太良城
太良城([大口城 周辺城郭])
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太良城の口コミ情報
2025年11月28日 龍馬備中守【】
鹿児島県大口市の菱刈町南浦字麓にある【太良城】♪菱刈氏の本城となります。
現在、城跡は公園化されてしまい、遺構は不明と思っていたんですが、公園の奥地には、その名残をシッカリと残していました。川内川と川間川が合流する地点の南西側、城山と呼ばれる台地上に城郭は存在します。北東の馬越や前目、下手方面が眼下に見下ろせる場所であります。
菱刈氏は、藤原氏の後裔と云われます。保元の乱で崇徳上皇方に属した、藤原頼長の子孫と伝わります。藤原頼長は崇徳上皇の最高の謀主でしたが、保元の乱は崇徳上皇方の敗北となり、頼長は流れ矢にあたって死去。保元の乱後、一族は遠くへ流刑に処されています。一族である藤原隆長の孫にあたる藤原重妙は、幼年だった為、比叡山預かりとなり、生を保っています。敗戦方にあるはずなのに、保元元年(1156年)後白河天皇は院宣を下し、菱刈両院七百町歩を藤原重妙に賜っています。この菱刈両院とは牛屎院・太良院の事で、幼い藤原重妙は菱刈に下向出来ていませんが、建久4年(1193年)改めて、鎌倉幕府将軍の源頼朝から菱刈両院の領有権を安堵されています。
この太良院に築かれた山城が、のちに『太良城』と呼ばれるようになります。当初は在地の館や、簡易な砦程度だったと考えられますが、後の時代に、防御構造を備えた山城へと発展を遂げたのでしょう。
さて、菱刈両院を安堵された藤原重妙は、翌建久5年(1194年)太良院に下向します。菱刈姓を称し、弟ら一族を領内に分封して、統治の基礎を固めています。弟・師重は入山を分領して入山氏を称し、重妙の庶長子・重隆は馬越を分領、三男の重茂は曽木を領し、それぞれ馬越氏、曽木氏の祖となってます。
以後、代々、菱刈氏はこの地を領しずっと太良城を本城として、菱刈篤重の代に南北朝の争乱時代を向かえます。
菱刈篤重は足利尊氏方(北朝)に味方して、肝付氏(南朝)の加世田城攻撃に参加し、戦後、その功によって尊氏から菱刈半分地頭職を拝命。その子・菱刈但馬守重遠も尊氏方として活躍。越前金崎城攻撃には、菱刈家の部将・井手籠重久が、大口の牛屎高元と共に参加しています。が、一族は時に北朝側に、時に南朝側と、一族の保全を守る為に風向きを変えています。
戦国初期の文明年間(1469年〜1487年頃)菱刈氏は独自の支配体制を固め、伊佐地方を中心に菱刈・大口・出水方面に勢力を伸ばします。
彼らは太良城を本城としつつ、大口城は北の要衝として、馬越城は南方の防衛線として、湯之尾城は支城として連携を図ったのでしょう。
永禄年間(1558年〜1570年)になると、島津家は統一され、島津貴久・義久・義弘兄弟が登場し、薩摩・大隅・日向の三州統一を進めます。この時、菱刈氏は独立を維持しようと抵抗しますが、永禄10年(1567年)馬越城の戦いで、島津貴久、義弘軍は菱刈領に侵攻します。島津貴久は7000余兵、島津義久は8000余の兵を率いて馬越城へ出兵します。また、島津忠平(島津義弘)は新納忠元・喜入季久・比志島義基らと共に、飯野から湯之尾へ進軍。島津方の兵は横川や大口にも押し寄せ、一気に大軍を持って菱刈氏に攻撃を仕掛けています。島津忠平(島津義弘)らは湯之尾から馬越城に夜襲をかけ、守将の井手籠駿河守らを討ち取って陥落させます。また、横川城を守っていた菱刈中務少輔は、城を捨てて逃亡します。
馬越城は菱刈氏の本拠地である太良城に近い為、太良城を守る菱刈隆秋は馬越城の陥落を知ると、城を捨てて大口城に入っています。
その他、湯之尾・市山・青木・曽木・山野・羽月・平和泉の諸城を守っていた菱刈一族は城を放棄し、同じく大口城へ逃げ込んでいます。島津勢は菱刈氏領内を一気に制圧しています。以降、太良城は廃城になったと思われ歴史の舞台から消えています。
現在、公園化されてしまっていますが、見所はもっと奥です。南九州型の所謂、群郭式の形状がシッカリと残っていました。台地を島状(郭)として機能させ、堀底道(動線兼堀)で敵を網羅する。素晴らしい土木量がそこにありました。









