岩尾城(いわおじょう)
岩尾城の基本情報
通称・別名
- 亀甲城
所在地
- 熊本県上益城郡山都町城原字本丸
旧国名
- 肥後国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 阿蘇惟次
築城年
- 貞応元年(1222)
主な改修者
- -
主な城主
- 阿蘇氏、小西氏、加藤氏
廃城年
- 慶長17年(1612)
遺構
- 曲輪、土塁、堀切
指定文化財
- -
再建造物
- -
周辺の城
-
愛藤寺城(熊本県上益城郡)[4.2km]
陣ノ内城(熊本県上益城郡)[17.0km]
御船城(熊本県上益城郡)[18.4km]
堅志田城(熊本県下益城郡)[19.8km]
木山城(熊本県上益城郡)[19.8km]
長野城(熊本県阿蘇郡)[20.0km]
向山城(宮崎県東臼杵郡)[21.8km]
玉岡城(熊本県菊池郡)[22.4km]
健軍陣内城(熊本県熊本市)[24.7km]
隈庄城(熊本県熊本市)[25.1km]
岩尾城の解説文
[引用元:Wikipedia「岩尾城」の項目]
岩尾城(いわおじょう)は、熊本県上益城郡山都町にあった中世の日本の城(山城)。山都町指定史跡。
立地・構造
熊本県上益城郡山都町の、城原字本丸および二の丸に位置する。城地は標高482mの尾根の南西端にあり、北・西・南は轟川に囲まれる。西端の最高所が本丸で、周辺斜面には同心円状の曲輪があった。その南側にある長円状の平坦地が二の丸、北東の尾根を削平した面が三の丸と呼ばれる。三の丸東側の堀切を挟み、土塁が残る。
歴史
築城年代は明らかではないが、浜の館で非常事態がおきた場合に備えて阿蘇惟忠が築いたとされる。天文21年(1552年)には火事があった事が記録されている。天正年間には甲斐氏が、小西氏の領土となった後は結城弥平次や大田市兵衛が城代を務めた。関ヶ原の戦いの後、加藤清正が領主となって慶長6年(1601年)に長尾善政を城代にした。善政の死後に入った加藤正直は慶長17年(1612年)に内牧城に移り、岩尾城は廃城となった。ただし、長尾・加藤は近くの愛藤寺城(矢部城)城代を兼帯していたとされ(『肥後古城考』など)[1]、また加藤家の文書では関ヶ原の戦い後に支城を整理した際に残された城は愛藤寺城を含めた7城である[2]ため、実際に加藤家統治時代に城代がいて機能していたのも岩尾城ではなく愛藤寺城であった可能性が高い。
参考文献
- 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典(43.熊本県)』、角川書店、1987年
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岩尾城の口コミ情報
2025年11月07日 薩摩相模守義弘維新斎
岩尾城
岩尾城址は、山都町にある有名な〝通潤橋〟の横にあります。恥ずかしながら、今まで何度も通潤橋へ観光に行きながら、岩尾城については失念してました。
城跡へは、道の駅から真っ直ぐ舗装された遊歩道を進むと小高い丘があり、そこが二ノ丸で標柱が設置されています。二ノ丸から更に進むと堀切を確認することができて、城跡らしさを感じます。
また、そこから小高いところを目指して進むと神社があって、その近くに本丸を示す標柱が設置されています。本丸からの眺望は非常に良く、周辺の様子が分かります。本丸には、帯曲輪も確認することができます。
このように城跡には難なく登城することができると共に城跡を巡る遊歩道を散策すると、通潤橋をあらゆる角度から見ることができて楽しいです。
なお、城跡は阿蘇惟忠が築城したもので、居城とした浜の館の詰城です。是非とも通潤橋を観光する際は、ここの登城をオススメします。
2024年04月07日 今孔明YouTube
岩尾城
戦国時代、阿蘇氏の本拠地です!多くの曲輪に囲まれ、防御性は高いです。わかりやすい縄張りで初心者にも向いてます!あと国宝の水潤橋の放水を岩尾城バックに見られます♪
2023年11月28日 徳にぃ図書頭銀座のすずめ
岩尾城
ご家族で阿蘇に行って「城を見に行こう」となかなか言い出せない皆様。
阿蘇周辺からもちょっと時間はかかりますが、「通潤橋って言う国宝があるから行って見よう、道の駅の目の前にあるよ」と言えばじゃあ行こうか!と言って貰えるかもしれません。
放水する日時も調べられます。かなり良い思い出になると思います。
私達が目指す肝心な城は小さいながらも曲輪が随所にあり充分に楽しめます。家族が通潤橋に見とれ、道の駅を訪問している間に本丸までリア攻め出来ますよ。
写真は通潤橋。
2023年06月12日 mootze
岩尾城
名勝、通潤橋の横にあり、観光客は橋のほうにきをとられますが、お城の二の丸、本丸も曲輪として確認できます、また堀切も確認できました
2015年11月02日 あんこのすけ
岩尾城
通潤橋のすぐ隣にあります。
水と田園風景が美しい城跡です!









