名護屋城(なごやじょう)

名護屋城の基本情報

通称・別名

名護屋御旅館

所在地

佐賀県唐津市鎮西町名護屋3673

旧国名

肥前国

分類・構造

梯郭式平山城

天守構造

望楼型[5重7階/1592年築/解体(廃城)]

築城主

豊臣秀吉

築城年

天正19年(1591)

主な改修者

主な城主

豊臣氏

廃城年

慶長3年(1598)

遺構

曲輪、石垣、横堀(空堀)、井戸跡

指定文化財

国特別史跡(名護屋城跡並陣跡)

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

唐津城(佐賀県唐津市)[13.3km]
日本山城(長崎県松浦市)[16.4km]
青山城(佐賀県唐津市)[19.0km]
鬼ヶ城(佐賀県唐津市)[19.9km]
梶谷城(長崎県松浦市)[21.3km]
岸岳城(佐賀県唐津市)[21.9km]
二丈岳城(福岡県糸島市)[24.4km]
日在城(佐賀県伊万里市)[26.2km]
親山城(福岡県糸島市)[28.2km]
伊万里城(佐賀県伊万里市)[28.2km]

日本100名城・続日本100名城スタンプ情報

番号・名称

87 名護屋城

設置場所

佐賀県立名護屋城博物館[地図

名護屋城の解説文



名護屋城(なごやじょう)は、佐賀県唐津市〈旧東松浦郡鎮西町・呼子町〉、東松浦郡玄海町(肥前国松浦郡名護屋)にあった日本の城。太閤豊臣秀吉が文禄の役を始める前に築かせた。現在、国の特別史跡に指定されている。平成18年(2006年)には日本100名城(87番)に選定された。

概要 

名護屋(古くは名久野)は海岸線沿いに細長く広がる松浦郡の北東部の小さな湾内に位置し、中世には松浦党の交易拠点の一つであった。ここにはもともと松浦党の旗頭・波多氏の一族である名護屋氏の居城、垣副城があったが、豊臣秀吉は大陸への侵攻を企図した際、ここを前線基地として大掛かりな築城を行った。

名護屋城は波戸岬の丘陵(標高約90メートルほど)を中心に170,000平方メートルにわたり築かれた平山城の陣城である。五重天守や御殿が建てられ、周囲約3キロメートル内に120ヵ所ほどの陣屋がおかれた[1]。 城の周囲には城下町が築かれ、最盛期には人口10万人を超えるほど繁栄した。

秀吉の死亡後、大陸侵攻が中止されたために城は廃城となったと考えられており、建物は寺沢広高によって唐津城に移築されたと伝わる[2]。石垣も江戸時代の島原の乱の後に一揆などの立て篭もりを防ぐ目的で要所が破却され、現在は部分が残る。歴史上人為的に破却された城跡であり、破却箇所の状況が復元保存されている[3]

  • 大正15年(1926年)11月4日、「名護屋城跡並陣跡(なごやじょうあとならびにじんあと)」として国の史跡に指定される。
  • 昭和30年(1955年)8月22日特別史跡に指定された。
  • 平成18年(2006年)4月6日、日本100名城(87番)に選定され、平成19年(2007年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された
明治時代頃の県の古地図には、すべて名護屋の地名は“名古屋城”、“名古屋浦”、“名古屋村”と表記されており、特に正式な公文書では名古屋と書くのが通例だったのが、大正からは“名護屋”と変化している。この元の地名の名護屋は、秀吉の出身地の名古屋と音が同じだったため築城場所に選んでいる。最初は名古屋城とは先に完成した肥前名古屋城の方を指した。秀吉死後に家康の江戸時代が始まるとすぐに城を破壊されて城自体はなくなり、いち早く江戸の将軍自ら尾張に音の同じ名古屋城が築城され、段々と尾張名古屋城名古屋城としてあまりにも有名になった。ここに住む者達はその抵抗はあったか不明だが、歴史的経緯や地名はずっと慣れた名古屋の書き名を使い続け、一部の人の中で名古屋城は2つ混在しつづけ、徳川家が築城した尾張名古屋城による知名度の高まりで尾張名古屋城の認知度が全国的に一般的に波及しつつも、県地域の人々によって名古屋という地名の継承が守られ続けた。一方で、秀吉のいた時の出身故郷の名古屋は人口も少ない村だったが、明治の廃藩置県によって県名の名古屋県や愛知県庁所在地の名古屋市を設置し、名古屋というと国内のみならず世界でも通用する地名度と人口は爆発的に増えて押しも押されぬ巨大都市へと急成長して有名になりすぎた名古屋城への遠慮や、更には陸軍省の所管となった後に宮内省の所管となり名古屋離宮として大地震被災後も宮内庁によっって国費を投じて文化財として永久保存が決定しそのため修復される[4](後には旧国宝第一号に設定となる)など、天下人の城よりも更に上の天皇所有の城となったことへの配慮など、そのようなことをきっかけに意思の変貌があったとされ、当時を知る人の時代も変わり、拘りの消失や、同じ名称の混同や誤解を避けて利便性の重視を選んだことで、大正の頃からは元の名護屋の地名に直し(戻し)、現在の名称としてすべて一斉に統一するようになったと考えられる。

黒澤明監督による『乱』(昭和60年(1985年)公開)のロケ地の一つに、名護屋城が選ばれ撮影が行われた。

名称 

史跡名称は、「名護屋城跡並陣跡」であるが、鎮西町教育委員会の堀苑孝志は、陣跡以外の遺物や遺跡の様子から、より包括的な名称として「肥前名護屋軍事都市遺跡」という名称を提唱している[5]

歴史・沿革 

背景

image:名護屋城本丸跡 - panoramio.jpg|thumb|right|名護屋城本丸跡 天正15年(1587年)、豊臣秀吉は九州の役で島津義久を降した後、天正18年(1590年)、小田原の役において奥州伊達政宗を服属させ、北条氏直を降し、徳川家康を関東に移封して天下統一を成し遂げた。国内統一の途中においてすでに秀吉は世界に目を転じており、九州平定以来、「高麗」つまり李氏朝鮮に、服属と明征伐への協力を要請したが、朝鮮は拒絶した。その後も対馬の宗義調らが複数の交渉を重ねるが、朝鮮側は拒絶の意志を変えなかった。なお秀吉は同様に琉球や呂宋や高山国(台湾)にも使者を出した。

築城

宗義智から交渉決裂を聞いた秀吉は、天正19年(1591年)8月、「唐入り」を翌年春に決行することを全国に告げ、肥前の名護屋に前線基地としての城築造を九州の大名に命じた。秀吉は自分の地元那古野と同じナゴヤという地名を奇遇に感じ、城の立つ山の名前が勝男山と縁起がいいことにも気を良くしこの地への築城を決めたのだが、この地の領主であった波多親はこれに反対したため不興をかった。また甥の内大臣豊臣秀次に関白を譲って自らは太閤となった。9月、平戸城主松浦鎮信に命じて壱岐の風本に城を築かせた。その築城の担当は、松浦鎮信、日野江城主有馬晴信、大村城主大村喜前、五島城主五島純玄であった(宇久純玄はこの年、姓を五島に改める)。なお、城跡から出土した瓦に「天正十八年」の銘があるものが発見されたことから、築城開始時期が通説の天正19年より早かった可能性も考えられている。

10月上旬、全国の諸大名が名護屋へ到着し、城普請に取りかかった[6]。『松浦古事記』によれば、20万5,570あまりの兵が高麗へ渡り、名護屋在陣は10万2415兵で、総計30万7,985兵で陣立てされた。

築城に際し、縄張りを黒田孝高、そして黒田長政、加藤清正、小西行長、寺沢広高らが普請奉行となり、九州の諸大名を中心に動員し、突貫工事で8か月後の文禄元年(1592年)3月に完成した。規模は当時の城郭では大坂城に次ぐ広壮なものであった。

ルイス・フロイスが「あらゆる人手を欠いた荒れ地」と評した名護屋には、全国より大名衆が集結し、「野も山も空いたところがない」と水戸の平塚滝俊が書状に記している[7]。唐入りの期間は、肥前名護屋は日本の政治経済の中心となった[8]

作事衆

築城にあたっては本丸数寄屋や旅館などの作事奉行を長谷川宗仁が担当した[9]。大手門は御牧勘兵衛尉が担当し、各所の建築が分担された。

構造 

image:名護屋城馬場跡 - panoramio.jpg|thumb|right|名護屋城馬場跡 本丸・二の丸・三の丸・山里曲輪などを配し、本丸北西隅に望楼型5重7階の天守が築かれた。城跡からは金箔を施した瓦が出土しており、天守に葺かれていたものと考えられている。城郭の周辺には各大名の陣屋が配置された。

  • 本丸は東西五十六間、南北六十一間、総高さ三十二間一尺五寸であった。
  • 乾の角に天守台があり、高さ十五間。海より池まで十二間一尺、池より三の丸まで十四間三尺五寸。三の丸より本丸まで五間三尺五寸、以上右高さ也。池の長さ百六十三間也、巾十一間より三十一間まであった。

  • 二ノ丸は、東西四十五間、南北五十九間。掘立柱の長屋跡が発掘されたが、これは築城時の小屋であったと推定されている。
  • 遊撃曲輪は、東西廿六間、南北二十四間。門の礎石が発見されている。
  • 弾正曲輪は長さ九十五間、横四十五間又三十間。
  • 水ノ手曲輪は十五間四方。本丸等から流れ出る水をこの曲輪に集めたと伝わり、水関連の施設があったとされる。
  • 山里曲輪は東西百八十間、南北五十間横ニ廿間四方。茶室等があったとされる。
  • 城の廻りは十五町、城への入口は五ヶ所あり、大手門、西ノ門、北ノ門、舟手門、山里通用門だった。
  • 三ノ丸は、東西三十四間、南北六十二間。
  • このほか、腰曲輪・小曲輪・合而十一曲輪であった 。
完成後も度々改築を繰り返したとされ、本丸西側は築城後に石垣部分を壊すことなくそのまま埋め立てて増築された事が判明し、旧石垣も発掘展示されている。三の丸櫓台北側では築城後に改造を受けて門が設置され、その後また撤去された事が発掘調査で判明している。 本丸大手、大手口、東出丸周辺も構造や櫓、城門に大きな相違が見られ、残された「肥前名護屋城図屏風」の二枚とも、現状と異なる部分が確認されている。

出兵後 

西国衆を中心に総勢15万8,000の兵が9軍に編成され、4月1日(5月12日)に小西行長・宗義智率いる第一陣が朝鮮半島へ出兵したのを皮切りに、名護屋を出発した諸隊は壱岐・対馬を経て朝鮮に渡っていった。秀吉は京都聚楽第を3月26日(5月7日)に出発し4月25日(6月5日)に当地に到着している。以後大政所の危篤時を除いてこの地が本営となる。在城中、秀吉は渡海した諸将に指示を出す一方で、山里曲輪に築いた茶室で茶会を楽しんだり、瓜畑で仮装大会を催したりした。文禄の役では最終的に、20万以上の兵が名護屋から朝鮮に渡った。当地には西国衆の渡海後も、東国衆と秀吉旗本衆の約10万の兵が駐屯している。多くの人員を養うには水源が足りなかったようで、水不足が原因の喧嘩が絶えなかったという。

朝鮮半島で戦線が膠着すると、翌文禄2年(1593年)4月には講和交渉が開始されるが、交渉が破談すると秀吉は、再び慶長2年(1597年)2月から14万人を朝鮮半島へと上陸させた。

この慶長の役でも、補給・連絡の中継地として名護屋は重要な役割を果たした。慶長3年8月18日(1598年9月18日)、秀吉が没したために全軍撤収し、名護屋城もその役割を終えた。出兵の期間中、秀吉が当城に滞在したのは延べ1年2か月であった。

文禄・慶長の役以後

朝鮮撤退後、この地は寺沢広高の治めるところとなった。関ヶ原の戦いの後、慶長7年(1602年)、広高は唐津城の築城を開始した。この際に名護屋城を解体し、その遺材を使用した。これ以降に、二度と城が利用できないように、要となる石垣の四隅を切り崩すなどの作業が行われたが、その理由と時期については明確でない。

岸田家文書によると、島原の乱直後に巡検した江戸幕府老中の指示で、一揆が起こった際に名護屋城が利用されないように破却したと記録されている。また、それ以前の一国一城令を受けての破却とも、名護屋城を破壊することで幕府が明国や朝鮮と関係を改善する意思表示をしたとの見方もある。また、大手門は伊達政宗に与えられ、仙台城に移築されたと伝わっている。

陣屋跡 

image:Hizen Ngayoya Zyou Zinzu.jpg|thumb|360px|『西肥名古屋城豊太閤陣営図』 『松浦古事記』には「諸大名陣場之事」として102人の武将の陣所の所在地が描かれているが、現在、名護屋城周辺には118ヵ所の陣跡が確認されており、うち65ヵ所に遺構が残っている。特別史跡に指定された陣跡は以下の23箇所。

  • 生駒親正陣跡
  • 上杉景勝陣跡
  • 片桐且元陣跡
  • 加藤清正陣跡
  • 加藤嘉明陣跡
  • 木下利房陣跡
  • 木下延俊陣跡
  • 木村重隆陣跡
  • 九鬼嘉隆陣跡
  • 黒田長政陣跡
  • 小西行長陣跡
  • 島津義弘陣跡
  • 伊達政宗陣跡
  • 徳川家康陣跡
  • 徳川家康別陣
  • 豊臣秀保陣跡
  • 鍋島直茂陣跡
  • 長谷川秀一陣跡
  • 福島正則陣跡
  • 古田織部陣跡
  • 堀秀治陣跡
  • 前田利家陣跡
  • 毛利秀頼陣跡

復元計画 

1956年に発足した鎮西町の初代町長、名古屋経一が農漁業中心の町を活性化するために必要として識者と協議し「名護屋城天守閣復元計画」を作成し、1962年に佐賀県教育委員会を通して国に復元許可を申請した。しかし国は天守閣の存在を示す確かな証拠がないとして却下した。このことに対し当時の役場職員は「国や県の役人が『歴史的な背景もあり難しい』と言っていた。あの時代、朝鮮侵略を掲げた拠点を盛り上げることはできなかったのだろう」「実際に町には計画に反対の声が多数寄せられた」と述べ、朝鮮民族に対する配慮が背景にあったと推察している[10]

その後、1976年から数十年にかけて行われた発掘のデータと狩野派の絵師、狩野光信による「肥前名護屋城図屏風」を基に、西和夫神奈川大学名誉教授による監修の下、天守や本丸の設計図を書き起こしCG化。2015年にタブレット端末等を用いて再現CGを見ながら名護屋城跡を散策できる「バーチャル名護屋城」のサービスを開始した[11]

関連施設 

  • 佐賀県立名護屋城博物館が隣接している。

参考文献 

  • 【書籍】「定本 日本城郭事典」

名護屋城の口コミ情報

2024年10月06日 龍馬備中守【】
氏家行広陣[名護屋城  周辺城郭]



佐賀県唐津市の名護屋にある【氏家行広陣】♪足利義昭陣の真横、南西側の丘陵地に陣跡は築かれました♪波戸岬少年自然の家の辺りに築かれていました♪写真はほぼ無いですw

氏家行広は氏家氏の14代当主です♪父である氏家直元が伊勢長島攻めで戦死した後に、家督は兄・直昌が継ぎ、引き続き織田信長に仕えています♪本能寺の変で織田信長が倒れると、秀吉に従っています。兄の氏家直昌が病死してからは、行広が当主となっています♪
天正18年(1590年)、小田原征伐などで軍功を挙げ、同年には伊勢国桑名2万2000石に加増移封されました♪

文禄・慶長の役の際の氏家行広は、伊勢国桑名二万二千石の大名として参陣しています♪隣接して、弟の氏家行継の陣があります♪現在は少年自然の家の敷地になっている為、よく分かりませんが、発掘調査では裾部に溝(堀)を巡らせた丘陵地に、20棟以上の長屋構造の掘立柱建物群や、トイレ遺構などが発見されています♪堀秀治陣や豊臣秀保陣で発見されている、御殿建築の礎石とは異なる、兵舎的な機能が推定されています♪

さて♪秀吉死後の慶長5年(1600年)の会津征伐では、徳川家康軍に合流する為に東向中でありましたが、道中で石田三成挙兵(関ヶ原の戦い)の報を聞くと、家康に断りを入れた上で伊勢に帰還しています。豊臣秀頼が幼少である事を理由に、家康方・三成方いずれにも呼応せず、中立の立場を取りました。しかし桑名に西軍勢力が及んできた為に、中立の立場を維持できず、やむなく弟の氏家行継と共に西軍に与し、伊勢路を防衛しています。関ヶ原の戦い後、東軍が勝利すると家康の命で改易され、浪人になっています。。慶長19年(1614年)、大坂冬の陣では荻野道喜と変名を用い、大坂城に入城し豊臣氏に与して活躍しました♪家康は氏家行広の器量を惜しんで仕官を呼びかけましたが、応じなかったと伝わります。翌年の大坂夏の陣の際に、大坂城落城と共に自刃しちゃいました…。。

1つの判断や行動でその歴史が変わる…。
もしあの時、判断を東軍に与していれば…
士官の呼び掛けに応じていれば…
氏家行広の運命もまた違ったものになっていたのでしょうね。日常的な大小の出来事でも日々こういった事ってあるんだろうなぁと思うと日々を大切にしたいなぁ〜と考えさせられました♪

2024年10月05日 龍馬備中守【】
足利義昭陣[名護屋城  周辺城郭]



佐賀県唐津市の鎮西町名護屋にある【足利義昭陣とNO.127陣】♪名護屋城からは北側の、小高い丘陵地の上、現在『少年自然の家』がある場所が足利義昭の陣跡となります♪石塁が残っているとされていますが現在、自然の家がある為よく分かりませんでした♪南側の丘陵地は氏家行広陣、丘陵地の下には蒲生氏郷陣、直ぐ東側には誰の陣か不明とされている『NO.127』があります♪名護屋城を密集して取り巻く、陣所の一陣となっています♪

足利義昭は、室町幕府第15代征夷大将軍として有名ですね♪そして、室町幕府の最後の将軍でもありました。
織田信長に擁されて上洛し、第15代将軍に就任していますが、その後に信長とは対立し、武田信玄や朝倉義景、浅井長政らと呼応して信長包囲網を築き上げています。一時は信長を追い詰めもしますが、やがて京都から追われていき、室町幕府の滅亡という物語りを辿っていく武将です。京都を追われながらも、将軍としての活動は続けていき、毛利元就に庇護を受けながら鞆幕府(鞆の浦)を作り信長に対抗していきました。信長死後は、着実に力を付けていく豊臣秀吉から、山城国槙島に1万石の所領を認められ、事実上、秀吉に従っています。
従っているという表現が良いのか?庇護を受けたという表現が良いのか??難しい所です。但し、前将軍としてその待遇は特別だった様です♪

そんな足利義昭も、文禄の役では、秀吉の要請によって名護屋城に在陣しています♪
足利義昭は慶長2年(1597年)、大坂で亡くなっていますが。。老齢で肥前まで出陣したのが身にこたえたのでしょう…。

あまりにも写真がない為、『NO.127』の写真も上げておきます♪誰の陣かは不明ですが、石塁の残片が残っていました。

2024年09月30日 龍馬備中守【】
増田長盛陣[名護屋城  周辺城郭]



佐賀県唐津市の鎮西町波戸にある【増田長盛陣】♪波戸の西側、前線の高台が陣所の場所です♪現在は国民宿舎に隣接する、駐車場の西側に陣所は構えられていました♪

さて♪この増田長盛ですが、秀吉による中国攻めや、小牧長久手の戦いなど多くの戦に従軍し、活躍しています♪特に外交交渉などに手腕を発揮しており、豊臣政権下では五奉行の1人として有名で、内政面を支えました♪

文禄・慶長の役前後の動きですが、天正18年(1590年)、小田原征伐で里見義康担当の申次となり、安房国で差出検地の施行と、知行宛行状の発給を行っています♪後北条氏が滅亡すると、さらに下野・常陸・安房の大名に対する、豊臣政権の取次となっています♪この年、京都の三条橋を架けたりもしています♪その後、近江水口城を与えられ、翌年の天正19年(1591年)、長束正家と共に近江国で検地を行っています♪

文禄元年(1592年)、文禄の役では、石田三成・大谷吉継と共に朝鮮に渡り、漢城に駐留。
奉行として占領地統治や、兵站に携わるなど活躍しています♪増田長盛は三千騎を持ち、碧蹄館の戦いや幸州山城の戦いにも参加しています♪
文禄4年(1595年)、豊臣秀次が秀吉の命で切腹する『秀次事件』が起きると、長束正家と共に、秀吉との間に対立が生じた豊臣秀次の老臣を糾問するなどしています。文禄5年(1596年)には、サン=フェリペ号事件の処理で、積荷没収のために土佐に派遣されています。
秀吉に忠実に従った増田長盛であります♪

関ヶ原の戦いでは西軍側として活動を行い、西国大名に西軍加担を要請する文書を送るなど、精力的に活動しました。が、しかしその一方で、石田三成と大谷吉継の謀議があった事などを、家康の元にただちに密告したり、中々の食わせ者な一面を見せています。

関ヶ原の戦いには参加せずに、毛利輝元と共に大坂城守備部隊として、西の丸に兵3000を率いて駐屯。東軍の勝利が確定すると、出家し謝罪。大坂城の西の丸で沙汰を申し渡され、改易となっています。
家康はこの一連の動きから、増田長盛の豊臣家に対する強い忠誠心や、表裏者としての一面を警戒したのでしょう。その後、高野山に追放された増田長盛は、現さいたま市の岩槻城の城主・高力清長に預けられています。
元和元年(1615年)に勃発した『大坂夏の陣』では、息子の増田盛次が大坂城に入城していた事が発覚。この件について家康に咎められ、増田長盛は責任を取って自刃。71年の生涯に幕を閉じています。。

2024年09月29日 龍馬備中守【】
北条氏盛陣[名護屋城  周辺城郭]



佐賀県唐津市の鎮西町波戸にある【北条氏盛陣】♪波戸の先端部の高台に立地している、北条氏盛陣です♪生駒親正陣が東側にあり、西側には増田長盛陣があります♪北条家と云えば相模国・小田原を本貫地とした名族です♪
そんな北条氏もまた小田原征伐後に豊臣秀吉に下り、従い、遠く朝鮮半島を見据える為、名護屋の地に陣所を設けております♪

この陣城を築いた北条氏盛♪北条氏盛は北条氏康の五男である北条氏規の嫡男ですが、従兄の後北条氏5代目の当主・北条氏直と徳川家康の次女・督姫の養子となっています♪秀吉の小田原征伐によって、後北条家は滅亡。その後、養父である北条氏直(征伐後に一命を助けられたのは徳川家康のお陰)に随行し、父・北条氏規と共に高野山(蟄居の為)に向かいました。北条家は、のちに豊臣秀吉に許しを得ています。

天正19年(1591年)、養父・北条氏直が病死すると、遺領である下野4千石の所領を与えられ、北条家は存続しています♪翌年の天正20年(1592年)、朝鮮出兵で肥前名護屋に従軍し在陣しています♪北条氏は小田原征伐の際に、豊臣秀吉にボロボロにされていますが、蟄居を許された後は、旗本家臣として存続。北条氏直は1万石、北条氏規は7000石を拝領されています♪養父である北条氏直は、文禄・慶長の役の前に逝去。北条氏盛は本家・北条氏直の後継と認められ、下野4000石を拝領しています♪

やがて慶長5年(1600年)、父・北条氏規の死去に伴い、河内7000石の継承が許され、自領の下野4000石と合わせて1万1千石の大名となっています♪江戸時代には、河内国狭山藩初代となりました♪北条氏盛は文永の役に続き関ヶ原合戦にも、東軍の将として参戦していますが、慶長13年(1608年)、大坂で亡くなっています。。

北条氏盛の子・2代目の北条氏信は大坂狭山へ移り、陣屋を構築♪明治維新まで、北条家は12代に渡り続きました♪最後の藩主・北条氏恭は、明治天皇の侍従を務めています♪

北条氏盛陣には石塁、削平地、旗竿石がありました♪因みに実父である北条氏規も名護屋に陣を張っています♪

2024年09月28日 龍馬備中守【】
佐竹義宣陣[名護屋城  周辺城郭]



佐賀県唐津市の鎮西町波戸にある【佐竹義宣陣】♪波戸の東側で、海に突き出た小山の上が佐竹義宣陣と伝わります♪現在、天狗神社の境内となった岬の上に築かれています♪

文禄・慶長の役の付近の佐竹義宣の動きは、小田原征伐時に秀吉の元に参陣したことです♪天正18年(1590年)、石田三成の指揮の下、忍城を攻めています。佐竹義宣は秀吉自らが京を出立したという知らせを受け、下野国・宇都宮国綱に対応を相談した上で、宇都宮国綱らを含めた1万余の軍勢を率いて小田原へ向かっています。佐竹義宣は北条方の城を落としつつ、小田原へ進軍。秀吉に謁見して臣下の礼を取りました♪佐竹義宣は得意の土木量を持って、忍城水攻めの際の堤防構築に従事しています♪

小田原征伐後の佐竹義宣は、伊達政宗と争奪戦を繰り広げていた南奥羽(滑津、赤館及び南郷)について秀吉から知行として認められ、奥州仕置の後、本領である常陸国(結城氏領を除く)及び下野国の一部、計21万貫余(35万石余)を安堵する旨の朱印状を与えられています♪是にて、秀吉にお近づき成功した佐竹家でありました。

知行を安堵された佐竹義宣は、秀吉の権威を笠に、江戸氏・常陸南部に割拠する大掾氏配下の国人領主達(いわゆる南方三十三館、主として鹿行両郡の塚原氏・行方氏・卜部氏・麻生氏・鹿島氏など万石未満の土豪)を討伐するなど領主権力の強化を進め、常陸国全域の支配権確立に成功しています。天正19年(1591年)には秀吉から羽柴姓を与えられています♪

文禄の役が始まる前の年、天正19年(1591年)、秀吉が唐入りの為に各国大名に出兵を命じ、佐竹義宣も5千人の出兵を命じられました。この軍役は文禄元年(1592年)翌年の文禄2年(1593年)まで続き、当初の5000人の軍役は途中で3000人に軽んぜられ『御軍役弐千八百六十九人』と名護屋陣中より報告されています。
佐竹義宣は文禄元年(1592年)、常陸国・水戸を出発し、名護屋城に到着しています♪文禄2年(1593年)、朝鮮へ渡るよう命じられ、先陣の佐竹義久が1440人を率いて名護屋を出航しています。しかし、佐竹義宣に対して渡海を見合わせる様に連絡があり、佐竹義宣は遂には、朝鮮に渡る事はありませんでした。

2024年09月21日 龍馬備中守【】
生駒親正陣[名護屋城  周辺城郭]



佐賀県唐津市の鎮西町波戸にある【生駒親正陣】♪文禄・慶長の役の際に名護屋城を築いた豊臣秀吉ですが、この名護屋城を取り巻く陣城群の1城となります♪生駒親正といえば、豊臣政権の三中老の1人として有名です♪
当初の主君は織田信長でありますが、後に豊臣秀吉、子の秀頼と主君が変わっています♪

織田信長時代の永禄9年(1566年)、織田信長の美濃攻めに際して、その臣下となっています♪その後は羽柴秀吉付属の武将に任じられ、各地を転戦。金ヶ崎の戦いや、長篠の戦い、石山本願寺攻め、紀伊国雑賀攻めなどに参加しています。
天正10年(1582年)、信長死後は秀吉の家臣となった生駒親正ですが、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、小田原征伐、そして文禄の役などに参加して活躍をしています♪姫路城主時代の秀吉に仕えていた天正6年(1578年)、約1000石から始まり、天正12年(1584年)に2000石加増♪天正13年(1585年)に2万3500石、更に天正14年(1586年)、播磨国加里屋6万石と、着々と知行を増やしていった実力者であります♪

生駒親正は文禄の役の時には讃岐国・高松城主として、17万3千石の大名となっています♪
文禄の役では五番隊として、福島正則、長宗我部元親らと共に渡海し戦っています。

生駒親正陣は現在、波戸岬海浜公園として利用され、石塁を残しています♪北側には玄界灘が広がり、天気が良ければ、遠く壱岐も望めます♪

2024年09月16日 星穏
長宗我部元親陣[名護屋城  周辺城郭]



長宗我部元親は豊臣秀吉の四国征伐に降伏した後の文禄元年元親54歳の時、朝鮮出兵に従軍しました。

文禄の役では五番隊として福島正則らとともに三千の兵を率いて朝鮮に渡海しています。漢城が陥落した後元親は南朝鮮方面を転戦しますが、義軍の抵抗や土佐に比べて厳寒な朝鮮の気候などに苦戦を強いられたと思われます。そのような状況の中でも元親は秀吉への奉仕を忘れず、加徳島在城中に皮付きの樟木三百本、大竹三百本を大阪へ送り秀吉をうならせています。慶尚道晋州城の戦いで元親軍は1300の首級をあげたとされます。その後元親は土佐へ帰国しますが、朝鮮に残っていた弟の香宗我部親泰が病死。元親の四国統一事業当初から片腕となりともに戦ってきた親泰を失ったことは、元親にとってかなりの痛手となりました。

帰国後も出兵の準備を整えていた元親は、慶長二年59歳となり、出兵に先立ち「長宗我部元親百箇条」を定めています。その後再び三千の兵を率い藤堂高虎らとともに六番隊として慶長の役に従軍しました。釜山到着後、全羅道の経略をめざし加藤清正らとともに黄石山城を攻めて陥落させました。その後、島津氏の番城である泗川城の普請に加わっています。慶長三年、秀吉の帰朝命令により帰国しました。

元親陣屋跡は、名護屋城の南東(現住所で佐賀県唐津市鎮西町名護屋2010)にあります。小高い丘陵地に築かれ、曲輪と石垣が確認できるそうですが、現在は竹藪となっており確認できませんでした(丘陵の麓に石垣を発見しましたが当時のものかはわかりません)。元親陣屋跡を示す標柱は、なぜか「阿波 徳島」となっていました⋯
今後、調査・整備が進むのを期待します。

最後に、一つ気になったことが⋯
豊後戸次川の戦いで嫡男信親を失った時の豊臣方の軍監であった千石秀久の陣屋跡が、元親の陣屋跡とかなり近かったこと。元親は何か思うことがあったのでしょうか⋯

2024年07月07日 龍馬備中守【】
伊達政宗陣[名護屋城  周辺城郭]



佐賀県唐津市の鎮西町にある【伊達政宗陣】♪名護屋城を取り巻く150余の陣跡の一陣となります♪ 『はじまりの名護屋城』というイベントに出陣♪今回の陣跡は伊達政宗陣で一旦終わりです♪

伊達政宗と言えば『独眼竜』として有名ですね♪出羽国、陸奥国を中心とした奥州伊達家の第17代当主であります♪近世大名としては、仙台藩の初代藩主でもあります♪説明は要らないですねw

伊達政宗陣という交差点がある位、人気な伊達政宗です♪この交差点の北側の高台(標高48m程)に陣跡は立地しました♪北側には藤堂高虎、来島通之の陣が、南側には毛利秀頼、西側には黒田長政陣が隣接します♪

文禄2年(1593年)秀吉の文禄の役に従軍しています♪伊達政宗と言えば、華があると言うか、派手なイメージ?がありますが、この文禄の役の従軍時には政宗が伊達家の部隊に誂えさせた戦装束は非常に絢爛豪華なもので、上洛の道中には忽ち噂となっています♪
1500兵とも3000人の軍勢であったとも記録が残ります♪他の軍勢が通過する際、静かに見守っていた京都の住民達も伊達勢の軍装の見事さに歓声を上げたと云われます♪これ以来、派手な装いを好み着こなす人に対して『伊達者』の由来になったと云われています♪
朝鮮半島では、明との和平交渉中の日本軍による朝鮮南部沿岸の築城に際し普請を免除されていたにもかかわらず秀吉からの兵糧の支給を断って積極的に参加するなどして活躍しています♪慶長の役には参加していません。

中央で活躍した戦国大名オールスターズの陣城が名護屋で見れるってのは、凄く魅力的であります♪

2024年07月05日 龍馬備中守【】
徳川家康陣[名護屋城  周辺城郭]



佐賀県唐津市の鎮西町にある【徳川家康陣】♪名護屋城を取り巻く150余の陣跡の一陣となります♪ 『はじまりの名護屋城』というイベントに出陣♪

徳川家康と言えば三河国の国人土豪・松平氏の内、安祥松平家の家柄であり、織田信長、豊臣秀吉と並び三英傑の1人として、天下人となり、徳川幕府の母体を築いた超有名武将ですね♪

徳川家康は、2つの陣を構えていて、1つは呼子殿ノ浦に構えた『別陣』と名護屋城の西側、竹ノ丸と呼ばれる場所に築かれた『本陣』♪
名護屋城に、2つの陣を構えた例は大和中納言秀保陣のみであり、中々珍しいケースとなっています♪名護屋浦の開口部の西岸に立地した、徳川家康陣は名護屋浦を守備する重要な役割を担いました♪

徳川家康が約1万5000人の兵を率いて名護屋城に滞在したのは、1592(文禄元)年4月から1年4か月間とされます♪江戸の留守居は三男の秀忠に任せています♪当時の徳川家康は242万石の大名で、豊臣秀吉に次ぐ実力者でありました♪名護屋城本丸の北東『竹ノ丸』と呼ばれる場所に陣を置き、その東、名護屋浦を挟んだ対岸の呼子町殿ノ浦に別陣を築いています♪
名護屋に滞在中、徳川家康は渡海する事はなく陣に留まり講和交渉に訪れた明の使節の応接を前田利家と共に担当したと云われています♪

石積み、高まる徳川家康陣(竹ノ丸)下は空堀が掘られていました♪現在は道路になっています♪北側には切通しがあり、名護屋浦へ直ぐに出れそうです♪

2024年07月03日 龍馬備中守【】
伊藤盛景陣[名護屋城  周辺城郭]



佐賀県唐津市の鎮西町にある【伊藤盛景陣】♪名護屋城を取り巻く150余の陣跡の一陣となります♪

伊藤盛景は美濃国•舟岡城主の伊藤祐重の子で、豊臣秀吉に仕えています♪天正18年(1590年)小田原の役に従軍していて、秀吉本陣の前備衆の1つで、320人を率いた武将です♪その後は3万石に加増され、美濃国・大垣城を与えられています♪

伊藤盛景は天正20年(1592年)名護屋城普請と、文禄3年(1594年)の伏見城普請工事に携わりました♪文禄の役では名護屋在陣衆として1000人余兵を率いて滞陣しましたが、朝鮮へは出征していません。

この伊藤盛景の死後、子である伊藤盛正は関ヶ原の戦いで西軍に付いています。本城の大垣城を本陣にしたいと石田三成から要請を受けましたが、コレを一度は拒否しますが、後に大垣城を明け渡し、美濃国・今村城に退去しています。

関ヶ原本戦では、松尾山城に陣するも、小早川秀秋によって追い出され戦後、改易され没落しちゃいました。その後、京都で浪人をしている時、徳川家康に見つかり殺されそうになった所を、福島正則の懇願により助けられ、往時の福島正則の領地・広島で15年程滞在しました♪関ヶ原の戦いから20年後の元和6年(1620年)加賀藩へ移り、前田利常に仕えました。

2024年07月01日 龍馬備中守【】
真田昌幸陣[名護屋城  周辺城郭]



佐賀県唐津市の鎮西町にある【真田昌幸陣】♪名護屋城を取り巻く、150余の陣跡の一陣となります♪『はじまりの名護屋城』というイベントに出陣♪

真田昌幸と言えば、甲斐国・武田家から始まり、信長、北条家、家康、上杉家、豊臣秀吉、秀頼と、主君を変え風向きを読む様は、『表裏比興の者』として有名過ぎます♪この表裏比興とは食わせ者・老獪の意で、武将としては最高の褒め言葉です♪真田昌幸は第四次川中島の戦いや、武田信玄の小田原攻め、天正壬午の乱、家康との戦い、関ヶ原の戦いなど、かなりの戦に出陣している猛者中の猛者でもあります♪
上田合戦では2度にわたり徳川軍を撃退した事で、徳川家康を大いに恐れさせた逸話で知られています♪結果的に、第二次上田合戦の際には真田家の生き残りを賭けて、嫡男の信幸を東軍へ、真田昌幸と次男の真田信繁(幸村)を西軍に付かせる犬伏の別れで、関ヶ原の戦い時に真田昌幸は西軍に付いた為に改易されています。その後は慶長16年(1611年)九度山で病死してしまいました。

文禄・慶長の役の際はこの名護屋の地で1年余り過ごしていますが、渡海はしていません。
往時の真田昌幸は信濃国上田3万8千石の大名でありました♪上野国沼田の大名である嫡男の真田信幸も名護屋に陣を張り、弟の信繁(幸村)は秀吉の馬廻衆として名護屋に在陣しています♪真田安房守昌幸は700余兵を引き連れ参陣しました♪

2024年06月29日 龍馬備中守【】
上杉景勝陣[名護屋城  周辺城郭]



佐賀県唐津市の鎮西町にある【上杉景勝陣】♪名護屋城を取り巻く150余の陣跡の一陣となります♪『はじまりの名護屋城』というイベントに出陣♪

上杉景勝と言えば、『御館の乱』で上杉謙信の後継者争いで、勝ち残り上杉家の家督を継いだり、織田家と戦いながら、『本能寺の変』で織田信長が自害した事により、織田軍の北征は頓挫した事で、大戦には成らず、その後は豊臣政権に組み入れられています♪特に越後・佐渡の金銀山の収入は群を抜いており、その支配を任せられたり、小早川隆景の死後は上杉景勝を含む5人の大老は豊臣家五大老として仕えました♪

文禄の役の際には5000兵を率いてココ名護屋に駐屯しました♪太閤・秀吉の名代として家臣の高梨頼親らを伴って朝鮮に渡海しています♪この時に朝鮮半島での日本軍、最前線基地として小早川隆景、小西行長らと共に熊川倭城を築城しています♪

西側には主君を守る様に、直江兼続陣があります♪こちらは未確認であります。

2024年06月27日 龍馬備中守【】
島津義弘陣[名護屋城  周辺城郭]



佐賀県唐津市の鎮西町にある【島津義弘陣】♪名護屋城を取り巻く150余の陣跡の一陣となります♪『はじまりの名護屋城』というイベントに出陣♪

島津義弘は『島津四兄弟(義久、義弘、歳久、家久)』の次男坊です♪戦国時代、薩摩国の島津家といえば、三州(薩摩、大隅、日向国)を統一し、更に九州統一をも目指していました♪九州三強の二角であった肥前国の龍造寺隆信、豊後国の大友宗麟を下し、最後まで豊臣秀吉に抵抗した九州の名族であります♪
豊臣政権に組み入れられた後も、薩摩一国を安堵されています♪

朝鮮出兵の際の島津家は、秀吉の決めた軍役を十分に達成する事ができなかった事と、重臣の1人・梅北国兼が、名護屋に向かう途中の肥後国で反乱を起こしてしまった事(梅北一揆)により、秀吉から不服従姿勢ととられてしまいます。。秀吉は代表として歳久(三男坊)の首を要求し、島津義久が歳久に自害を命じているのは歴史の通りです。。
※梅北一揆は、葦北郡を治める肥後国の熊本城主・加藤清正の朝鮮出征中の隙を突く形で、梅北国兼が佐敷城を占拠したものです。

一方、島津義弘軍の朝鮮出兵での活躍は、慶長3年(1598年)泗川の戦いにおいてです♪朝鮮半島の泗川で、島津義弘が率いる島津軍2千兵(7千とも)が、明の武将・董一元の率いる10万(3万とも諸説あり)明・朝鮮連合軍と戦って撃退しています♪
絶望的な戦力差があったにもかかわらず、劣勢な島津軍は勝利し、その名を轟かせています♪
泗川倭城に籠る島津軍の元へ、明・朝鮮連合軍が攻め寄せます。この戦を一気に終わらせたかった明・朝鮮連合軍は、小西軍の順天倭城、加藤軍の蔚山倭城、更には島津軍の泗川倭城に対して同時攻勢。
この動きを察知した島津義弘は、配下にして守備させていた泗川古城・永春・昆陽・望晋の将兵に、自身の居る泗川新城へ集結するよう命じました。泗川古城の主将には、川上忠実を立てています。この内、泗川古城に配置されていた将兵は撤収する事が遅れた為に、明・朝鮮連合軍に包囲されます。川上忠実は少数ながら頑強に抵抗し、重傷を負いながらも、泗川新城に退却する事に成功しています♪

泗川新城に集結した島津軍は徹底抗戦の構えを見せ、泗川新城に強固な陣を張り、伏兵を配置しました。島津軍の得意な釣り野伏せです。
連合軍の攻撃に対し島津義弘は大量の鉄砲を使用したり、鉄片や鉄釘を砲弾の代わりに装填した大砲等も使用しています。

明・朝鮮連合軍の大軍に囲まれた島津軍ですが、籠城戦を決め飛び道具を駆使して、敵軍を集中射撃して凌ぎます。
戦闘が続く中、明軍の火薬庫に引火し爆発。火薬の煙が視野を遮った事で、明・朝鮮連合軍は混乱に陥っています。
この機に乗った島津軍は、城門を開け放ち打って出ました。島津義弘は伏兵を出動させて、敵の隊列を寸断し混乱させ、義弘本隊も一気に攻勢に転じました。島津義弘、自ら4人斬り、息子・忠恒も槍を受け負傷するも7人斬るなどして、奮戦したと伝わります。釣り野伏せが功を奏し、混乱した明・朝鮮連合軍は壊滅的被害を受けています。島津軍は泗川の平原において勝鬨式を挙行し、戦闘は幕を閉じました。

『鬼島津』の名前は大きく轟いた事でしょう♪
その後も薩摩国の所領は譲らずに、関ヶ原の戦いでは西軍に属し敗戦しながらも、江戸時代、幕末とそのまま薩摩国を安堵をされているのは、島津家の力の強さを物語ります♪
因みに朝鮮出兵では鬼島津では無く、『怕ろし(おそろし)のしまんず』となっています。

陣跡は波多岬の先端、突出した丘陵地に位置します♪東側は増田長盛陣、北条氏盛陣、生駒親正陣、佐竹義宣陣と続きます♪陣跡を区画した石塁が残ります♪

2024年06月25日 龍馬備中守【】
石田三成陣[名護屋城  周辺城郭]



佐賀県唐津市の鎮西町にある【石田三成陣】♪名護屋城を取り巻く150余の陣跡の一陣となります♪豊臣政権下では奉行として活躍し、五奉行のうちの1人として、余りにも有名な石田三成です♪この文禄慶長の役の際も勿論、活躍している石田三成です♪
名護屋城には、秀吉が通る主道、太閤道(唐津〜名護屋城まで)があるのですが、勿論、その太閤道の岐路にあります♪
筑紫広門陣の真北にあり、更に北には結城秀康陣があります♪

石田三成は文禄元年(1592年)からの文禄の役で、朝鮮へ渡海(2000騎)しています♪増田長盛や大谷吉継と共に、漢城に駐留して朝鮮出兵の総奉行を務めました♪文禄2年(1593年)碧蹄館の戦いや幸州山城の戦いに参加し、その後、明軍の講和使・謝用梓、徐一貫を伴って肥前名護屋城に戻るなど、明との講和交渉に積極的役割を果たしました♪

5年後の慶長2年(1597年)慶長の役が始まると、国内で後方支援に徹しています♪その一方で、この年に起きた蔚山城の戦いの際に、在朝鮮の諸将達が独自に戦線縮小を提案したことに激怒した豊臣秀吉が、参加した大名を咎め、所領の一部没収などの処分を下す事件が起こっています。。この事件で石田三成は、豊臣秀吉に諸将達の動きを報告したとされ、黒田長政、蜂須賀家政、加藤清正などとの間に溝を深めていった…とも云われています。。後の石田三成の大坂屋敷を襲撃された『石田三成襲撃事件』や、関ヶ原の合戦などに繋がっていったのでしょう…。。。

さて引き続き慶長の役です♪慶長4年(1599年)予定されていた朝鮮における大規模攻勢では、福島正則や増田長盛と共に出征軍の大将となることが決定していた石田三成。しかし、慶長3年(1598年)豊臣秀吉が没した為に、この計画は実現せず、戦況は変わり、戦争の終結と出征軍の帰国業務に尽力しました。

石田三成陣は現在、私有地となっている為に写真が少なめですw太閤道に面し、高まる丘陵地はやはり、陣所に適した場所なのでしょう♪

『はじまりの名護屋城』という題で、信長の野望?のイベントがやっていた為、行ってみました♪自分は信長の野望はやっていませんが、佐賀県でこの様なイベントをやっているという事が嬉しくって嬉しくって♪

2024年06月16日 RED副将軍
名護屋城



朝鮮出兵に際して太閤豊臣秀吉が築いた巨大な前線基地🏯

日本100名城

1591年に豊臣秀吉により築城。
全国を平定し天下統一を遂げた豊臣秀吉は大明帝国の征服を目指し唐入りを宣言。九州の諸大名に命じて名護屋城を築きました。
対馬の宗義調に命じ、朝鮮への服属受諾交渉と征明への協力交渉を行なわせるも不調に終わったため1592年に文禄の役が開戦。北は奥州から南部信直や津軽為信が参陣し、南は薩摩から島津義弘・島津豊久が参陣するなど全国から160家の戦国大名が集結。名護屋周辺に陣を築き、陣跡は130ヶ所にも及びます。
文禄の役では158,700人、慶長の役では141,500人の兵が渡海したとされ、合計約30万人の大規模なものでした。
開戦から僅か21日で漢城(ソウル)を陥落させる快進撃を見せ、その後も小西行長率いる一番隊は平壌を征服。加藤清正率いる二番隊は朝鮮と明の国境である満州まで攻め寄せます。しかし、朝鮮半島の厳しい寒さと食糧補給が十分行えなかったことにより膠着状態となり士気が低下。両国ともに疲弊し戦いが続くのは得策ではないとし、1593年に講和により休戦となります。
両国の講和交渉担当者(日本:小西行長ら、明:沈惟敬ら)は穏便に講和を進めるため虚偽の相手方の降伏を報告。豊臣秀吉は明降伏という報告を受け、明朝廷は日本降伏という報告を受けていました。自国の勝利を勘違いした豊臣秀吉と明朝廷は強気の交渉を実施。当然に講和交渉が上手くいくはずもなく決裂し、1597年に慶長の役として再開。
全羅道の制圧をし、文禄の役の反省として朝鮮半島沿岸に倭城を築き補給拠点を確保します。
明・朝鮮連合軍は1598年9月に一大攻勢を開始。蔚山、泗川、順天へ総力を挙げた攻勢に出ましたがいずれも日本軍が撃退をしています。
しかし、実は前月の8月に豊臣秀吉が没しており秘匿にされていましたが、国内情勢は不穏なものとなり、ようやく10月に五大老から撤退命令が出て11月に日本軍は退去し終戦。名護屋城も廃城となった様です。
1602年、寺沢広高が唐津に入封し唐津城を築城する際に名護屋城の資材を転用されました。

見所
玄界灘に面する波戸岬の丘陵上に築かれており、陣城とはいえ当時は大坂城に次ぐ規模を誇った巨大な城郭です。
本丸を中心に西下に二ノ丸と遊撃丸、東下に三ノ丸と東出丸、南西に弾正丸・搦手口、北東の麓に山里丸と台所丸を配した縄張りです。
本丸は北西隅に天守台があり、かつては五重の天守が聳えていました。北東と南東に虎口が開口し、南東虎口は大手とされ桝形を形成し見所のひとつです。
北麓の山里丸が豊臣秀吉の居館跡とされ、多重に折れを持つ虎口で防御されています。現在は広沢寺となり、太閤の遺髪塚が残ります。
山里丸の外周は巨大な水堀跡があり、更に北の台所丸を覆うように残ります。

現在は、特別史跡として整備されており名護屋城博物館が併設。かなり立派で充実した博物館ですが駐車場も含めて無料なのが嬉しい。

2024年05月26日 ( *¯ ³¯)っ旦
名護屋城

HPなどにこの城だけで40分〜1時間とか書かれていますけどじっくりと全てを見て回ると私で3時間かかりました。道路周りの石垣、門などを見て回ると4時間〜はかかるのではないでしょうか。

私が時間がかかりすぎるとしても2時間はみている方が良いと思います。

2024年05月03日 noble左近衛大将弥勒菩薩
名護屋城



30年ぶりの訪問。その頃は資料館もなかったのか、あったのか、記憶が…太閤の壮大かつ迷惑な(朝鮮の方にとっては)夢を感じることができます。玄界灘の強い風が心地よい!

2024年03月09日 将門の生首
名護屋城



破城の跡がよく見えます。また天下人秀吉の格に相応しい大規模な枡形虎口が見られます。天守台からは遠く壱岐を望むことができます。周辺陣跡も見所が多いです。

2023年09月08日 天河水式部卿
名護屋城

博多から始発に乗って訪問。先に周辺陣跡もいくつか回るつもりが、本城が巨大であまり回れず。本丸跡に立つと太閤殿はここに安土城でも創りたかったんかなと。城跡及び博物館も手入れが行き届いて見回りやすいです。地元の皆様に感謝です。

2023年08月13日 右大将お屋形様
名護屋城



壮大なる城跡!今まで、七尾・安土・佐和山・石垣山一夜城・月山富田など、他の城跡も良いと思いましたが、今回は関西から来た甲斐有りの城跡でした。そりゃ、そうそうたる戦国大名が集合してる場所だけありますね!陣屋跡まで時間取れません!

2023年07月05日 龍馬備中守【】
木下延俊陣[名護屋城  周辺城郭]



佐賀県の唐津市にある【木下延俊陣】♪リニューアルした名護屋城博物館直結という好立地に陣城は存在します♪装備無しで行けて、陣城とは?と、知識が無い方でも楽しめる場所となっています♪

木下延俊は天正5年(1577年)木下家定の三男として尾張国で生まれています♪
秀吉とは直接的な血の繋がりはありません♪
が、木下延俊は高台院が最も寵愛した甥であります♪父である木下家定は豊臣秀吉の正室である高台院(北政所)の兄です♪

文禄の役頃は播磨国・三木郡の2万石を所領していました♪文禄3年(1594年)には伏見城の築城普請を分担してもいます♪

名護屋城の直ぐ南側にある木下延俊陣は直下にある軍用道(太閤道)を守ったのでしょう♪木下左衛門尉(延俊) 250騎♪

時は進み慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで石田三成が挙兵した際は、木下延俊は姫路城に居て義兄・細川忠興の助言でただちに駿府へ家臣を派遣しました♪そして徳川家康に忠誠を誓い交通の要である姫路城を献じるなど当初より東軍に属しました♪この活躍により豊後国・日出3万石の大名となっています♪

慶長11年(1606年)には木下延俊は江戸城普請に参加していて虎ノ門の石垣工事を指揮しました♪更に慶長19年(1614年)の工事にも加わり合計3度の江戸城普請に自ら参加し、徳川家に忠誠を尽くしています♪
同年の冬の大坂の陣にも徳川方として出陣♪更には夏の大坂の陣にも参陣しました♪

この陣に残る遺構としては敷石建物、玉石敷きなど御殿に関する遺構や雪隠遺構、飛石列などの『茶の湯』に関連する遺構が発見されています♪

名護屋城に行かれた際には是非是非♪

2023年07月02日 龍馬備中守【】
古田織部(重然)陣[名護屋城  周辺城郭]



佐賀県の唐津市にある【古田織部陣】♪武将であり、大名(東大和1万石の大名)であり、茶人で、陶芸家でもあり風流人として有名です♪

名護屋城からやや間隔を置いた、南側丘陵上に立地します♪残る遺構としてはオシャレで(鏡石)素敵な石垣を残していました♪文禄・慶長の役時には、お伽衆として秀吉に従いました♪秀吉が城中で催した茶会などには、積極的に尽くした事でしょう♪

古田織部の軍がどういった形で、この役に参戦したかは不明ですか、『松浦記集成』には300騎を率いて二俣に陣を張ったと記されています☆

古田織部は豊臣秀吉・徳川家康の茶堂、徳川秀忠の茶の湯指南役です♪茶道・織部流の祖でもある茶人で江戸幕府の御茶吟味役♪
利休七哲の1人として千利休の後継者として茶の湯を大成しました♪茶器・会席具製作・建築・作庭など『織部好み』と呼ばれる一大流行をもたらしました♪

2023年07月01日 龍馬備中守【】
豊臣秀保陣[名護屋城  周辺城郭]



佐賀県の唐津市にある【羽柴秀保陣】♪大和中納言秀保の陣城は総石垣で守られています♪

名護屋城からは南西側♪鍋島直茂陣の北側で堀秀治陣の西側に対峙する丘陵上に陣城は存在します♪地元の方々は鉢畠と呼ぶ場所です♪羽柴秀保は、三好吉房の三男で、秀吉の弟・大和中納言秀長の養子です♪大和中納言秀長が死去した後は遺領である大和郡山を治めています☆

羽柴秀保は文禄の役の際の文禄4年(1595年)に16歳の若さで病没していて、慶長の役には参陣していません☆

絵図などにも残されている羽柴秀保陣ですが、現存状況は非常に良く残っています♪
この羽柴秀保陣の絵図は2つ残っていて、松浦記集成の『名護屋城並諸候陣跡之図』と『肥前名護屋城図屏風』があります♪

松浦記集成の絵図には羽柴秀保陣は2つに分かれて、鉢畠に1万騎、更にはその北側の山ノ神という地名の丘陵にも豊臣秀保の中屋敷があります♪豊臣秀保陣は、第一陣、第二陣と分かれていたのかもしれません♪

鉢畠という地名は現在も残っていて、地元では『鉢畠陣』とも通称されています♪
石垣で築かれた枡形虎口は中々大きくて見応えがあります♪

2023年06月30日 龍馬備中守【】
鍋島直茂陣[名護屋城  周辺城郭]



佐賀県の唐津市にある【鍋島直茂陣】♪名護屋城の陣城シリーズとなります♪今回の陣城、鍋島直茂陣は、羽柴秀保陣の南東側の丘陵地、標高70mに存在します♪

串浦のもっとも奥まった場所に立地し、羽柴秀保陣とは同じ尾根続きで直線300m位の場所です♪鍋島直茂は文禄・慶長の役で更に頭角を現した1人でしょう♪この文禄・慶長の役以前より、鍋島家は龍造寺家に変わって佐賀を領知していました♪

鍋島直茂は名護屋城が自分の領地内にある為、その造営に積極的に参加し、この役の際には渡海して武功を立てて豊臣秀吉の信頼を大きく獲得し、勢力を拡大する事に成功しています♪

文禄・慶長の役の出兵の際には龍造寺家臣団を率い、加藤清正を主将とする日本軍の2番隊の武将として参加しています♪
この文禄・慶長の役を経て、龍造寺家臣団の鍋島直茂への傾倒が一層促進されました☆
この時点で龍造寺政家との不和が噂されるようになっていて、文禄4年(1596年)には龍造寺政家の毒殺を企図しているとさえ噂されてしまい、鍋島直茂は噂を否定する起請文を提出しています☆

この文禄・慶長の訳において鍋島直茂は一度も帰国する事なく、慶長2年(1597年)になってから子息の鍋島勝茂と交代で日本に帰国しました♪鍋島加賀守直茂→1万騎♪この戦い後に多くの陶工を連れ帰り、有田焼などの陶磁器の生産を盛んにしました♪

残る遺構としては壇上にした郭の側面に石垣が残ります♪標高70.5m付近の丘陵地を陣城として加工しています♪北から南側にかけて武者走り状の小さい郭を配置し南側(現在畑)にも削平地を付け高低差を造ります♪1万騎を収容する事を考えたら、広く無いとですね♪豊臣秀保陣との間に深い切通しがありました♪方角的には串浦湾に繋がりそうな♪この場所を通り船に乗り込んだのかなぁ〜?妄想が広がりました♪

2023年06月25日 龍馬備中守【】
真田信之陣[名護屋城  周辺城郭]



佐賀県の唐津市にある【真田信之陣(源吾)】♪宅地化、耕地化している場所ではありますが、丘陵地が残り、北には名護屋浦が広がります♪文禄・慶長の役の際には信濃国・真田家も出陣しています♪真田昌幸を父とする、長男・真田信之、次男・真田信繁(幸村)が有名ですね♪

天正17年(1589年)真田昌幸は徳川家康に臣徒した際、家康に出仕します☆
天正14年(1586年)に家康の養女になっていた本多忠勝の娘(小松姫)を妻としていました♪
天正20年(1592年)の文禄の役では名護屋に在陣(700騎で)しましたが、実際は渡海してません☆

文禄3年(1594年)徒五位下、伊豆守に叙任し豊臣姓を賜っています♪
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでは、挙兵した石田三成方には付かず家康に従いました♪関ヶ原の戦いは家康の勝利で終わり、父・真田昌幸の旧領上田を含めて加増され、9万5千石を拝領しています♪この際に『信之』に改名を行いました♪慶長19、20年(1614年)大坂冬の陣・夏の陣では病床にあって、子の真田信吉・信政を参陣させています☆
元和8年(1622年)には信濃国・松代に移封され松代領10万石と沼田領3万石を賜ります♪明暦2年(1656年)松代領を真田信政に、沼田領を信吉の子・真田信利に譲り隠居☆
万治元年(1658年)松代で93歳の生涯を遂げています☆この時代にはかなりの長寿であった真田信之でありました♪

クランクする道は堀切の名残か?怪しい箇所はありますが、耕地化されている為、イマイチ分かりませんでした☆

2023年06月24日 龍馬備中守【】
筑紫広門陣[名護屋城  周辺城郭]



佐賀県の唐津市にある【筑紫広門陣と太閤道(三の城戸周辺)】♪

名護屋城を取り巻く、陣城の中には筑紫広門の陣もあるので、コチラも、まさか…♪凄まじい横堀を演出しているんではないか?どうなっているんだろうか?と思い入城してきました♪

結論から述べると…果樹園☆畑になってしまっていて、それらしき、削平地は確認♪その畑の東側が一段高くなり長方形の区画となってはいました♪形状から考えて、この上の部分が陣の中心だったんでしょうね♪周囲は切岸加工が施されています♪期待の横堀は発見出来ませんでしたが…地形的には横堀よりは、堀切の方が造り易い地形でありました♪改変はされているであろう、筑紫広門陣ですが、この場所が堀切か?と思わしき場所は何箇所かありました♪筑紫広門陣の西側には太閤道があります♪調べてみると三ノ城戸のあった場所♪横堀状の凹みがあった為、まさか…ヤッパリって思ったんですが、太閤道でしたw

筑紫広門♪往時、勝尾城主であり筑前国御笠郡筑紫の地頭であり国人領主でした♪
文禄・慶長の役の際には参陣し小早川隆景の配下の部隊15700人の中(小早川秀包、立花宗茂、高橋統増、筑紫広門900兵らと共に)として全羅道に奮戦し碧蹄館の戦いや星州谷城防戦、加徳島の戦いなどに参戦し功を挙げています♪

因みに、朝鮮半島を目指した豊臣軍ですが、対馬にある清水山城♪兵站基地として機能した、この城郭の築城に筑紫広門は携わっています♪

各陣の横を通りながら、名護屋城を目指した太閤秀吉♪こちらの堀底道のインパクトの方が色濃かったですw掘り込みの写真は太閤道三の城戸周辺です♪

2023年06月04日 龍馬備中守【】
堀秀治陣[名護屋城  周辺城郭]



佐賀県の唐津市にある【堀秀治陣】♪豊臣秀吉の朝鮮出兵、文禄・慶長の役の際に築かれた名護屋城♪全国から集まった130以上の大名が集結したこの名護屋浦の地です♪名護屋城の半径3キロの圏内には有力な大名が犇めき会います♪

名護屋城の南西方で豊臣大和中納言秀保陣と相対する丘陵上に堀秀治陣は立地します♪
規模が大きな堀秀治陣は良好に遺構を残しています♪

この堀秀治は父・堀秀政と同じく豊臣姓を与えられる位、秀吉に可愛がられています♪
秀吉の居城した、名護屋城の直ぐそばの丘陵地に陣張りは、その為かな〜♪
文禄・慶長の役の往時は越前国は北ノ庄に居城を置く18万石の大名でした♪
この役の際には6000騎、または3000騎を率いて参陣しています♪

慶長3年(1598年)豊臣秀吉が死去すると徳川家康に接近していて一族の堀直重を人質として江戸へ送りました♪慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いが起こると東軍に与し、それ以前の直江兼続の密命で越後国内で発生した上杉旧臣・神官・僧侶の一揆を鎮圧しました(越後一揆、上杉遺民一揆)♪その功績によって徳川家康から所領を安堵されています♪

丘陵上には、建物礎石が残り、ピークを土塁で囲い込み、横堀を堀り、堀切、石垣が残ります♪大手と思われる場所の規模は非常にデカくって、堀秀治の力関係を伺う知る事が出来ます♪更に、旗竿石が3つ残っていて、複数の旗竿石を持つ陣は、ごく小数であり、大規模な陣に限られていて、堀秀治陣は名護屋城の南西側を守る重要な陣だったのでしょう♪

2023年06月03日 龍馬備中守【】
加藤嘉明陣[名護屋城  周辺城郭]



佐賀県の唐津市にある【加藤嘉明陣】♪豊臣秀吉の朝鮮出兵、文禄・慶長の役の際に築かれた名護屋城♪全国から集まった130以上の大名が集結したこの名護屋浦の地です♪名護屋城の半径3キロの圏内には有力な大名が犇めき合います♪

徳川家康別陣の北方で小字は『辻』の先端部の岬を陣域としています♪呼子大橋の唐津側の付け根部分です♪現在の小字辻の場所とは道で遮断されていますが、元々は尾根として繋がっていたと思われます♪


加藤嘉明は豊臣秀吉の子飼衆の1人として♪更には賤ヶ岳の七本槍・七将の1人として有名ですね♪天正15年(1587年)九州征伐や天正18年(1590年)小田原征伐などでは、淡路水軍を率いて参加していて、常に秀吉を支えた武将様という訳であります♪

文禄の役の際には淡路国・志知城主・1万5千石の大名として淡路水軍を率い渡海♪
1000兵を率い出征し、加藤嘉明は船大将・九鬼嘉隆に次ぐ副将格として淡路水軍を率いて転戦しました♪
文禄3年(1594年)小西行長と明の沈惟敬との講和交渉が始まり、加藤嘉明ら諸将の一部は一時帰国しています♪この時の功により淡路国内に1700石増封されました♪
更には伊予国・正木(愛媛県松前町)で増封され、併せて6万石と領地を増やしました♪
また別に蔵入地4万石の管理も命じられたので、居城だった志知城を引き払い伊予国・正木城に移っています♪江戸時代に入ると本拠地を正木から勝山に移していて、これを機に地名を松山と改名もしています♪松山城を築城したのは加藤嘉明です♪
更に加藤嘉明は家臣・足立重信に命じ伊予川の河川改修を行い城下町も拡張させました♪因みに足立重信に因んで後には重信川と呼ばれています♪

時は進み小西行長と明の沈惟敬との講和交渉は決裂☆慶長2年(1597年)再び加藤嘉明は朝鮮へ出征し慶長の役では6番隊に属して1600兵(主に水軍)を率いました☆秀吉に献上する為の虎を狩って送っていて礼状を受けています♪

日本軍は戦勝していたのですが、その士気は上がらず明の大軍が接近すると聞いた小西行長ら諸将は順天城より撤退する事を主張しますが、加藤嘉明は1人これに強く反対していて秀吉の裁可を仰ぐ事に…
秀吉は加藤嘉明を激賞して小西行長を叱責☆加藤嘉明は更に3万7,000石を賜り遂には10万石取りの大名となっています☆
後には陸奥国・会津藩の初代藩主にも取立てられています☆

遺構は石垣、郭、井戸ですが、海に直結する場所があります♪恐らくこの場所から船にのり、朝鮮半島を目指したんだろうなぁ〜と思われる場所が残ります♪

2023年06月02日 龍馬備中守【】
来島通之陣[名護屋城  周辺城郭]



佐賀県の唐津市にある【来島通之陣】♪豊臣秀吉の朝鮮出兵、文禄・慶長の役の際に築かれた名護屋城♪全国から集まった130以上の大名が集結したこの名護屋浦の地です♪名護屋城の半径3キロの圏内には有力な大名が犇めき会います♪

来島通之(通総)は来島村上一族です♪
村上氏と云えば瀬戸内海の海賊集団ですね〜♪文禄・慶長の役で朝鮮半島へ渡海したのは、村上水軍の将、村上通康の四男、来島通之(秀吉が『来島、来島』と呼び重用した為、来島姓を名乗ってます)です♪

永禄10年(1567年)父・来島通康の死没を受け、幼くして伊予国・来島城主となり村上吉継・村上吉郷ら一族の補佐を受けています♪が、元亀元年(1570年頃)主家の河野氏と不仲になっています☆河野氏とは伊予国の大名です☆来島通之の生母が主君である河野弾正少弼通直の娘であり家督を相続した事で河野氏の下で活動をしていました♪が、河野氏から独立する姿勢を見せ始める来島氏です☆

さて♪天正20年(1592年)文禄の役での来島通之は当初、四国勢を率いる福島正則の五番隊に所属して忠清道に進撃して陸戦に従事しますが、朝鮮水軍の活動が活発になると水軍に再編され朝鮮水軍と戦っています☆

休戦期を挟み慶長2年(1597年)慶長の役では水軍として編成された後、南原城の攻略戦では600人を率いて陸軍として戦闘☆
その後、再度水軍として突撃して全羅道沿岸を掃討する為に進撃しました☆鳴梁海戦では先鋒となって海峡に突入しましたが、潮流などの地の利を生かした朝鮮水軍の板屋船の攻撃を受けて37歳の若さで戦死しちゃいました☆

殿ノ浦西に所在する来島通之陣♪北には徳川家康別陣、南には伊達政宗陣に挟まれる台地上に立地しました♪現在は住宅地、畑がその場所となります♪土塁なんじゃ無いかな〜?と思われる物はありますが、コレが遺構なのかは…不明です☆

2023年06月01日 龍馬備中守【】
徳川家康別陣[名護屋城  周辺城郭]



佐賀県の唐津市にある【徳川家康別陣】♪
豊臣秀吉の朝鮮出兵、文禄・慶長の役の際に築かれた名護屋城♪全国から集まった130以上の大名が集結したこの名護屋浦の地です♪名護屋城の半径3キロの圏内には有力な大名が犇めき会います♪

徳川家康の別陣になります♪
この徳川家康別陣は呼子町大字殿ノ浦ワタリに所在します♪名護屋浦の東岸の海岸段丘上に造り込まれています♪残る遺構としては方形型の削平地の一部を空堀で囲み区画する様に土塁、石積み♪主要部分と思わしき北東側端には一段高まる櫓台が残っています♪

因みにこの、殿ノ浦地区付近には、伊達政宗陣があり徳川、伊達両軍が並んで滞在しています♪更に名護屋城の城下町に接近する地点にも徳川家康の陣跡は存在していて、後にこの、城下町の付近に移転されたとも思われます♪それは豊臣秀吉の補佐役として近侍し戦の際の方針決定にも重要な存在として、活動していたのでしょう♪
ハタマタ、250万石の大名としては、一陣のみでは、手狭過ぎて、二陣の役割りを果たしたのかも知れません♪

後に天下を取り江戸幕府の創始者として、この国を治めていく徳川家康は朝鮮出兵の開戦直前には、関東6国他で250万石を領する国内最大の大名として江戸に移封されたばかりで、渡海部隊の中でも最多の15000兵を率い天正20年に名護屋へ到着しています♪

結果的には徳川家康自身は渡海せずに、伊達政宗・南部信直・上杉景勝・佐竹義宣が徳川家康の指揮下にあったと云われています♪

石積みの中に、クルスの石が混じっていました☆往時はバテレン追放令が出た後の朝鮮出兵ですから、切支丹に対して厳しさを極めていました☆切支丹の墓石を転用し石を積んでいたのかなぁ〜??

2023年05月04日 ホーリー中務大輔
名護屋城

天守台からの眺望素晴らしい。天下取れそうな気がする。

2023年02月05日 刻印爺弾正忠抱杏葉
名護屋城



100を越える各大名の陣跡と想像をはるかに超えるスケールの城跡。戦国日本の縮図がここにあります。天守台から眺める玄界灘は青く美しく雄大で、太閤はここから東アジア制覇という見果てぬ夢に思いを馳せたのでしょう。戦国好きなら1度は訪れるべき場所です。しかも、名護屋城跡も名護屋城博物館も駐車場も全て無料!(施設維持協力金100円/人)

陣跡を巡るには1日2日では足りません。行きたい陣跡を絞って巡るのが肝要かと思います。名護屋城跡の近場なら桃山天下市(道の駅)の裏の前田利家陣跡があります。他にも交差点名にもなって場所がわかりやすい伊達政宗陣跡はおすすめ。徳川家康陣跡は別陣もあり、この頃から他の大名とは違っています。お腹が空いたら、きっと太閤秀吉も食べた呼子のイカ(1人前3000円前後)を堪能すれば素晴らしい1日を終われるでしょう。

2023年01月17日 副将軍ノリシデ
名護屋城

100名城スタンプ設置場所は名護屋城博物館になってますが、休館日の月曜に行ったら敷地内の城跡入口付近にある売店で置いてありました。御城印もそこで購入できます。

2022年12月06日 micky999
名護屋城

一言で言えば、さすが秀吉の築った城という感想に尽きる。それが人の手で浸食されずそのスケールで残ったということ。寒い時期でなければもっと時間をかけて過ごしたいと思った城。建物はなくても城とは如何なるものかを感じられました。本丸から天守台にはただただ感動です。

2022年08月09日 【城郭道】たっきー
名護屋城博物館[名護屋城  スタンプ]



名護屋城の隣にある大きな博物館です。ここで名護屋城について様々なことを学ぶことができます。日本100名城のスタンプ、御城印、お土産、パンフレットなどはここにあります。
トイレや自動販売機もあります。
さて、名護屋城博物館には黄金の茶室が公開されています。もうそれはそれは金で輝いていて豪華というほかないと思います。
史料で初めて出てくるのは1585年で、京都や大坂で使用されています。1592年、名護屋城に着いた秀吉は茶室を運んで茶会や外国使節の応接に使っています。

これが無料で見られるのがすごいですよね。企画展とかは有料らしいですけどね。ぜひ、行ってみてください。

2022年07月16日 さすらいの征夷大将軍慶誾尼☆寧
名護屋城

約3ヶ月間休館となります。
訪城時はお気をつけて…

令和4年度の臨時休館(2022年12月20日~2023年3月21日)について

 館内エレベータの更新工事のため、当館は下記の期間に臨時休館となります。

 あらかじめご了承ください。


【臨時休館】: 2022年12月20日 (火曜日) ~ 2023年3月19日 (日曜日)

【再開館日】: 2023年3月21日(日曜日)

2022年06月05日 たまぴー大膳大夫
名護屋城



極めて短期間で作られた城なので、おそらく、石垣の作成は担当した石工集団の個性が出ているのではないかと想像が膨らみますね。全体的には雨の多い九州に適した野面積みですが、部分的に打込み接ぎも見られますし、遊撃所の石垣は切込み接ぎですよね、たぶん。

石材は玄武岩、凝灰岩、変成岩などが多いように思われます。鏡石はいくつも?ありますが、馬場にあるものはかなりの大きさです。さすが秀吉と言うべきかも

2022年06月02日 千葉相模守早雲
名護屋城



江戸屋敷でもないのに、全国の諸大名が陣屋の軒を連ねる何とも贅沢な場所です。車でのリア攻めでしたが、ナビが「伊達政宗陣屋跡を左に」と交差点の名前にまで大名の名がついてちょっと興奮。伊達政宗の他にも黒田長政、毛利秀頼、小西行長などの陣屋跡の史跡マークがカーナビ画面に現れました😆

石垣の石がゴロゴロ。破却の名残がそこら中に😭しかし、使用出来なくする事が目的なので徹底的に破壊された感じはなく、元の作りを何となく想像する事は出来ます😁

隣にある佐賀県立名護屋城博物館では、屏風に描かれた図を元にして当時の様子を再現したジオラマがあります。こちらを見てから城内を回ると分かり易いかもしれません。秀吉が大阪城から持ってきた「黄金の茶室」の展示もあります。金閣、金色堂よりも近くで見られる分、眩いばかり😆

1.大手口。
2.登城坂。左手は三の丸。右手に東出丸が張り出す。
3.東出丸。
4.本丸石垣。
5.三の丸から本丸へ向かう虎口。
6.本丸。御殿の礎石がたくさん見つかります。
7.天守台。海の向こうには壱岐が見えました。
8.黄金の茶室。一服所望😆

2022年05月25日 RED副将軍
生駒親正陣[名護屋城  周辺城郭]



生駒親正が朝鮮出兵に際して名護屋城に着陣した際の陣跡🏯

オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎

1593年の秀吉による朝鮮出兵に際して生駒親正が造営した陣城。文禄の役では五番隊として嫡男の生駒一正と5,000の兵を率いて参陣。福島正則、長宗我部元親らとともに渡海し戦いました。各地に転戦し、生駒水軍の名を轟かせました。

見所
玄海国定公園として整備されています。主郭は石塁、土塁が巡り、南西側に虎口が開口。櫓台も敷設されています。

2022年05月09日 龍馬備中守【】
前田利家陣[名護屋城  周辺城郭]



佐賀県の唐津市にある【前田利家陣】♪名護屋城を取り巻く陣所の1城です♪

加賀国金沢城主で百万石の大名で有名な前田利家の陣所であります♪

織田信長の時代には黒母衣衆、赤母衣衆を筆頭に抜擢され多くの与力を添えられています☆(黒母衣衆、赤母衣衆は信長の親衛隊的存在の直属精鋭部隊です♪)
信長が推進する統一事業に従い戦に参加していきました☆

信長が本能寺の変で明智光秀に討たれてからは柴田勝家の与力として賤ヶ岳の戦いに参戦しますが、秀吉との狭間で揺れ動きました…。結局は戦わない内に戦線を離脱しており秀吉軍の勝利を決定付けました☆

後に国内を統一した秀吉は唐入り、朝鮮出兵を始めていきました☆文禄2年には(1593年)渡海の命を受け陣立てまで定まりましたが間もなく明との講和の動きが進み結局は渡海しませんでした☆

講和に向けて明使が名護屋に着くと家康・利家の邸宅がその宿舎とされています♪
豊臣政権の五大老の一人として活躍しました☆

陣所は道の駅『桃山天下一』の背後にあたる場所に築かれました☆石垣を駆使した内枡形の虎口は、往時の前田利家の力を見て取る事が出来ます☆

2022年05月08日 龍馬備中守【】
立花宗茂陣[名護屋城  周辺城郭]



佐賀県の唐津市にある【立花宗茂陣】♪名護屋城の陣跡巡りをしてきました♪

名護屋城と云えば、文禄・慶長の役の際に豊臣秀吉が朝鮮出兵の為に築いた巨大城郭です☆

秀吉は、この名護屋の地に全国から各諸大名を従え布陣しました☆

秀吉の九州平定の際に活躍をした立花宗茂ですが、その功を認められて筑後国柳川13万2000石を与えられ豊後国・大友氏から独立した直臣大名に取り立てられました☆

文禄の役では小早川隆景を主将とした6番隊に2500兵の軍役を課せられて参陣しました♪慶長の役では侵攻軍には編入されずに釜山の守備を命ぜられています☆

東側にある名護屋浦に突き出る形で丘陵上に陣所は存在します♪削平された数段の郭と低めの土塁が残ります☆陣跡の標柱が示す先は…イキナリの藪w登れば直ぐに、郭が広がります♪

2022年05月07日 龍馬備中守【】
太閤道[名護屋城  遺構・復元物]



佐賀県の唐津市、名護屋城への動線である【太閤道】♪
文禄・慶長の役により造成された唐津の町と名護屋城を結ぶ約16キロの道となります♪

この名護屋の地は海岸線沿いに細長く広がり波戸岬の丘陵を中心に築かれた巨大城郭です☆(各大名の陣跡も凄いです♪)

元々は松浦郡の北東部の小さな湾内に位置し中世(秀吉が来る前)は松浦党の旗頭・波多氏の一族である名護屋氏の居城であり垣副城がありました☆

16世紀後半の文禄・慶長の役、朝鮮出兵の際、豊臣秀吉や全国から集結した武将達が通ったと云われる『太閤道』が残っています☆
秀吉の死後は大陸侵攻は中止され、名護屋城も廃城となり、この『太閤道』も余り使用されなくなったと思われます☆

この道が名護屋城へ続く道♪
秀吉を始め各大名が通った…♪
と考えただけで萌え萌えキュンでした♪

2022年02月21日 RED副将軍
島津義弘陣[名護屋城  周辺城郭]



島津義弘が朝鮮出兵に際して名護屋城に着陣した際の陣跡。

オススメ度 ★★★★⭐︎

1593年の秀吉による朝鮮出兵に際して島津義弘が造営した陣城。
文禄の役では、島津義弘も朝鮮に渡海しており、およそ1万1千人を率いたとされています。
渡海時には、国元の薩摩からの船が到着せず賃船で釜山に渡り、釜山から北上し江原道で転戦、戦況の転換や講和交渉の開始とともに朝鮮半島南岸部に撤退しています。
1597年の慶長の役でも再び朝鮮へ渡り、全羅道や慶尚道を転戦。
1598年の泗川城の戦いでは、島津軍が守る泗川城に攻め寄せた明国提督の董一元の大軍を撃破。露梁海戦では、朝鮮水軍の将李舜臣を撃破するなどの戦果をあげています。

見所
郭は石塁、土塁で区切られますが、特に石塁の崩落は激しく、至るところにビニールシートがかかり、土嚢で補強をされています。
名護屋城周辺の陣城群の中で最大規模を誇ります。

2021年12月26日 さすらいの征夷大将軍慶誾尼☆寧
名護屋城

臨時休館のお知らせ

佐賀県立名護屋城博物館では、施設の一部改修のため、令和4(2022)年 2月 8日(火曜日)から令和4(2022)年 2月20日(日曜日)の間、臨時休館させていただきます。

再開館は令和4(2022)年 2月22日(火曜日)の予定です。

尚、百名城スタンプ押印は名護屋城址観光案内所と警備室にて対応されるそうです。

2021年12月05日 龍馬備中守【】
九鬼守隆陣[名護屋城  周辺城郭]



佐賀県の唐津市にある名護屋城の陣城廻りの【九鬼守隆陣跡】♪九鬼守隆は志摩鳥羽藩初代藩主様です☆九鬼氏12代当主となります☆一昨日口コミした九鬼嘉隆を父に持つ九鬼水軍を束ねた当主となります☆
名護屋城に陣を張った時の九鬼家当主は父・九鬼嘉隆でしたが後に家督を継ぎました☆
文禄の役では九鬼嘉隆・守隆は舟手衆として水軍を率い渡海して戦っています☆

秀吉による朝鮮出兵の後は豊臣秀頼から徳川家康に主君を代えて行きました☆以後は徳川家に支えています☆
主君・徳川時代には会津征伐に従軍していて石田三成の挙兵で関ヶ原の戦いが勃発すると急遽国許に戻りました☆
が、しかし父の九鬼嘉隆は鳥羽城にてまさかの西軍方に与していて関ヶ原戦後は息子である九鬼守隆は徳川家康に父の助命を嘆願したりと奔走しています☆
助命が認められると父・嘉隆に使者を派遣します☆が、、しかし、それより前に九鬼家の行く末を案じた九鬼家臣・豊田五郎右衛門は独断で父・嘉隆に切腹するよう促していて、これを受けた嘉隆は自害しちゃいます☆嘉隆の首級が家康の首実検の為に伏見城に送られる途中の伊勢明星で子・守隆の派遣した急使に嘉隆の死を確認されます…☆
これを知った九鬼守隆は激怒☆
豊田五郎右衛門を鋸挽きで斬首のうえ晒首にしました…
その後の九鬼守隆は鳥羽藩の初代藩主として5万6000石を領しています☆九鬼水軍を率いて大坂の陣を戦い抜き江戸城の築城時は木材や石材を海上輸送して江戸幕府に協力しています☆その後、病弱だった九鬼守隆・長男の良隆を廃嫡して仏門に入っていた五男・久隆を還俗させて後継者にしようとしましたが三男の隆季はこれに反対しました☆九鬼家中が千切れていくキッカケになります☆そして九鬼守隆が死去すると…直ぐに家督争いが起こりました☆鳥羽藩内は久隆派(弟)と隆季派(兄)に二分化☆幕府の命令によって九鬼守隆の遺言どおりに弟の久隆が跡を継ぎしたが2万石を削られた上に摂津三田に移封されていきました☆更に兄の隆季には徳島家光の命で丹波に新たに2万石が与えられていて綾部藩を確立しました☆九鬼兄弟が与えられた両地とも海から離れていて九鬼家からは水軍力は失われていきました☆
そんな九鬼守隆が陣張った場所になります☆
削平地、虎口状の開き、堀底状の動線が残ります☆石積みもあったけど…後世のものかな〜☆

2021年12月04日 龍馬備中守【】
上杉景勝陣[名護屋城  周辺城郭]



佐賀県の唐津市にある名護屋城の陣城廻りの【上杉景勝陣跡】♪越後の龍の後継者であり『越後中納言』転封した後には『会津中納言』と呼ばれた上杉景勝♪
地元では『越後陣』と呼ばれた米納戸(地名)に陣跡はあります♪小高い陣所のスグ真西に家臣・直江兼続、南西に宇都宮国綱、南に秋田実季の陣跡が立ち並んでます♪

文禄の役の際には5000兵を率いてココ名護屋に駐屯しました☆太閤・秀吉の名代として家臣の高梨頼親らを伴って朝鮮に渡海しています☆この時に朝鮮半島での日本軍、最前線基地として熊川に倭城を築城しました☆

陣跡には郭を区画する為の石積み削平地等が残っていますが、現在は畑になっていて、放置されているのか?荒れ放題でしたwが石積みはシッカリと残ってました♪

2021年12月02日 龍馬備中守【】
九鬼嘉隆陣[名護屋城  周辺城郭]



佐賀県の唐津市にある名護屋城の陣城廻りの【九鬼嘉隆陣跡】☆志摩国の鳥羽城主である九鬼家は九鬼水軍として有名です♪伊勢長島の一向一揆、石山本願寺の戦いでも九鬼水軍は大活躍しています☆摂津木津川口の海戦では毛利水軍と熾烈な争いを鉄甲船を駆使して戦いました☆

伊勢湾・紀伊水道・熊野灘一帯の海域を制した九鬼家☆織田信長に支え信長の死後は豊臣秀吉に仕えています☆豊臣水軍の大将格として活躍しました♪文禄の役では九鬼嘉隆は舟手衆として水軍を率い渡海して戦っています☆主力戦艦である安宅船を率いて渡海・上陸し藤堂高虎・脇坂安治らの水軍と共に李舜臣の朝鮮水軍と戦いました☆

少し名護屋城の陣跡関連の口コミが続きます☆

2021年10月18日 さんちゃん
名護屋城

この前、行ったら草むらからヘビが。裏から本丸へ向かったのですが、すごかったです。いい運動になりました!秀吉の凄さを実感しました。

2021年08月12日 龍馬備中守【】
徳川家康陣[名護屋城  周辺城郭]



佐賀県の唐津市にある肥前・名護屋城・【徳川家康陣跡】☆後の天下人の徳川家康が文禄・慶長の役時に築いた陣城です☆

三英傑の織田信長、豊臣秀吉、徳川家康♪
徳川家康は『泣かぬなら鳴くまで待とうホトトギス』で有名ですね☆
徳川家康はこの時は武蔵国・江戸城主で24万石の大名となっています☆

文禄の役の際は徳川家康は渡海はしていません☆名護屋城に在陣しただけと記録が残ります☆この時に伊達政宗・南部信直・上杉景勝・佐竹義宣が徳川家康の指揮下にありました☆因みに慶長の役の際も同様に渡航はしてません☆

徳川家康の陣は2つあって、この西側が本陣、東が別陣となっています♪
この本陣には堀があった様で今は埋められています☆名護屋城の陣城に堀を構えた大名は少なくて、徳川家康の警戒ぶりが伺えますね〜☆

2021年08月11日 龍馬備中守【】
黒田長政陣[名護屋城  周辺城郭]



佐賀県の唐津市にある肥前・名護屋城・【黒田長政陣跡】☆この時は豊前国・16万石・中津城主の黒田長政が文禄・慶長の役時に築いた陣城です☆
黒田官兵衛の嫡男になります♪

黒田長政は5千人の軍役を命じられ主将として三番隊を率いて一番隊の小西行長や二番隊の加藤清正らとは別の進路を取る先鋒として出陣☆釜山上陸後は金海、昌原、霊山、昌寧、厳風、茂渓津、星州、金山、秋風嶺、永同、文義、清州、竹山と転戦し進軍、進撃♪漢城へ到達しました☆
文禄・慶長の役で数々の武功を挙げましたが同時に吏僚の石田三成、小西行長らと次第に対立していきます☆そして…関ヶ原へ繋がっていく訳です☆

黒田長政陣跡は名護屋大橋の東側の丘陵に築かれています☆土塁囲みをおこなった郭が3つに石積みが残ります☆

2021年08月10日 龍馬備中守【】
大久保忠世陣[名護屋城  周辺城郭]



佐賀県の唐津市にある肥前・名護屋城・【大久保忠世陣跡】☆徳川家康を主君とし蟹江七本槍、徳川十六神将の1人に数えられる大久保忠世 ♪文禄・慶長の役時に築いた陣城です☆
大久保忠世は、長篠の戦いでも弟の大久保忠佐、与力の成瀬正一、日下部定好と共に活躍して織田信長から『良き膏薬のごとし、敵について離れぬ膏薬侍なり』と賞賛を受け主君・家康から、ほら貝を与えられたりと武勇に優れた武将様になっています☆

徳川家康の陣城の北東側に陣城を張り込んでいて竜泉寺の東側から行く事が出来ます♪徳川家康の陣城の直ぐ側に在り非常に信頼されていたんだなぁ〜という事を読み取る事が出来ます♪

2021年08月10日 西方
名護屋城



入場は無料ですが、受付で任意の100円払うと城内の地図のパンフレットをもらえます。本丸からの景色が素晴らしいです。

2021年08月09日 龍馬備中守【】
毛利秀頼陣[名護屋城  周辺城郭]



佐賀県の唐津市にある肥前・名護屋城・【毛利秀頼陣跡】☆ 信濃国・飯田城主の毛利秀頼が文禄・慶長の役時に築いた陣城です☆
織田信長時代には赤母衣衆として活躍し豊臣政権になってからは侍従の官位と豊臣の氏と羽柴の名乗りを下賜されました♪
戦国末期、九州の役位から聚楽第行幸の時頃にかけて羽柴河内侍従豊臣秀頼と名乗る様になり秀吉に可愛がられた大名になります☆(あの豊臣秀頼とは別人です)

肥前名護屋城の普請に関わっていて在陣はしましたが、朝鮮半島へ渡海はしませんでした☆秀吉が名護屋城内で明の使者と対面した際には京極高次と共に配膳役を務めたりもしています☆

ここ毛利秀頼の陣も含む23箇所の陣跡が国の特別史跡に指定されています☆

陣城は低土塁をクランクさせながら主要部分を守ってます☆

2021年08月08日 龍馬備中守【】
伊達政宗陣[名護屋城  周辺城郭]



佐賀県の唐津市にある肥前・名護屋城・【伊達政宗陣跡】☆文禄・慶長の役時に東北の雄・伊達政宗が築いた陣城になります☆この名護屋城の周りに築かれた豊臣家に支えた諸大名の陣跡は150あまり確認されていて内、23ヵ所が特別史跡になっています☆

伊達政宗は文禄の役の時は陸奥・岩出山城主58万石の大名です☆『独眼竜』の異名を持つ伊達政宗は文禄の役に参陣した際、上洛する伊達軍勢は奇抜見事な軍装で行き交う人々を魅了したと伝わります☆流石、伊達男ですね♪伊達政宗は渡海して倭城の普請を行い朝鮮半島を駆け巡りました☆

慶長の役では京に駐屯していて不参加となっています☆

実は…伊達政宗陣跡には行く予定は無かったのですが、つい通り道だったので…看板のみですが…w
肥前・名護屋城の陣跡巡りが少し続きます☆

2021年07月20日 【城郭道】たっきー
堀秀治陣[名護屋城  周辺城郭]

越前北ノ庄城を持っていた堀秀治の陣屋。16歳で名護屋へ参陣。その陣屋跡では、能舞台跡、茶室跡、御殿などの礎石建物と飛び石などの数寄空間も確認されている。

2021年07月20日 【城郭道】たっきー
黒田長政陣[名護屋城  周辺城郭]

黒田長政は5000人を率いて名護屋に参陣。朝鮮半島では、機張(きじゃん)城などを築いた。名護屋城対岸に陣を築き、中央部は明るいで囲まれた長方形の曲輪を配置し、虎口は西側と推定される構造となっている。

2021年07月19日 陸奥守新九郎
名護屋城



破城の痕跡をうまく整備して見せてくれています。徳川家が朝鮮通信使を迎える際、「名護屋城は壊しましたよ」とアピールした効果がよく分かります。とても象徴的です。

2021年07月11日 やしち右衛門督
名護屋城



文禄、慶長の役で活躍した島津義弘が好きで攻城いたしました。天守は無いですが、石垣や本丸からの景色が素晴らしく、朝鮮使節団入城した遊撃丸もあります。近隣の各大名の陣跡巡りも楽しいので、その時間を計算して攻城をオススメします。
私事ですが、帰りに唐津城にもよる予定でしたが、入城時間に間に合いませんでした。

2021年05月30日 国府左京大夫城介
北条氏盛陣[名護屋城  周辺城郭]



後北条氏が名護屋に従軍した際の陣屋

【歴史】
北条氏盛は北条氏規の子で、天正19年(1591)に養父である北条氏直の遺領(下野国足利)を継いだ。文禄の役が始まると、父・氏規と共に名護屋に兵200を引き連れて、従軍している。

【遺構】
名護屋城から北北西2.8kmに位置し、大名陣屋の中では最も北にある。周囲には、島津義弘、生駒親正、増田長盛らの陣屋がある。遺構としては、石塁や旗竿石(手水石)が残っている。
なお、国指定「特別史跡」には指定されていない。

【感想】
関東の雄・後北条氏も、豊臣秀吉に従い、朝鮮へ出兵しています。当時の北条氏盛は僅か四千石しか知行がないため、他の陣屋に比べて、だいぶ規模が小さいです。石塁もありますが、あまり高くなく、あくまでも曲輪などの区画を整理するために築かれたものと思われます。
北条氏盛自身は最終的に渡海していないとは言え、関東から九州、朝鮮へ行くとは夢にも思っていなかったはずです。自分自身の身を嘆いたのか、それとも武功を挙げて、家名を少しでも取り戻そうとしたのか、果たしてどんな思いを抱いていたのか興味深いです。

【アクセス】
「名護屋城博物館入口」バス停から、「波戸岬国民宿舎」行きに乗車し、終点で下車。そこから徒歩1分。

【写真】
1:説明版
2:石塁
3:旗竿石

2021年05月23日 国府左京大夫城介
前田利家陣[名護屋城  周辺城郭]



名護屋城の陣屋の中でも最大級の陣屋

【歴史】
文禄の役において、前田利家は、天正20年(1592)の4月中旬には名護屋に到着し、当初は名護屋城の北で名護屋湾東岸に着陣した。しかし、徳川軍と飲み水で争いを起こしたが、伊達政宗の仲裁により、両者の陣は名護屋城近くの現在残っている陣屋に移った。その後、文禄の役が終わり、文禄2年(1593)の8月下旬に、名護屋を出発している。
慶長の役において、前田利家も渡海するために準備をしていたが、豊臣秀次切腹事件が発生し、渡海する計画はなくなった。

【遺構】
名護屋城の南東400mほどに位置し、名護屋城の各大名の陣屋の中でも最大級約10万平米を誇る。
陣屋は山上の曲輪群と、平地の居館部に分かれており、石垣で囲まれた内枡形の虎口や蔵、井戸、雪隠、蹲踞(つくばい)、池の跡が残っている。

【感想】
豊臣政権の重鎮である前田利家の威容に相応しい陣屋で、虎口の石垣は見事しか言えません。陣屋でこのレベルの石垣を組むのだからこそ、如何に秀吉がこの戦いに力を入れていたのか分かるというものです。また、御殿には池などの数寄を楽しむ施設があり、長期滞陣できるようになっており、実際に朝鮮からの特使を迎え入れており、かなり立派だったことは容易に想像することが出来ます。
山上にも遺構があるようですが、ここを訪れたのは、アプリを始める前(令和元年8月)なので、がっつりとリア攻めしておらず、全く確認していません。なので、次に訪れる時は山上の曲輪群も確認したいと思っています。そして、もう少しマシな写真を撮りたいorz

【アクセス】
道の駅桃山天下市の南側の駐車場から登城することができる。

【写真】
1:登城口途中の石垣
2:虎口の石垣
3:井戸
4:旗立石
5:蔵跡(多分)

2021年05月18日 龍馬備中守【】
島津義弘陣[名護屋城  周辺城郭]



佐賀県の唐津市にある島津義弘陣跡☆文禄・慶長の役時に薩摩・島津家が陣を張った陣城になります☆

島津義弘と言えば島津4兄弟の次男で薩摩国・伊作城で誕生しました☆この文禄・慶長の役の朝鮮出兵時にここ名護屋に着陣し名護屋城の北西側に陣城を構えました♪

文禄の役では島津義弘も渡海していて島津軍は1万人で攻め込んだと言われています☆渡海時には薩摩国からの船が到着せず賃船で釜山に渡り家臣の川上忠智に「日本一の大遅陣」と報じられています☆
朝鮮半島に到着した島津軍は釜山から北上し江原道で転戦☆戦況の転換や講和交渉の開始をおこないながら朝鮮半島の南岸部に撤退しています☆

慶長の役の時も再び朝鮮半島へ渡りヤッパリ転戦☆泗川城の戦いでは島津義弘が守りを固める泗川城に攻め寄せた明国提督の董一元の大軍を破り更に露梁海戦では朝鮮水軍の将李舜臣を破るなど獅子奮迅の活躍を見せました♪

陣城には石積みが残っていて城内を区画しています☆陣城先端部の海側からは馬渡島、加唐島、壱岐島が見えて素晴らしいローケーションになってます☆行った時間が夕方だったので素敵な夕陽に出会えました♪

2021年02月06日 刹那F精鋭渡島守【元親】
観光案内所[名護屋城  関連施設]



城跡入場料は善意で少しの寄付でいいそうです。

2021年02月06日 刹那F精鋭渡島守【元親】
名護屋城博物館[名護屋城  スタンプ]



受付カウンターにありましてすぐに分かります。

2020年11月22日 鷹大宰大弐
名護屋城

秋から冬にかけては、草刈りをされているので、石垣の破却状況が分かりやすいです。※石垣は修復・保存されている部分があります。

2020年10月17日 播磨屋大蔵卿
名護屋城

公共交通機関では本数が少ないながらバスが利用できますが、車を運転できれば唐津からカーシェアリングを利用する手もあります。
周囲の陣地を訪問するにも便利です。

2019年12月31日 大納言Z周防守369
合坂[名護屋城  遺構・復元物]



土塁や石垣を登り降りする坂や石段の一種で、塁側面に坂や石段を向かい合うようにV字型に設けたものをいう。

2019年12月31日 大納言Z周防守369
遊撃丸跡[名護屋城  遺構・復元物]



文禄2年に明国の講和使節が滞在し、もてなしを受けた曲輪といわれている。

2019年12月31日 大納言Z周防守369
東出丸跡[名護屋城  遺構・復元物]



東方に張り出した長方形の曲輪で、大手口・侍詰所があったと推定されます。

2019年07月16日 風祭すぅ
名護屋城



維持協力金100円を支払って、入城しました。
博物館で、タブレット端末やVRで説明を受けることをおすすめします

2018年09月01日 京急渡島守ドレミファ♫
名護屋城

佐世保から特急みどり、松浦鉄道、筑肥線と乗り継いで登城。

【アクセス】
JR唐津線(筑肥線)・鬼塚駅からレンタカーで約30分。
ここのレンタカー屋が安かったので(希望すれば唐津駅等まで送迎あり)。
ナビは博物館に合わせましょう。

【スタンプ】
博物館(入館無料)受付にて。
ここでタブレット端末も借りられます(無料)。

【見どころ】
見どころが多すぎるので、まずはVRのコース通りにめぐるのが良いと思います。
陣屋も含めると見どころは無限に(^^;)
自宅から近ければ、頻繁に通いたいお城です。

【その他】
初回は絶対に休館日を避けましょう!
博物館は必見だし、タブレット端末は必携です!

アクセスは、免許があるなら車をお勧めします。
バスは情報が錯綜していてややこしいようだし、周辺には呼子を含めて観光スポットが多いので。
イカの活き造りは必食ですが、呼子の「萬坊」は平日でも30分待ちでした(但し提供は早い)。

2018年06月16日 天下泰平刑部卿
名護屋城

西唐津駅からバスで40分くらい。1時間に一本位でした。
バス停前に道の駅と近くにコンビニがあるので、そこで腹ごしらえしてから見学しました。
ここの口コミにあるように、博物館で借りたバーチャルipadが最高でした。

2018年03月20日 源山城守@ポンコ2…㉖いず
名護屋城

唐津駅から玄海エネルギーパーク行乗車、名護屋城博物館前停まで40分・850円でした。唐津駅前からのバスは12:31発の1本しかなく、市役所前の大手口停からの乗車が主でも本数が少ないので、ネット等で往復分の事前確認が必須です。

博物館前バス停から坂や階段を上り5分弱で案内所に、維持協力?金100円を払って登城します。支払は任意だそうですが、維持のためにも是非。

案内所前の大手口から登城坂→東出丸→三ノ丸→本丸大手門→本丸→本丸大手門→三ノ丸石碑右→馬場→弾正丸→遊撃丸→水手郭と回りましたが、1時間半くらいかかりました。
本丸まで破城された石垣が累々と連なった独特な雰囲気が味わえ、荘厳であったであろう往時を想い浮かべられ楽しめました。破城で石が転がり、ますます攻めにくいかも。また、本丸からは、玄界灘、周辺全体が見渡せて小雨交じりでも素晴らしい眺めです。

地面は濡れて革靴着用と滑りやすかったですが、そこは城址、乾いてる時でも運動靴がいいと思います。
先人が仰るように登城前後どちらかに、少し離れた呼子のイカは鮮度抜群でお勧めです。


2017年05月12日 惟新斎北見守かなえ
名護屋城

ここから見える景色がとても絶景なので歴史やお城に興味ない方にもお勧めします。皆さんが言うようにここへ来たら呼子のイカは絶対食べましょう(笑)

2017年05月08日 小早川安芸守ケンケン
名護屋城

名護屋城近くの信号名称が、伊達政宗陣屋跡などがあり楽しめます!名護屋城からの景観は晴れの日には海が綺麗で、癒されます。近くの博物館に無料駐車場があります。

2017年05月08日 織田上総介晃司
名護屋城

大手口近くと道の駅・桃山天下市に駐車場あり。

バーチャル名護屋城が見れるタブレットを名護屋城博物館でレンタル(60分400円)できます。

名護屋城から呼子は目と鼻の先なので呼子でイカの活き造りをご賞味あれ。
新鮮で歯応えが良く、ほんのり甘味もありとても美味しいです。

2017年02月06日 ねここしゃん
名護屋城

島津義弘陣跡 発掘調査現地説明会のご案内。
平成29年2月12日(日)
10:30〜12:00(受付開始10:00)波戸岬第一駐車場(唐津市鎮西町波戸1297)
当日受付・資料代100円。
島津義弘陣跡の発掘調査現場、北条氏盛陣跡、増田長盛陣跡、生駒親正陣跡ほか。
雨天中止(小雨決行)
問い合わせ:0955-82-4906

2016年12月06日 主膳正けいすけ
名護屋城

併設する名護屋城博物館、今年11/21〜来年3/23まで工事のため休館とのこと。よく確認せずに訪問してしまい残念でした。なお、100名城スタンプは臨時的に城跡入口受付で押すことができました。

2016年09月29日 瀧乃道宮内卿ユズル
名護屋城

唐津からバスで「呼子線」使用の場合、バスセンターから呼子へ行き、乗るのは同じ車両ですが一旦精算・降車が必要です。帰りも同じ。
路線によって違うかもですが、「呼子線」は切符の買い方注意です。
バスセンターも八時からなので、唐津から朝イチ行かれる場合は事前に確認した方がよいです。

博物館の展示内容はともかく…城跡は見応えがあります。
バーチャル天守用のタブレットは、豪雨だったので貸出はありませんでした。

ぜび、晴れた日に行きましょう!
天守台からの景色もいいみたいですし!

2016年01月18日 まるき〜陸中守
名護屋城

名護屋城に行くまでの道のりには武将の陣跡が沢山あり交差点に武将陣屋の名前が付いていたりと少し嬉しいですよ
博物館は現在無料、名護屋城に関する予習として行っておくと良いです。
城への入城は寄付金として100円徴収されました
博物館でお借りしたVR名護屋というアプリが入った端末(iPad)を使っての城探索は当時の建物の様子を想像しやすく楽しいです。
少し重いですけど…
アプリは個人のスマホ端末でもダウンロードすれば使えますが、容量が100MあるのでWi-Fi環境でないとDLが始まらない(現場でのDLはできなかった)ので事前に入れておく事をお勧めします。
城内は整備されていて広大、歩いていて気持ちが良く石垣のくたびれた感が気分を癒してくれる
海が見え、陣屋跡の位置を示す掲示案内を見て当時の様子を想像、
もう時間がいくらあっても足りないくらいです
近くの道の駅、桃山天下市の裏手に前田利家陣屋跡があり、石垣や旗を立てていたでだろう穴の開いた石台?が残っています
道の駅内の観光センターの方に聞くと凄く親切に教えて頂けます
歩いて五分程で行けますのでお勧めです。


2015年12月21日 綾之助
名護屋城

併設する名護屋城博物館でバーチャル体験ができるタブレットを借りてからまわるのがおすすめです(無料、身分証明書提示)。
石垣や本丸跡等にかざすと、目の前に当時の城の様子が再現されて見応えがあります!

2015年10月28日 柳生兵庫助如雲斎
名護屋城

入口付近にあるお土産屋には今時珍しいペナントが売ってます

2015年09月23日 ひろり
名護屋城

■レンタサイクルについて■

木下延俊陣や島津義弘陣など、駐車場の心配が要らないところもありますが、古田重然陣や豊臣秀保陣、富田信則陣など農地や住宅地にある陣が多いので、じっくり陣を巡るなら自転車がオススメです。

名護屋城の近くにある道の駅桃山天下市に“唐津観光協会 鎮西支所”があり、こちらで電動自転車が借りられます。
利用時間は10:00〜16:00。
料金は2時間/\300(+1時間毎/\100)で、運転免許証や保険証等の確認資料を提示します。

お問い合わせ先:
唐津観光協会 鎮西支所
0955-51-1052

上記は2015/09現在の情報です。情報に訂正が必要な場合は、お手数ですが当方まで御一報下さい。

2015年05月28日 ねここしゃん
名護屋城

2015/05/31(日)、「豊臣秀保の陣跡及び周辺の陣跡」の史跡探訪会が開催されます。

10:30〜12:30(受付開始10時)茶苑「海月」駐車場
参加費:300円

タブレットによるバーチャル体験も予定。
徒歩による往復4kmのコースで、小雨決行です。

問い合わせ先
佐賀県立名護屋城博物館
0955-82-4906


2015年03月20日 コロ助
名護屋城

唐津バスセンターから昭和バスで45分程、名護屋城博物館入口下車すぐ。


名護屋城謎解きアプリがあります。ガラケーユーザーですが、博物館の受付で無料でiPadを貸して頂けるので(身分証明書の提示が必要)遊んでみました。


「この図が示す場所へ行け」と指令が出るので、図を読み解いて城跡を回る。途中でクイズが出題され、解答するとレベルが上がる。という内容です。

初級・中級・上級と3コースあり、中級にしました。難しくはないので、誰でも楽しめると思います。その場所の情報がアプリで見られるのが便利でした。

参加賞で、金屏風の浮き出るARのカードを頂きました。アプリを取らないと見られないので、ガラケーの私は今後見ることがあるか分かりませんが、良い記念になりました。


2015年02月09日 ねここしゃん
名護屋城

徳川家康本陣跡から、出入り口の虎口とみられる「石垣」が発掘によって出土しました。
2015年2月15日(日)午前10時半から現地説明会があります。
お問い合わせは、佐賀県立名護屋城博物館=0955-82-4906


2014年09月30日 百華
名護屋城

非常に広くて、秀吉が築いた石垣がそのまま残っている貴重な所でした。
玄武岩の石垣は昔、城としての機能をなくすため所々崩してありますがあえてそのまま残すそうです。
本丸跡では、今も発掘調査が行われていて、金箔が付いた瓦などが見つかっています。
天守台の上にだいたい松本城くらいの天守が建っていたとのこと。
以上、ガイドさん情報ですが参考までに(*^^*)
博物館も無料とは思えないほどたくさん展示品がありとても立派です。
特別展示がある時は有料ですか…。
ぜひお立ち寄りを…‼︎

2013年07月12日 黒田左馬助如水
名護屋城

イカをもっと安くて美味く食するなら、福岡の芦屋周辺がお勧めです。

2013年05月05日 伊豆坊伊豆守
名護屋城

名護屋城博物館で寄付(いくらでもOK)をするとパンフレットをもらえますが、このパンフレットがかなりおすすめ。
A3両面刷りで、名護屋城ガイドマップ と見どころ、陣跡マップがとても見やすく記載されており、見学するのにとても重宝しました。
全体的な縄張りも把握しやすいですので、しっかり見学される方は是非ゲットしてください。


2013年01月13日 中務卿一之介
名護屋城

書き忘れました。
バスが唐津駅近くのバスセンターや西唐津駅からありますが、本数が極端に少ないので、あらかじめ時刻を確認しておいてください。

2013年01月13日 中務卿一之介
名護屋城

とにかく、規模に圧倒されます。建物が何も残っていないのが残念。
天守台跡や櫓跡からは、各武将の陣が一望できます。訪れたのが曇天だったので、遠くの見晴らしはイマイチでしたが、おそらく派兵先の朝鮮半島までも、秀吉は見渡していたのではないでしょうか。

とにかく広いので、散策前にトイレに行っておくことをお勧めします(^^;

併設の名護屋城博物館は、2013年3月15日まで臨時休館中ですので、ご注意ください。

2012年08月19日 大宰少弐ためぞう
名護屋城

本丸・二の丸・搦め手・三の丸・大手口と、各曲輪がとてもはっきりと配置されていて、縄張りが分かりやすいので、楽しめる。そして1つ1つの曲輪の規模がでかい。さすが秀吉!

2011年08月27日 萬屋弾正尹錦之介
名護屋城

呼子はイカサシもいいけどゲソ天が最高にウマイ

2011年08月25日 伊達者
名護屋城

同じく呼子のイカは一度は食べるべし

2010年07月07日 tomm加賀守
名護屋城

呼子のイカは絶品美味です!

名護屋城の周辺観光情報

佐賀県立名護屋城博物館

名護屋城跡及び陣跡の保存整備事業の中核となるとともに、過去の史実に対する反省の上に立って、日本列島と朝鮮半島の交流の歴史を展示紹介し、今後の友好・交流の推進拠点となっている。

呼子朝市

日本三大朝市のひとつである呼子朝市は、元旦を除き毎日朝7時30分から12時まで開催。朝市には、干物や季節の海の幸、山の幸が並び、元気な売り子のおばちゃんとお客さんとの楽しいやりとりも魅力。

情報提供:唐津市商工観光部観光課

名護屋城の周辺スポット情報

 三ノ丸井戸跡(遺構・復元物)

 水手曲輪(遺構・復元物)

 遊撃丸跡(遺構・復元物)

 大手口跡(遺構・復元物)

 下山里丸跡(遺構・復元物)

 弾正丸跡(遺構・復元物)

 搦手口跡(遺構・復元物)

 馬場跡(遺構・復元物)

 船手口跡(遺構・復元物)

 三之丸櫓台(遺構・復元物)

 山里口(遺構・復元物)

 東出丸跡(遺構・復元物)

 本丸大手門跡(遺構・復元物)

 二の丸跡(遺構・復元物)

 合坂(遺構・復元物)

 太閤井戸(遺構・復元物)

 台所丸(遺構・復元物)

 太閤道(遺構・復元物)

 前田利家陣跡大手虎口(遺構・復元物)

 南西隅櫓跡(遺構・復元物)

 本丸(遺構・復元物)

 天守台(遺構・復元物)

 多聞櫓跡(遺構・復元物)

 馬場櫓跡(遺構・復元物)

 三の丸櫓跡(遺構・復元物)

 名護屋城周辺図(碑・説明板)

 徳川家康陣跡説明板(碑・説明板)

 竹ノ丸陣趾石碑(碑・説明板)

 前田利家陣跡説明板(碑・説明板)

 古田織部(重然)陣(周辺城郭)

 徳川家康陣(周辺城郭)

 立花宗茂陣(周辺城郭)

 長宗我部元親陣(周辺城郭)

 大谷吉継陣(周辺城郭)

 堀秀治陣(周辺城郭)

 島津義弘陣(周辺城郭)

 伊達政宗陣(周辺城郭)

 毛利秀頼陣(周辺城郭)

 黒田長政陣(周辺城郭)

 大久保忠世陣(周辺城郭)

 北条氏盛陣(周辺城郭)

 増田長盛陣(周辺城郭)

 佐竹義宣陣(周辺城郭)

 徳川家康別陣(周辺城郭)

 小西行長陣(周辺城郭)

 木下延俊陣(周辺城郭)

 羽柴秀俊陣(周辺城郭)

 鍋島直茂陣(周辺城郭)

 福島正則陣(周辺城郭)

 生駒親正陣(周辺城郭)

 九鬼守隆陣(周辺城郭)

 加藤嘉明陣(周辺城郭)

 加藤清正陣(周辺城郭)

 木村重隆陣(周辺城郭)

 片桐且元陣(周辺城郭)

 長谷川秀一陣(周辺城郭)

 木下利房陣(周辺城郭)

 九鬼嘉隆陣(周辺城郭)

 上杉景勝陣(周辺城郭)

 津軽為信陣(周辺城郭)

 真田昌幸陣(周辺城郭)

 観音寺詮舜陣(周辺城郭)

 織田信雄陣(周辺城郭)

 前田利家陣(周辺城郭)

 山中長俊陣(周辺城郭)

 富田信則陣(周辺城郭)

 朽木元綱陣(周辺城郭)

 大友吉統陣(周辺城郭)

 豊臣秀保陣(周辺城郭)

 藤堂高虎陣(周辺城郭)

 来島通之陣(周辺城郭)

 筑紫広門陣(周辺城郭)

 真田信之陣(周辺城郭)

 宇喜多秀家陣(周辺城郭)

 溝口秀勝陣(周辺城郭)

 石田三成陣(周辺城郭)

 伊藤盛景陣(周辺城郭)

 足利義昭陣(周辺城郭)

 氏家行広陣(周辺城郭)

 陣所 No127番(不明)(周辺城郭)

 名護屋城博物館(御城印)

 名護屋城博物館(スタンプ)

 トイレ(水手口付近)(トイレ)

 大手門食堂の隣にあるトイレ(トイレ)

 島津義弘陣跡近辺駐車場(駐車場)

 観光案内所(関連施設)

 名護屋城博物館(関連施設)

 波戸岬「恋人の聖地」(その他)

 太閤道・三の城戸(その他)

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