長崎台場(ながさきだいば)
長崎台場の基本情報
通称・別名
- 長崎台場跡、魚見岳台場跡、四郎ヶ島台場跡、 女神台場跡[古台場・新台場・増台場・佐賀台場]
所在地
- 長崎県長崎市戸町他(地図は魚見岳台場を示す)
旧国名
- 肥前国
分類・構造
- 台場遺跡群
天守構造
- なし
築城主
- 徳川幕府[すべて]
築城年
- 承応3年(1654)[古台場]、文化5年(1808)[新台場]、文化7年(1810)[増台場]、嘉永6年(1852)[佐賀台場]
主な改修者
- -
主な城主
- 佐賀藩・福岡藩・大村藩他
廃城年
- -
遺構
- 石垣
指定文化財
- 国史跡(長崎台場跡 魚見岳台場跡 四郎ヶ島台場跡 女神台場跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
福田城(長崎県長崎市)[4.3km]
俵石城(長崎県長崎市)[5.5km]
桜馬場城(長崎県長崎市)[5.6km]
中尾城(長崎県西彼杵郡)[11.6km]
戸石城(長崎県長崎市)[12.5km]
高浜城(長崎県長崎市)[14.5km]
琴尾山烽火台(長崎県諫早市)[15.3km]
久山城(長崎県諫早市)[18.8km]
伊賀峰城(長崎県大村市)[20.9km]
玖島城(長崎県大村市)[22.2km]
長崎台場の解説文
長崎台場の口コミ情報
2023年04月24日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
出島[長崎台場 寺社・史跡]
長崎県の長崎市にある【出島商館】♪江戸幕府の天領であったこの場所は、鎖国時代の約200年間、日本で唯一西洋に開かれていた貿易の窓口でありました♪
現在は付近を路面電車が走り、街なかでビルの合間に溶け込んでいますが、往時この場所は文字通り海に突き出した『出島』でありました♪
天下を治めた徳川家康ですが、往時九州の最西端であるこの長崎の地は、異国はポルトガルやスペインの来航が多くありました♪
戦国時代の九州で言うと、大友氏や有馬氏などなどの武将は、これら異国との交易による利、力を持っていたという事があります♪と同時に文化としては、キリスト教の布教、つまり信仰の自由化がもたらされました☆豊臣秀吉が天下を治めた戦国時代末期には『バテレン追放令』が出たりと、異国の者への厳しい処置が下されています☆
さて☆江戸期です☆松倉重政のキリシタン弾圧に対して同長崎では『島原の乱』が勃発☆この乱は天草四郎時貞を中心とした一揆衆が、徳川幕藩制権力に挑戦した最後の、更には最大の民衆の戦いへと発展した戦いです☆キリスト教がこの日本国を支配するんじゃ無いか??更には交易によって、莫大な利益をあげられたら、徳川家に盾突いてくるんじゃないか??様々な憶測が考えられます☆
肥前国の今後の流れはどうなる?異国船バンバン入って来ちゃう徳川幕府からしたら、目の上のタンコブという訳ですね。
その後は徳川幕府が政権を握る日本国は鎖国への道を歩んでいきました☆※往時異国との交易、開いていた藩としては対馬藩、薩摩藩、松前藩とこの肥前・出島です☆
出島が築かれたのは1634年♪対外政策の一環として長崎に増築された人口島です♪
出島は長崎奉行の管理下に置かれました♪
1636年〜1639年までは対ポルトガル貿易を♪主に1641年〜1859年まではオランダ東インド会社を通して対オランダ貿易☆
更にはイギリス、スペイン、中国、韓国などとも貿易を行なっています☆鎖国は1639年頃からペリー来航する1853年迄の間ですから、『島原の乱』の前から既に伏線を張っていた徳川幕府なのであります☆肥前長崎の北側の平戸商館は石造の建物でしたが、出島の建物はすべて木造建築でありました☆徳川幕府は石造の平戸商館の要塞化を恐れオランダ商館の長崎移転の前後に破却しています☆
出島で石造の洋風建築が見られる様になったのは幕末期になります♪
幕末期の1853年ペリー来航により、開国を迫られていく徳川幕府☆この辺も大好きな歴史の1つであります☆異国文化が入り混じる長崎♪面白いですね〜♪
2020年12月30日 のんちゃん兵部卿
長崎台場
長崎台場入り口は海側にある!でも女神大橋入り口の階段を登ると石垣や井戸も有りました。そのまま城跡まで行けるが少し大変でした!海側にある入り口からは5分ぐらいで着きます!遺構はかなり残っている😊
まず江戸初期に7箇所の台場が築かれた。その後幕末になり、フェートン号事件など外国船の来航増を受け、文化5年(1808)新たに5箇所の台場が建造された。
さらに2年後の文化7年(1810)には別な4箇所にも増設された。
この時に築かれた魚見岳台場は火薬庫などの遺構が良く残されており、極めて重要な史跡となっている。
上記の諸台場を主に設置時期によって大別すると
1.古台場(7個所)
2.新台場(5個所)
3.増台場(4個所)
4.佐賀台場(3個所)
となる。
これら台場群は国の指定史跡にもなっている。