白石城

白石城([金川城  周辺城郭])

金川城 に投稿された周辺スポット(カテゴリー:周辺城郭)、「白石城」の地図・口コミがご覧頂けます。

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白石城の口コミ情報

2024年10月23日 内記かずりヾ(・ε・。)


さて、10月も半ばを過ぎれば虫除けスプレーも要らない感じだと思うんすけど、岡山県のお山の中はまだまだ必要、群がる程に飛び回ってた。襲撃が止まないので念入りに顔にも吹き掛けてたら思い切り吸い込んでしまい約3分間の行動不能に…お茶でうがいしまくりでペットボトルがいきなり空になるていう負の連鎖、あ、虫除けスプレーびっくりするぐらい不味いです。

白石城は金川城の北北西約5.8km、旭川東岸(左岸)、長谷川西岸(右岸)、両川の合流点北側に位置する標高約152mの独立山稜山頂部を中心に立地する要害です。西麓の旭川からの比高は70m位でしょか。北西方の福渡には近世に入ると津山往来の渡し場が設けられていたそうなんで交通の要衝だったんだろう。備前の事はよく知らん。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は登城路手前に1台なら捨てられる。

築城年代は嘉吉年間(西暦1441年〜1444年)てアプリの城郭基本情報に書いてある。築城者は田渕十郎左衛門尉氏光とされているが時代が合わないと思う。

田渕氏は、アプリだと「田淵」の文字が当てられているけど、ネットで探した傅伝では「田渕」で統一されている。「荻」と「萩」の区別も付かないくせにこうした点についてのおいらは実に細やかで厳しいのだ。ちなみに大抵の人は知らないと思うんだけど、「萩」は「おぎ」とは読まないんで注意してくれよな。

田渕氏の傅伝が達筆過ぎて読む気にもなれないが、同氏は多田満仲を遠祖とし、八幡太郎義家の系譜に連なる新田朝氏の二男、重所氏光を家祖としている。但し、新田氏系図上では完全にすっ飛ばされた人物、田渕氏系図上では有名な新田義貞の叔父に当たる訳だが仮冒に過ぎない。又、同氏は、赤松氏、次いで浦上氏に服属したとあるが、これに関しても疑問が残る。傅伝には、後に光国が、天神山城城主、浦上七郎と干戈を交え、永禄年間(西暦1558年〜1570年)、氏相の代に至ると、浦上氏の被官であった美作国久米郡弓削郷に拠った沼元氏と度々争ったとする旨が書かれている。田渕氏が従来から浦上氏の被官であったとすれば考え難い話ではある。

山名氏の一族(紀伊守護、美作守護、義理流)には、美作国英田郡田渕に一次的に拠った田渕氏がある。室町時代における備前、美作の実質的差配者は目まぐるしく変わり、浅学の身には纏め上げる事が困難だが、少なくとも在名を取って田渕氏を称したのは前二国においてはこの一族だけのような気がする。山名氏の一族である田渕氏、もしくはその一族等が、赤松氏(浦上氏)が、備前、美作を回復する過程において圧迫を受け遂には没落した…等と考える事は出来ないんだろうか。何れにせよ、各市町村誌等の田渕氏、白石城の記述は根本的に田渕氏の傅伝を頼りにしており、傅伝自体が史料として扱う事が難しい以上、更なる後究が必要だと考える。

未見だが、年次不詳、十一月六日、明石行雄書状によれば、明石行雄は、普請の様子を見分するために白石城に入り、その進捗状況が芳しくない事から、「急度人数差出、普請等可申付覚悟候、」と書状に書き留め、白石城に急いで人数を差し出す事を約し、普請等を続ける覚悟を宛名人(沼元氏のようだ。)に申し付けている。天正七年(西暦1579年)頃の書状と推測されているが、白石城に残る畝状竪堀は、溝掘り野郎、宇喜多氏の差配、飛騨守行雄の指図によるものなんだろうか。

お城は素敵なんすけど、まぁ藪蚊が多い…縄張についてはネットで探し出せるのでそちらを参考に。見所としては主郭部から畝状竪堀がびっしりと付いている…いや、しっかりとかな…総じて埋まり気味だしね。大体にして実際にはっきりと確認出来るのは4条位の話だ。ちなみに畝状竪堀の末端下部を横堀に集合させている点では珍しいような気がする。寄手に休息ポイントを与えているに等しいとは思うんだけど…それにしても藪蚊が多いわ…

虫類と藪には毎回の如く眼だけは止めとけて口を酸っぱくして言っているのに、あいつら全然人の訴えに耳を傾けない。あの眼球を狙って突入して来るマクロな虫は何が楽しくて生きているのか全く理解不能、角膜紫外線熱傷で弱りまくったおいらの瞼の中に2回も特攻を成功させる…ちなみに白石城は「地域限定城めぐり第二十八弾」の対象城だけど、誰も見向きもしないのがこの物件だろう。寂しそうにしてるんで藪蚊が消え去ったら是非訪ねてみて下さいまし。

※明石行雄〜通称は飛騨守、有名な明石掃部助全登の実父である。アプリの登録城、天神山城の一郭に「飛騨の丸」の名を残すが、同城落城の端緒は行雄の離反にある。ちなみに全登の名が伝わるのは真田信繁における幸村と同様の経緯であり多いに問題だ。

※写真⑤は畝状竪堀…

2024年09月17日 RED副将軍


畝状竪堀群が残る備前・美作国境の城🏯

オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎

築城年代は不詳。嘉吉年間(1441年〜1444年)に田淵氏光により築かれたと云われます。
田淵氏は、播磨守護職の赤松満祐に仕えていましたが、のちに浦上氏に属していたとされます。
北に領地が接する美作国弓削庄の沼元氏と抗争を繰り返していましたが、1564年に白石城を攻め落とされ田淵氏は滅亡。
その後、宇喜多氏が備前を支配すると宇喜多氏宿老の明石行雄が入城。
1579年、宇喜多直家が毛利氏と離反し織田信長に近付くと、宇喜多直家は毛利氏に備えて備前・美作の国境の城を整備しており、白石城は明石行雄が普請に携わったと伝わります。
1580年、高城の竹内為能が毛利氏に寝返ったため高城攻めの後方基地として機能した様です。
その後の白石城の動勢ははっきりとしていませんが、宇喜多氏重臣の岡家利の居城となったと伝わります。

見所
旭川と長谷川が合流する丘陵に築かれた国境に近い交通の要衝です。
山頂に主郭を置き、南西に伸びる尾根に郭が連なる連郭式で、北西尾根にも二段の段郭が配されています。
最大の見所が主郭の北側斜面に張り巡らされた畝状竪堀群であり、その下の山腹は弓型の堀切で遮断されています。
整備されているとのことで訪れましたが、登城路や主郭は夏場でも下草が刈られて整備されていますが、畝状竪堀群と堀切はさすがに下草で覆われていました。写真②
小規模ながら面白い山城です。冬期に再訪したい物件。

2022年01月07日 ドクターイエロー大蔵大輔


旭川東岸の標高80mの山頂に位置しています。山頂の主郭より南西方向に向けて雛壇状に曲輪が配置されて、途中からは北方向の尾根筋にも2面の曲輪があります(主郭の東側にも1面あります)。この尾根筋の東方向の谷間は比較的傾斜が緩く、それを補うかのように土塁を伴なった竪堀、更にその奥(すなわち主郭の北側)には畝状竪堀群と下方には堀切にて守りをとても堅固にしています。また南西部の曲輪の北側には一部で石積みも確認できました。

国道484号線沿いに登城口の看板があります。5分程で尾根筋の最北端の曲輪に到着します。主郭には残念ながらTV電波塔が建っていますが、案内看板やベンチも設置されており、山道も綺麗に整備されています。付近には駐車スペースはなく、今回は対岸の建部町文化センターを利用させていただきました。R4.1.6訪城

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