大口城(おおくちじょう)
大口城の基本情報
通称・別名
- 牛山城、牟田口城、日限城
所在地
- 鹿児島県伊佐市大口里上ノ馬場
旧国名
- 薩摩国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 平元衡
築城年
- 保元3年(1158)
主な改修者
- -
主な城主
- 牛屎氏(平氏)、菱刈氏、新納忠元(島津氏家臣)
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- -
再建造物
- 碑
周辺の城
-
栗野城(鹿児島県姶良郡)[15.7km]
横川城(鹿児島県霧島市)[19.0km]
加久藤城(宮崎県えびの市)[19.3km]
渡利城(熊本県球磨郡)[21.2km]
赤池城(熊本県人吉市)[21.6km]
人吉城(熊本県人吉市)[22.1km]
高尾城(熊本県葦北郡)[22.8km]
虎居城(鹿児島県薩摩郡)[23.5km]
飯野城(宮崎県えびの市)[23.6km]
出水城(鹿児島県出水市)[24.3km]
大口城の解説文
[引用元:Wikipedia「大口城」の項目]
大口城(おおくちじょう)は、鹿児島県伊佐市大口里字上ノ馬場にあった日本の城。島津氏の外城。別名牛山城・牟田口城。古典的な山城形式だった。江戸時代の間に取り壊されてしまい、2016年(平成28年)11月時点では空堀や土塁が多少見受けられるのみとなっている。
築城の経緯
大口の地は、もともと日向国・都城、肥後国・人吉、肥後国・水俣、薩摩国・出水、大隅国・横川など、交通の要衝や日向路、肥後路などの主要道路に近く、付近の各村も地政学的に有利な土地が多かったので、重要な薩摩・大隅・日向の三国間の交通の要衝であった。
大口城は、1158年(保元3年)、保元の乱で勝者となったことによって平信基が薩摩国牛屎院と祁答院を与えられ、その四男である平元衡が築城したという。
ただし、この「平元衡」を「太秦元衡」とする書き方もあり、「牛屎院」には「うしくそいん」、「ねばりいん」など読み方に多数の説がある。
城のその後
この城の城主はもともと島津家家臣だったが、室町時代には、近隣の相良氏や蒲生氏と協力して島津氏に抵抗した菱刈氏によって奪われる。その後、永禄年間(1558年-1570年)になると島津氏は薩摩半島の全域を掌握するために菱刈氏と激しく争うようになり、1569年(永禄12年)にはとうとう菱刈氏が島津氏に敗れた。大口城はそれ以降島津氏の外城となった。
有名なこの城の城主
- 菱刈隆秋(ひしかり たかあき) - 菱刈氏が島津氏に敗退した際の家督
- 新納忠元 - 島津家重臣、薩摩国大口地頭
参考文献
- 【書籍】「新納忠元」
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大口城の口コミ情報
2025年12月01日 龍馬備中守【】
境田城[大口城 周辺城郭]
鹿児島県薩摩郡さつま町の求名にある【境田城】♪南に境田川が流れ、北には間道として、菱刈街道(球磨街道)が走ります。この道は、天正15年(1587年)九州征伐の際に、豊臣秀吉が川内から大口に通過した道でもあります。この菱刈街道は、境田を抜け人吉へ。更には肥後へと通じる道であります。
この境田という名ですが、その場所が何らかの『境』に位置している事に由来する事が一般的ですね。伊佐市との町境にあるため、この『境』が名前の由来なのかなぁ〜?推測ではありますが、軍事の境目、権力の境目、土地の境目などの意味合いなのでしょうね。正に境田城が立地する場所は、伊佐市との境となっています。
境田城ですが、築城年は不明です。四国は伊予国の守護一族である河野信盛は、明徳3年(1392年)島津氏に請われ、渋谷鶴田氏支援の為に、薩摩国へ下向し境田城に在番しています。当時は渋谷鶴田氏の支配下に置かれていたと思われますが、何しろ詳細が分からない事が多いのも事実な、薩摩河野氏です。
応永2年(1401年)第三次鶴田合戦に敗戦しています。渋谷五族の一族である鶴田氏は、独り一族を離れ島津元久と手を結んだ事により、他の渋谷四族(東郷氏・祁答院氏・入来院氏・高城氏)がそれを憎み、鶴田氏討伐の軍を起こしています。所謂一族同士の内乱です。
この戦い後に、父と次男は求名(現・さつま町)に残り、狩宿の地に居住しました。一方、長男の河野信俊(後の通正)は日州真幸院吉田(現えびの市)へ移住し、北原氏の家臣として仕えています。長男の河野伊予守通正は移住後に、河野氏を改め、境田氏を名乗っています。建山の地に天満社を立て、吉田の鎮守としています。この天満社はその後、通正の孫・境田長友が再興し、享禄4年に長友の孫・境田満元が現社地へ遷座したと伝わります。藩主・島津氏より代々崇拝されていて、藩主の社参や和歌の奉納があったなど繁栄を見せ、慶長19年には島津義弘より神領20石が寄進されています。
境田城は、一応この鶴田合戦の後に廃城とされていますが、恐らく戦国時代にも使われていたでしょう。戦国時代は祁答院領と思われ、その後、島津領へとなっている事と、その縄張り図を見ると、明らかに手の込んだものとなっています。堀の深さや連続する堀切は、間違いなく、戦国時代にも使用した事でしょう。東西に伸びた尾根を、城郭として加工しています。大きくは、5つの郭から構成され、主郭、西ノ丸、スヌケダ丸、馬乗馬場、シトザキとなっています。それぞれを堀切で遮断して、郭を島状にし、寄手を警戒した造りにしています。
因みに、河野氏は最終的には、島津氏家臣となっていますが、境田氏に関しては不明でありました。
2025年11月28日 龍馬備中守【】
太良城[大口城 周辺城郭]
鹿児島県大口市の菱刈町南浦字麓にある【太良城】♪菱刈氏の本城となります。
現在、城跡は公園化されてしまい、遺構は不明と思っていたんですが、公園の奥地には、その名残をシッカリと残していました。川内川と川間川が合流する地点の南西側、城山と呼ばれる台地上に城郭は存在します。北東の馬越や前目、下手方面が眼下に見下ろせる場所であります。
菱刈氏は、藤原氏の後裔と云われます。保元の乱で崇徳上皇方に属した、藤原頼長の子孫と伝わります。藤原頼長は崇徳上皇の最高の謀主でしたが、保元の乱は崇徳上皇方の敗北となり、頼長は流れ矢にあたって死去。保元の乱後、一族は遠くへ流刑に処されています。一族である藤原隆長の孫にあたる藤原重妙は、幼年だった為、比叡山預かりとなり、生を保っています。敗戦方にあるはずなのに、保元元年(1156年)後白河天皇は院宣を下し、菱刈両院七百町歩を藤原重妙に賜っています。この菱刈両院とは牛屎院・太良院の事で、幼い藤原重妙は菱刈に下向出来ていませんが、建久4年(1193年)改めて、鎌倉幕府将軍の源頼朝から菱刈両院の領有権を安堵されています。
この太良院に築かれた山城が、のちに『太良城』と呼ばれるようになります。当初は在地の館や、簡易な砦程度だったと考えられますが、後の時代に、防御構造を備えた山城へと発展を遂げたのでしょう。
さて、菱刈両院を安堵された藤原重妙は、翌建久5年(1194年)太良院に下向します。菱刈姓を称し、弟ら一族を領内に分封して、統治の基礎を固めています。弟・師重は入山を分領して入山氏を称し、重妙の庶長子・重隆は馬越を分領、三男の重茂は曽木を領し、それぞれ馬越氏、曽木氏の祖となってます。
以後、代々、菱刈氏はこの地を領しずっと太良城を本城として、菱刈篤重の代に南北朝の争乱時代を向かえます。
菱刈篤重は足利尊氏方(北朝)に味方して、肝付氏(南朝)の加世田城攻撃に参加し、戦後、その功によって尊氏から菱刈半分地頭職を拝命。その子・菱刈但馬守重遠も尊氏方として活躍。越前金崎城攻撃には、菱刈家の部将・井手籠重久が、大口の牛屎高元と共に参加しています。が、一族は時に北朝側に、時に南朝側と、一族の保全を守る為に風向きを変えています。
戦国初期の文明年間(1469年〜1487年頃)菱刈氏は独自の支配体制を固め、伊佐地方を中心に菱刈・大口・出水方面に勢力を伸ばします。
彼らは太良城を本城としつつ、大口城は北の要衝として、馬越城は南方の防衛線として、湯之尾城は支城として連携を図ったのでしょう。
永禄年間(1558年〜1570年)になると、島津家は統一され、島津貴久・義久・義弘兄弟が登場し、薩摩・大隅・日向の三州統一を進めます。この時、菱刈氏は独立を維持しようと抵抗しますが、永禄10年(1567年)馬越城の戦いで、島津貴久、義弘軍は菱刈領に侵攻します。島津貴久は7000余兵、島津義久は8000余の兵を率いて馬越城へ出兵します。また、島津忠平(島津義弘)は新納忠元・喜入季久・比志島義基らと共に、飯野から湯之尾へ進軍。島津方の兵は横川や大口にも押し寄せ、一気に大軍を持って菱刈氏に攻撃を仕掛けています。島津忠平(島津義弘)らは湯之尾から馬越城に夜襲をかけ、守将の井手籠駿河守らを討ち取って陥落させます。また、横川城を守っていた菱刈中務少輔は、城を捨てて逃亡します。
馬越城は菱刈氏の本拠地である太良城に近い為、太良城を守る菱刈隆秋は馬越城の陥落を知ると、城を捨てて大口城に入っています。
その他、湯之尾・市山・青木・曽木・山野・羽月・平和泉の諸城を守っていた菱刈一族は城を放棄し、同じく大口城へ逃げ込んでいます。島津勢は菱刈氏領内を一気に制圧しています。以降、太良城は廃城になったと思われ歴史の舞台から消えています。
現在、公園化されてしまっていますが、見所はもっと奥です。南九州型の所謂、群郭式の形状がシッカリと残っていました。台地を島状(郭)として機能させ、堀底道(動線兼堀)で敵を網羅する。素晴らしい土木量がそこにありました。
2025年11月27日 龍馬備中守【】
天堂ケ尾関白陣[大口城 関連施設]
鹿児島県伊佐市の大口曽木にある【天堂ヶ尾関白陣】♪大口盆地を一望に見渡せる眺めは、豊臣秀吉の陣営として最適な場所に築いたからこそと言えます。天堂ヶ尾の山頂一帯に築かれた陣所であります。
薩摩島津氏の九州統一という内乱に対して、天下統一を目論んでいた関白豊臣秀吉の最初の大事業が、天正15年(1587年)の薩摩島津氏征伐であります。関白秀吉軍は薩摩川内の平佐城を落城させ、薩摩国主である島津義久が関白秀吉に拝謁し、一応の決着となります。ところが、宮之城主・島津歳久や大口城主・新納忠示に不穏な動きがあるとして、宮之城と大口城攻めが行われています。
秀吉軍は、鶴田に鳶ノ巣陣を、大口には天堂ヶ尾関白陣を築き、島津軍に対応しています。宮之城では、城主・島津歳久が仮病で秀吉に対応せず、小競り合いが起こります。
さらに、鷹ノ巣陣には島津歳久は出向かず、代わって日向からの島津義弘親子が急遽拝謁しました。これによって、宮之城での戦闘は収まりましたが、その報復として島津歳久には死罪という悲劇が生じています。
その後、秀吉軍は大口曽木天堂ヶ尾に陣を築き、大口城主・新納忠元に対向します。天堂ヶ尾関白陣での新納忠元の拝謁によって戦闘は収まり、秀吉の約5ヶ月間の九州征伐は終焉を迎え、急ぎ大坂へと帰還しています。島津氏にとって、秀吉による九州征伐は、正に最大の危機でありました。この新納忠元の関白秀吉への天堂ヶ尾関白陣での対応は、その後の島津家を存続へと導いた出来事であり、非常に重要な意味を持ちました。
現在、陣所は天堂ヶ尾山頂の標高307mに立地します。その眺望は、大口盆地を眺める事が出来る絶好の場所。天堂ヶ尾の山頂から約60m下の山腹を巡る様に、土塁・石塁が残っているそうですが、時間の関係上、見る事ができませんでした。ただ、秀吉の道とされる動線らしき窪地は土塁と石塁らしきものは確認出来ました。下の山腹はまた改めて見に行こうと思います。歴史が動いた場所。そこに立つだけでも、感激しちゃいますね。
以下、大正5年に築かれた石碑の碑文です。
關白豊臣秀吉 武威ヲ揮ヒテ薩摩ノ地二大軍ヲ下シ 帰ルニ臨ミ 我曽木郷 天堂ヶ尾二陣シ 北薩ノ重鎮 新納武蔵守忠元ヲ引見ス 時二天正十五年也 武蔵守忠元 人トナリ文武絶倫精忠廉潔ニシテ 弱冠ヨリ兵馬ノ間二馳驟シ 其ノ武名徳量 夙二海内二高シ 寔ニ薩摩武士ノ典型ト云フヘシ 関白 武蔵ノ方寸ヲ問フ 忠元ハ主君島津公ノ威信九鼎大呂ヨリ重キトナシ 終始一貫 以テ剛勇ヲ示シタリ サレト事態巳ムナク 降ヲ納ルルニ當リ 偭且 所思ヲ披瀝シ 稀世ノ英雄関白ノ心膽ヲ寒カラシメタリ 洵二傑士ト謂フヘキ也 茲二両雄會見ノ迹ノ湮滅セサラン事ヲ期シ 乃チ 此地二記念陣ヲ設ケ 英雄ノ俤ヲ永ク後昆二傅フルト共二精神教育ノ資料二供セントス。
地元の有志の方々が石碑ではありますが、歴史を記憶し、この地に残してくれているのがありがたいですね〜♪
2018年10月08日 フー甲斐守
大口城
えびの市から大口城へ抜ける国道447号はかなり狭く台風の影響もあり10/8現在厳しい道となっています。私は前に車がいたので割と気楽でしたが、先頭車の方は相当ご苦労されたはず。
山越えの際はお気をつけ下さい(^o^)
2017年05月05日 甑岩中務卿正頼
大口城
登城口は2つあります。
①北東側
私は地元の方に許可し得て城山の北東の山神水天神社と水ノ手公民館の駐車場に車を停めました。鳥居から出て右手の細い道を進むと左手に秋葉神社の看板があり、それが登城口です。(写真を投稿しておきました。参考になると幸いです。)急な階段を上りきり、左手の展望台を背に堀底道を少し進むとそこが大手口です。
②大口小学校側
小学校のグランド奥に登城口があります。私はたまたまグランド脇で草刈りをしていた方に断って校門前の駐車場に駐車して入らせてもらいました。登城口から南に向かってすぐの脇道に入ったら大手口まで行けます。これを見落としてそのまま進むと城の主要部には行けません。
大手口の正面、東側の秋葉神社のあるところに上がると主郭と思しき曲輪で、東端は土塁があり、土塁上には秋葉神社の祠が地元の方に大切に維持されてます。
地元の方が親しみを込めて火の神様に呼んでいるのが印象的でした。
大手口から南北に横堀があり堀底が歩道になってます。これを挟んで主郭?の向かい側の曲輪には虎口がありました。堀はしばらく北に行くと自然地形を活かした堀切様の谷で終わってました。
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