内野河内城
内野河内城([棚底城 周辺城郭])
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内野河内城の口コミ情報
2024年07月10日 血圧高い系男子RED副将軍
中世は大矢野氏、近世は寺沢氏の属城と考えられる連郭式山城🏯
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
築城年代や築城主等の詳細不詳。
戦国時代には大矢野氏の属城であったと考えられています。大矢野氏は天草五人衆(他に天草氏、志岐氏、栖本氏、上津浦氏)のひとつに数えられる天草上島東部を勢力圏としていた国人領主です。
その後、関ヶ原の戦い後に天草を治めた寺沢氏により近世城郭に改修されたと考えられています。
見所
倉江川北岸の丘陵先端に築かれています。
北東から南西に伸びた丘陵上に大きく3つの曲輪を展開し、それぞれは堀切で区切らています。
南西端の曲輪は石垣造りの近世城郭に改修。寺沢氏によるものとされ、現在は石垣造りの枡形の内部に天照皇太神宮が祀られています。
中央の曲輪は北側面に横堀と畝状竪堀群があり、北東の曲輪には堀切と竪堀がある様ですが、全体的に背丈以上のヤブで覆われており遺構を判別することが困難でした。整備の手が入ればポテンシャルのある城跡と思います。
行き方は、内野河内地区多目的集会所を目標に設定。駐車場をお借りして南東麓へ回り込むと登城口があります。所々に案内の標柱が立っています。比高は約30mです。
2024年05月11日 龍馬備中守【】
熊本県の天草市の松島町にある【内野河内城】♪倉江湾奥の海岸より最短3キロの盆地♪鋸岳から西へ伸びた丘陵、尾根上に城郭は存在しました♪ココは今泉から教良木へ抜けるルート上です♪
築城年代、城主等の詳細は不明です☆が、同じく上天草にある大矢野城の城主・大矢野氏の支城群の1城だと考えられています♪後の天草五人衆と呼ばれる大矢野氏が1番最初に出てくる記録として鎌倉時代に元が九州北部へ2度にわたって攻め込んできた『蒙古襲来』の際となっています♪
その後の記録で再び大矢野氏が現れるのは戦国時代です♪戦国中期に志岐氏・天草氏・上津浦氏・栖本氏と大矢野氏の事を『天草五人衆』と呼ばれました♪う〜ん♪かっちょいい♪
九州統一を狙う豊後の大友氏、薩摩の島津氏、肥前の龍造寺氏などの影響を受けながらも大矢野氏は独立を保ち最終的には豊臣秀吉に従いましたが、大矢野氏は上天草エリアで約300年、豪族として栄えました♪
時は流れ…秀吉は九州を平定☆肥後南部の領有を許されたのは秀吉家臣の小西行長☆小西行長は大矢野氏ら『天草五人衆』を圧迫していきます☆コレは、天正17年に小西行長は宇土城の普請夫役を与力となった5人衆に命じています☆ところが…天草5人衆である志岐麟泉は.これを拒否していて、大矢野氏を含む他の4氏もこれに同調します☆
コレにより『天草五人衆』は小西行長に対抗していきました☆苦戦を強いられる小西行長ですが加藤清正を援軍として呼びます☆加藤清正を相手に善戦するも遂に『天草五人衆』は敗北☆後に大矢野氏は領地を失い小西氏の家臣となっていきます♪
その後、大矢野種基は小西行長に従い秀吉が命じた文禄・慶長の役に参陣するも討死☆
関ヶ原の戦いで西軍に力を添えた小西行長が滅ぶと、大矢野氏は加藤清正に仕え加藤氏改易後は細川氏の家臣となりました☆
実際の所は内野河内城は誰の城だったか?分かってはいませんが、恐らく立地的にヤッパリ大矢野氏の被官の城であり、大矢野城の支城群の1つでしょうかね〜♪
城内には石垣で築かれた枡形(神社が立っている場所)が残っているのですが、コレは唐津、飛地で天草を領した寺沢氏によって改修されたと考えられています♪
この時の在城者は…寺沢氏の家臣でしょう♪
中世期の横堀と畝状竪堀群の合わせ技に大堀切を持ち合わせた内野河内城♪中世にはどんな立ち位置で、生きたのか?気になる所です♪
時代は中世城郭から近世城郭へ♪城郭を改修しようとした結果が石垣として残っています♪横堀とセットとして築かれた畝状竪堀群は天正前半期に豊後国・大友氏の影響下で採用された可能性があります♪
因みに、後に起こる『天草島原の乱』の際には、この内野河内の住民の半数が、一揆勢として参戦しています☆