佐敷城(さしきじょう)
佐敷城の基本情報
通称・別名
- 佐敷花岡城
所在地
- 熊本県葦北郡芦北町佐敷
旧国名
- 肥後国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 佐敷氏?
築城年
- 南北朝時代後期
主な改修者
- 加藤清正
主な城主
- 佐敷氏、相良氏、宮原景種(島津氏家臣)、加藤重次(加藤氏家臣)
廃城年
- 元和元年(1615)
遺構
- 曲輪、石垣
指定文化財
- 国史跡(佐敷城跡)
再建造物
- 石碑、説明板、石垣
周辺の城
-
高尾城(熊本県葦北郡)[8.9km]
久多良木城(熊本県八代市)[13.1km]
水俣城(熊本県水俣市)[13.4km]
田川内城(熊本県八代市)[17.6km]
棚底城(熊本県天草市)[20.2km]
渡利城(熊本県球磨郡)[21.0km]
八代城(熊本県八代市)[24.6km]
人吉城(熊本県人吉市)[26.8km]
上津浦城(熊本県天草市)[27.6km]
大口城(鹿児島県伊佐市)[29.3km]
佐敷城の解説文
佐敷城の口コミ情報
2024年06月05日 武蔵守与作兵衛
佐敷城
二度にわたる破城が行われたそうですが、素晴らしい遺構が随所に残っています。草刈りも綺麗にしてあり快適に見てまわることが出来ました。石垣も魅力的で個人的には100名城、続100名城でもおかしくないと思いました。城跡直近には数台停められる駐車場もあり、アクセスも良好です。(パンフレットもゲットできます)是非ともリア攻めすることをお勧めします。
2024年03月09日 薩摩安房守義弘維新斎
佐敷城
佐敷城址は、肥薩おれんじ鉄道佐敷駅のホームからも確認できる遺構で、熊本のマチュピチュと呼んでもいいのでは。
駅から徒歩約20分で城跡へ行きます。徒歩登り口は、クネクネした山道を歩くと息切れします。
標高約85mに本丸等の遺構があり、綺麗に整備された石垣が目を引きます。
更に、本丸から見える佐敷湾は、絶景でずっと眺めていたい景色です。
何度も石垣等の遺構を見て歩くと、さすが加藤清正が築城した城と思います。島津氏に備えて築城した城は、『境目の城』と言われているそうです。
ぜひ八代周辺を訪れた際は、芦北町の佐敷城址を登城してみて下さい。
2024年02月10日 PP備前守james
佐敷城
石垣が立派です。見応えあり。大瓦のモニュメントはちょっと別の場所にあります 笑
2023年08月23日 RED副将軍
佐敷東の城[佐敷城 周辺城郭]
要所を多重堀切で固められた肥後の隠れた名城🏯
オススメ度 ★★★★★
築城年代は不詳。享禄年間(1528年〜1532年)に肥後南部を支配していた相良氏による築城とされます。相良氏家臣の東藤左衛門と東新左衛門が城代を勤めていたとの伝承がある程度で詳しくは伝わっていません。
1567年に東藤左衛門は左の腕を斬られて討死したと云われます。
1588年に加藤清正により近世城郭である佐敷城が築城される以前までは、この地域の中心となっていた中世山城と考えられています。
島津氏が北侵によりこの地域を支配していた時期もあり、島津氏による改変も受けているのかも知れません。
見所
標高160mの城山ピークに主郭を配し、北に伸びる尾根上に二郭、三郭が連なります。
主郭から北側に放射状に尾根が広がっていますが、全ての尾根が二重、三重の堀切で遮断されていることが特徴的。
南、南西の尾根もそれぞれに三重堀切で遮断されています。
主郭北側には石積み、北西尾根の郭郡には畝状竪堀も認められます。
複雑な縄張りは、石垣で有名な佐敷城以上に楽しめました。
行き方は、宇土集落の北側背後の城山が城域であり宇土神社から200mほど北へ集落内を進むと城跡碑の標柱が立っています。更に進むと登り口の案内板があり山の中に入ります。その後は一切案内は無いので適当に稜線に取り付いて進むと辿り着きます。
比高は約150mですが、城域は広いので時間に余裕を持っておいた方が良いです。
2022年10月31日 龍馬備中守【】
佐敷東の城[佐敷城 周辺城郭]
熊本県の葦北郡にある【佐敷東城】♪宇土集落の東側の山が佐敷東城になります♪この標高160mの山は『城山』と称されています♪西側の麓には佐敷川が流れ対峙する様に佐敷城が立地します♪南北朝時代に築かれたと文献にある佐敷城は、この佐敷東城を指しているとも考えられています♪
築城年は不明ですが、戦国時代に東藤左衛門と東新左衛門が在城(城代)したと伝わります☆いずれも相良氏の家臣になります♪
永禄10年(1567年)に東藤左衛門は左の腕を斬られて討死したと云われています☆
肥薩国の境目に当たる為に尾根をバシッと加工し堀切を連発☆その城域は広いです☆
山塊の南東側の尾根の小山が最高所になっていて『本丸』と小名を残します♪この本丸は長方形状の削平地になっています♪
本丸から北側に伸びた尾根に二の丸、更には三の丸と小名を残しています☆
三の丸の北西側の尾根には連続堀切☆
更に南西側の尾根にも連続堀切と防御を固めます☆本丸南側の尾根は比高が下がりながらも要所には堀切☆堀切パラダイスです♪
最高所の本丸から二の丸のある尾根筋と別にもう一つ尾根があるのですが、此方も城域です♪本丸を起点に『人』型に分岐していて人を溜める事が出来そうな広いスペースが広がります☆尾根にはヤッパ堀切w
どんだけ切ってるのか?という位に切断してましたw
元々は本丸、二の丸、三の丸位だった城域を誰かがもう一つの尾根を城に拡げた様にも感じました♪肥薩国の境目です♪肥後国への北上を狙いたい島津氏❓辺りが入り込んでいても、全く不思議は無い☆薩摩街道と人吉街道(相良往還)が通る交通の要衝地でもあるし、相良氏🆚島津氏がバチバチした場所☆
本丸から派生された拡張された城域を含めれば、大軍、それだけの兵を留める事は出来そうでした♪
熊本県の山城の中ではトップクラスの山城でした♪連続堀切に畝状竪堀、石積みに土橋、土塁♪好きな遺構が盛り沢山でした♪
オススメの城郭です😍
2022年07月27日 内記かずりヾ(・ε・。)
佐敷東の城[佐敷城 周辺城郭]
※肥後とそこにお住まいの方に感謝を込めて…
佐敷東の城は佐敷城の東方約1.3km、佐敷川北岸(右岸)、標高160mの山塊山頂に主郭が存します。南麓の熊本県道27号線、芦北球磨線からの比高は150m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。取り付き箇所は複数あるようですが、佐敷城のリア攻めマップには「佐敷東の城入口」のスポット登録があり、自分も此処から登城しました。城友さんありがちょです。が、登城路は崩れ易い上に途中から道形を失いつつあるので、これを無視して尾根稜線上まで直接登ってしまった方が楽だし距離も近いと思われます。
築城年代は享禄三年(西暦1530年)頃、築城者は相良氏です。葦北郡葦北庄の内、佐敷の地は文保二年(西暦1318年)七月五日の執権北条高時書状に「肥後国葦北庄佐敷、久多良木両浦事」と見え、北条得宗被官の長崎治部左衛門尉宗行に安堵されています。鎌倉時代に肥後国南部は得宗の支配領域だった訳だ。領主の交替が激しい同地ですが、室町時代後期には相良氏の支配が及び、長禄四年(西暦1460年)には肥後守護の菊池氏から葦北郡の領有を認める安堵状を取り付けたが安定せず、戦国時代には島津氏の北上によって相良氏はこれに従う事となり、相良義陽は「佐敷、湯之浦、津奈きの城合わせて三城」を同氏に差し出しています。
お城は大変素晴らしい、感動しやした。少々の改変もあるみたいですが、主郭から派生する各尾根に設けられた連続する堀切+竪堀には誰でも興奮する事間違い無し。中でも箱堀状の堀切なんてそう簡単に拝めるもんじゃない。謎なのは主郭北西側の広めの削平地等の存在で何となく根古屋の雰囲気、石積みなんかも確認出来ます。その先に守る意識は希薄だがお城はそれなりの縄張を持っており佐敷支配における拠点城として機能していた事は疑い無いでしょう。
島津氏の支配領域に組み込まれた佐敷は同時に肥前経略の重要拠点として、陸路、海路の交通の要衝として機能しました。上井覚兼日記には当地の記述が繁出します。天正十二年(西暦1584年)二月二十六日には有馬氏攻略の拠点となった事から、同年三月二十四日に発生した沖田畷の戦いにおける薩摩勢は佐敷から出帆した事は間違い無いでしょう。佐敷の衆は参陣した八代地頭、平田光宗に預けられていました。
2022年07月26日 虹雷 大宰大弐 サンダー
佐敷城
佐敷駅隣接の芦北町コミュニティセンターと芦北城登り口へ行く途中、少し入ったところに『天下泰平国土安穏』の大きなモニュメントがあります。奥まっていてすこし分かりにくいですが、文化財の建物の奥に、大きさに驚きます。せっかくなのでぜひ!表通りから見えるといいのにな…。
2022年07月17日 内記かずりヾ(・ε・。)
兼丸城[佐敷城 周辺城郭]
兼丸城は佐敷城の東南約2.0km、宮浦川東岸(左岸)、佐敷川北岸(右岸)、標高123mの山塊山頂から南西へ延びる山塊尾根上、標高約61mのピークの一つに主郭が存します。南麓の熊本県道27号線、芦北球磨線からの比高は50m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。取り付きは東麓からで、主郭部はかつて耕作されていたらしく作業用の林道が主郭部直下まで付いています。が、どだい車は無理な話なので諦めて歩きましょう、歩いても余裕っす。
菊池氏第十八代当主、菊池兼朝は室町幕府に恭順の姿勢を示す嫡男持朝と不和になり、佐敷に追放されて隠居に及びますが、その際に隠居城として入ったのが佐敷城(佐敷城には別に中世山城としての佐敷東の城、それ以前における古城の時期があるようだ。)か兼丸城と推測されているそうです。ちなみに武蔵の住人なので菊池氏も含めてそれ以上詳しい事は一切知らん。
お城は…堀切が1条残ってるてネットに書いてあったんすけど探索した結果、後世の改変でなければ堀切は3条あったように思えます。主郭部は削平面に畝があり、土留めの石列とかも散見されましたが、かつて耕作されていたそうなんでその時のものなんでしょう。城域は林道によって旧態をかなり損ねており、現況とは別の視点で見る必要があると思います。又、林道からは腰郭と思われる削平地、城域を越えて尾根筋を北東へ進むと段郭様地形が確認出来ます。
火の国名城めぐりで肥後入りした自分すけど、最初に訪ねたお城がこの兼丸城…今回の遠征は泥臭い事抜きにしてスマートにリア攻め無しでイベをクリアするつもり(だって暑いじゃん…)だったんす。だから靴はVANS、服装は短パンにTシャツ、リア攻めしないんだからそれでOK♪みたいな感じっす。でもねぇ…お目当ての佐敷城の近くに来たら色々と調べまくる始末(多動児モード発動、他が見えない。)、「近くに山城が2つあるじゃんっ!」…もう秒で初心と目的を忘れる訳ですわ…マニア向け、少なくとも名城でない事は間違い無し。おいらは充分楽しんだけど…
2022年05月31日 黒はんぺん播磨守
佐敷城
静かな街に静かにたたずむ城跡です。いい雰囲気です。
2022年05月15日 権大納言うらぶ
佐敷城
天気のいい日の攻城をおすすめします。お城の入り口のモニュメントもお忘れなく
2022年05月05日 かの
佐敷城
報告オンチなので口コミをみて動きましたがウロウロ。コミュニティセンターは駅の裏にある白い二階建ての建物、電話番号は0966822213 玄関から左手にいり、2階にQRコードあります。
2022年04月23日 雅昌 備前守朱龍
佐敷城
本丸には見事なツツジが見えています!追手門後から見上げても青空と相まって綺麗でした。出丸もあちこちに見えますがイノシシに荒らされていますね。本丸からは、天気が良く霞んで無ければ天草まで見えるそうです。今回は晴天なのに黄砂の影響でしょうか、ちょっと残念。
元々の石垣は石灰岩との事で、丸くて薄い感じのいかにも張り付けた感じでした。勿論角も丸くなっており、平成になり石垣が整備されて周辺を含み今の角張った感じの石垣になっているそうです。三の丸には加藤清正公の祠(御神体無し)が有ります♪イベントに関係無く、ゆっくり周って行きたい場所のなりました。
2022年04月22日 徳にぃ図書頭銀座のすずめ
佐敷城
先人の皆様の言う通り芦北町総合コミュニティセンターの電話番号は旧図書館と同じ為、そちらに誘導されます(佐敷城登城口近くです)。
いっその事、コミュニティセンターの道を挟んで反対側の山裾にあるまあるいデカイ建物をナビ設定したらどうかなあと思いました。建物の直近での右左折を逆に切ればすぐがコミュニティセンターです。因みに、建物名は芦北町民総合センター ☏0966-82-5858です。
以下追加です。
是非、佐敷城はリア攻めして下さいね。芦北町総合コミュニティセンターからも確り見えます。
リア攻めは、一旦車で北に向かい最初の信号を右折しちょっと走ると橋の手前に駐車場への案内が出てますので従って下さい。坂道を上ると本丸下のトイレもある駐車場に着きます。
2022年04月22日 サラマンダ大宰少弐
佐敷城
芦北町総合コミュニティセンターは、佐敷駅で降りると、東側です。駅から建物の大きな看板が見えます。
2022年04月18日 播磨守狂鬼人間
佐敷城
若江河内守殿の口コミを見て無かったのでカーナビで全然違う所に案内された😆佐敷駅で設定して下さい!!
2022年04月18日 ひろ右京大夫
佐敷城
石垣はさすがでした、芦北の海まで眺望抜群で要所としての城の役割を感じました。駐車場からもそう遠くないのでリア攻めも是非!
2022年04月13日 若江河内守國助93.8%
佐敷城
『火の国イベント』電話番号でカーナビを設定すると違う場所に案内される場合があります。地図で肥薩おれんじ鉄道佐敷駅の東隣であることを確認してから行って下さい。
2022年04月13日 若江河内守國助93.8%
芦北町歴史資料展示室[佐敷城 御城印]
火の国イベントのQRコード設置場所です。『国土安穏』現物の瓦が展示されています。館内て城攻めポチるとGPSが少しズレてしまうので、駐車場で城攻めポチしてから入館したほうが良いでしょう。
2022年02月14日 河内雅楽頭正任
佐敷城
本格的に修復保存をしていただいている城跡で観る価値充分です。熊本市内から車で2時間ほど。駐車場も整備されてます。
2021年05月09日 榎晴信肥後守
佐敷東の城[佐敷城 周辺城郭]
佐敷東の城は佐敷城の東1.3㎞の標高160㍍の城山(じょうやま)にあります。
地元の方は清正が築城しした佐敷城の山を"しろやま" 相良氏が築いたこの城を"じょうやま"と呼んでいるそうです。
標高160㍍の山頂に本丸があり北西に延びる尾根上に二の丸、三の丸と郭があります。
本丸からは南、南西、北東側にも尾根がのびており北東側の尾根はさらに2つに分かれておりその全てが二重もしくは三重の堀切で切られており、北東の尾根には四条程の畝竪も残っております。特に北東尾根の堀切から落ちる竪堀は必見です。
本丸北側の郭には一部石垣も。
登城路を登り城内の尾根に出ると左手が三の丸、右手が二の丸、本丸となり本丸の小社右側の虎口を下りると北東側郭(熊本県の中世城郭の縄張り図には描いてない)へと続く道となります。
佐敷城の石垣の近世城郭と東の城の中世山城、セットで是非見学してみて下さい。
2021年05月08日 榎晴信肥後守
佐敷東の城入口[佐敷城 碑・説明板]
この標柱の奥に登城口があります。
進んで行くと案内板があり左手の沢沿いに山へ入ります。
なお付近に駐車スペースはありませんので近くの道の駅を利用してください。
2021年04月29日 野花南左衛門佐
佐敷城
佐敷駅裏の芦北町民総合センターから登山道あります。アーチェリー場を目指して行けばすぐわかると思います。
斜面を直登するので道は険しいですが、近道です。駅から徒歩10分位でした。
2021年02月22日 明石家船上
佐敷城
朝鮮の役の時に、梅北一揆軍が立て籠ったあたりに、加藤清正が南肥後の守りの要として、築城した城跡。
慶長期の築城の特徴が残っており、蔚山籠城後・朝鮮の役の縄張りならは、湊ならの補給を考えた登り石垣の遺構が埋まっている可能性がある。
城割をしてあるが、縄張りはよく残っている。
佐敷駅から徒歩15分。本丸下まで車でいける。
高石垣を作る技術はまだ発達しておらず、段石垣になっている。
打ち込みはぎの石垣には、丁寧に間詰石が打ち込んである。
関ヶ原後の敗戦側島津対策・外交政策よりも、地元の、土豪に対して畿内の先進技術を見せて、抵抗する気を失くさせるための、内政的な意図も、あったと考えた。
2020年09月30日 敬将天司主計頭飛水
佐敷城
熊本県の芦北町に佐敷城はあり、佐敷🏯の跡地から芦北町がしっかりわかるくらい見えます。また、天草方面がきれいにみえ見晴らしがとてもいいです。
2019年07月30日 織田上総介晃司
佐敷城
城跡近くまで車で上がることができます。
駐車場とトイレあり。
対島津に備え支城として総石垣の城を築城。
出る杭は打たれるじゃないが、立派すぎて一国一城令により破却。
芦北ICからも佐敷駅からも近く、リア攻めすべき城です。
2019年05月25日 フー甲斐守
駐車場[佐敷城 駐車場]
佐敷城は登城口まで車で入って行けます。10台位は停められるかと思います。又、駐車場側には案内板が写真の通りありますが、その裏がトイレです。
個人的には是非リア攻めをお勧めするお城です。流石は清正が対島津戦に準備したお城です。高さは熊本城程ありませんが、石垣とその組み合わせが秀逸です。
2019年05月10日 横山日向守忠篤
佐敷城
天気が良くて見晴らしも最高❗️流石は、国指定史跡だけに遺構はしっかりしてて、特に石垣は見応えありです。
概要
城跡は九州山地から延びる丘陵末端部の通称城山と呼ぶ標高84.5mの丘陵上および麓一帯に立地し、東から流れてきた佐敷川が城山北側に沿って屈曲して佐敷湾に注ぐ。城山は後代の干拓のため今は内陸に所在するが、当時は佐敷湾に突き出た半島状の丘陵であったらしい。佐敷川を挟む城山の向かい側の丘陵には中世相良氏時代の佐敷城があったと考えられている。歴史
佐敷城跡は、豊臣秀吉の九州平定に伴い天正16年(1588)に芦北を含む肥後半国19万石の領主となった加藤清正が、島津氏に備えるべく薩摩国境に近いこの地に「境目の城」として築城したものである。文禄元年(1592)の梅北一揆において、朝鮮出兵のため肥前名護屋に向かう島津家家臣梅北国兼により佐敷城が一時占拠された際の資料には、「本丸」「追手之門」「座敷一間」等、築城当時の佐敷城の様子をうかがえる記述が見える。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦に際しても西軍島津氏の攻撃を受けた。 戦後、清正は肥後一国51万石の領主となり、佐敷城は肥後国内の有力支城として整備されたが、元和元年(1615)の一国一城令により廃城された。
加藤氏改易後の寛永15年(1638)、幕府は天草・島原の乱の後処理として、九州の各大名に古城の調査と破却を命じた。その際の細川忠利書状によれば、前領主加藤氏の破城が不十分であるため、改めて佐敷城の石垣を取り除いたとある。
遺構
芦北町教育委員会は、昭和53年に公園整備に伴い佐敷城跡の発掘調査を、平成5~13年度に史跡整備に伴う発掘調査を行った。城の縄張りは、本丸を中心に、その南に階段状に二の丸及び三の丸郭を構え、三方の尾根に出丸郭を設け、枡形虎口を備えた城門を三つ連続させ、城下町と薩摩街道が走る城山東側を大手としていた。本丸、二の丸、三の丸は総石垣造であり、大手側には高石垣を築造する。石垣は三期に区分され、築城時のⅠ期石垣は石灰岩やチャートを用い、矢穴痕はなく大きさも不揃いである。Ⅱ期の石垣は上記のほかに安山岩の粗割石を用い、一部には控えが20㎝前後の薄い石を用いた鏡積みが見られる。Ⅲ期石垣は安山岩割石を用い、ほぼ均一の大きさで、目地の通った布目積みを施し、隅角部は完成された算木積みである。本丸南側や二の丸南側等ではⅠ・Ⅱ期石垣を埋めその外側にⅢ期石垣を築造し、曲輪や通路を拡張していた。Ⅱ期石垣は文禄・慶長の役ころ、Ⅲ期石垣は慶長12年ころと推定される。二の丸では素掘板壁構造と思われる地下倉庫跡も見つかった。
遺物として、「天下泰平国土安穏」銘や桐紋入の鬼瓦、「慶長十二年」銘軒平瓦をはじめ多量の瓦が出土した。また、滴水瓦や布目、たたき痕をもつ朝鮮半島系瓦がⅡ期石垣に沿って出土し、これらの中には「壬午」文様の瓦があり、文禄・慶長の役時に持ち帰った瓦と推定されるほか、朝鮮人瓦工との関係も推定される日本的な文様を持つ瓦も出土した。
城破りの実態として、石垣隅角部等での破壊が見られ、通路や城門部分では崩した石垣の石材と栗石によって埋められ、石段の踏み石が途中で外される等の状況が確認できた。追手門では「天下泰平」銘鬼瓦が瓦溜最下層から丁寧に据えられた状態で出土したが、その手前の石段踏み石が一個外されており、廃城時の儀礼も想定される。二の丸東門下石垣の通路を埋めた栗石層から寛永13年以降に鋳造された寛永通宝(古寛永)が出土し、寛永時の細川氏による本格的な破城が推測されよう。
佐敷城跡は、肥後の大名となった加藤清正が、南の島津氏に備えるべく薩摩・肥後国境防備のために築城したものであり、島津・加藤両氏の戦いの場となった。城郭遺構も良好に残存し、銘文入鬼瓦をはじめ注目される遺物が出土し、城破りの状況も注目される。近世初頭ころの政治・軍事を理解するうえで貴重な遺跡である。
参考文献
・『月刊文化財 平成20年2月号』