富岡城(とみおかじょう)

富岡城の基本情報

通称・別名

臥龍城

所在地

熊本県天草郡苓北町富岡字本丸

旧国名

肥後国

分類・構造

梯郭式平山城

天守構造

築城主

寺沢広高

築城年

慶長10年(1605)

主な改修者

山崎家治

主な城主

寺沢氏、山崎氏、戸田氏

廃城年

寛文10年(1670)

遺構

曲輪、石垣、堀切

指定文化財

町史跡

再建造物

石垣、櫓、門、塀

周辺の城

瀬詰崎台場(長崎県南島原市)[14.7km]
本渡城(熊本県天草市)[15.8km]
河内浦城(熊本県天草市)[22.7km]
小宮地城(熊本県天草市)[22.9km]
原城(長崎県南島原市)[23.8km]
俵石城(長崎県長崎市)[24.8km]
日野江城(長崎県南島原市)[25.4km]
上津浦城(熊本県天草市)[26.2km]
長崎台場(長崎県長崎市)[26.9km]
戸石城(長崎県長崎市)[28.4km]

富岡城の解説文



富岡城(とみおかじょう)は、肥後国天草郡(熊本県天草郡苓北町富岡)にあった城。本丸跡に熊本県富岡ビジターセンターが整備され、櫓・高麗門なども復元整備されている[1]

概要 

富岡城は天草下島の北西、砂州で繋がった陸繋島の富岡半島の南東部の丘陵上にある梯郭式の平山城である。城の南には堀の役割を果たした袋池があり、東部には砂嘴に囲まれた巴湾が天然の土塁となって海からの外敵を防衛する役割を果たしていた。また、陸からの攻撃は砂州のみしかない。極めて攻撃し難い天然の要害を形成していた。

1994年(平成6年)より城の発掘・復元が計画され、国立国会図書館にある『肥前甘艸富岡城図』をもとに丘陵上の本丸に復元作業が行われた。2005年(平成17年)3月復元作業が終了し石垣や櫓が復元された。本丸の櫓は展示施設「富岡ビジターセンター」となり、天草の歴史・文化・自然などが紹介されている。

沿革 

慶長5年(1600年)天草郡を含む肥後南部を領していた小西行長は、関ヶ原の戦いにおいて西軍方に参陣し敗れた。このため所領は没収され、翌年の慶長6年(1601年)東軍に参陣し功績のあった唐津城主・寺沢広高は天草郡4万2千石を与えられた。広高は肥前唐津から離れたこの地を治めるために、慶長7年(1602年)から慶長10年(1605年)にかけて富岡城を築き番代を置いた。

寛永14年10月28日(新暦1637年12月14日)、藩による重税とキリシタン迫害に堪りかねていた天草の領民は、数日前に代官を殺害した島原の領民に呼応、ともに天草四郎を盟主として蜂起し、島原・天草一揆が始まった。富岡城代の三宅籐兵衛は1,500人の唐津藩兵を率いて、本渡に出向き一揆軍との戦闘が繰り広げられた。しかし数に勝る一揆軍により11月14日(新暦12月30日)に三宅籐兵衛は討ち死にした。11月19日(新暦1638年1月4日)、一揆軍は富岡に迫り城下町と城を攻撃した。戦死した城代に代わり原田伊予が指揮を執り、猛攻によく耐え11月25日(新暦1638年1月10日)には一揆軍を撤退させた。一揆軍は海を渡り原城に立て籠もる島原の一揆軍と合流し、天草での戦闘は終了した。寛永15年2月28日(新暦1638年4月12日)、原城に立て籠もった一揆は鎮圧された。しかし、一揆の勃発を許した堅高(唐津藩2代藩主)は天草郡を没収された。なお、堅高は正保4年(1647年)に自害し寺沢氏は無嗣断絶となっている。

この年、天草郡4万2千石は山崎家治に与えられ、備中国成羽城より入城し富岡藩が成立した。家治は入封すると早速、城の改修に着手した。百間塘と呼ばれる土手道を整備し、袋池を構えて内堀の代わりとした。また、大手門を造営した。寛永18年(1641年)城の改修が終了したが、この年に家治は讃岐国丸亀城に転出となった。

寛永18年以後は寛文4年(1664年)まで天領となった。初代代官として鈴木重成が承応2年(1653年)まで務めた。重成は天草郡の石高4万2千石は過分であり半減すべきであると訴え江戸で切腹した。重成の後は子の重祐が継いだが13歳と年少であった為、明暦元年(1655年)甥の重辰が天領代官を継ぎ寛文4年まで務めた。

寛文4年、三河国田原城より戸田忠昌が2万1千石で入城し再び富岡藩が立藩した。忠昌は城の維持管理が領民への負担を強いていることに疑問を感じていた。このため寛文10年(1670年)忠昌は遂に三の丸に藩庁を残し、本丸・二の丸を破却し廃城とした。これは「戸田の破城」と呼ばれ、良策として後世に評価された。廃城となった後は三の丸が陣屋(富岡陣屋)として残った。

破城の翌年の寛文11年(1671年)忠昌は「天草は永久に天領であるべき地」と主張し認められた。忠昌は奏者番兼寺社奉行となった当日に関東へ転封となり、以後、富岡城三の丸は明治維新まで天領代官所(天草代官所)として機能した。

明治元年(1868年)には天草県となり、代官所は県庁となったが間もなく長崎府に編入され、廃藩置県の時の明治4年(1871年)には八代県に編入、さらに白川県、熊本県に編入された。遺構として鈴木家の墓所がある端林寺には代官所正門が移築現存している。

施設 

  • 本丸跡に、高麗門、櫓が整備され、櫓の一つは富岡ビジターセンターとして整備されている。
  • 二の丸跡に、櫓として苓北町歴史資料館が整備され、天草回天之碑が2基整備建立され、1基には天草の再興に尽力した鈴木重成と補佐をした実兄・正三和尚の銅像、もう1基には明治維新で活躍した勝海舟、江戸後期の儒学者・頼山陽の銅像がある[2]
  • 二の丸から巴湾方面へ下った場所に稲荷社が鎮座する。
  • 二の丸駐車場下にアダム荒川の殉教公園が整備され、慰霊碑など3基が建立されている。

アダム荒川の殉教公園 

二の丸駐車場下に、アダム荒川の殉教の地記念公園として整備されている。

アダム荒川は、有馬家に仕えていたが、過ちにより主君より処刑を命じられるが、イエズス会の宣教師の取りなしで助けられた。それ以来、生涯を教会のために捧げ、禁教令の迫害で富岡城内で殉教した。

1590年頃から教会で神父の助手として教会の手伝いをしていたが、慶長19年(1614年)に徳川幕府から禁教令が出され、宣教師が長崎へ連行される時に、アダム荒川に教会と信者の世話を頼まれ、アダム荒川は神父に代わり教会を守っていた。しかしながら、アダム荒川にも、富岡城番代が棄教を迫り、3ヶ月にもわたる迫害を受けるが、これに応じず、拷問をうけるが信仰を守りとおす態度をとり続けたため、ついには富岡城内で斬首された。2007年(平成19年)6月1日、ローマ法王ベネディクト16世が、キリスト教の迫害で処刑されたアダム荒川を含む日本人殉教者188人を、栄誉ある「福者」に列することを正式に承認した[3][4]

参考文献 

  • 西ヶ谷恭弘・日本城郭史学会編 『国別城郭・陣屋・要害・台場事典』 東京堂出版、2002年。

富岡城の口コミ情報

2022年09月06日 nyarくん
富岡城



二の丸駐車場はアダム殉教公園から遊歩道兼用道路を更に登って行く

2022年09月06日 竹に雀騎馬隊サンゴ摂政
富岡城



日本史に興味が有り、以前原城跡を訪ねた時にこちらも是非という願望がやっと実現。丘の上に有り風光明媚です。

2022年08月07日 ふみ
富岡城



ビジターセンターは、改修中です。(^-^;

2022年07月11日 藤原中務大輔
富岡城



長崎駅からバスで茂木港へ行き、そこから高速船で1時間ほど揺られると、冨岡城のふもとの港に着きます。港の近くから石垣が組まれていて、全体の大きさをうかがい知ることができます。山頂近くまで車で登れますが、時間が有るなら徒歩が良いかも。時代によって石垣が拡張された痕跡もあり、変遷の一部を垣間見れます。
山頂に資料館も有って、天草島原の乱とその後の復興について、お勉強できますよ。

2021年11月20日 もっこす肥後守
富岡城



100名城、続100名城に指定されていませんが、立派に残っています。石垣も圧巻です。半島の先の高台にある為、全面オーシャンビューです。

2021年10月18日 つか征夷大将軍
袋池[富岡城  遺構・復元物]



山崎家治時代に屋敷を移転させて内堀とした池です。籠城時の水の確保の役割もあったようです。ちなみに池の底に屋敷跡(たぶん基礎ぐらい)が沈んでるそうですよ。

2021年10月18日 つか征夷大将軍
百間土手の石垣[富岡城  遺構・復元物]



山崎家治時代に島原・天草の乱を教訓に防衛の為に入り江だった場所に作った土手です。

2021年06月25日 根室守兵部少佐
富岡城



天草の乱でおなじみ富岡城へ行って来ました 良い天気で少し歩いただけで汗が噴き出すほどでした 生憎の臨時休館でしたが、海城と山城が合わさったような堅牢な様相は見ていて飽きませんでした

二の丸から本丸への途中、壁伝いに本丸を回り込める道があったので進んでみましたが、ユニバーサルスペース(駐車場)まで繋がっていました。二の丸駐車場は上にも10台程度スペースがあるので更にもう少し登ると良いかも!

2020年12月07日 播磨守播州ラーメン
富岡城



12/7現在ビジターセンターはコロナの影響で当分の間、天草市民のみ入館可能ですので要注意です!


2019年07月28日 織田上総介晃司
富岡城

富岡城のすぐ下に駐車場があります。
駐車場に行く前に富岡港波止に立ち寄り全景を見る事をおすすめします。

平成になり櫓、土塀などを復元。
それ以前の石垣のみの写真を見ていたのだが、復元櫓がおおざっぱに見えて石垣だけのほうが良かったように思えてしまった。
もう少し緻密に復元してほしかった。
(あくまで個人的な感想です)

島原半島からフェリーで行けますが、宇土市から車で行くと、天草松島があります。本家(?)の松島に負けない景色を堪能できます。

2017年05月09日 ぐっさん^。^)y-
富岡城

続、あとは看板通りに進むと着きますが、先ずは大手門跡を見て下さい。写真も載せましたが今なら復元工事してますので石垣内部や復元状況など間近で観察出来ますよ!規模も中々広く大きい大手門だった事が確認出来ます。港側に向かって行くと富岡城の全景が見えてきます。現存の百間土手石垣を進み鈴木重成公像がお迎えしてくれます!看板に従い行くと二の丸に駐車場が有ります。かなり復元されて石垣などは見応え有ります!辺りには天草島原一揆の激戦の跡も有るので散策して下さい。帰りは、時間が有れば南に向かうと妙見浦と言う絶景スポットと切支丹歴史の崎津教会など有ります。また鬼池港からフェリーで島原に行くのもOK。(注、木曜日は歴史資料館は休みです。)改めて富岡城を見てみると地形的は難攻不落の城郭だった事が解ると思います。まず城に向かうには砂州を通なければ行けません。突破しても今度は強固な大手門が迎え撃ちます。更に突破しても百間土手石垣で殺られます!と、良い地形に城郭が有ります。実際に一揆の時は落城なく撃退してます!ってな感じで口コミは終わります。(笑)また来る時は大手門が完成した姿が見たいな!

2017年05月09日 ぐっさん^。^)y-
富岡城

富岡城。行くなら車で宇土市側から海を右手に海岸線を走って行くのが良いですよ。途中、御輿来海岸が有ります。夕方なら砂浜と夕陽のコントラストが最高に良い場所です。
そのままR57を西に走らせると平成新山と島原が海側に見えて気分良くテン上げてノリノリの音楽を聴きながら行きましょう(笑)
三角港からは天草五橋の1号橋を渡って天草に向かいます。途中に日本一の天草四郎像有ります。そのまま進みますと、2号3号4号5号と戦隊なみの名の橋を渡りますが5号橋付近に来ると日本三景松島の天草松島が迎えてくれます。(Pは各自でチェックして下さい)景色を見たらR324を西に更に走らせますと天草瀬戸大橋を渡り(橋を渡ると複雑な交差点を曲がるので間違えないように)R324を進むと、干潮時に見られるおっぱい岩と面白そうな岩が有ります。更に走らせると右手に富岡城が見えて参ります。

2012年12月16日 
富岡城

一応城郭っぽい建物こそありますが、中は全く無関係です。天草の海の中の映像が上映されてたりとか。お城!と意気込んで行くとちょっとがっかりするかな。

富岡城の周辺スポット情報

 大手門 堀切(遺構・復元物)

 百間土手の石垣(遺構・復元物)

 袋池(遺構・復元物)

 本丸(遺構・復元物)

 二の丸(遺構・復元物)

 高麗門(遺構・復元物)

 復元櫓(遺構・復元物)

 隅櫓(遺構・復元物)

 隅櫓(遺構・復元物)

 隅櫓(遺構・復元物)

 隅櫓(遺構・復元物)

 鈴木重成公像(碑・説明板)

 トルレス神父記念広場(碑・説明板)

 キリスト教記念碑(碑・説明板)

 志岐城(周辺城郭)

 鎮道寺(寺社・史跡)

 富岡城温泉ホテル跡(寺社・史跡)

 苓北町歴史資料館(御城印)

 普通車駐車場(駐車場)

 駐車場(駐車場)

 富岡城跡展望所(関連施設)

 富岡ビジターセンター(関連施設)

 富岡城二の丸公園(関連施設)

 富岡権現山展望台(関連施設)

 アダム荒川殉教公園(関連施設)

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