木牟礼城(きのむれじょう)
木牟礼城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 鹿児島県出水市高尾野町江内小字尾崎
旧国名
- 薩摩国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 本田貞親
築城年
- 文治2年(1186)
主な改修者
- -
主な城主
- 本田氏、総州島津氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、堀跡
指定文化財
- 市史跡
再建造物
- 石碑
周辺の城
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出水城(鹿児島県出水市)[9.0km]
堂崎城(鹿児島県出水郡)[16.0km]
水俣城(熊本県水俣市)[19.9km]
鶴が岡城(鹿児島県薩摩川内市)[24.0km]
虎居城(鹿児島県薩摩郡)[25.5km]
久玉城(熊本県天草市)[27.0km]
平佐城(鹿児島県薩摩川内市)[30.2km]
小宮地城(熊本県天草市)[32.7km]
河内浦城(熊本県天草市)[33.0km]
大口城(鹿児島県伊佐市)[33.2km]
木牟礼城の解説文
木牟礼城の口コミ情報
2024年06月16日 修式部卿
木牟礼城
国道から30mほど入ったところにあります。僅かな高台なので、登城にかかる時間は30秒ほど!超簡単にリア攻めできる城です。頂上には石碑があります。
2023年08月06日 龍馬備中守【】
亀井山城[木牟礼城 周辺城郭]
鹿児島県の出水市にある【亀井山城】♪鹿児島県の最北端に立地し熊本県の水俣に接し、南西は阿久根に接する場所に城郭は存在します♪出水平野の背後南側は小高い山塊が扇状地を築きます♪舌状台地の標高64mに亀井山城は良好な遺構を残し形成されています♪良好に遺構を残す亀井山城ですが、平安時代〜鎌倉時代に掛けて城郭は築かれたと伝わります♪
築城主は種国という人物です♪この種国という人物は平氏千葉氏流で、千葉種方、種国、国秀、秀忠と続きます♪そうです♪あの、千葉氏です♪種方は肥前神埼荘、河副荘の本領主をし、その子である種国は権別当、平次郎丈夫と称して平治年間(1156年〜1159年頃)に初めて山門院郡司職として、この亀井山城に居城し、その子、国秀は、権別当を称しました♪国秀の子、秀忠は将軍家下分により、山門院の郡司職を安堵しています♪この山門郡司一族は鎌倉時代以降の内乱を通じて守護島津方として戦っていて実質、鎌倉以降から島津家へと被官していった様です♪亀井山城のある山門院は南北朝の争い後、島津家を二分化した奥州島津家と総州島津家の争いで奥州家の援軍を行った、人吉荘の相良氏が、木牟礼城の落城の際に奥州家から与えられていて、相良一族の村山備前守を派遣して25年、相良領となっています☆その後、相良氏の同族争いによって、山門院は放棄された様です☆因みに今更ながら山門院とは、古くは古代より出水郡内に成立したと考えられる、『院』です♪領域は現在の高尾野町・野田町を含みさらに出水市の北西部から阿久根市の北部に及んでいました♪
その後の亀井山城は薩州家の5代目・島津実久の弟である島津常陸介忠兼がこのエリアを領した様です♪
藩政期になると、島津家の外城制度の下に入り藩境地としての政治的な要所の性格を強め藩内外から派遣された郷士が居を構えています♪更には、薩摩内でも最大級の麓(城下町)を形成しています♪時間が無くってそちら側は回れてません☆
遺構の土木量、城郭縄張りの技術等を見ると戦国時代にも使われていたであろう事は間違い無いです♪戦火には巻き込まれていません☆また改めて調べたい城郭です☆
多くの歴史が不明な亀井山城ですが、近隣では鎌倉時代より島津忠久(島津氏の祖・惟宗忠久)の命により木牟礼城が築城されています♪この辺りのエリアを統治、掌握する為に木牟礼城を薩摩国の守護所としていて、また、この頃に三州守護職に就いています♪
三州とは、薩摩、大隈、日向の事です♪薩摩島津家の中世の歴史とは決して一筋縄ではいってなくて、同島津家とソレを取り巻く豪族達の血みどろの歴史でもある訳です☆
元々、この頃の亀井山城は砦的な要素を持つ城郭だったのでしょう♪薩摩国の中の内政不安から城郭は規模を拡げて拡大、改修♪空堀の大きさ、城郭の規模から、往時の不安定な薩摩国の状況が伝わります☆
2023年08月05日 龍馬備中守【】
阿久根新城[木牟礼城 周辺城郭]
鹿児島県の阿久根市にある【阿久根新城】♪標高196mの愛宕山の山頂に阿久根城は存在します♪その眼下、北西側の台地上(標高36m)に阿久根新城が新たに発見されたのは2022年の事です☆2022年度の南九州西回り自動車道建設に伴う発掘調査で見つかりました♪
阿久根城の築城主は阿久根氏(英袮氏、莫禰氏)です♪この阿久根を平安末の天治元年(1124年)から文禄2年(1593年)の間、領有している在地豪族です♪
平安時代には英袮院と呼ばれる荘園がありました♪神崎太郎成兼が院司に任命され英袮氏を名乗っていて、ここを統治しています♪
鎌倉時代には莫禰氏と表記されていて、英袮氏は☞ 莫禰氏となっています♪呼び方は全て『あくね』です♪
享徳2年(1453年)島津忠国の子・島津用久が薩州島津家の初代になると、莫禰氏は名前を阿久根氏と改め島津氏の家臣になったと伝わります♪
14代目の当主・阿久根良照まで代々、薩州島津家の家老職を世襲していますが、薩州島津家の断絶に殉じて阿久根氏も永年治めていた阿久根の地を去る事となります♪末裔は山崎と姓を変え大隅に移住しています♪
深さ3メートル一辺12メートルの人的な手の入った土坑は、虎口の様にも見えます♪台地上は、削平地となっていて、もしかしたら、大手口なのかもしれません♪方角的には西の主要道である薩摩街道(出水筋)が走り、北東側は出水に接する場所に当たり、南は山間部を隔てて薩摩川内♪阿久根氏が本城としたのであれば、その規模は大きい筈♪
個人的な見解ですが、この阿久根新城は阿久根城の出丸なのでしょう♪阿久根城の一部と感じました♪阿久根城のある愛宕山から眼下に続くに連れ緩やかに山塊は続いていて、阿久根新のある台地上に繋がっています♪場所がメチャクチャ近すぎる上に、新城のある付近一帯の地名は字馬場と残っています♪
写真の山は愛宕山♪阿久根城です♪
2023年02月24日 龍馬備中守【】
木牟礼城
鹿児島県の出水市にある【木牟礼城】♪現在は土壇のみ残ります♪城郭詳細が無い為、記載しておきます♪
木牟礼城は文治2年(1186年)島津家初代・島津忠久(惟宗忠久)は、薩摩、大隈、日向の地頭職に任命されると家臣の本田貞親を派遣し、この地方の動向を探らせた後に建久7年(1196年)この場所に木牟礼城を築きます♪島津忠久は『比企の乱』で守護職を罷免され、その後は薩摩守護のみ再任されています☆因みに、この初代・島津忠久(惟宗忠久)は島津氏の祖と呼ばれています♪
木牟礼城は初代・島津忠久から5代目・島津貞久までの間、領国経営の拠点になっています♪5代目・島津貞久の時に薩摩・大隅・日向の三国守護を回復しています♪
その後、島津貞久は、所領を二子に分与し、惣領の三男の島津師久に薩摩守護職(島津総州家)四男の島津氏久(島津奥州家)に大隈守護職を与え、島津師久は川内の碇山城に新たに守護所を設けて旧守護所の木牟礼城には島津貞久が残りました☆
島津貞久の時代、島津総州家の3代目・島津守久と島津奥州家の島津久豊は次第に争う様になり応永29年(1422年)島津久豊の軍勢によって木牟礼城は落城☆島津守久と島津久林は肥前国へ逃れました☆永享2年(1430年)島津久林は秘かに薩摩国へ戻りますが潜伏先の真幸院で島津忠国に討たれ総州家は滅亡しちゃいました☆
この土壇は僅かに残された郭跡なのでしょうね☆
2023年01月29日 榎晴信肥後守
亀井山城[木牟礼城 周辺城郭]
亀井山城は鹿児島県出水市野田町上名にあり平安時代末期に千葉種国によって築かれたとされます。
14の曲輪と土塁、空堀等の中世山城の遺構が良好に残り全体の広さは北薩地域で最大級とのこと。
本城には内枡形、蔵之城には外枡形虎口が残る等戦国時代後期まで使用されていたと思われます。
2022年04月03日
木牟礼城
出水市から阿久根市へ向かう、国道3号線沿いにあり国道から見えます。アクセスは大変便利ですが、30坪ほどの本当に小さな敷地の小山があるだけで、見所としては少し寂しい感じですね。
2021年02月20日 播磨守風のこうちゃん✨️
木牟礼城
鹿児島空港からレンタカーを借りて行きました💨オールR504走行で1時間半でした!R3からよく見えます🧐駐車場無しのトイレ無し😑かなり古い時代の城郭で遺構は写真に写ってるだけだと思います😑近くに「出水市ツル観察センター」が有るので立ち寄ってはいかがでしょうか🤗
2019年07月28日 織田上総介晃司
木牟礼城
国道3号線沿いに見えたので立ち寄り。駐車場はありません。路駐になりますので長居はできませんでした。
2016年06月28日 立花左近将監統虎
木牟礼城
出水市の国道3号線沿いを通っていると、[木][牟][礼][城][趾]と親切な看板が掲げられた小高い丘があり城趾は一目瞭然です。
丘の石段を登ると中央に石碑が建ち、周囲には手入れが行き届いた花壇に綺麗な花が咲いていました。
鹿児島県出水市はツルの渡来地として広く知られており、17世紀頃に薩摩藩が行った大規模な干拓により、豊富な餌を求めてツルの渡来数が増えたようです。
ここ木牟礼城趾近くの田園地帯には、毎年10月中旬~3月頃にかけて1万羽を超えるツルが越冬のために飛来するとのこと。
木牟礼城主さんもここからその姿を眺めていたのでしょうか。。。
「三国名勝図絵」、「鹿児島県地理纂考」によると木牟礼城は、文治2年(1186)島津家初代忠久が薩摩、大隅、日向の地頭に任命されると家臣の本田貞親を派遣し、この地方の動向を探らせた後、建久7年(1196)この地に城を築き、初代忠久から5代貞久までの間、領国経営の拠点になりました。
その後、貞久は、所領を2子に分与し、惣領の師久に薩摩国の守護職(総州家)、弟の氏久(奥州家)に大隅国の守護職を与え、師久は川内の碇山城に新たに守護所を設け、旧守護所の木牟礼城には貞久が残ったといわれています。貞久の時代には、南朝と北朝の争いが木牟礼城と尾崎城を舞台に行われました。
南北朝の混乱が収まると、総州家と奥州家の勢力争いが起こり、総州家が奥州家に滅ぼされると、木牟礼城もその存在価値を失い廃城となりました。
参考文献
・現地説明板。