玖島城(くしまじょう)
玖島城の基本情報
通称・別名
- 大村城、久島城
所在地
- 長崎県大村市玖島1
旧国名
- 肥前国
分類・構造
- 連郭式平山城
天守構造
- なし
築城主
- 大村喜前
築城年
- 慶長4年(1599)
主な改修者
- 大村純頼
主な城主
- 大村氏
廃城年
- 明治4年(1871)
遺構
- 曲輪、石垣、横堀(空堀・水堀)
指定文化財
- 県史跡(お船蔵跡)
再建造物
- 櫓、土塀、石碑、説明板
周辺の城
-
三城城(長崎県大村市)[2.1km]
尾和谷城(長崎県諫早市)[6.0km]
伊賀峰城(長崎県大村市)[6.6km]
好武城(長崎県大村市)[7.7km]
琴尾山烽火台(長崎県諫早市)[7.7km]
久山城(長崎県諫早市)[8.0km]
諫早城(長崎県諫早市)[10.2km]
中尾城(長崎県西彼杵郡)[11.1km]
鳥甲城(長崎県大村市)[11.3km]
戸石城(長崎県長崎市)[13.3km]
玖島城の解説文
[引用元:Wikipedia「玖島城」の項目]
玖島城(くしまじょう)は、長崎県大村市玖島にあった日本の城。
概要
城は大村湾に突き出した半島の先端に築城された平山城で、本丸、二の丸、三の丸から構成される。本丸は比高15m程度、面積9,458平方メートル(2,861坪)のほぼ四角形(東西約55間、南北約45間)で、石垣で囲まれており、西に虎口門、南に台所門、北に搦手門の3つの虎口を持つが、天守は建造されなかった。二の丸は29,921平方メートル(9,051坪)で石垣は無く中央に大規模な空堀を持つ。三の丸は半島先端の79,091平方メートル(23,921坪)の広大な平地でお船蔵や船関連の役所が置かれている。また堀は全て海を利用したものであり海城の特徴を備えている[1]。城の北側は遠浅であったため、浅瀬を伝っての敵兵の侵入を阻止するために、海中に捨堀が築かれていたが(現在は城の北側は埋め立てられている)、これは本城以外には見られないものである。本丸および南側の堀の石垣が現存し、1992年(平成4年)には板敷櫓が再建されている。
現在は大村公園となっており、天然記念物のオオムラザクラや菖蒲など季節折々の花が咲いている。日本さくら名所100選に選定されている。
本丸跡は大村神社の境内となっており、築城者である大村喜前の遺徳碑や最後の藩主となった大村純熈の像がある。
沿革
大村氏は鎌倉時代よりこの地の地頭として、大村地方を領有してきた。1587年(天正15年)、時の領主であったキリシタン大名大村純忠は、豊臣秀吉の九州征伐の際に嫡子大村喜前(嘉前)を秀吉軍に参陣させ領土を安堵された。喜前も父と同じくキリシタン大名であったが、後に日蓮宗に改宗している。1598年(慶長3年)の秀吉死後、政情不安に備えて玖島城の築城に着手し、翌1599年(慶長4年)には早くも三城城から居城を移した。喜前は朝鮮出兵に参陣しているが、慶長の役の順天城の戦い(1598年)では、喜前を含む日本軍の五大名は3倍以上の兵力を有する明・朝鮮軍を撃退している。この三方が海に面した順天城を参考にして築城場所が選ばれた[2]。江戸幕府開府後も同地を領有し、大村藩(2万7000石)として明治維新まで存続した。城はその藩庁としての役割を果たした。
築城当時は北側が大手で、石垣は自然石を使った野面積みで築かれた。1614年(慶長19年)より大村純頼(1616年に第2代藩主となる)によって拡張・改修され、大手を南にし、打ち込み接ぎと呼ばれる工法で石の角や面を加工し、高く反り返る美しい扇の勾配をもつ石垣へと作り変えられた。この際、喜前と親しかった加藤清正により設計指導を受けたとされる(但し、着工前の1611年に清正は死去している)。その後明治維新まで大規模な改築などは行われていない。明治維新後、1871年(明治4年)に廃城となり、建造物は破却された。1884年(明治17年)、本丸跡に大村氏歴代を祀る大村神社が建立された。
1992年(平成4年)には板敷櫓が再建されている。
文化財等
- 旧梶山御殿 - 第10代藩主の大村純昌の代に別邸として建てられた。現在は大村市所有で「大村市教育の館」として教育施設として使用されている。
- お船蔵跡 - 藩主が使用した御座船等の藩所有の船が格納されていた。長崎県指定史跡。
[続きを見る]
玖島城の口コミ情報
2024年10月16日 佐渡守:ダークスカル
玖島城
公園内にある神社に本丸跡の看板を見付けました。時間がなかったのでココだけ(笑)公園の駐車場近くに観光案内所があり玖島城のパンフを無料で頂きました。
2023年12月28日 おっちゃん868号
玖島城
玖島城(大村公園)には現在大村神社⛩️が立っています。陸上競技場と野球場、テニスコートもあり近所の方の散歩コースになっています。
大手門の南には花菖蒲園、神社前にはオオムラザクラの木があり春には大変綺麗だそうです。
駐車場は無料で数カ所あり、ゆっくり散策出来ます
2023年09月17日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
本経寺[玖島城 寺社・史跡]
長崎県の大村市にある【本経寺】♪今日は、城郭ではありません♪この本経寺は、大村氏の菩提寺であります♪
キリシタン大名として、有名な大村氏です♪
肥前国は長崎県・彼杵郡を中心に勢力を振るった戦国大名です♪
この大村一族は、藤原純友の孫である藤原直澄が正暦5年(994年)伊予国大州より肥前国彼杵郡大村に入部して大村氏を称した事に始まるといわれています♪
鎌倉時代、大村忠澄の代には源頼朝に仕えていて鎌倉時代には藤津、彼杵2郡の地頭職に就き在地掌握を強めました♪大村家信は元寇防塁で有名な元寇襲来時に参戦していて、1289年(正応2年)元寇の恩賞として肥前神崎荘の田地3町と屋敷を与えられました♪
戦国時代に入る1474年(文明6年)島原、有馬氏に追われた事で一時弱体化しちゃいますが、1480年には旧領を回復し大村純忠の代に再び彼杵郡を支配しています♪
この大村純忠は1563年(永禄6年)日本初のキリシタン大名になり、長崎の港を開港し長崎や付近の茂木の領地をイエズス会へ寄進し、ローマ教皇に少年使節を派遣したりもしました♪熱心なキリシタンとして、貿易を行い、所領を潤していたのでしょうね〜♪
ただ、佐嘉の龍造寺氏との抗争も激化しだしていて、1580年(天正8年)には家臣に組み込まれ居城からも退去させられていますが、沖田畷の戦いによる龍造寺隆信の敗死により1584年(天正12年)再び彼杵の支配権を回復しています☆
大村純忠の子・大村喜前は豊臣秀吉の九州征伐に従軍し、この功によって1587年(天正15年)豊臣秀吉から2万7900石余の本領安堵の朱印を与えられました♪が、キリシタンには辛い時代が続いていきます…大村喜前は秀吉のバテレン追放令に従って日蓮宗に改宗した上で、キリシタンを厳しく弾圧する様になっていきました…。。
その頃から代々、領主大村氏の墓石にも、キリシタンでは無い仏教徒としての、生き様が刻まれていくのですが、コレがまた凄いんです♪在地にて生きた武将の力具合、影響力は、その墓所を見れば分かります♪大村氏の墓石はまた、力強く、美しく現在に残ります♪沢山の力ある、大名、藩主の墓所は見てきましたが、大村氏の墓石は、キリシタンを否定しているかの様に見えました♪それは、近世に入り更にキリシタンへの弾圧を激しい物とし、鎖国を禁止していく、徳川幕府への忠義的なものすらも感じてしまいました☆
それは徳川家の力が絶大なモノがあったという証拠なのでしょうね♪
そうは良いながらも、シッカリ、キリシタン灯籠を使っている所を見ると、信仰心の炎は燻っていたのかもしれません☆至る所にあるクルスを連想させる十字のラインにも注目してしまいました♪墓石、石塔の繊細さ、美しさを感じてしまいました♪面白かった〜♪
2023年03月26日 ゴンタ肥前守.B
玖島城
桜がきれいでした。これから先も、ツツジや花菖蒲、藤など見どころ満載のお城です。
2022年11月01日 上田図書頭雪娘
玖島城
海に面した素晴らしい場所です。舟倉も見てください。
2022年10月21日 かつどん
玖島城
石橋の下をくぐる城ってなかなか無いと思います!石垣が凄かったです!
2022年08月26日 じらい左衛門佐
玖島城
なだらかな丘陵地が海に向けて延びた先端に作られた城です。
城郭の規模は小ぶりですが、大手門の石垣や本丸の虎口など見どころがありますよ。
是非一度お立ち寄りください。
2020年11月21日 敬将天司主計頭飛水
玖島城
現在、特別御城印やマンホールカードがあります。
玖島城跡には神社が2つあり御朱印もあり竈の御札もあり、子供も食いつきます。
2020年09月23日 明石家船上
玖島城
ドック・船渠の遺構が江戸時代のまま残っています。
本丸は大村神社の神域になっています。大手門側からは何度も折れ曲り、枡形を三箇所通って、本丸に迫りますが、搦手側からはストレートインです。
搦手側には、家老屋敷など、障害物が並んでいたからと、考えています。
2019年12月02日 アマビエ土佐守
駐車場[玖島城 駐車場]
駐車場横(大村公園観光案内所)で【玖島城登城印】が頂けます。
2019年01月06日 織田上総介晃司
玖島城
大村公園の海側に駐車場とトイレあり。
板敷櫓が復元され、時期によっては桜や菖蒲など様々な花が咲く公園兼城郭となってます。
ボランティアの方の清掃や野良猫と白鳥への餌やりによって心地よい空間になってます。
猫や白鳥が人懐っこい訳だ…
猫には勝手に餌を与えないでとの事です。
2016年04月09日 ぐっさん^。^)y-式部卿
玖島城
続…(笑)
板敷櫓に戻りましたら櫓内部から大村湾や大河ドラマ「龍馬伝」の撮影場所の寺島なども眺めます♪時間がある人は…R34を渡ると武家屋敷跡なども残っていて散策楽しめます♪近くには~ボートレース発祥の大村ボートや三城城跡や※戦争時には東洋一と言われた飛行機製作工場の第21海軍航空廠の防空壕跡なども残っています。(※からは受け売り言葉です-w)あとは…キリシタン大名と言えば…大村純忠♪キリシタン大名初と言う事も有りこの後のキリシタン歴史を知りたければ…島原や長崎など時間がある人は…って事で玖島城跡レポートでした♪
2016年04月09日 ぐっさん^。^)y-式部卿
玖島城
国道34号線沿い(現在の長崎街道)に有ります。駐車場は大村公園前信号を左折するとすぐに有りますよ。公園に着いたら…まずは観光案内所か、板敷櫓内に(あっ!!櫓内部入れます-w)周辺散策マップと大村の町が解る「おおむら浪漫」を手に入れます♪まず城内ですが…先に本丸へ行かず…板敷櫓側から時計回りに本丸外部を廻りましょう♪先に見えて来るのが、新蔵波止跡♪更に進むと御船蔵跡が見えて来ます。船蔵は屋根付きだと解る居石が有ります。 船蔵を後にしますと…旧梶山御殿が有ります。(本日は休館でした)御殿を右側に歩いて行くと右側に空堀…更に進むといろは段跡が有り搦手門跡も見えて来ます。そのまま一周して角堀…長堀跡…二重馬場を過ぎいよいよ大手門跡から登城します。大手門を越えると…右側に穴門♪ですが…左に進みます。すると、食い違い虎口に入り…矢弾が来て死にます…また最初から…(冗談-w)虎口を抜けると、右側は台所門跡…(食い違い)左側は虎口門跡に向かいます。どちらも本丸に行けます♪本丸内部は大村神社が鎮座。帰りは搦手門跡から出て石垣沿いにそって歩くと空堀…板敷櫓に戻ります。
2015年07月03日 巻尾赤狐肥前守カヤ∴
玖島城
追記です。
市役所側の駐車場付近にある、大村市総合観光案内所で貰った『おおむらの史跡』という小冊子によると、
玖島城は海運に関する施設が多く残るなど、海城の特徴をみることができ、
また遠浅のため敵兵が上陸できないうえ、城近くの遠浅の海中には捨堀を設けるなどしていたそうです。
さすがにこの捨堀は確認できませんでしたが、海中にまで捨堀を作る発想に驚きました。
2015年06月28日 巻尾赤狐肥前守カヤ∴
玖島城
市役所の横『大村公園』内にある、行きやすいお城です。
駐車場やトイレも多いです。
ここは本丸を囲む石垣も見応えがありますが、
板敷櫓の下の海に突き出た『新蔵波止』、そのさらに先の『お船蔵跡』という二箇所の船着き場(ドック?)や、
搦手門を出て少し先にある『いろは段』の石垣も楽しめると思います。
また本丸の西側にある『玖島崎樹叢』の中に空堀があるので、ぜひ樹叢内を歩いてみてください。
樹叢には、搦手門や板敷櫓から行けます。
ちなみに『いろは段跡』は、搦手門側の樹叢入口の向かい側にあります。
また樹叢には『お船蔵跡』裏手の崖にある階段からも入れます。
最後に、大村公園付近はイオンや競艇場があるため、休日だと、ちょっとした渋滞が発生することもあります。
2012年02月12日 大宰少弐ためぞう
玖島城
大手門、虎口門、搦手門と、本丸の構造がわかりやすいお城です。
復元された櫓の石垣は、積み方の違いが一目でわかり、なるほど!と思わずぽんと手を叩きそうになる程です。