距離も大して変わらないような気がします。
主郭部の周りに遺構が集中しているので、満足したら行きで使わなかった近道を利用して帰りましょう。間違っても北側の登城路から帰らないようにした方がよいです。お城は何て読むのか本当に解らない通称何とか丸北側山側背後の堀切を城域北端として終わると思いますので、景色に興味があるか深谷の滝を見るのでもなければ軽目の縦走になりますので疲れた身体には気の毒です。ちなみにこの登城路は車で信じられないような場所まで行けますが、車を捨ててからも不安しか感じないぐらい歩きますのでとても辛いと思います。
割とコンパクトなお城だと思いますし、色んなハイライトを持ってもいますので、普段山城に興味の無い方も是非訪ねてみて下さいまし。
※写真は北側〔山側)の登城路へ通じる林道への分岐になります。ここから結構な場所まで車で行けて転回、すれ違いポイントもあります。ただ残念なことにこの道を使ってゴミを捨てに来る方が多数いらっしゃいますね。
2018年02月12日 直江山城守兼続
三石城
三石駅から、北東に深谷の滝方面に2.7キロほど行くと、登城口があります。
車の方は、登城口に車4~5台駐車出来ます。 登城口からは約1キロくらい、40分くらいで城跡ですが、尾根をアップダウンしながらの道です。
2017年01月13日 石工集団穴太衆【兒】
三石城
三石城は標高297mの山に築かれて、石垣が残る大手門跡と三ノ丸の南西端に残る石垣が最大の見所であります、主郭は山頂にあり楕円形の曲輪で中心に一段小高くなった土壇があり、一部に石積が残る、主郭の南下にある曲輪が二ノ丸、そして南西に伸びた長い曲輪を三ノ丸としています、この三ノ丸の西端に石垣が残っています、三の丸下方にあるのが大手門跡で、土塁囲みの小郭の南西と北に虎口があり、外側は石垣になっています、主郭から北へ続く尾根には堀切が二条あり、二条目は大堀切でそこから大手門方面に横堀状の通路が付き、この尾根の北側に鶯丸と呼ばれる小郭があります登山道の入口は旧山陽道沿いにあり、大きな看板が出ているのですぐにわかります、車は三石運動公園に駐める事が出来ます、もう一つ北側の深谷の滝側から林道があり、北尾根から鶯丸を経て入ることができる、こちらは多少高低差がありますが比較的楽に登ることが出来ます、林道末端に駐車場、以外と距離を歩きます今回は北側からの登山口から登城しました。
2012年10月29日 【隠者】史学会帰新参
三石城
三石駅から南西500Mに登山口がある。案内板があるのでわかりやすい。比高は200Mほどである。曲輪がよく残る。大手門の石垣も残る。