中尾城(なかおじょう)
中尾城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 長崎県西彼杵郡長与町吉無田郷
旧国名
- 肥前国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 長与権之助
築城年
- 天文年間(1532〜1555)
主な改修者
- -
主な城主
- 長与氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、石垣、土塁、堀切
指定文化財
- 町史跡(中尾城跡)
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
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中尾城の解説文
中尾城の口コミ情報
2023年09月18日 SHIN
唾飲城[中尾城 周辺城郭]
2023.9.15リア攻め。先人が書かれている通り法妙寺の北側の山が城です。お寺から登れるところがあるか、お寺の人に確認しましたが、寺からは行けないとのことで西側に進みます。ローソン脇から北に入ると、山の方に伸びる道が3箇所あります。32.8336N、129.8641Eから東に入る道が正解です。そこに行く前の2か所は山にたどり着けても🏯マークには近づけませんでした。正解の舗装された道を登りきったところは果樹畑になっていますが主郭という感じではありません。少し来た道を戻り、上を確認すると、切削地(主郭?)のような所が見えるのですが、昼なお暗い森で、さらに線状降水帯が近づいて来ていたため、ここで撤収しました。私は長与駅から歩きましたが、車の方は近くのイオンを利用するのが良いかと思います。
2023年04月02日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
中尾城
長崎県の西彼杵郡長与町にある【中尾城】♪現在は公園になっていて一部改変(主に西側)が入っていますが、主郭には鍵形に配置された土塁が残っていました♪標高90mの独立丘陵の全体を城塞化していたのでしょう♪主郭より西側の斜面を見るとその鋭さを感じる事が出来ます♪
南側の眼下には長与川が流れ、北側は東西から狭い谷が入り込み丘陵全体が天然の堀によって囲まれた場所に、城郭は形成されています♪更に麓には長与街道が走り両谷間部を掘り切り、街道を造り込んでいます♪(現町民文化ホールの直ぐ脇の道・北側)丘陵上は東側が1番高く主郭と思われ、ココに鍵形の土塁を配置♪西側に伸びた削平地は副郭に相当する郭となります♪
『丸田郷村記』の記録には天文年頃(1532年〜1554年)に長与権之助が近隣の唾飲城と共に築いたとされる中世の山城とあります☆長崎と云えば、有馬氏、大村氏、松浦氏などが有名ではありますが、歴史詳細は分かっていない中尾城です☆
小粒な豪族が犇めき合っているイメージの長崎です♪近隣の唾飲城は天正14年(1586年)長与村の地頭・長与権平純平の死後、所領の長与村を横領した弟・長与太郎左衛門純一が大村純忠に叛き立て籠もった城です☆結果、大村純忠の軍に攻められ、落城してしまう訳ですが、長与氏の城郭であったであろう中尾城もまた、このタイミングで攻められているんじゃないかなぁ〜と思われます☆この後の長与氏は深堀へと逃れています☆
戦国時代・1557年の長与地頭四代・長与権平純平は波佐見で後藤貴明の軍と戦っています☆地頭五代・長与太郎左衛門純一と名前が残っている様に、偶に叛旗を翻してはいますが、大村氏の支配下にあったのでしょう☆
2018年10月11日 はち。治部少輔
唾飲城[中尾城 周辺城郭]
唾飲城は法妙時の私有地です。登城される方はご注意下さい。大手側から登る時はお寺さんの許可を取りました。大手側には薄いですが竪堀と思われる遺構があります。
2018年10月10日 カーネル
唾飲城[中尾城 周辺城郭]
長崎線 長与駅から直線で1.9kmだけど回り込む必要があるので、歩くともっとあります
駅をでて、北側の長与川の左側を歩いて北上します。正面奥の遠くにこんもり山が見えますので向かいます
三彩橋交差点で左折すると本妙寺で、ここには唾飲城の看板があります同寺の背後の山が城なので、山裾を時計回りに歩いて、9時の方向から舗装路を直登します。途中に唾飲城の名前の由来を、説明する看板もあります
山頂は農地になっていて、一番高いところを目指して、農地の背後の竹藪に突入。蚊が多い
頂上には三角点があり、他には小さい石碑があり『八六 龍王』と彫ってありました。贔屓目に見て櫓台のような盛り上がった土がありましたが、城の要素はわからなかった
駅から往復して100分でした
中尾城の周辺スポット情報
唾飲城(周辺城郭)
中尾城 (なかおじょう)は、長崎県西彼杵郡長与町吉無田郷にあった日本の城。長与町指定文化財。
概要
現在は森になっていますが、土塁・石垣・堀切などが残っており、「郷村記」の記録では天文年間(1532~1555)に長与権ノ助が土塁を築いたとされています。長崎県内の戦国期城郭の土塁は緊急時に築城され、防御設備の構造は割合貧弱なものですが、中尾城の土塁では、土を叩き締め幾重にも重ねるという本格的な土塁構造で大変貴重な遺構です。
立地と遺構
遺構調査の結果概要は次の通りです。主郭標高 92m、比高 60m
城域 東西150m、南北50m
遺構 主郭、出郭、二ノ郭、土塁、段築
土塁
中尾城の土塁の規模は下幅で約4m、上幅で約1m、高さ2.5mあり、中世城郭の中ではかなり大規模な土塁といえます。その外側の構造は、土塁内部での傾斜面は約2mですが外部傾斜面は土塁上端から8m程あり、その斜面は削り落とし的な加工がなされています。また、外部傾斜面での勾配は45度で造られ、土塁頂部への上りを困難にさせています。土塁の内部構造は、表土を基盤層まで掘り下げそこに黄褐色の粘質土を入れ、その上に同じ土質の灰黒色の粘質土が置かれ、上層の土がいくらか砂粒が多い状態になっています。これはこの灰褐色土が叩き締められたことと、叩き締めの際に水分、それも塩分が入った水を打ちながら表面を叩き締めていったために表土層がその後の長い時間に変質していったと考えられています。
この灰黒色粘質土は約10cm程の平均的な層をもっていることからかなり念入りに叩き締められたもので、叩くことによって土の中の砂質が表面に浮き出てくる状態できめこまかな層位となっています。この重なりが1つの層位となり、この繰り返しが結局6度繰り返され土塁構造の安定性が保たれています。
文献記録だけをそのまま信用すれば、この城がつくられたのは戦国期にあたりますが、この土塁の凝った造りから考えれば、もっと古い時代のものである可能性も考えられるという意見もあります。
長与には、中世(鎌倉・室町時代)の山城はこの他に「東高田城」「西高田城」「唾飲城」があったと記録がありますが、なかでも中尾城は特にこの土塁の構造において、注目されている遺跡です。
歴史
万が一の事があった場合を想定し、非常時に備えるために前もって構築されたのではないかとみられています。しかし、実際にはそのような非常時は起きなかったと言われています。