尾和谷城(おわたにじょう)
尾和谷城の基本情報
通称・別名
- 大渡野城、開城
所在地
- 長崎県諫早市下大渡野町
旧国名
- 肥前国
分類・構造
- 丘城
天守構造
- -
築城主
- 西郷尚善
築城年
- 文明年間(1469〜1487)
主な改修者
- -
主な城主
- 西郷氏、大渡野氏(西郷氏家臣)
廃城年
- -
遺構
- 発掘調査[礎石]
指定文化財
- -
再建造物
- -
周辺の城
-
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尾和谷城の口コミ情報
2025年08月03日 龍馬備中守【】
尾和谷城
長崎県諫早市の下大渡野町(開集落)にある【尾和谷城】♪城めぐに歴史詳細が載ってない為、記載します。別名を大渡野城、開城と呼ばれる城郭は、諫早・西郷氏の城郭です。
島原半島の基部に当たるのかな〜?本明川上・中流右岸に立地します。多良岳の南西麓、浅い谷を流れる本明川に並行して西側に、直線的でなだらかな稜線状の斜面を持つ台地が、南北に長く続きます。この台地上に、尾和谷城は存在します。丘陵の南部の谷には西谷川が南流し、風観岳に遮られ東に流れを変え、本明川に注ぎます。長閑なロケーションも魅力的な、尾和谷城です。現在も『ドイノウチ』『アブラドイ』『マガリ』『トンヤシキ』『ノギント』『ジゾウダ』『ブクデ』などの小字名や地名が残ります。
また、風観岳の頂上付近の台地には支石墓群があり、古代烽火台の遺構と巨石が残っていて、古くからの歴史も繋がります。
さて、西郷氏ですが菊池氏の一族とされ、戦国時代の頃には、肥前有馬氏配下として肥前の伊佐早荘(現在の諫早市及び北高来郡)に勢力を持ち、有馬氏の東肥前に対する前線を守っていました。尾和谷城の築城は、文明年間頃(1469年〜1487年)西郷尚善が築いたとも、西郷氏の家臣・尾和谷軍兵衛とも伝わります。この地に尾和谷城を築いた理由は、大村との境目という理由が強いでしょう。
ある伝承が残っていて、この尾和谷城がある台地上は、水が一滴もなかった為に、西郷尚善は城の飲料水の確保と水不足の為、荒野となっている台地を開拓する為に、大規模な灌漑工事を行い、標高の高い本明川の赤水の落としに取水口を設け、尾根伝いに約5kmの用水路を掘り、開集落まで水を引いたため、数十町が美田化したといいます。この水の使用については、次のようなきびしい掟があった様です。開集落は夕日が用水路に陽をさした時から朝日が用水路に陽をさす時まで、水を使用することが出来て、その時刻以外は絶対使用できず、用水路沿線の他の集落は、この逆であったと伝わります。この用水路建設の時の、沿線付近の住民の協力が大きなものだったのでしょう。
尾和谷(大渡野)の名称は『大村郷村記』に、16代目の大村純伊の時、文明6年(1474年)年中岳原合戦の頃に、有馬貴純が諫早の西郷尚善を従え、尾和谷を通って大村に攻め入ったとされます。その後、元亀3年(1572年)西郷純堯が後藤氏、松浦氏と連合して大村純忠の居城である三城を攻めた時に、西郷勢の大将として尾和谷軍兵衛が出陣し、大渡野の北部から萓瀬村境の尾を経て大村に攻め入り、経塚(乾馬場郷)に布陣しますが、この合戦で尾和谷軍兵衛は討死しています。
続いて2年後の天正2年(1574年)西郷純堯が尾和谷軍兵衛の子とされる尾和谷弥三郎を率いて、再び萓瀬村境の尾より攻め込んだが敗れ、尾和谷弥三郎は討死したとあります。
この尾和谷城は、大村氏との境目の城として、西郷純堯の武将である上記の尾和谷軍兵衛が築城したとも伝わります。
尾和谷城のある台地の東側中腹には、年神社があります。年神社は和銅3年(710年)の創立と伝わり、祭神は大年神・御年神・若年神で、尾和谷軍兵衛が社殿を建立したといわれているが、火災によって記録は焼失し不詳です。元文頃の再建である事は、石文に記されています。境内には開集落周辺にあった五輪塔・宝印塔などを集めて埋めたという、塚が残ります。
また、台地東側には登る為の道、昔使っていたであろう古道と思われる動線が現在も残っていて、大きな切通しを造っていました。この古道は、尾和谷城と年神社を繋ぐ動線となっています。
2025年07月26日 龍馬備中守【】
岸高城[尾和谷城 周辺城郭]
長崎県大村市の中里にある【岸高城】♪北に流れる鈴田川の中流左岸の、小さな丘陵地に築かれた中世城郭です♪眼下には長崎街道が南から北に抜け、南は鈴田峠を抜けたら諫早、北は大村、更には東彼杵へと繋がる場所に、城郭は立地しています♪中里に残る小字として、岸高ノ後、寺ノ前、岸高、射場ノ前、ムレなどが残ります♪近隣には籠立場跡や中世の無量寺跡と墓碑、近世の目付役所跡・上鈴田庄屋跡や狼煙場跡などがあり、更には風観岳支石墓群が諫早市側と連続して発見されています♪
中里は現在も大村市に属しますが、古くは『和名沙』に記され、肥前国彼杵郡に大村郷が成立していたとされています。因みに、大村市の東側、長崎と佐賀の境目である多良岳を挟んで、佐賀側の藤津郡も中世、大村の地(彼杵、高来、藤津の三郡)がありました。コレは、弘安4年(1281年)蒙古合戦における勲功賞として、各御家人に与えられた際に、肥前国神崎荘内の地を配分された者として、『藤津庄大村又二郎家信』と名前があります(東妙寺文書)。
応永18年(1411年)大村家有は、杵島郡白石(佐嘉)で千葉胤基と戦い、藤津郡に敗退し討死しています(北肥戦誌)。次いで文明2年(1470年)大村家徳は有馬貴純に敗れ、松浦郡の草野に逃れて、卒去しています。さらに文明8年(1476年)2月、千葉胤朝が酸津郡に侵入し、大村家親と交戦しています。大村家親は在尾城から杵島郡の内田城へ逃れています。大村純治は、かねて千葉・後藤両氏の為に本拠を追われ、他郡を徘徊しています。大村純治は永正4年(1507年)杵島郡の渋江公勢の援軍によって千葉軍を切崩し、無事藤津郡の本拠に帰っています(北肥戦誌)。一方、かねて大内義興の下に寄萬していた足利義伊は、大内義興の援軍によって帰洛しています。この為、大内義興以下多くの領主がこれに従い上洛し、この時彼杵から『大村日向守純治』もまた上洛しています。永正12年(1515年)大村信濃入道禅賢・有馬主馬助の両軍は、藤津郡で千葉氏の軍と戦い、これを杵島郡に退けています。と、まぁ有馬・後藤・千葉各氏から本拠を追われた事実があり、藤津郡を拠点としていました。
永禄12年(1569年)大村純忠預置状によると、大村純忠は、肥前国藤津郡長野村(佐賀県鹿島市能古見字長野)の地を、鷲巣城(同市高津原字高津原)城主・岩永和泉守忠茂に給与しています。また「歴代鎮西要略」永禄13年(1570年)には『頃年大村丹後守純忠掠領彼杵郡』とあり、コレによると、永禄年間頃(1558~70年)にあって大村純忠は、なお藤津郡に所領を有し、活動の舞台はありましたが、永禄末頃から徐々に彼杵郡の大村へ本拠を移したとされています。その理由は、室町期の大村氏が、藤津郡において、千葉・後藤・有馬各氏の圧迫を受けた事と、更に、佐嘉の龍造寺隆信の攻撃に苦しんだ事、その為に比較的競合の少ない彼杵郡に居を移したものとみられます。こういう流れの中で、彼杵郡に移動したとされます。
長くなりましたが、岸高城ですが、築城年、城主共に不明です。が、戦国時代末期には大村氏が領したエリアである為、大村氏の属城なのでしょう。長く引っ張りましたが、大村氏の移住の話でしたw
郷村記によると、岸高城は『高さ拾間(一八メートル)~捨七・八間(三〇メートル)ばかり、城構へ東西拾三間(約二三メートル、南北弐拾間(約三〇メートル)程、平地にて小松立四面切岸なり』と記されています。
構造は楕円形の主郭と、北側につく腰郭から成り、主郭の周囲は鋭い切岸になっています。城郭というより砦の性格が強く、街道側(西向き)に二重堀切が残ります。おそらく戦国時代に諫早方面(西郷氏か?)から攻めて来る敵を防いでいたのでしょう。岸高城の東側の道路脇には『千部様』という悪病退治の神様が祀られています。
尾和谷城の周辺スポット情報
岸高城(周辺城郭)