琴尾山烽火台(ことのおやまほうかだい)

琴尾山烽火台の基本情報

通称・別名

琴ノ尾山烽火台、琴ノ尾岳烽火台

所在地

長崎県諫早市多良見町佐瀬1880-17

旧国名

肥前国

分類・構造

烽火台

天守構造

なし

築城主

大村藩?

築城年

寛永元年(1624)?

主な改修者

主な城主

大村藩?

廃城年

文化6年(1809)

遺構

火入口

指定文化財

県史跡(琴尾山烽火台跡)

再建造物

碑、説明板

周辺の城

中尾城(長崎県西彼杵郡)[3.6km]
玖島城(長崎県大村市)[7.7km]
三城城(長崎県大村市)[9.6km]
久山城(長崎県諫早市)[9.8km]
伊賀峰城(長崎県大村市)[10.3km]
戸石城(長崎県長崎市)[10.4km]
桜馬場城(長崎県長崎市)[10.4km]
尾和谷城(長崎県諫早市)[12.2km]
好武城(長崎県大村市)[13.3km]
福田城(長崎県長崎市)[13.5km]

琴尾山烽火台の解説文

琴尾山烽火台跡は、江戸時代において唯一の外港として機能した長崎港における外国船侵入などの異変を伝達する施設として設置された烽火台跡である。烽火台跡は、長崎県南部全域と大村藩主の居城である玖島城を眺望できる琴ノ尾岳(451.35m)の北斜面と南斜面の2ヵ所にあり、北斜面の烽火台が県指定史跡となっている。

大村藩郷村記には「琴の緒嶽(ことのおだけ)(現在は琴尾山と書く)の中腹に狼煙竃の跡あり、長崎異変の節、長崎の烽火山よりうけつぎ平戸領錐崎へ通報する定である」と書かれており、伝達の中継点として長崎・大村・平戸を結んでいたことがわかる。

文化5年(1808)にイギリス軍艦フェートン号が長崎港に不法侵入した「フェートン号事件」の際に、烽火台による伝達が上手く機能しなかったため、文化6年(1809)以後は烽火台を廃し飛脚をもって通報することになった。烽火台の形態をよく残している貴重な遺跡である。

参考文献 

『長崎県の文化財』ウェブサイト。

情報提供:長崎県学芸文化課


琴尾山烽火台の口コミ情報

2023年04月01日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
琴尾山烽火台



長崎県諫早市の多良見町にある【琴ノ尾岳烽火台】♪長崎と大村との間を伝達する施設として設置された烽火台となります♪

歴史詳細が無い為、記載致します♪

北側には大村湾が広がり、遥か先には平戸・佐世保♪西には大村藩のあった大村市街地♪南東側には長崎が見える気持ちの良い場所♪

標高451mの琴尾岳に造られたこの烽火台は、長崎南部から平戸・佐世保、更には江戸時代の大村藩主の玖島城への連絡網として機能する筈でしたが…♪後の文に記載します♪

江戸時代において唯一の外港として機能した長崎港です♪長崎港は鎖国を貫いた徳川幕府の天領であり、出島では異国との交易を行ったとして有名な港です♪外国船侵入などの異変を伝達する施設として設置されたのが、この琴ノ尾岳烽火台という訳であります♪

大村藩郷村記には『琴(こと)の緒(お)嶽(だけ)の中腹に狼煙 竃の跡あり 長崎異変の節 長崎の烽火山よりうけつぎ平戸領錐崎へ通報する定である』と残っていて、伝達の中継点として長崎・大村・平戸・佐世保方面を結ぼうとしていた事が分かります♪

使用されたのは2回とされているのですが、
1回目は正保4年(1647年)ポルトガルの軍船2隻が長崎にやって来た時と、もう1回は文化5年(1808年)イギリス軍艦フェートン号が長崎港に不法侵入した『フェートン号事件』の際に♪と伝わります♪が、しかしフェートン号事件の時は、この烽火台による伝達が上手く機能しなかった為、結果、文化6年(1809年)以後は烽火台を廃し飛脚をもって通報する事になっています☆

確かに、長崎の稲佐山はバッチリ見えて、玖島城のある大村市は勿論、天気が良くて空気が霞んでいなければ、遥か平戸・佐世保位なら見える場所♪石組で築かれた烽火台は、天領である幕府の長崎から命を受け、大村藩が築いたものなんでしょうね〜♪

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