富田松山城(とだまつやまじょう)
富田松山城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 岡山県備前市東片上
旧国名
- 備前国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 浦上氏
築城年
- 文明年間(1469〜1487)
主な改修者
- -
主な城主
- 浦上氏
廃城年
- 天正15年(1587)
遺構
- 曲輪、石垣、土塁、堀切
指定文化財
- -
再建造物
- 碑、説明板
周辺の城
-
福岡城(岡山県瀬戸内市)[10.0km]
保木城(岡山県岡山市)[10.1km]
三石城(岡山県備前市)[10.4km]
天神山城(岡山県和気郡)[13.6km]
砥石城(岡山県瀬戸内市)[14.3km]
沼城(岡山県岡山市)[14.7km]
大廻小廻山城(岡山県岡山市)[15.8km]
赤穂城(兵庫県赤穂市)[18.1km]
乙子城(岡山県岡山市)[18.5km]
鴾ヶ堂城(兵庫県赤穂市)[20.6km]
富田松山城の解説文
富田松山城の口コミ情報
2024年03月30日 征夷大将軍西大寺信誠
富田松山城
先の口コミにあるように、道は良く整備されていますし、案内板も分岐毎にあり、迷うことはないです。廓にもしっかり表示があり、縄張りもよく判ります。景色もよく勧められます。ただし、尾根に上がる道はそれなりにきついですし、道が細っているところもありますので、しっかりとした靴で登城してください。
2024年01月02日 わんにゃ備前守
富田松山城
JR備前片上駅から南に坂を下り、道なりに約10分ほど歩くと野球場の横で行き止まりになり、正面に案内板があります。案内板から西へ少し行ったところが登山口です。
道は階段状に整地されているところが多く、割と楽に登れました。休憩しながらゆっくり登って約40分で出丸に到着。南に片上湾、西に本丸が見えます。
鞍部を渡り、約15分で本丸に到着。付近はよく整備されていて、堀切や曲輪も分かりやすかったです。
ちなみに、野球場から西へ登山口を通り過ぎて道なりに100mほど行くと、浦上家子孫の墓所があります。
2023年02月27日 ビーンズマン左兵衛督
富田松山城
階段がついていて登りやすい。本丸のまわりを土塁で囲んでいる。
2022年12月22日 琉球守風のこうちゃん播守
富田松山城
JR赤穂線 備前片上駅のちょうど真南に駐車場と登城口が有ります🤗グラウンドの西側に5台程停めれますが、グラウンド利用者の方が停めていたら、停めれるスペースが無くなる可能性も有るかと🤔登城口から数分後にお墓が有り、其処に杖が有ります🤚1つ目の休憩所迄、約25分…そこから本丸跡迄約25分でした😵三の丸に🚻有りますが、女性は使用しづらいと思います😑トイレと言うより「かわや」…
2022年02月08日 かおちゃん太閤
富田松山城
とても良く手入れされています。樹木は高さを揃えてあって登山道からの見晴らしも良いです。城跡は綺麗に草刈りされていて土塁もきっちり解ります。地元の方に感謝。
2022年02月06日 宇陀雅楽頭うっほほ〜い
茶臼山城[富田松山城 周辺城郭]
標高75mの山頂が公園になっていて、すぐ手前まで車で上がれます。東には富田松山城址が望めます。
2021年11月24日 織田上総介晃司
富田松山城
車の方も電車の方も備前片上駅からまっすぐ南へ進むと駐車場と登城口があります。イメージとして山を一つ越えて行くようになり、登城口から本丸まで約30分です。
富田松山城から国道250号を東へ進んだ備前市日生町にはカキを具に使ったお好み焼き・カキオコというご当地グルメがあります。ご賞味あれ。
風光明媚な日生諸島に架かる「備前♡日生大橋」なぜ♡が付いているのかよくわかりませんが…「つのだ☆ひろ」の☆と同じようなものかと…
2021年09月23日 【若】戦国左近将監
富田松山城
【富田松山城】2021.9.23
備前にあるこの城は三石城(後に天神山城)を拠点にもつ浦上氏の重要な支城です。1533年に浦上宗景が築城し、1577年に浦上景行が城主の頃に宇喜多直家の手によって落城しました。標高200m超えの大規模な輪郭式山城です。
備前片上駅から南下して約15分で登城口に辿り着きます。その間にも案内板が設置され縄張り図まで書かれていました。杖まで用意されており、地元民の方々に感謝です。ここから約20〜30分登ると東出丸に到着します。登城道は整備されていて、あちこちに遺構が見られます。要所要所に看板やベンチが設置されていて非常に有難かったです。しかし途中からはかなりの急勾配となります。そして東出丸に到着し、本丸を望みます。搦手筋が見え、一安心。そこから約5分で本丸に到着です。また、その間には岩盤を削った大堀切があるのでオススメです。本丸の前には三ノ丸があり、トイレも、設置されていました。三ノ丸から本丸の平虎口を抜けると、本丸に到着、ベンチで一息します。本丸は360度、土塁が巡っており、非常に良い形状で残されています。僕はそこで弁当を食べて帰りました。また、二ノ丸から本丸への喰違虎口も中々の見所です。時間がなくて、寄れませんでしたが、大手曲輪や犬走りもあるそうです。縄張り図を参照に個人的には『東出丸→大堀切→大手曲輪→大手腰曲輪→犬走り→引き返す→大手曲輪→二ノ丸→本丸→三ノ丸→東出丸→帰城』が良いと思われます。
備前片上駅から15分、東出丸まで20〜30分、本丸まで5〜10分(大手曲輪なども見たい方は約20分)、帰りも同じなので約80〜130分を目安にしていただけると良いと思います。
2021年04月23日 ドクターイエロー大蔵大輔
富田松山城
複雑に入り組んだ片上湾の最深部に位置して周囲ににらみを利かす富田松山城は天文2年(1533)頃に城主・浦上国秀のもと築城され、天正5年(1577)浦上景行の代に落城したとされています。
JR備前片上駅より南下する細い道を進むと山麓の野球場にたどり着きます。脇には説明版と登城口の碑が立っています。説明版の手前に5~6台分の駐車スペースがあります。野球場横にはトイレも併設されています。少し奥から牛神社の横を通って山道に入りますが有り難いことに地元の保存会により杖も置いてあります。また要所には看板が設置されており、道に迷うことはなさそうです。
綺麗に整備された山道を登ること約30分で東出丸に到着します。周囲の視界も良く眼下には片上湾を見下ろせます。標高209mの本丸は西方向眼の前です。東出丸も本丸も結構広くてベンチも設置されており、お弁当持参での城攻めも可能なようです。本丸周囲には二の丸や三の丸をはじめ多くの曲輪が取り囲む輪郭式になっていて、堀切や土塁、井戸、犬走りなどの各遺構跡には案内看板があり見学しやすくなっています。
数キロ離れた湾の入口付近にある日生(ひなせ)地区は古くから漁港として栄え、ご当地グルメ「カキオコ」(たっぷりの牡蠣がのったお好み焼き)は絶品です。ご訪城記念に是非ご賞味ください。R3.4.22訪城
2021年04月23日 ドクターイエロー大蔵大輔
茶臼山城[富田松山城 周辺城郭]
伊部の街の東側の山頂に位置する茶臼山城は現在茶臼山公園として整備されており、城としての遺構はほとんど認められないようです。山頂(本丸?)には駐車場と広大な広場があってたくさんのサクラが植えられています。立派なトイレもあります。海方向の眺めもまずまずで、花見シーズンにはもってこいの城です。なお城内に立ち入る際には鹿よけ(?)のフェンスを通り抜ける必要があります。
JR伊部駅周辺は日本六古窯のひとつに数えられる炻器・備前焼の産地で、駅前には備前焼ミュージアム(有料)があるほか、多くの窯元が点在しております。お時間に余裕がある方はお立ち寄りください。備前焼ビールグラスで飲むビールの味は格別ですよ!R3.4.22訪城
2020年05月23日 虫明備前守
茶臼山城[富田松山城 周辺城郭]
富田松山城の西にある茶臼山城跡。
現在は茶臼山公園として整備されており、遺構は確認できない。
2020年04月26日 石工集団穴太衆【兒】
富田松山城
備前の山城跡にこいのぼり 片上史跡ガイド協会が20匹
備前市片上地区の住民らでつくる片上史跡ガイド協会は25日、同市東片上の城山(209メートル)にある戦国時代の山城・富田松山城跡にこいのぼりを掲げた。
メンバーら14人が市民から寄贈されたこいのぼりを背負い、汗だくになりながら登頂。山頂に保管していたこいのぼりを含め、赤、黒、青色の真鯉(まごい)や緋鯉(ひごい)など約20匹を、本丸跡と東出丸跡に立てたポールに取り付けていった。
登山客や地元の子どもたちを楽しませようと、30年ほど前から毎年実施。延本繁雄代表(83)は「山頂からは片上のまち並みや片上湾が見渡せる。新型コロナウイルスの感染拡大など、暗い話題が多いが、季節の風物詩を楽しんで」と話していた。
5月27日まで。
2018年02月12日 直江山城守兼続
富田松山城
登城口から登ると、雨乞い跡と東出丸の間に出ます。そこから東出丸を通って三の丸にでますが、真っ直ぐだと搦め手方面からの本丸で、三の丸から右手の大手筋方面はロープが両脇にありますが、道はあまり整備されていなく、足元が悪いです。搦め手筋からの大手曲輪や腰曲輪を抜けて、井戸跡や二の丸~本丸がオススメです。
2012年10月29日 【隠者】史学会帰新参
富田松山城
備前片上駅から南に700Mほどの品川白煉瓦グラウンドのそばの橋に城の説明板がある。登山口はそのすぐ先にある。比高は180Mほどだが道は整備されて歩きやすい。
山頂の城跡からは見晴らしがいい。
歴史
築城年代は定かではない。三石城を拠点としていた浦上氏が築いたとされ、近世地誌類では浦上国秀、浦上景行が城主を務めたと記される。浦上国秀は、享禄4年(1531)に浦上村宗の跡を継いだ政宗(虎満丸)の後見人となった人物だ。永禄7年(1564)に浦上政宗が没すると、政宗の弟である浦上宗景が富田松山城を支配したが、天正3年(1575)に天神山城の戦いで宇喜多直家が宗景を追放し、浦上氏は滅亡した。
富田松山城は浦上氏の滅亡とともに廃城したといわれるが、宇喜多直家の支配下に置かれ、さらには慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後に小早川秀家が支配下に置いた可能性もあるという。
遺構
三石城の南西、片上港や旧山陽道を見下ろす標高209mの富田松山山頂に築かれている。山頂の主郭は多角形で土塁に囲まれ、土塁の内側には部分的に石積みもある。
主郭を取り巻くように、横移動を阻止すべく高低差をつけた帯曲輪や腰曲輪が何重にも配置されている。土塁や櫓台を備えた曲輪もあり、切岸が石積みで補強されているのも特徴だ。
主郭西側に広がる帯曲輪群は、曲輪間を縫うように城道が複雑に設けられ、主郭西側の平虎口に通じている。主郭東側は、2段の曲輪が連なる。主郭南東側の平虎口から一段下の曲輪に通じ、その下の曲輪の東側の虎口からもう一段下の曲輪に通じている。最下段の曲輪の東端には土塁が築かれ、その東側は岩盤をくり抜いた堀切で分断。堀切から鞍部を 挟んだ東側の尾根頂部にも曲輪がある。
交通
・山陽自動車道備前ICから車で約10分参考文献
・『岡山県中世城館跡総合調査報告書 第1冊-備前編-』、岡山県教育委員会、2020年。