河内浦城(かわちうらじょう)
河内浦城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 熊本県天草市河浦町(河内浦城跡公園)
旧国名
- 肥後国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 天草氏
築城年
- 不明
主な改修者
- -
主な城主
- 天草氏、並河氏(寺沢氏家臣)
廃城年
- 元和元年(1615)
遺構
- 曲輪、土塁、堀切
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板、柵、冠木門
周辺の城
-
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河内浦城の解説文
河内浦城の口コミ情報
2022年10月31日 気分爽快豊後守
河内浦城
資料館横の駐車場は広いので駐車には困りません。目の前の冠木門から登ると長い階段がつくられていて、登城は楽です。途中に堀切があるようですが、階段のためわからず、麓から1つは確認できました。階段先に大きな堀切と、郭があります。郭を南に進むと居館跡の崇円寺に出ます。城の遺構か、寺のものかわかりませんが、立派な石垣がありました。
2022年08月02日 RED副将軍
河内浦城
天草諸島を支配した天草五人衆筆頭の天草氏の居城🏯
オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎
築城年代は不詳。地頭職であった天草氏の分家である河内浦氏によって築城されたと云われます。
13世紀末ころに主家の天草氏が没落すると、河内浦氏は勢力を拡大し、南北朝時代には主家に代わって天草氏を名乗ります。
天草氏は、天草五人衆(天草氏・志岐氏・大矢野氏・栖本氏・上津浦氏)の一つで天草下島の南東部を支配し筆頭格まで勢力を広げました。
1582年、豊臣秀吉による九州征伐の際には臣従し本領は安堵され、その後肥後に入部した佐々成政、小西行長に従いました。
しかし、天草氏は1589年に天草国人一揆を起こしますが、小西行長、加藤清正によって鎮圧され服属します。
関ヶ原合戦の後、小西行長が改易となると、天草氏は小早川秀秋の家臣となり、河内浦城は唐津に入部した寺沢広高の支城となりましたが、1615年に一国一城令によって廃城となり、郡代屋敷が置かれました。
天草氏は小早川秀秋が改易となると嫡流は没落しました。
見所
現在は河内浦城跡公園として整備され、登城路のほか、城門や木柵が復元されています。
最高所に主郭を置き、北に出丸、南下には帯郭が巡るシンプルな縄張りです。
主郭と出丸の間は堀切で隔てられていますが、写真は撮ってませんでした。
写真
①帯郭と主郭切岸
②主郭
③復元された城門
2021年11月21日 もっこす肥後守
河内浦城
登城口は亜夢里の裏にあります。かなりの急斜面なので立派な木の階段が設けられています。見所は限られますが、堀切は立派。維持管理もされています。
河内浦城の周辺スポット情報
アルメイダ上陸地(碑・説明板)
歴史
築城年代は定かではないが、河内浦氏の城とされる。河内浦氏は、本砥の地頭職である天草氏の分家だった。天草氏が13世紀後半に没落すると徐々に勢力を増し、南北朝時代に天草氏を名乗るようになったという。
戦国時代に入ると、天草尚種は祖先発祥の本砥を志岐氏から奪回した。威勢は上島の一部にまで広がり、天草五人衆(天草氏、大矢野氏、上津浦氏、栖本氏、志岐氏)の筆頭の地位を占めることとなった。
永禄12年(1569)、尚種はキリスト教の布教を認め、自らも永禄13年(1570)にアルメイダに洗礼を受けてドン・ミゲルと称した。子の久種(ドン・ジュアン)も意志を受け継いで熱心な信仰と庇護を続け、キリスト教は隆盛を極めた。領内には1万5,000人の信者がいたという。
天正15年(1587)の豊臣秀吉の九州征伐では、天草氏は秀吉軍に臣従し本領を安堵され、秀吉配下の佐々成政、小西行長に従った。天正17年(1589)、天草五人衆とともに天草国人一揆を起こしたものの、行長や加藤清正らによって鎮圧され降伏。その後は行長に従って文禄・慶長の役や慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに従軍している。しかし、関ヶ原の戦い後に行長が改易となり、天草氏は小早川秀秋の家臣となった。その後、秀秋も改易になったため天草氏も没落した。
関ヶ原の戦いの後、河内浦城は寺沢広高の支城となった。元和元年(1615)の一国一城令により廃城となり、郡代屋敷が置かれた。
遺構
崇円寺の北背後にある丘陵にあり、現在は史跡公園として整備されている。崇円寺の境内が館跡と推定され、河内浦城は詰城と考えられる。向かいの城山と呼ばれる下田城と合わせてひとつの城を構成していたという。
南北に長い主郭を置き、北西側、南西側、南側に帯曲輪が配置されている。北側には堀切を隔てて小さな曲輪がある。
発掘調査により、主郭で5棟の掘立柱建物跡が検出されている。主郭からは175の柱穴が確認された。望楼の可能性がある遺構もあり、平面表示されている。
出土した遺物の一部は、河内浦城跡資料展示館に展示されている。
交通
・天草空港から車で約40分、牛深フェリー乗り場から車で約30分参考文献
・『熊本の城 (熊本の風土とこころ 10)』熊本日日新聞社、1975年。