宮田城

宮田城([棚底城  周辺城郭])

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宮田城の口コミ情報

2024年05月17日 龍馬太閤【備中の麒麟児】


熊本県の天草市の倉岳町宮田にある【宮田城】♪標高626mの矢筈嶽から南に伸びる尾根から一部切れ間を見せる尾根ですが、山塊は南側へと続き扇状地扇端の独立丘に城郭は立地しています♪西側には砥石川、東側にも八代海に流れる2本の川を外堀として活用し入り江(舟入)に面します♪

このエリアは『天草五人衆』上津浦城を本城とする上津浦氏の領有する場所です♪棚底と栖本領との境目にあたる宮田城は二重横堀と腰郭群を持ち主郭背後には二重堀切、更には畝状竪堀群をも持ち合わせました♪遺構の残り具合は良好で、境目の城に相応しい形相をしています♪上津浦氏の領有するエリアだけに、宮田城もまた、上津浦氏の城郭なのでしょう♪

上津浦氏は、戦国天草時代まで、天草を支配を支配していた国人領主です♪天草五人衆である上津浦氏は現在の天草市有明町を中心に勢力を持っていました♪
14世紀前半の古文書には上津浦次郎入道という名があり、この頃から上津浦氏の存在が確認されています♪16世紀前半に入ると天草五人衆は、互いに覇権争いを繰り返します♪
時には、人吉・相良氏と組んだり、時には島原・有馬氏と組んだりし、争いは絶えず行われています☆
上津浦氏は人吉・相良氏と組んだりして、他の天草五人衆と幾度も抗争を繰り返しました☆およそ30年にも渡る抗争は天草全土を巻き込んでいます(1532年〜65年頃まで)☆
特に…栖本氏との抗争が激しく行われています☆

天草五人衆はキリシタン領主として、在地を納めていましたが、上津浦氏もまたキリシタンで、五人衆の中では最も遅くキリシタンとなっています♪
天正14年(1586年)秀吉による九州征伐が開始され翌、天正15年(1587年)薩摩・島津氏は秀吉に屈服しています☆
この間、上津浦氏ら天草五人衆も秀吉に拝謁していて島津軍の討伐に加わっています☆
この戦後、本領を安堵され、新たに肥後の領主として入部してきた佐々成政に属していますが、その後直ぐに肥後国人一揆が起こり、情勢は悪化☆乱は制圧されましたが、佐々成政は鎮圧出来なかったと責任を問われて自害☆
そのあとの肥後は二分されて、北部を加藤清正が領有し南部を小西行長が領有するとなり天草五人衆は小西行長の与力となっています☆
天正17年(1589年)宇土城の普請に着手した小西行長ですが、天草五人衆に手伝いを命じましたが、これに志岐麟泉が反発し志岐城に立て籠っています☆上津浦種貞や他の天草衆は、はじめ静観していましたが、やがて志岐氏に加担して小西行長、加藤清正らと戦っています☆
戦いは激戦となり天草衆の敗戦で終了☆
志岐氏は国外に逃亡しています☆
上津浦氏らは本領を没収された上で改めて小西氏の家臣に組み込まれています☆

この出来事により天草の戦国時代は終焉を迎えています☆その後の上津浦氏は、大矢野氏、栖本氏と共に肥後・細川家に仕えました♪

竪堀の基点に石積み♪要害山城を彷彿とする造りが見所でありました♪

2021年12月14日 榎晴信肥後守


宮田城は棚底城の南西約3キロ標高約70メートルの独立丘にあります。城山は三角形で南西側に四段の腰曲輪があり南東側にも四段の腰曲輪が付きます。

南西側に二重の横堀があり北西側に大きめの竪堀二本とその間に小さめの竪堀二本があり防御壁を構成します。

北側尾根は三重の堀切、その斜面には竪堀群、堀切先端は横堀化して竪堀に連結と北側の防御を固めています。小さな城ですが盛りだくさんの城となってます。

全体の防御は西側に厚く栖本方面からの敵を想定したものでしょう。上津浦衆と栖本衆、戦国期を通してついに和睦する事がなかった戦いの中心の城です。

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