金川城(かながわじょう)
金川城の基本情報
通称・別名
- 玉松城、臥龍山城
所在地
- 岡山県岡山市北区御津金川
旧国名
- 備前国
分類・構造
- 連郭式山城
天守構造
- -
築城主
- 松田盛朝
築城年
- 承久年間(1219〜1222)
主な改修者
- -
主な城主
- 松田氏、宇喜多氏、小早川氏、池田氏
廃城年
- 慶長5年(1600)
遺構
- 曲輪、石垣、堀切、井戸
指定文化財
- 市史跡(金川城跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
徳倉城(岡山県岡山市)[4.5km]
大廻小廻山城(岡山県岡山市)[12.3km]
竜王山城(岡山県久米郡)[12.6km]
鍛冶山城(岡山県岡山市)[13.5km]
沼城(岡山県岡山市)[14.4km]
辛川城(岡山県岡山市)[14.6km]
冠山城(岡山県岡山市)[14.8km]
保木城(岡山県岡山市)[14.8km]
富山城(岡山県岡山市)[15.1km]
岡山城(岡山県岡山市)[15.3km]
金川城の解説文
[引用元:Wikipedia「金川城」の項目]
金川城(かながわじょう)は、岡山県岡山市北区御津金川(備前国御野郡金川)にあった日本の城。別名玉松城。岡山市指定史跡。
沿革
鎌倉時代中期、承久の乱で鎌倉幕府方につき軍功のあった松田盛朝は、備前国御野郡に所領を与えられた。承久3年(1221年)頃に最初の築城があったと考えられる。
その後、松田氏は岡山平野に進出し、富山城に本拠を置いた。室町時代中期の文明年間(1469年-1486年)、応仁の乱の混乱期に松田元成は富山城より本拠を金川城に移した。元成は城を拡充し連郭式の山城が整った。松田氏は備前国西部を領し、備前守護大名赤松氏や守護代浦上氏と対峙した。
岡山県下でも天神山城と並んで最大級の規模を誇る中世山城であり「西備前一の堅城」と謳われたという。 また、日蓮宗の信仰厚い松田氏は本の丸西の尾根筋に有り守備の要である段々曲輪、道林寺丸の中に日蓮宗の道場、道林寺を築いた。
建城以来、一度も陥落したことはなかったが、戦国時代の永禄11年(1568年)時の当主・松田元賢が妻の父である宇喜多直家に攻められた際には、あらかじめ宇喜多方と通じていた家臣の伊賀久隆に開戦前に城内の一部を占拠されるなど不意打ちを受けた事も有りわずか2日で落城した。元賢と父の松田元輝、松田氏の重臣多数がこの戦で討たれ松田氏の宗家流はこれにより滅亡した。落城が7月7日であったので土地の人々は長い間七夕祭を行わなかったと伝えられている。
その後、宇喜多氏の城代として直家の弟・宇喜多春家が入った。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで宇喜多氏は改易となった。代わって小早川秀秋が備前に入ったが、秀秋は金川城を廃城とした。
城跡
岡山市役所御津支所の西側に城山があり、現在、石垣・曲輪跡・堀切・井戸(直径8メートル、深さ10.5メートルの井戸は国内でも最大級の規模)の遺構が確認できる。
備前地域最大級の山城とされ、2010年(平成22年)7月27日に岡山市指定史跡に指定された。
参考文献
- 【書籍】「定本 日本城郭事典」
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金川城の口コミ情報
2024年11月11日 摂津守突風丸
金川城
御津町郷土歴史資料館の駐車場に車を停めさせてもらいました。登山口は道を挟んだすぐ向かいです。資料館手前にあるSAKAGURAかながわに、シンプルで分かりやすい説明板があるので、そこで予備知識を仕入れてから行きました。
北の丸、堀切跡、本丸、二の丸と見て回って、1時間半ほど。下草も虫もなく、快適な攻城でした。曲輪跡が綺麗に残っており、本丸下の井戸跡の深さにびっくり。なかなか見応えのある山城跡でした。
2024年10月29日 ひさやん
金川城
10月22日(火)岡山市御津郷土歴史資料館に駐車させていただき登城 津山線の橋梁をくぐったら、ひたすら登りで結構な急登なので水分はあった方がいいですね お寺のあたりに地図が置いてあります。なくても綺麗に整備されているので、迷う事はないと思います 下山後、資料館の方と長い間お話させていただき、たいへん楽しかったです 当日、武将隊の「豪姫さん」と「おふくさん」が撮影で資料館に来られて、一緒に写メを撮らせていただきましたw
2024年10月23日 内記かずりヾ(・ε・。)
白石城[金川城 周辺城郭]
さて、10月も半ばを過ぎれば虫除けスプレーも要らない感じだと思うんすけど、岡山県のお山の中はまだまだ必要、群がる程に飛び回ってた。襲撃が止まないので念入りに顔にも吹き掛けてたら思い切り吸い込んでしまい約3分間の行動不能に…お茶でうがいしまくりでペットボトルがいきなり空になるていう負の連鎖、あ、虫除けスプレーびっくりするぐらい不味いです。
白石城は金川城の北北西約5.8km、旭川東岸(左岸)、長谷川西岸(右岸)、両川の合流点北側に位置する標高約152mの独立山稜山頂部を中心に立地する要害です。西麓の旭川からの比高は70m位でしょか。北西方の福渡には近世に入ると津山往来の渡し場が設けられていたそうなんで交通の要衝だったんだろう。備前の事はよく知らん。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は登城路手前に1台なら捨てられる。
築城年代は嘉吉年間(西暦1441年〜1444年)てアプリの城郭基本情報に書いてある。築城者は田渕十郎左衛門尉氏光とされているが時代が合わないと思う。
田渕氏は、アプリだと「田淵」の文字が当てられているけど、ネットで探した傅伝では「田渕」で統一されている。「荻」と「萩」の区別も付かないくせにこうした点についてのおいらは実に細やかで厳しいのだ。ちなみに大抵の人は知らないと思うんだけど、「萩」は「おぎ」とは読まないんで注意してくれよな。
田渕氏の傅伝が達筆過ぎて読む気にもなれないが、同氏は多田満仲を遠祖とし、八幡太郎義家の系譜に連なる新田朝氏の二男、重所氏光を家祖としている。但し、新田氏系図上では完全にすっ飛ばされた人物、田渕氏系図上では有名な新田義貞の叔父に当たる訳だが仮冒に過ぎない。又、同氏は、赤松氏、次いで浦上氏に服属したとあるが、これに関しても疑問が残る。傅伝には、後に光国が、天神山城城主、浦上七郎と干戈を交え、永禄年間(西暦1558年〜1570年)、氏相の代に至ると、浦上氏の被官であった美作国久米郡弓削郷に拠った沼元氏と度々争ったとする旨が書かれている。田渕氏が従来から浦上氏の被官であったとすれば考え難い話ではある。
山名氏の一族(紀伊守護、美作守護、義理流)には、美作国英田郡田渕に一次的に拠った田渕氏がある。室町時代における備前、美作の実質的差配者は目まぐるしく変わり、浅学の身には纏め上げる事が困難だが、少なくとも在名を取って田渕氏を称したのは前二国においてはこの一族だけのような気がする。山名氏の一族である田渕氏、もしくはその一族等が、赤松氏(浦上氏)が、備前、美作を回復する過程において圧迫を受け遂には没落した…等と考える事は出来ないんだろうか。何れにせよ、各市町村誌等の田渕氏、白石城の記述は根本的に田渕氏の傅伝を頼りにしており、傅伝自体が史料として扱う事が難しい以上、更なる後究が必要だと考える。
未見だが、年次不詳、十一月六日、明石行雄書状によれば、明石行雄は、普請の様子を見分するために白石城に入り、その進捗状況が芳しくない事から、「急度人数差出、普請等可申付覚悟候、」と書状に書き留め、白石城に急いで人数を差し出す事を約し、普請等を続ける覚悟を宛名人(沼元氏のようだ。)に申し付けている。天正七年(西暦1579年)頃の書状と推測されているが、白石城に残る畝状竪堀は、溝掘り野郎、宇喜多氏の差配、飛騨守行雄の指図によるものなんだろうか。
お城は素敵なんすけど、まぁ藪蚊が多い…縄張についてはネットで探し出せるのでそちらを参考に。見所としては主郭部から畝状竪堀がびっしりと付いている…いや、しっかりとかな…総じて埋まり気味だしね。大体にして実際にはっきりと確認出来るのは4条位の話だ。ちなみに畝状竪堀の末端下部を横堀に集合させている点では珍しいような気がする。寄手に休息ポイントを与えているに等しいとは思うんだけど…それにしても藪蚊が多いわ…
虫類と藪には毎回の如く眼だけは止めとけて口を酸っぱくして言っているのに、あいつら全然人の訴えに耳を傾けない。あの眼球を狙って突入して来るマクロな虫は何が楽しくて生きているのか全く理解不能、角膜紫外線熱傷で弱りまくったおいらの瞼の中に2回も特攻を成功させる…ちなみに白石城は「地域限定城めぐり第二十八弾」の対象城だけど、誰も見向きもしないのがこの物件だろう。寂しそうにしてるんで藪蚊が消え去ったら是非訪ねてみて下さいまし。
※明石行雄〜通称は飛騨守、有名な明石掃部助全登の実父である。アプリの登録城、天神山城の一郭に「飛騨の丸」の名を残すが、同城落城の端緒は行雄の離反にある。ちなみに全登の名が伝わるのは真田信繁における幸村と同様の経緯であり多いに問題だ。
※写真⑤は畝状竪堀…
2024年09月22日 小太郎左衛門督南畿道19國守
金川城
御津町郷土歴史資料館にお声掛けして駐車させてもらいました。今日は団体もないのでどうぞとのことで、道順も教えてもらい、親切にして頂き、同館側から、登城しました。最初だけ石段で、ここに地図等資料置場があるとのことでしたが、残念ながら品切れでした。しかし本丸跡まで、木枠階段が設置されていて、所々に立札もあり、非常に整備されていました。谷側沿いに階段があり、谷側が切れる辺りに猪避か柵があり、少し分かりにくい感じですが、木枠階段は続いてありますので、落ち着いて見れば見失わないと思います。なだらかな登坂ですが、私の場合40分余りかかりました。水分や適した靴等の準備は必要でしょう。9月21日情報。
2024年09月17日 RED副将軍
白石城[金川城 周辺城郭]
畝状竪堀群が残る備前・美作国境の城🏯
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
築城年代は不詳。嘉吉年間(1441年〜1444年)に田淵氏光により築かれたと云われます。
田淵氏は、播磨守護職の赤松満祐に仕えていましたが、のちに浦上氏に属していたとされます。
北に領地が接する美作国弓削庄の沼元氏と抗争を繰り返していましたが、1564年に白石城を攻め落とされ田淵氏は滅亡。
その後、宇喜多氏が備前を支配すると宇喜多氏宿老の明石行雄が入城。
1579年、宇喜多直家が毛利氏と離反し織田信長に近付くと、宇喜多直家は毛利氏に備えて備前・美作の国境の城を整備しており、白石城は明石行雄が普請に携わったと伝わります。
1580年、高城の竹内為能が毛利氏に寝返ったため高城攻めの後方基地として機能した様です。
その後の白石城の動勢ははっきりとしていませんが、宇喜多氏重臣の岡家利の居城となったと伝わります。
見所
旭川と長谷川が合流する丘陵に築かれた国境に近い交通の要衝です。
山頂に主郭を置き、南西に伸びる尾根に郭が連なる連郭式で、北西尾根にも二段の段郭が配されています。
最大の見所が主郭の北側斜面に張り巡らされた畝状竪堀群であり、その下の山腹は弓型の堀切で遮断されています。
整備されているとのことで訪れましたが、登城路や主郭は夏場でも下草が刈られて整備されていますが、畝状竪堀群と堀切はさすがに下草で覆われていました。写真②
小規模ながら面白い山城です。冬期に再訪したい物件。
2024年01月27日 tracer_azu
土師方城[金川城 周辺城郭]
土師方城 はじかたじょうと読みます。
ソロ遠征で情報も少なかったので少し不安に思いつつ登城しました。 駐車場は地元の方に断って土師方公民館に停めさせていただきました。
GPS片手に進める道を探すと、駐車場より東に進み川を渡るルートが良さそうでそちらから進みました。
途中まではお墓があり道もついています、そこより先は足場が悪いごろごろした石、倒木がありますが谷筋のような場所となっているたのでその道から進んで行きました。
そこそこ良い場所まで取り付けます。
ただ比高150mほどあるので最後は直登し登りました。
谷筋麓からは南西方面を目指すになります。
城内は比較的綺麗な状態でみることができ、城内入るととんでもない堀切&竪堀がお目見えします。
さらに畝状竪堀群が南に落ち、南の曲輪はそこへ横矢がかかるように折れた塁線となっていました。
西側の一部日の当たるエリアは薮化していましたが、高低差のある堀切&竪堀には圧倒されました。
2022年01月17日 ドクターイエロー大蔵大輔
宇那山城[金川城 周辺城郭]
金川城の約4キロほど東の標高110mの尾根上に位置しており出城と思われます。尾根先端部の小さな単郭の城で、尾根の付け根部分と北側に更に伸びる尾根上の腰曲輪には堀切を設けて遮断しています。面白いのは主郭南側の堀切に面する土塁には古墳(円墳)が利用されています。宇那山古墳の墳丘、羨道部分が見事にリサイクルされています。近くには城主・長崎行兼の供養塔が佇んでいます。
尾根の斜面にある墓地への参道を登りますが、やがて道はなくなります。やむなく尾根上まで直登後しばらく登ると堀切が見えてきます。主郭上も藪コキ必至ですが、頑張って奥に進むと古墳が出迎えてくれます。R4.1.16訪城
2022年01月07日 ドクターイエロー大蔵大輔
殿谷城[金川城 周辺城郭]
比高差わずか30m程の小さな城です。北に延びる尾根筋の先端に位置しています。最高峰部に主郭には城主・難波十郎兵衛行豊の立派な墓が建立されており、北方向に向かって二の郭、更に三の郭と続き、それぞれには小さな帯曲輪を伴っています。主郭南側には堀切が1本見られ両側に落とし込む形で竪堀と化しています。
県道53号線沿いに立派な看板が立っています。細い道ですが奥に進めます。駐車スペースは池の縁に何とか停めました。防御の比較的弱い城(失礼っ!)なので、すぐに主郭まで到達できます。R4.1.6訪城
2022年01月07日 ドクターイエロー大蔵大輔
白石城[金川城 周辺城郭]
旭川東岸の標高80mの山頂に位置しています。山頂の主郭より南西方向に向けて雛壇状に曲輪が配置されて、途中からは北方向の尾根筋にも2面の曲輪があります(主郭の東側にも1面あります)。この尾根筋の東方向の谷間は比較的傾斜が緩く、それを補うかのように土塁を伴なった竪堀、更にその奥(すなわち主郭の北側)には畝状竪堀群と下方には堀切にて守りをとても堅固にしています。また南西部の曲輪の北側には一部で石積みも確認できました。
国道484号線沿いに登城口の看板があります。5分程で尾根筋の最北端の曲輪に到着します。主郭には残念ながらTV電波塔が建っていますが、案内看板やベンチも設置されており、山道も綺麗に整備されています。付近には駐車スペースはなく、今回は対岸の建部町文化センターを利用させていただきました。R4.1.6訪城
2021年11月02日 【若】戦国左近将監
金川城
【備前・金川城】2021.11.02
備前でも規模が大きい金川城は『西備前一の竪城』と詠われた。実際に登城するとその全貌も見えてきた。
まず登城口は千鳥坂の大手筋、妙覚寺の搦手筋に分かれる。今回僕が登ったのは搦手筋の方からだ。搦手筋は登りやすい分、道林寺丸を始めとした複数の曲輪郡から構成される。道林寺丸は土塁や石垣が残り、城下町を見下ろせる場所に位置しているために道林寺丸からの眺望には目が惹かれる。階段状に曲輪があり、常に横矢が掛かり油断は出来ない。暫く進むと北の丸と本丸に分かれる道があるが北の丸ルートを選択し、二重の堀切を見るのがオススメだ。北の丸は尾根に沿って細長い曲輪で所々に土塁や岩盤のような巨石がある。北の丸の側から犬走りのにような細い通路を通って堀切に行くことができるが本当に狭いので足を滑らしてもおかしくない。北の丸1条目の堀切は北の丸背後に位置し北西の尾根筋から攻めてきた敵を葬る。左右は竪堀となって落ちる所まで完璧な造り。2条目の堀切には土橋が掛かり一人分の幅しかなく侵入が難しい。やはりここも左右は竪堀となって落ちる。また更にその向こうには2条目の堀切から落ちる竪堀を含めた計6条の竪堀が左右に3条ずつ分かれて落ちている。非常に埋まっており見つけるのは困難だが北西からの侵入をより厳重に妨害する意図が見てとれる。主郭方向に戻り主郭に登ると南東に喰違虎口(枡形)・北に土塁を設けていた。土塁の内には石材が散乱し、土塁の外には石列が組まれていた。主郭背後には国内最大級の大井戸が残存し、この大井戸は必見だ。遺構の内容も十分魅力的で整備も完璧なこの山城を是非訪れて見て下さい。
2020年11月16日 ドクターイエロー大蔵大輔
金川城
車は岡山市北区役所御津支所に停めさせていただきました。麓でパンフレットを入手して裏山の千鳥坂の階段をひたすら登ります。やっと平坦が見えたら出丸。このあたりにでリア攻め可能になります。その上が二の丸になります。更に奥の枡形虎口を抜けると本丸に到着します。本丸北東部一段下がったところにある巨大な天守の井戸は必見です。堀切を通って北の丸にも行けます。南西方向に下るとほどなく道林寺丸の曲輪が階段状に見えてきます。一部には石垣も残っています。谷筋(縦堀?)に沿って下山すると麓の妙覚寺です。目の前は御津町郷土歴史資料館です。ここには本丸出土の瓦が展示されています。お時間ある方は是非!R2.11.15訪城
2019年12月22日 織田上総介晃司
金川城
車は宇甘川の河川敷にある御津町郷土歴史資料館の駐車場に停めました。
そこから道林寺丸ルートで登城しました。
金川城から国道53号で津山に向かう途中の美咲町に黄福定食(卵かけご飯)で有名な「食堂かめっち。」があります。
ご飯と卵は何杯でもおかわりOKですが、カロリーの摂り過ぎには気をつけましょう。
2018年02月13日 石工集団穴太衆【兒】
金川城
金川城は宇喜多氏と池田氏の時に改修をされ本丸、二の丸、北の丸に石垣を築き、面白いのは金川城のある山は砂岩で石垣にも砂岩が利用され一部に花崗岩系の御影石があり矢穴も確認できる、調べた所金川城の上流の建部町で池田時代に採取された花崗岩である事が分かったその後1615年の一国一城令で廃城された後の石垣は麓の妙覚寺の石垣に利用されてます金川城の登城ルートは大手道側の御津支所から登る七曲ルートと搦め手側の妙覚寺から登るルートがある登りやすいのは妙覚寺からのルートです車でお越しの方は妙覚寺と七曲神社の無料駐車場を利用すると良いです大手道側には縄張り図もあり、御津郷土歴史資料館には金川城の歴史や資料もあり登城する前に見るのもいいでしょう現在、御津の山城スタンプラリーをする開催中です期間は29年12月22日〜30年3月31日までで金川城、徳倉城、虎倉城の3つを巡って景品が先着100名様に当たるイベントをしてます御津町の山城28箇所が掲載されているパンフレットとスタンプ用紙は岡山市御津公民館と岡山市北区御津支所で貰えます、皆様も是非チャレンジして下さい
2015年01月12日 【隠者】史学会帰新参
金川城
麓の御津支所と七曲神社の二ヶ所に城への入り口の登山口がある。
二つの入り口は400Mほど離れている。城内は破却されたと思われる石垣の石が散乱している。本丸南側の二重の喰違い虎口は見所、本丸に大きな井戸がある。道林寺丸に分かりにくいが石垣がある。山城部分の規模がかなり大きな城である。
金川城の周辺スポット情報
出丸(遺構・復元物)
天主の井戸跡(遺構・復元物)
二の丸(遺構・復元物)
北の丸、大堀切(遺構・復元物)
堀切(遺構・復元物)
堀切(遺構・復元物)
天守の井戸(遺構・復元物)
虎口(遺構・復元物)
杉の木井戸(遺構・復元物)
道林寺丸(遺構・復元物)
説明板(碑・説明板)
金川城(玉松城)の沿革(碑・説明板)
金川城(玉松城)平面略図(碑・説明板)
白石城(周辺城郭)
金川陣屋(周辺城郭)
殿谷城(周辺城郭)
宇那山城(周辺城郭)
土師方城(周辺城郭)
七曲神社(寺社・史跡)
七曲神社(寺社・史跡)
トイレ(トイレ)
仮設トイレ(トイレ)
歴史資料館駐車場(駐車場)
かながわSAKAGURA駐車場(駐車場)
かながわSAKAGURA駐車場(駐車場)
金川知行所跡(関連施設)
かながわSAKAGURA(関連施設)
登城口(その他)
登城口(その他)
登城口(その他)
登城口(その他)
登城口(その他)
登城口(その他)
分岐点(その他)
分岐点(その他)
分岐点(その他)