ガウトウの「山ン城」
ガウトウの「山ン城」([棚底城 周辺城郭])
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ガウトウの「山ン城」の口コミ情報
2024年05月13日 龍馬備中守【】
熊本県の天草市の松島町にある【打越城】♪鋸岳から西へ伸びた支尾根の1つで、標高110m程の山に城郭は立地します♪北には次郎丸嶽、南は鹿見岳、西に鋸岳、東側も山々が続く盆地は何処か、のどかで、閉鎖的な印象があります♪この集落山内にある打越城🏯地元では『山ン城』と呼ばれていて、今泉から教良木へ抜けるルート上の監視を目的とした城郭と思われます♪
内野河内城とは谷間(次郎丸嶽から流れる小川は内野河内城の西側を流れ倉江川と合流します♪)を挟んだ立地にある為、コチラも恐らく天草五人衆である大矢野氏の領有した地であり大矢野関連城郭では無いか?と考えるのが自然でしょうか??
戦国時代の明応10年(1501年)菊池武運の判物を天草一揆中に与えた時、大矢野から名代として合津氏が談合に参加しています(志岐文書より)♪合津氏は大矢野氏の家臣にあたる人物で、内野河内からは直ぐの北側にある合津の豪族として合津の港を掌握したのでしょう♪
また『四郎記』によれば、合津の庄屋九左衛門は、もと当地の地頭合津山城守の子孫であり、いずれにせよ中世において、この一帯は楠甫(有明町)、内野河内、姫浦あたりを含めて大矢野氏の勢力下にあったものと思われます♪
この内野河内にも同様の豪族が居たのかも知れませんが、記録が薄い為、中世の打越城も、内野河野城も詳細は分かりませんが、立地的に合津氏は怪しい……気がします☆
内野河内より西側は山深い念珠岳♪更に西側の棚底城付近からは同じく天草五人衆の1人、上津浦氏、栖本氏の領有する地になっていそうです♪
因みに、天草で名を馳せた領主達の共通点は港を掌握している事にある為、内野河内の地は山に隔たれた盆地の為に、大矢野氏、または合津氏の下に付いていた存在があったのかも知れません♪何しろ記録が無いので、妄想の域です☆
内野河内集落で記録が出てくるのが寛永14年(1637年)天草・島原の乱の際には村民の半数が一揆に加わっています☆
同年一一月六日の天草にて切支丹に立帰申候村々覚(細川家記)に「此村も半分切支丹に成申候」と残ります☆
集落内には五輪塔・宝篋印塔が散在します☆中世寺院の存在推定もされますが、これに関する記録は残っていないのは、こういったキリシタン的な理由なのでしょうね☆
天正15年(1587年)豊臣秀吉による九州仕置後、天正17年(1589年)天草合戦を経て、天草全域が小西行長の領となっています♪
小西行長領となった天草ですが、一揉めあり☆天正17年に小西行長は宇土城の普請夫役を与力となった5人衆に命じています☆ところが…天草5人衆である志岐麟泉は.これを拒否していて、大矢野氏を含む他の4氏もこれに同調します☆
秀吉には服属するも、行長とは与力の立場で、同格と見ていたのが拒否の原因であった様です☆戦には参軍するが、私城の修復にまで手伝う必要はないというスタンスです☆
怒った小西行長は、秀吉に訴えると直ちに討伐せよと命じました☆小西行長は家臣に兵3千を授け志岐城を攻撃するも全軍壊滅の大敗を喫してしまいます☆
そこで小西行長は隣国の加藤清正に援軍を求めていて、天草5人衆と小西行長と清正連合軍の戦いが勃発☆これが天正の天草合戦です☆
加藤清正は法華経を崇拝していた事と、豊臣秀吉からキリシタン禁制を掲げていた為に、この天草5人衆は徹底的に潰されていくのであります☆話が逸れてしまうので、ここ迄w
以上、打越城の口コミでした♪
主要部の虎口前にある石塁は広めな郭を目隠しし、区画している所が見所かな〜??低い石塁の上には塀を設けていたのでしょう♪
2022年10月31日 気分爽快安芸守
入口周辺は藪化が激しいですが、暫くすると山道らしきものがあり、後は上に向かって進むのみ。3郭、1郭には石積みが確認でき、1郭の先に大きな堀切があります。
④2郭横の竪堀
①1郭先の土橋
②1郭先の堀切
③2郭への登り口
⑤3郭の石列
⑧登り口
⑥2郭から1郭を見たところ
⑦3郭入口
2022年04月24日 昌幸近江守更に吉
上天草市にあるガウトウの「山ン城」。(登城口の標柱には「山ン城」とのみ記されています)鋸嶽から連なる尾根上に築かれました。麓に内野河内城があり、それの詰め城もしくは遠見番所とされています。築城時期・築城者は不明のようです。
県道34号沿いの内野河内変電所の向かいにスペースがあり駐車できます。小道に入ると左手に標柱があり登城口となります。登城し始めて、しっかりした道と段曲輪が現れ「これは登りやすいかも」と思うのですが、残念ながら城の遺構ではなく移転済の廃墓地のようです。墓地エリアを過ぎると道はなくなります。基本、直登でOKなのですが、ピンクリボンなどの目印は一切ありません。墓地エリアを過ぎて、直登し10分ほどで三郭に着きました。
縄張は3つの郭から成る連郭式の城です。虎口と思われるところに石積みがあり、主郭背後には二重堀切と土橋が見られます。
【写真の説明】
①石積みでできた三郭虎口。
②虎口からつながる石積み。
③三郭からニ郭へつながるスロープ。
④ニ郭から主郭へつながるスロープにも石積みが。
⑤主郭背後の二重堀切。奥の堀切には土橋がある。
⑥手前の堀切をピックアップ。
⑦堀切からの竪堀。
⑧土橋をピックアップ。