高原城(たかはるじょう)

高原城の基本情報

通称・別名

松ヶ城

所在地

宮崎県西諸県郡高原町大字西麓字西城戸

旧国名

日向国

分類・構造

平山城

天守構造

築城主

梅北掃部

築城年

永禄年間(1558〜1570)

主な改修者

主な城主

島津氏、北原氏、伊東氏、白坂下総介(北原氏家臣)、長倉祐政(伊東氏家臣)、上原尚近(島津氏家臣)

廃城年

元和元年(1615)

遺構

曲輪、横堀(空堀)

指定文化財

再建造物

説明板

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高原城の解説文



高原城(たかはるじょう)は、宮崎県西諸県郡高原町にあった日本の城。別名を松ヶ城という。伊東四十八城の一つに数えられる。宮崎県教育委員会の城館跡調査では、中近世の城館跡として記録されている。【書籍】「宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書 1 地名・分布地図編」【書籍】「宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書 2 詳説編」

概要 

高原城は、周囲を谷に囲まれた丘陵上に築かれた城で、本丸・二の丸・三の丸・取添丸などの曲輪から構成される。各曲輪の間には空堀が設けられており、城域はおよそ350メートル四方とされる。【書籍】「宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書 2 詳説編」

築城については、永禄年間(1558年 - 1570年)に島津氏家臣の梅北掃部が築いたとする伝承がある。

城の西側は現在の高原町総合運動公園付近にあたり、北・東側を含めて深い谷に囲まれている。南側の一部のみが平地へと続く地形となっており、天然の地形を利用した防御性の高い城郭であったとされる。【書籍】「宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書 2 詳説編」

現在、城跡周辺は宅地などとなっており、宮崎自動車道の建設に伴って丘陵の一部も改変されている。高原町教育委員会による案内板が設置され、城跡の地形や虎口の位置などが紹介されている。

歴史 

高原城は当初、島津氏側の城であったとされ、その後伊東氏の支配下に入った。天文22年(1553年)には北原氏の城となったが、永禄2年(1559年)、北原氏の家督争いに乗じて伊東氏が北原領へ進出し、高原城も再び伊東氏の支配下となった。

その後、北原氏が北原兼親のもとで再興された際には、再興を支援した島津氏・北郷氏側が高原城を奪還し、北原氏家臣の白坂下総介が城主となった。しかし北原氏は伊東氏と相良氏から圧迫を受け、白坂下総介が北原氏のもとを離れたことから、高原城は再び伊東氏の支配下に入った。

この時期には福永源左衛門が城主を務め、その後、木崎原の戦いで伊東氏が島津氏に敗北すると、防備強化のため伊東勘解由(長倉祐政)が城主となった。【書籍】「宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書 2 詳説編」

天正4年(1576年)8月、島津義久は高原城を攻撃した。島津軍は城下の防塁を除去しながら進撃し、城兵は城内に籠城して抵抗した。

攻城戦では島津軍が城門を突破して攻め込んだものの、城方の抵抗を受けたため、水の手を断つ戦術が取られた。伊東方も救援軍を派遣したが、城を救援することはできなかった。

水不足に陥った城方は和議を申し入れ、同月23日に開城した。城主の長倉祐政ら城兵は野尻方面へ退却し、高原城は島津氏の支配下となった。その後、上原尚近が城主および高原地頭に任じられた。【書籍】「宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書 2 詳説編」

元和元年(1615年)、一国一城令に伴って廃城となった。

遺構 

城跡には、曲輪・空堀・土塁・虎口など城郭に伴う地形が残されている。宮崎県教育委員会による調査報告書にも高原城の位置や構造が記録されている。【書籍】「宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書 1 地名・分布地図編」【書籍】「宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書 2 詳説編」

参考文献 

  • 宮崎県教育庁文化課編『宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書 1 地名・分布地図編』宮崎県教育委員会、1998年。
  • 宮崎県教育庁文化課編『宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書 2 詳説編』宮崎県教育委員会、1999年。

高原城の口コミ情報

2026年08月11日 薩摩相模守義弘維新斎
高原城



高原城址は宮崎県西諸県郡高原町にあり、別名を松ヶ城といい伊東四十八城の一つです。
城跡は、宮崎自動車道の高原インターから直ぐの場所に位置し、本丸、二の丸、三の丸、取添丸などの曲輪からなる深い谷に囲まれた山城で、城の範囲が350m四方もあるそうです。

さて、先ずは県道29号線沿いにある高原城大手門跡へ行ってみると、大手門跡の説明板が設置されており、車が3〜4台駐車するスペースがあります。この説明板から下へ行ける山道があるので、進んでみると道が草などに覆われて藪化され、この先に進むことが不可能でした。残念なので、周囲を見渡すと深い谷になっている状況が分かります。

次に、国道221号線沿いにある城山墓地へ行くと、ここにも高原城址の説明板が設置されています。この墓地が本丸跡で、墓地内を見て回りましたが、特に遺構というものはないようでした。周囲の状況からは、墓地が国道よりも高い位置にあることが分かるぐらいです。

なお、この城山墓地に近くには、鎮守神社が建立されています。1576年(天正4年)には、島津義弘公が本城を攻める際に祈願したようです。神社は、参拝するとひっそりとして霊言あらたかな雰囲気が漂っておりました。

2020年06月05日 横山日向守忠篤
高原城

高原市内から高速(宮崎自動車道)の上を横断する橋を超えてすぐ左側墓場に上がる入り口に案内板がありますが、城跡に行ける道はありませんでした。

高原城の周辺スポット情報

 谷川城(高崎城)(周辺城郭)

 小塚城(周辺城郭)

 諏訪屋敷(周辺城郭)

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