野尻城(のじりじょう)
野尻城の基本情報
通称・別名
- [野尻本城・野尻新城]
所在地
- 宮崎県小林市野尻町大字東麓字牟田原(地図は新城跡を示す)
旧国名
- 日向国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 伊東氏
築城年
- 天文年間(1532〜1555)
主な改修者
- -
主な城主
- 伊東氏、福永丹波守(伊東氏家臣)、市来美作守(島津氏家臣)、敷根頼豊(島津氏家臣)
廃城年
- 元和元年(1615)
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)、井戸
指定文化財
- -
再建造物
- 碑、説明板
周辺の城
-
高原城(宮崎県西諸県郡)[8.3km]
紙屋城(宮崎県小林市)[9.0km]
小林城(宮崎県小林市)[12.2km]
須木城(宮崎県小林市)[13.1km]
綾城(宮崎県東諸県郡)[15.4km]
山田城(宮崎県都城市)[16.1km]
月山日和城(宮崎県都城市)[17.0km]
山之口城(宮崎県都城市)[17.7km]
高岡城(宮崎県宮崎市)[18.5km]
安永城(宮崎県都城市)[21.1km]
野尻城の解説文
野尻城の口コミ情報
2026年06月09日 薩摩相模守義弘維新斎
木場城[野尻城 周辺城郭]
木場城址は、宮崎県都城市高崎町縄瀬にあり、高崎木場城史跡公園がある標高263mの山頂部に位置した場所にあります。周辺の地形としては、東側に大淀川、西側に炭床川が流れており、両河川に囲まれた山が城となっています。
この城は築城の年代が不明で、1571年に伊東義祐が家臣の伊東加賀守に守らせたようです。この人物のことを調べると伊東祐安?のことかもしれません。後に木崎原の戦いで戦死しています。
城跡は5ヶ所の曲輪からなり、土塁、竪堀、堀切などの遺構があります。特に北東側にある竪堀は、南九州ではこの城しかない畝状竪堀群が出てきたそうです。これについては、曲輪にある説明板に記述されているので、説明書をよく読んで探索されてみて下さい。
さて、城跡へは、前述の公園を目指して車で行くと入口(登口)に城を示す看板と木場城神社とある鳥居があります。そこから進むと山道は舗装されていますが、竹などが山道へ倒れ込んでおり、それを避けながら山頂部まで行くことができます。どうやら人が訪れないためか整備が行き届いていないようです。
駐車場は曲輪の一つである部分にあり、そこに車を駐車して難なく主郭まで進むことができます。主郭には展望台が設置されており、眼下に広がる大淀川及び霧島やその周辺が一望できて景色が最高です。主郭からその下にある曲輪や土塁、堀切などの遺構は、草が繁茂していますが、確認することができます。
余談ながら木場城は、「こばじょう」ではなく「こばんじょう」と呼びます。また、この城跡からは、季節によって雲海が見える絶景スポットとして有名なところのようです。
2022年08月11日 薩摩相模守義弘維新斎
野尻城
野尻城址は伊東氏が築城し、伊東48城の一つ。
城跡は、県道都城野尻線と城之下川沿いにあり、畑の中を進むと井戸跡で、この周辺が新城といわれる区画。
また、そこから少し進むと空堀、堅壕等の遺構で、この周辺が本城といわれる区画。
なかなか人知れない場所にありますが、草刈りをして整備されてます。










特筆されることは、本城と新城の構築年代は異なるものの、2つの城址が「野尻城址」として存在するところにある。
歴史
本城は「高山郷土誌」によれば、延元4年(1339)高城城主肝付氏が畠山氏に敗れて野尻城に入ったとあり、さらに『日向国史』によれば文明6年(1474)小林郷などを領していた北原氏が、吉松・野尻・栗野の諸城を併有したとあることから、既に南北朝時代にはあったと思われるが、築城時期は定かではない。遺構
本城の堀跡は、大型のV字型の薬研堀と直方体の堀で守りを固めていたことや、付近に「堀立柱建物」の痕跡が多数発掘、確認されていることが新城と異なる点である。新城は、天文年間(1532~1555)伊東氏により構築され、伊東48城の一つとして、西諸における守備の拠点としての役割が大きかったとされている。
新城跡には、現在でも10条の空堀、6画の郭、3条の土塁などが昔のままの形を留めており、その当時の生活の様子を想像することができる旧野尻町内にある最も貴重な城址である。
野尻城(本城・新城を含める)は、天正5年(1577)に落城して島津氏の所領となり、元和元年(1615)一国一城令により廃城となったが、その後の長い年月と最近の道路改修で一部変容が見られるものの、大部分が当時のままの姿で現存している点は他に類を見ない貴重な遺産である。
本城の北端下には、未踏の大洞窟や梵字彫刻、観音様を祀ったお堂などがあり、戦いの攻防や信仰上の重要な役割を持っていて、それにともなう伝承が現在も息づいている。
さらに、城址には島津の伊集院謀殺の企画に関係したといわれる武士たちの墓石が多数発見されている。平成21年10月に旧野尻町教育委員会では伊集院源次郎忠眞供養塔周辺に関係者の霊と墓石を移管して合祀、供養されている。