佐敷東の城

佐敷東の城([佐敷城  周辺城郭])

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佐敷東の城の口コミ情報

2023年08月23日 RED副将軍


要所を多重堀切で固められた肥後の隠れた名城🏯

オススメ度 ★★★★★

築城年代は不詳。享禄年間(1528年〜1532年)に肥後南部を支配していた相良氏による築城とされます。相良氏家臣の東藤左衛門と東新左衛門が城代を勤めていたとの伝承がある程度で詳しくは伝わっていません。
1567年に東藤左衛門は左の腕を斬られて討死したと云われます。
1588年に加藤清正により近世城郭である佐敷城が築城される以前までは、この地域の中心となっていた中世山城と考えられています。
島津氏が北侵によりこの地域を支配していた時期もあり、島津氏による改変も受けているのかも知れません。

見所
標高160mの城山ピークに主郭を配し、北に伸びる尾根上に二郭、三郭が連なります。
主郭から北側に放射状に尾根が広がっていますが、全ての尾根が二重、三重の堀切で遮断されていることが特徴的。
南、南西の尾根もそれぞれに三重堀切で遮断されています。
主郭北側には石積み、北西尾根の郭郡には畝状竪堀も認められます。
複雑な縄張りは、石垣で有名な佐敷城以上に楽しめました。

行き方は、宇土集落の北側背後の城山が城域であり宇土神社から200mほど北へ集落内を進むと城跡碑の標柱が立っています。更に進むと登り口の案内板があり山の中に入ります。その後は一切案内は無いので適当に稜線に取り付いて進むと辿り着きます。
比高は約150mですが、城域は広いので時間に余裕を持っておいた方が良いです。

2022年10月31日 龍馬備中守【感謝】


熊本県の葦北郡にある【佐敷東城】♪宇土集落の東側の山が佐敷東城になります♪この標高160mの山は『城山』と称されています♪西側の麓には佐敷川が流れ対峙する様に佐敷城が立地します♪南北朝時代に築かれたと文献にある佐敷城は、この佐敷東城を指しているとも考えられています♪

築城年は不明ですが、戦国時代に東藤左衛門と東新左衛門が在城(城代)したと伝わります☆いずれも相良氏の家臣になります♪
永禄10年(1567年)に東藤左衛門は左の腕を斬られて討死したと云われています☆

肥薩国の境目に当たる為に尾根をバシッと加工し堀切を連発☆その城域は広いです☆

山塊の南東側の尾根の小山が最高所になっていて『本丸』と小名を残します♪この本丸は長方形状の削平地になっています♪
本丸から北側に伸びた尾根に二の丸、更には三の丸と小名を残しています☆
三の丸の北西側の尾根には連続堀切☆
更に南西側の尾根にも連続堀切と防御を固めます☆本丸南側の尾根は比高が下がりながらも要所には堀切☆堀切パラダイスです♪
最高所の本丸から二の丸のある尾根筋と別にもう一つ尾根があるのですが、此方も城域です♪本丸を起点に『人』型に分岐していて人を溜める事が出来そうな広いスペースが広がります☆尾根にはヤッパ堀切w
どんだけ切ってるのか?という位に切断してましたw

元々は本丸、二の丸、三の丸位だった城域を誰かがもう一つの尾根を城に拡げた様にも感じました♪肥薩国の境目です♪肥後国への北上を狙いたい島津氏❓辺りが入り込んでいても、全く不思議は無い☆薩摩街道と人吉街道(相良往還)が通る交通の要衝地でもあるし、相良氏🆚島津氏がバチバチした場所☆
本丸から派生された拡張された城域を含めれば、大軍、それだけの兵を留める事は出来そうでした♪

熊本県の山城の中ではトップクラスの山城でした♪連続堀切に畝状竪堀、石積みに土橋、土塁♪好きな遺構が盛り沢山でした♪
オススメの城郭です😍

2022年07月27日 内記かずりヾ(・ε・。)


※肥後とそこにお住まいの方に感謝を込めて…

佐敷東の城は佐敷城の東方約1.3km、佐敷川北岸(右岸)、標高160mの山塊山頂に主郭が存します。南麓の熊本県道27号線、芦北球磨線からの比高は150m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。取り付き箇所は複数あるようですが、佐敷城のリア攻めマップには「佐敷東の城入口」のスポット登録があり、自分も此処から登城しました。城友さんありがちょです。が、登城路は崩れ易い上に途中から道形を失いつつあるので、これを無視して尾根稜線上まで直接登ってしまった方が楽だし距離も近いと思われます。

築城年代は享禄三年(西暦1530年)頃、築城者は相良氏です。葦北郡葦北庄の内、佐敷の地は文保二年(西暦1318年)七月五日の執権北条高時書状に「肥後国葦北庄佐敷、久多良木両浦事」と見え、北条得宗被官の長崎治部左衛門尉宗行に安堵されています。鎌倉時代に肥後国南部は得宗の支配領域だった訳だ。領主の交替が激しい同地ですが、室町時代後期には相良氏の支配が及び、長禄四年(西暦1460年)には肥後守護の菊池氏から葦北郡の領有を認める安堵状を取り付けたが安定せず、戦国時代には島津氏の北上によって相良氏はこれに従う事となり、相良義陽は「佐敷、湯之浦、津奈きの城合わせて三城」を同氏に差し出しています。

お城は大変素晴らしい、感動しやした。少々の改変もあるみたいですが、主郭から派生する各尾根に設けられた連続する堀切+竪堀には誰でも興奮する事間違い無し。中でも箱堀状の堀切なんてそう簡単に拝めるもんじゃない。謎なのは主郭北西側の広めの削平地等の存在で何となく根古屋の雰囲気、石積みなんかも確認出来ます。その先に守る意識は希薄だがお城はそれなりの縄張を持っており佐敷支配における拠点城として機能していた事は疑い無いでしょう。

島津氏の支配領域に組み込まれた佐敷は同時に肥前経略の重要拠点として、陸路、海路の交通の要衝として機能しました。上井覚兼日記には当地の記述が繁出します。天正十二年(西暦1584年)二月二十六日には有馬氏攻略の拠点となった事から、同年三月二十四日に発生した沖田畷の戦いにおける薩摩勢は佐敷から出帆した事は間違い無いでしょう。佐敷の衆は参陣した八代地頭、平田光宗に預けられていました。

2021年05月09日 一寸榎伊予守


佐敷東の城は佐敷城の東1.3㎞の標高160㍍の城山(じょうやま)にあります。
地元の方は清正が築城しした佐敷城の山を"しろやま" 相良氏が築いたこの城を"じょうやま"と呼んでいるそうです。

標高160㍍の山頂に本丸があり北西に延びる尾根上に二の丸、三の丸と郭があります。

本丸からは南、南西、北東側にも尾根がのびており北東側の尾根はさらに2つに分かれておりその全てが二重もしくは三重の堀切で切られており、北東の尾根には四条程の畝竪も残っております。特に北東尾根の堀切から落ちる竪堀は必見です。

本丸北側の郭には一部石垣も。

登城路を登り城内の尾根に出ると左手が三の丸、右手が二の丸、本丸となり本丸の小社右側の虎口を下りると北東側郭(熊本県の中世城郭の縄張り図には描いてない)へと続く道となります。

佐敷城の石垣の近世城郭と東の城の中世山城、セットで是非見学してみて下さい。


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