加久藤城(かくとうじょう)
加久藤城の基本情報
通称・別名
- 覚頭城、久藤城
所在地
- 宮崎県えびの市大字小田
旧国名
- 日向国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 北原氏
築城年
- 応永年間(1394〜1428)
主な改修者
- 島津義弘
主な城主
- 北原氏、川上忠智(島津氏家臣)、南郷氏
廃城年
- 元和元年(1615)
遺構
- 曲輪、土塁、堅堀、土橋
指定文化財
- 市史跡(加久藤城跡)
再建造物
- 碑、説明板
周辺の城
-
飯野城(宮崎県えびの市)[4.4km]
栗野城(鹿児島県姶良郡)[14.2km]
赤池城(熊本県人吉市)[15.2km]
小林城(宮崎県小林市)[16.6km]
人吉城(熊本県人吉市)[17.9km]
大口城(鹿児島県伊佐市)[19.3km]
横川城(鹿児島県霧島市)[21.4km]
山田城(熊本県球磨郡)[22.4km]
高原城(宮崎県西諸県郡)[22.6km]
須木城(宮崎県小林市)[24.6km]
加久藤城の解説文
[引用元:Wikipedia「加久藤城」の項目]
加久藤城(かくとうじょう)は、宮崎県えびの市加久藤にあった日本の城(平山城)。伊東氏の史料には「覚頭城」と記されている。えびの市指定史跡。
概要
比高53mほどの独立した丘陵上にあり、城の周囲が断崖となっている要害の城。また北側にあった鑰掛口は「鑰掛うど」と呼ばれる絶壁であった。
南東の大手門を守る城として「新城」が、西方の徳泉寺に通じる徳泉寺口を守る位置に樺山浄慶の屋敷(浄慶城)が存在した。
東に4kmほどの場所にある飯野城とは連絡路で結ばれており、その路上には西から大明神城・掃部城・宮之城の順で三つの塁が存在した。
歴史
応永年間(1394年~1428年)に北原氏が、真幸院小田村の山に「久藤城(ひさふじじょう)」として築き徳満城の支城とした。永禄5年(1562年)に北原氏が滅ぶと島津氏の所有となり、島津義弘により中城と新城を加えられ、それらを縄張りに加えて「加久藤城」と名を改められた。
川上忠智を城代とし、義弘の正室(広瀬氏)と嫡子の鶴寿丸(つるひさまる)を住まわせていたが、元亀3年(1572年)5月4日に木崎原の戦いが起こる。伊東氏の軍勢は樺山浄慶の屋敷を攻撃後、鑰掛口から城を攻撃する。 忠智は遠矢良賢が率いる飯野城からの援軍らと共に伊東軍を退けた。
天正4年(1576年)に鶴寿丸が8歳で病死すると、城中に墓をつくり葬った。現在、城へ向かう途中にある墓石は、明治元年頃に神道式に改築されたものである。 また義弘は、飯野城近くの地頭仮屋があった場所(現・えびの市役所 飯野出張所敷地内)に鶴寿丸の供養樹を植えており、現在も「飯野の大イチョウ」として残っている。
元和元年(1615年)の一国一城令により廃城。
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加久藤城の口コミ情報
2026年05月25日 薩摩相模守義弘維新斎
徳満城[加久藤城 周辺城郭]
徳満城址は宮崎県えびの市東川北にあり、川内川と関川に挟まれた丘陵地に位置し、県道102号線(木場吉松えびの線)によって分断された先端部分となります。ここは加久藤城址の支城で、北原氏によって築城され、その後に島津義弘公の飯野城址入城によって支配下に置かれたようです。いろいろネットなどで調べると、本丸、中之城、小城、高城の曲輪からなり、堀、土塁、堀切などの遺構が残ってます。
さて、城跡へは、コカコーラボトラーズジャパン(株)えびの工場を目指して車で行き、そのまま県道102号線にぶち当たるところまで進んだ後、向かって左側へ曲がって道なりに約600m進むと両サイドが切りだった丘陵が現れます。その一角には、徳満城跡の石碑と説明板が設置されてます。
この石碑と説明板が城跡を示すもので、その場所から少し道路を進むと幅員が広い路肩があるので、そこに車を駐車することができます。登城口は、この路肩から近い場所にあるので直ぐ分かります。
いざ登城をすると登城路がしっかりあるため、進入は難しくないのですが、写真のとおり草が一面に生い茂っており、城内の形状がどんな感じなのかは分からないほど草で全面が緑色に染まってます。おそらく登城路は、曲輪と曲輪の間にある堀切なんでしょうね。
それでも何とか最初に出てくる中之城と高城の曲輪を確認し、本丸と中之城の曲輪まで進むと木々がたくさん生えてますが、両曲輪の間に残る石垣を僅かに確認できます。
その後は、高城や小城の曲輪や各所奥深く進入を試みましたが、これらの周辺は倒竹や藪となっているため、これ以上の確認を断念しました。
参考までに、同城は、1395年、城主・北原範兼た相良祐頼が酒宴中に口論となり、相殺死した事件があったようです。また、1430年、島津氏同族の争いで、総州島津氏の島津久林が同城へ逃げ込み奥州島津氏の島津忠国が攻め込んで、久林が自害したところでもあるようです。
このように血生臭い事件などがあった城跡でもあることから、加久藤城址や飯野城址を攻めた後にぜひお立ち寄り下さい。
2026年03月25日 薩摩相模守義弘維新斎
加久藤城
えびの市にある加久藤城址は、1572年の「木崎原の戦い」の緒戦があったことで有名。その時には、僅かな島津氏の守備兵で攻めてきた伊東氏を撃退したところ。
そもそも城は、北原氏が徳満城の支城にするため久藤城として築城し、その後1564年に島津義弘公が城を修復・拡張して入城すると加久藤城に城名を変更。本城に夫人や子供達を住まわせて、義弘公は飯野城へ居城を移り住みました。
城跡へは、国道268号線を熊本側から小林側へ車で進むとローソンえびの松原店があるので、その対岸側に加久藤城入口という看板があります。そこを左折して道なりに突き当たりまで進んで下さい。そうすると更に細く坂になった山道が続いているので、ずっと奥まで進むと竈門神社がある本丸跡に到着します。
なお、この細く坂になった山道は、軽自動車であれば行ける幅員ですが、普通車ならば難しいと思います。
さて、本丸、二之丸などを探索すると、笹や木々などたくさん生えていますが、何とか土塁や堀などの遺構が確認できます。特に驚いたのは、本丸にある神社拝殿の裏側にもの凄い断崖があります。見ただけで非常に攻めにくい断崖の城だと感じた次第です。
2021年02月21日 播磨守能登半島のこうちゃん
加久藤城
R221とR268の三差路の東側にローソンえびの松原店が有ります!このローソンの三差路を入って行きます!東西から小さい「加久藤城跡」の看板有り!
道路は最後かなり狭くなります😑車で登城するなら最後の左鋭角が車高の高い軽四しか無理だと思います😱
この左鋭角の右側に車停めれます☝️
トイレ無し😑
ここから本丸跡迄5分程です🤗
西の桶狭間の戦いと言われる「木崎原の戦い」の舞台になった城跡です☝️
2017年05月30日 ️…
加久藤城
R221沿いに案内標識が設置されているため、迷わずに城域に潜入できるとおまいます…が、大手門を通過した後の左カーブは狭く、鋭角で、しかも登りのため、軽トラでもなければ通れません。
大手門から、本丸までは徒歩で5分程度です。
まず、「碑」というか、標柱が現れ、本丸へと続く右カーブに解説板が設置されています。
竈門神社の鳥居に「加久藤城」の記述がありますので、要撮影です。
また、R221から城に至るルート沿いに島津義弘公の長男・鶴寿丸の墓があります。
リア攻めされる方は、是非とも立ち寄って、七歳で他界した鬼石曼子の後継者に手を合わせてあげてください。









