天堂ケ尾関白陣
天堂ケ尾関白陣([大口城 関連施設])
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天堂ケ尾関白陣の口コミ情報
2025年11月27日 龍馬備中守【】
鹿児島県伊佐市の大口曽木にある【天堂ヶ尾関白陣】♪大口盆地を一望に見渡せる眺めは、豊臣秀吉の陣営として最適な場所に築いたからこそと言えます。天堂ヶ尾の山頂一帯に築かれた陣所であります。
薩摩島津氏の九州統一という内乱に対して、天下統一を目論んでいた関白豊臣秀吉の最初の大事業が、天正15年(1587年)の薩摩島津氏征伐であります。関白秀吉軍は薩摩川内の平佐城を落城させ、薩摩国主である島津義久が関白秀吉に拝謁し、一応の決着となります。ところが、宮之城主・島津歳久や大口城主・新納忠示に不穏な動きがあるとして、宮之城と大口城攻めが行われています。
秀吉軍は、鶴田に鳶ノ巣陣を、大口には天堂ヶ尾関白陣を築き、島津軍に対応しています。宮之城では、城主・島津歳久が仮病で秀吉に対応せず、小競り合いが起こります。
さらに、鷹ノ巣陣には島津歳久は出向かず、代わって日向からの島津義弘親子が急遽拝謁しました。これによって、宮之城での戦闘は収まりましたが、その報復として島津歳久には死罪という悲劇が生じています。
その後、秀吉軍は大口曽木天堂ヶ尾に陣を築き、大口城主・新納忠元に対向します。天堂ヶ尾関白陣での新納忠元の拝謁によって戦闘は収まり、秀吉の約5ヶ月間の九州征伐は終焉を迎え、急ぎ大坂へと帰還しています。島津氏にとって、秀吉による九州征伐は、正に最大の危機でありました。この新納忠元の関白秀吉への天堂ヶ尾関白陣での対応は、その後の島津家を存続へと導いた出来事であり、非常に重要な意味を持ちました。
現在、陣所は天堂ヶ尾山頂の標高307mに立地します。その眺望は、大口盆地を眺める事が出来る絶好の場所。天堂ヶ尾の山頂から約60m下の山腹を巡る様に、土塁・石塁が残っているそうですが、時間の関係上、見る事ができませんでした。ただ、秀吉の道とされる動線らしき窪地は土塁と石塁らしきものは確認出来ました。下の山腹はまた改めて見に行こうと思います。歴史が動いた場所。そこに立つだけでも、感激しちゃいますね。
以下、大正5年に築かれた石碑の碑文です。
關白豊臣秀吉 武威ヲ揮ヒテ薩摩ノ地二大軍ヲ下シ 帰ルニ臨ミ 我曽木郷 天堂ヶ尾二陣シ 北薩ノ重鎮 新納武蔵守忠元ヲ引見ス 時二天正十五年也 武蔵守忠元 人トナリ文武絶倫精忠廉潔ニシテ 弱冠ヨリ兵馬ノ間二馳驟シ 其ノ武名徳量 夙二海内二高シ 寔ニ薩摩武士ノ典型ト云フヘシ 関白 武蔵ノ方寸ヲ問フ 忠元ハ主君島津公ノ威信九鼎大呂ヨリ重キトナシ 終始一貫 以テ剛勇ヲ示シタリ サレト事態巳ムナク 降ヲ納ルルニ當リ 偭且 所思ヲ披瀝シ 稀世ノ英雄関白ノ心膽ヲ寒カラシメタリ 洵二傑士ト謂フヘキ也 茲二両雄會見ノ迹ノ湮滅セサラン事ヲ期シ 乃チ 此地二記念陣ヲ設ケ 英雄ノ俤ヲ永ク後昆二傅フルト共二精神教育ノ資料二供セントス。
地元の有志の方々が石碑ではありますが、歴史を記憶し、この地に残してくれているのがありがたいですね〜♪









