沼城(ぬまじょう)
沼城の基本情報
通称・別名
- 亀山城
所在地
- 岡山県岡山市東区沼
旧国名
- 備前国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 中山信正
築城年
- 天文年間(1532〜1555)
主な改修者
- -
主な城主
- 中山氏、宇喜多氏、浮田氏
廃城年
- 慶長6年(1601)
遺構
- 曲輪、石垣、土塁、堀切
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑(亀山城跡)、説明板
周辺の城
-
大廻小廻山城(岡山県岡山市)[2.0km]
福岡城(岡山県瀬戸内市)[4.8km]
砥石城(岡山県瀬戸内市)[8.0km]
明禅寺城(岡山県岡山市)[8.4km]
乙子城(岡山県岡山市)[8.5km]
保木城(岡山県岡山市)[9.0km]
岡山城(岡山県岡山市)[10.3km]
富山城(岡山県岡山市)[14.2km]
金川城(岡山県岡山市)[14.4km]
富田松山城(岡山県備前市)[14.7km]
沼城の解説文
[引用元:Wikipedia「沼城」の項目]
亀山城(かめやまじょう)は、岡山県に存在した日本の城(平山城)。沼城とも呼ばれる。岡山市指定史跡。
概要
現在の岡山市東区沼の浮田小学校の東隣に位置し、天文年間に浦上宗景配下の中山勝政が築城した。永禄2年(1559年)、宗景の命により宇喜多直家は義父の信正を謀殺して城主となり、岡山城に移るまでの約15年間は当城を拠点とし、領土を増やした[1]。
1582年、本能寺の変後の中国大返しで、羽柴秀吉軍は備中高松城からこの城まで移動、しばしの休息後、姫路城を目指したと伝わる[2]。慶長6年(1602年)、岡山に移封された小早川秀秋によって廃されている。
本丸跡にはソテツが植えられている。当城で生まれた宇喜多秀家(直家の子)は関ヶ原の戦いに敗れた結果、八丈島に流罪となった。子孫が赦免されたのは明治維新後であったが、その時八丈島でソテツの花が咲いた(赦免花)という言い伝えから、植えられた物である。また宇喜多秀家誕生の地という記念碑が建てられている。
現状
1980年代まで主郭の北と西に残存していた土塁は公園化の際に破壊され、現在は痕跡を留める程度になっている。または西ノ丸西側に残存していた土塁も、現在は消失している。市指定史跡でありながら、その他の遺構も郭の耕作地化などでほとんどが既に失われている。また古い絵図には東側に出丸が描かれているが、その後の耕作地化で消滅したと考えられる[3]。
建築
参考文献
- 平井聖ほか 1980『日本城郭大系』13 広島・岡山編 p.346
- 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典(33.岡山県)』、角川書店、1989年
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沼城の口コミ情報
2023年09月17日 小太郎左兵衛督南海道21國守
沼城
近くに駐車場は見当たらず、徒歩にて訪問。神社階段を数分登り到着。社と共に、広場となっていて、碑や蘇鉄、説明文が設けられている。令和5年9月16日訪問。
2023年08月20日 備後守のぶ
沼城
登城口は弁財天神社の鳥居と道路の説明板が目印鳥居の横はどうも私有地のようで、小学校側の進入路に一台分の駐車スペースがありました登城時間往復10分少々といったところです本丸は神社と憩いの広場となっているようです
2023年05月06日 RED副将軍三遠オフ初参戦
沼城
宇喜多直家の居城🏯
オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎
1532年頃に中山信正により築城。
中山信正は、沼城を領する国人領主で金川城の松田氏に従っていましたが、天神山城の浦上氏が勢力を伸ばすと浦上氏に従いました。
しかし、浦上政宗、宗景の兄弟が対立。兄弟の和睦に際して、中山信正は浦上氏の支配を企む宇喜多直家により謀殺されてしまいます。
中山信正は宇喜多直家に娘を娶らさせていました。
宇喜多直家は新庄山城から居城を移し、備前国の西部を支配するまで勢力を拡大しました。
1573年、宇喜多直家は岡山城の金光宗高も謀殺し岡山城に居城を移します。
その後、宇喜多氏家臣の浮田春家が砥石城から入城しました。
1582年、本能寺の変が勃発。羽柴秀吉の中国大返しにおいて備中高松城から沼城に入り休息をしました。
1602年、小早川秀秋が岡山に入封した際に廃城となりました。
見所
南側に山陽道が通る交通の要衝にある標高40mの丘陵上に築かれており、東側には砂川が天然の堀として流れています。
現在は、本丸は弁天神社の境内、西の丸は浮田小学校の敷地となっており、遺構の残存度は低いです。
周辺には駐車スペースが無いので注意してください。
写真
①〜⑤本丸
⑥⑦西の丸
⑧案内板
2023年03月06日 龍馬備中守【佐竹扇】
新庄山城[沼城 周辺城郭]
岡山県の岡山市にある【新庄山城】♪砂川の左岸、標高135mの新庄山のピークに城郭は築かれました♪
宇喜多家の所縁の城となります♪
眼下には砂川が流れ北は砂川流域の平野部が広がり、南東側には吉井川が流れる要衝地であります♪
新庄山城は応仁年間頃(1467年〜1469年)新庄氏が築いたと云われています♪宇喜多氏が所領する前の沼城・城主である中山信正の家臣、新庄助之進の居城です♪
沼城の支城群の1城となります♪
乙子城を本城とした宇喜多直家は砥石城を攻略(砥石城の戦い)☆この戦いは宇喜多氏🆚宇喜多氏の戦いでもあります☆往時の砥石城の城主は宇喜多大和守☆宇喜多大和守は浦上政宗(兄)に味方しました☆一方の宇喜多直家は浦上宗景(弟)に味方していて、浦上宗景は宇喜多直家に、砥石城を攻撃させています…☆
砥石城を落城させた宇喜多直家が、浦上宗景より恩賞として与えられたのが、新庄山城です☆
浦上兄弟の備前の覇権争いは10年以上繰り広げられています☆この間に国衆達は巻き込まれています☆後に備前国に台頭し頭角を現す宇喜多直家は沼城の中山信正を謀殺☆因みに中山信正の娘は宇喜多直家の正室です。。
『播磨浦上事、如御存知、兄弟不和に候つるか、・・・就夫渦中之者、一両人生害さセ候由候。』豊後国の大友宗麟の書状が往時の備前国での混乱を想像させます☆
城郭としては、現在、新庄山はハイキングコースになっています☆後に改変されたのでしょう☆明確な遺構は確認が取れませんでした☆主郭スペースには鉄石神社が鎮座します♪一段下には副郭と思われる、削平地☆堀切が一条あった様ですが、分かりませんでした☆吉井川、北には砂川流域の平野部♪西側には岡山平野が広がる場所☆監視を目的とした砦だったのでしょう♪
2022年08月24日 やまてつ伊予守
沼城
案内板や説明板は亀山城になっていました。車を停める場所がなかなかありませんでした。近くの小学校を目印にしました。
2022年02月07日 ドクターイエロー兵庫頭
肩脊城[沼城 周辺城郭]
宇喜多直家のかつて居城だった沼城の北東約3キロにある突き出た形状の志路山の丘陵を生かして築かれています。城主は宇喜多秀家の家臣、岡豊前守利勝と岡越前守利秀親子が居城したとされています。丘陵は楕円形を呈しており、南北にわたって100m超に及ぶ曲輪を直線上に配しています。山頂の南端に本丸跡、北端に二の丸跡があり、二つを繋ぐように馬場跡が並ぶ連郭式構造となっていて、それぞれ両端部には小さな腰曲輪を伴っています。また本丸北側の斜面には竪堀の遺構もわずかに確認されます。
願興寺に続く道を北進して城山の西側を通り過ぎると案内看板が公民館の前に立っています。有難いことに説明板もあります。付近には車も2台程度なら駐車できそうです。堀切のような切通しを抜けて山道を登ること数分で石碑と祠がある二の丸に到着します。R4.2.6訪城
2021年04月18日 左近衛中将すゑひろがり
沼城
宇喜多直家の居城であった沼城。宇喜多秀家はここで誕生したと言われています。こじんまりした山の階段の下に、家紋が飾られています。かつては亀の甲のような丘と、隣の浮田小学校の敷地の西までが全部城内でした。別名亀山城と言われています
2021年01月04日 織田上総介晃司
沼城
別名 亀山城
案内板や説明板も亀山城表記。
浮田小学校付近の駐車スペースに駐車。やや広い路肩にも2台停めてありました。駐車禁止の標識はないのですが交通の妨げにならないように。特に平日は生徒が登校するのでご配慮を。
城跡は社のある本丸の山と西の丸(出丸)のある浮田小学校の裏山です。どちらも標高は高くないので両方とも登ってみる事をオススメします。
2017年02月25日 石工集団穴太衆【兒】
沼城
沼城は、別名亀山城ともいう、沼に浮かぶような小高い丘今は水田と住宅に囲まれたに築かれた沼城は、なるほど亀の姿そのもの亀の甲羅の部分に本丸を置き、頭の部分が二の丸、そして浮田小学校裏山が出丸の西の丸、本丸には、弁財天を祀る神社が建てられていて、この部分が一段高くなっている。 かつては、ここに沼城天守が建てられ、沼城天守は、岡山城の築城の際に本丸大納戸櫓として移築された、残念なことに戦災により焼失してしまいました、駐車スペースは浮田小学校前に2台程停めれます
宇喜多直家、備前を統一の道へ