栖本城

栖本城([棚底城  周辺城郭])

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栖本城の口コミ情報

2024年05月20日 龍馬備中守【】


熊本県の天草市の湯船原町にある【栖本城】♪湯船原城とも呼ばれ天草五人衆の1人である栖本氏の代々の居城です♪城跡は湯船原の南方、標高60mの帯状型の山稜で南西方向に主軸を呈し、山頂部分を中心に城郭を造り込みます♪南側、眼下には栖本湾が広がり、栖本氏もまた、天草の入り組んだ海岸線と港を掌握した在地領主です♪
天草は海岸の小平野毎に城郭と集落を構え、山間部を挟み、違う領主のエリアという形で成り立ちます♪なので、海岸沿いに城郭が多い特徴を持ちます♪コレは、険しい山々から成る天草の地形的な制約から、限定された平野部と海岸により生産、生活の主軸を置く事で、必然的に、海岸沿いに城郭が多くなったのでしょうね♪また、栖本氏はキリシタンでもありますので、海から入ってくる異国の船を迎えるにはやっぱり、港は必要不可欠だったのでしょう♪

この栖本氏は肥後・菊池氏の一族と伝わります♪菊池則隆の子である小島次郎保隆を祖と云われています♪栖本氏は天草上島の栖本を中心に勢力を拡大していますが、戦国時代に至るまでの事蹟は不明な点が多いです。

応仁元年(1467年)京都での『応仁の乱』後の天草では国衆である栖本氏、大矢野氏、天草氏、志岐氏、上津浦氏ら(後の天草五人衆)は一揆を結び、世の動きに対応しようとしています♪文明15年(1483年)人吉の相良為続が八代の名和顕忠を攻めた際には栖本氏、志岐氏、上津浦氏らは相良氏に味方して兵を出しています☆

相良氏が八代を支配下に置いたのを見た肥後守護・菊池能運は相良氏と対抗し相良氏を八代から人吉に追い払っています☆この時、天草の各氏は相良氏を見限り菊池氏に従いました。より強力な勢力に付く事で、自らの勢力を維持・拡大に努めています♪

その後、菊池氏は内訌などがあり、勢力を失い再び相良氏が八代まで支配下に置くようになると、栖本氏ら天草諸氏は相良氏に従っています♪天文13年(1544年)栖本氏は相良義滋に面会し兵部少輔を称する事を願い出て許されています♪以後の栖本氏は相良氏との関係強化に努めました♪

天文13年(1544年)栖本氏は上津浦氏の棚底城を攻略☆更に上津浦城を攻撃して天草上島の主導権を掌握していますが、以後は栖本氏は上津浦氏との続く抗争に発展。。。
天文20年(1551年)上津浦氏は天草・大矢野と連合し栖本氏を攻撃。これには有馬氏も援軍を送っています。弘治2年(1556年)棚底城を奪還され上津浦氏の攻勢に敗れ領内の浦々を攻撃されています。
栖本氏は、人吉の相良氏に援軍を求めましたが、上津浦氏は天草・志岐氏と連合して再び栖本を攻撃☆戦いは栖本氏の劣勢で、相良氏の援軍も上津浦氏の攻撃を受けて敗戦…。。
しかし、相良氏の援軍は続々と栖本に到着し、さらに天草氏との間に和議が成立しました♪
しかしながら上津浦氏の栖本攻撃は続けられ、戦いは決着が付かないまま、次は栖本氏の上津浦氏に対する反撃が開始されていますが、しかし、上津浦氏を攻略する事叶わず、戦いは膠着状態となっています☆その後、相良氏の援軍が引き上げた事により上津浦氏が攻勢に出てきました☆これに対し栖本氏は天草氏と結んで反撃、戦いは再三行われました。

永禄元年(1558年)天草勢が上津浦を攻撃していますが敗戦☆勢いにのる上津浦氏は、翌、永禄2年(1559年)栖本氏を攻撃してきました☆翌、永禄3年(1560年)にも栖本氏は上津浦氏の攻勢に晒されました☆不安定な情勢の中、天草進出を目論む肥前・島原の有馬氏が上津浦に出陣し、更には栖本に着陣しています☆これをみた人吉・相良氏も、天草に兵を送っています☆戦況不利と悟った有馬勢は上津浦で戦うも結局、兵を引き上げています。。

やがて、永禄8年(1565年)栖本氏は志岐氏と和睦♪ところが、上津浦氏、天草氏、大矢野氏らが連合して志岐氏を攻めた為、栖本氏は上津浦氏と合戦となりました。相良氏は栖本氏を支援し兵を派遣しますが、上津浦氏は栖本の内河内を攻撃。その一方で、天草氏・志岐氏、さらに人吉・相良氏との間で和平交渉が行われ、和睦が成立しています♪そして、翌、永禄9年(1566年)栖本氏と上津浦氏の和議が進められ、長きに渡って行われた抗争に終止符が打たれました♪

2021年04月27日 榎晴信肥後守


栖本城は湯船原城とも呼ばれ天草五人衆の一人栖本氏代々の居城でした。
天草五人衆の上津浦氏と争いを繰り返し棚底城を取ったり取られたりしています。
秀吉の九州討伐後も本領安堵されていましたが小西行長の宇土城普請を拒んで他の天草衆とともに小西行長、加藤清正に攻められ降伏しました。

現状は本丸は公園になり東側の一段下がった二の丸には水道の施設が造られています。さらに東側に一本の堀切が残ってます。

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