名護屋城(なごやじょう)

名護屋城の基本情報

通称・別名

名護屋御旅館

所在地

佐賀県唐津市鎮西町名護屋3673

旧国名

肥前国

分類・構造

梯郭式平山城

天守構造

望楼型[5重7階/1592年築/解体(廃城)]

築城主

豊臣秀吉

築城年

天正19年(1591)

主な改修者

主な城主

豊臣氏

廃城年

慶長3年(1598)

遺構

曲輪、石垣、横堀(空堀)、井戸跡

指定文化財

国特別史跡(名護屋城跡並陣跡)

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

唐津城(佐賀県唐津市)[13.3km]
日本山城(長崎県松浦市)[16.4km]
青山城(佐賀県唐津市)[19.0km]
鬼ヶ城(佐賀県唐津市)[19.9km]
梶谷城(長崎県松浦市)[21.3km]
岸岳城(佐賀県唐津市)[21.9km]
二丈岳城(福岡県糸島市)[24.4km]
日在城(佐賀県伊万里市)[26.2km]
親山城(福岡県糸島市)[28.2km]
伊万里城(佐賀県伊万里市)[28.2km]

日本100名城・続日本100名城スタンプ情報

番号・名称

87 名護屋城

設置場所

佐賀県立名護屋城博物館[地図

名護屋城の解説文



名護屋城(なごやじょう)は、肥前国松浦郡名護屋(現在の佐賀県唐津市(旧東松浦郡鎮西町・呼子町)、東松浦郡玄海町)にあった日本の城。太閤豊臣秀吉が文禄の役を始める前に築かせた。現在、国の特別史跡に指定されている。平成18年(2006年)には日本100名城(87番)に選定された。

概要 

名護屋(古くは名久野)は海岸線沿いに細長く広がる松浦郡の北東部の小さな湾内に位置し、中世には松浦党の交易拠点の一つであった。ここにはもともと松浦党の旗頭・波多氏の一族である名護屋氏の居城、垣副城があったが、豊臣秀吉は大陸への進攻を企図した際、ここを前線基地として大掛かりな築城を行った。

名護屋城は波戸岬の丘陵(標高約90メートルほど)を中心に170,000平方メートルにわたり築かれた平山城の陣城である。五重天守や御殿が建てられ、周囲約3キロメートル内に120ヵ所ほどの陣屋がおかれた[1]。 城の周囲には城下町が築かれ、最盛期には人口10万人を超えるほど繁栄した。

秀吉の死後、大陸侵攻が中止されたために城は廃城となったと考えられており、建物は寺沢広高によって唐津城に移築されたと伝わる[2]。石垣も江戸時代の島原の乱の後に一揆などの立て篭もりを防ぐ目的で要所が破却され、現在は部分が残る。歴史上人為的に破却された城跡であり、破却箇所の状況が復元保存されている[3]

  • 大正15年(1926年)11月4日、「名護屋城跡並陣跡(なごやじょうあとならびにじんあと)」として国の史跡に指定される。
  • 昭和30年(1955年)8月22日特別史跡に指定された。
  • 平成18年(2006年)4月6日、日本100名城(87番)に選定され、平成19年(2007年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。

黒澤明監督による『乱』(昭和60年(1985年)公開)のロケ地の一つに、名護屋城が選ばれ撮影が行われた。

名称 

史跡名称は、「名護屋城跡並陣跡」であるが、鎮西町教育委員会の堀苑孝志は、陣跡以外の遺物や遺跡の様子から、より包括的な名称として「肥前名護屋軍事都市遺跡」という名称を提唱している[4]

歴史・沿革 

背景

image:名護屋城本丸跡 - panoramio.jpg|thumb|right|名護屋城本丸跡 天正15年(1587年)、豊臣秀吉は九州の役で島津義久を降した後、天正18年(1590年)、小田原の役において奥州伊達政宗を服属させ、北条氏直を降し、徳川家康を関東に移封して天下統一を成し遂げた。国内統一の途中においてすでに秀吉は世界に目を転じており、九州平定以来、「高麗」つまり李氏朝鮮に、服属と明征伐への協力を要請したが、朝鮮は拒絶した。その後も対馬の宗義調らが複数の交渉を重ねるが、朝鮮側は拒絶の意志を変えなかった。なお秀吉は同様に琉球や呂宋や高山国(台湾)にも使者を出した。

築城

宗義智から交渉決裂を聞いた秀吉は、天正19年(1591年)8月、「唐入り」を翌年春に決行することを全国に告げ、肥前の名護屋に前線基地としての城築造を九州の大名に命じた。秀吉は自分の地元那古野と同じナゴヤという地名を奇遇に感じ、城の立つ山の名前が勝男山と縁起がいいことにも気を良くしこの地への築城を決めたのだが、この地の領主であった波多親はこれに反対したため不興をかった。また甥の内大臣豊臣秀次に関白を譲って自らは太閤となった。9月、平戸城主松浦鎮信に命じて壱岐の風本に城を築かせた。その築城の担当は、松浦鎮信、日野江城主有馬晴信、大村城主大村喜前、五島城主五島純玄であった(宇久純玄はこの年、姓を五島に改める)。なお、城跡から出土した瓦に「天正十八年」の銘があるものが発見されたことから、築城開始時期が通説の天正19年より早かった可能性も考えられている。

10月上旬、全国の諸大名が名護屋へ到着し、城普請に取りかかった[5]。『松浦古事記』によれば、20万5,570あまりの兵が高麗へ渡り、名護屋在陣は10万2415兵で、総計30万7,985兵で陣立てされた。

築城に際し、縄張りを黒田孝高、そして黒田長政、加藤清正、小西行長、寺沢広高らが普請奉行となり、九州の諸大名を中心に動員し、突貫工事で8か月後の文禄元年(1592年)3月に完成した。規模は当時の城郭では大坂城に次ぐ広壮なものであった。

ルイス・フロイスが「あらゆる人手を欠いた荒れ地」と評した名護屋には、全国より大名衆が集結し、「野も山も空いたところがない」と水戸の平塚滝俊が書状に記している[6]。唐入りの期間は、肥前名護屋は日本の政治経済の中心となった[7]

作事衆

築城にあたっては本丸数寄屋や旅館などの作事奉行を長谷川宗仁が担当した[8]。大手門は御牧勘兵衛尉が担当し、各所の建築が分担された。

構造 

image:名護屋城馬場跡 - panoramio.jpg|thumb|right|名護屋城馬場跡 本丸・二の丸・三の丸・山里曲輪などを配し、本丸北西隅に望楼型5重7階の天守が築かれた。城跡からは金箔を施した瓦が出土しており、天守に葺かれていたものと考えられている。城郭の周辺には各大名の陣屋が配置された。

  • 本丸は東西五十六間、南北六十一間、総高さ三十二間一尺五寸であった。
  • 乾の角に天守台があり、高さ十五間。海より池まで十二間一尺、池より三の丸まで十四間三尺五寸。三の丸より本丸まで五間三尺五寸、以上右高さ也。池の長さ百六十三間也、巾十一間より三十一間まであった。

  • 二ノ丸は、東西四十五間、南北五十九間。掘立柱の長屋跡が発掘されたが、これは築城時の小屋であったと推定されている。
  • 遊撃曲輪は、東西廿六間、南北二十四間。門の礎石が発見されている。
  • 弾正曲輪は長さ九十五間、横四十五間又三十間。
  • 水ノ手曲輪は十五間四方。本丸等から流れ出る水をこの曲輪に集めたと伝わり、水関連の施設があったとされる。
  • 山里曲輪は東西百八十間、南北五十間横ニ廿間四方。茶室等があったとされる。
  • 城の廻りは十五町、城への入口は五ヶ所あり、大手門、西ノ門、北ノ門、舟手門、山里通用門だった。
  • 三ノ丸は、東西三十四間、南北六十二間。
  • このほか、腰曲輪・小曲輪・合而十一曲輪であった 。
完成後も度々改築を繰り返したとされ、本丸西側は築城後に石垣部分を壊すことなくそのまま埋め立てて増築された事が判明し、旧石垣も発掘展示されている。三の丸櫓台北側では築城後に改造を受けて門が設置され、その後また撤去された事が発掘調査で判明している。 本丸大手、大手口、東出丸周辺も構造や櫓、城門に大きな相違が見られ、残された「肥前名護屋城図屏風」の二枚とも、現状と異なる部分が確認されている。

出兵後 

西国衆を中心に総勢15万8,000の兵が9軍に編成され、4月1日(5月12日)に小西行長・宗義智率いる第一陣が朝鮮半島へ出兵したのを皮切りに、名護屋を出発した諸隊は壱岐・対馬を経て朝鮮に渡っていった。秀吉は京都聚楽第を3月26日(5月7日)に出発し4月25日(6月5日)に当地に到着している。以後大政所の危篤時を除いてこの地が本営となる。在城中、秀吉は渡海した諸将に指示を出す一方で、山里曲輪に築いた茶室で茶会を楽しんだり、瓜畑で仮装大会を催したりした。文禄の役では最終的に、20万以上の兵が名護屋から朝鮮に渡った。当地には西国衆の渡海後も、東国衆と秀吉旗本衆の約10万の兵が駐屯している。多くの人員を養うには水源が足りなかったようで、水不足が原因の喧嘩が絶えなかったという。

朝鮮半島で戦線が膠着すると、翌文禄2年(1593年)4月には講和交渉が開始されるが、交渉が破談すると秀吉は、再び慶長2年(1597年)2月から14万人を朝鮮半島へと上陸させた。

この慶長の役でも、補給・連絡の中継地として名護屋は重要な役割を果たした。慶長3年8月18日(1598年9月18日)、秀吉が没したために全軍撤収し、名護屋城もその役割を終えた。出兵の期間中、秀吉が当城に滞在したのは延べ1年2か月であった。

文禄・慶長の役以後

朝鮮撤退後、この地は寺沢広高の治めるところとなった。関ヶ原の戦いの後、慶長7年(1602年)、広高は唐津城の築城を開始した。この際に名護屋城を解体し、その遺材を使用した。これ以降に、二度と城が利用できないように、要となる石垣の四隅を切り崩すなどの作業が行われたが、その理由と時期については明確でない。

岸田家文書によると、島原の乱直後に巡検した江戸幕府老中の指示で、一揆が起こった際に名護屋城が利用されないように破却したと記録されている。また、それ以前の一国一城令を受けての破却とも、名護屋城を破壊することで幕府が明国や朝鮮と関係を改善する意思表示をしたとの見方もある。また、大手門は伊達政宗に与えられ、仙台城に移築されたと伝わっている。

陣屋跡 

image:Hizen Ngayoya Zyou Zinzu.jpg|thumb|360px|『西肥名古屋城豊太閤陣営図』 『松浦古事記』には「諸大名陣場之事」として102人の武将の陣所の所在地が描かれているが、現在、名護屋城周辺には118ヵ所の陣跡が確認されており、うち65ヵ所に遺構が残っている。特別史跡に指定された陣跡は以下の23箇所。

  • 生駒親正陣跡
  • 上杉景勝陣跡
  • 片桐且元陣跡
  • 加藤清正陣跡
  • 加藤嘉明陣跡
  • 木下利房陣跡
  • 木下延俊陣跡
  • 木村重隆陣跡
  • 九鬼嘉隆陣跡
  • 黒田長政陣跡
  • 小西行長陣跡
  • 島津義弘陣跡
  • 伊達政宗陣跡
  • 徳川家康陣跡
  • 徳川家康別陣
  • 豊臣秀保陣跡
  • 鍋島直茂陣跡
  • 長谷川秀一陣跡
  • 福島正則陣跡
  • 古田織部陣跡
  • 堀秀治陣跡
  • 前田利家陣跡
  • 毛利秀頼陣跡

復元計画 

1956年に発足した鎮西町の初代町長、名古屋経一が農漁業中心の町を活性化するために必要として識者と協議し「名護屋城天守閣復元計画」を作成し、1962年に佐賀県教育委員会を通して国に復元許可を申請した。しかし国は天守閣の存在を示す確かな証拠がないとして却下した。このことに対し当時の役場職員は「国や県の役人が『歴史的な背景もあり難しい』と言っていた。あの時代、朝鮮侵略を掲げた拠点を盛り上げることはできなかったのだろう」「実際に町には計画に反対の声が多数寄せられた」と述べ、朝鮮民族に対する配慮が背景にあったと推察している[9]

その後、1976年から数十年にかけて行われた発掘のデータと狩野派の絵師、狩野光信による「肥前名護屋城図屏風」を基に、西和夫神奈川大学名誉教授による監修の下、天守や本丸の設計図を書き起こしCG化。2015年にタブレット端末等を用いて再現CGを見ながら名護屋城跡を散策できる「バーチャル名護屋城」のサービスを開始した[10]

関連施設 

  • 佐賀県立名護屋城博物館が隣接している。

参考文献 

  • 【書籍】「定本 日本城郭事典」

名護屋城の口コミ情報

2022年08月09日 【城郭道】尾張守たっきー
名護屋城博物館[名護屋城  スタンプ]



名護屋城の隣にある大きな博物館です。ここで名護屋城について様々なことを学ぶことができます。日本100名城のスタンプ、御城印、お土産、パンフレットなどはここにあります。
トイレや自動販売機もあります。
さて、名護屋城博物館には黄金の茶室が公開されています。もうそれはそれは金で輝いていて豪華というほかないと思います。
史料で初めて出てくるのは1585年で、京都や大坂で使用されています。1592年、名護屋城に着いた秀吉は茶室を運んで茶会や外国使節の応接に使っています。

これが無料で見られるのがすごいですよね。企画展とかは有料らしいですけどね。ぜひ、行ってみてください。

2022年07月16日 征夷大将軍慶誾尼☆寧
名護屋城

約3ヶ月間休館となります。
訪城時はお気をつけて…

令和4年度の臨時休館(2022年12月20日~2023年3月21日)について

 館内エレベータの更新工事のため、当館は下記の期間に臨時休館となります。

 あらかじめご了承ください。


【臨時休館】: 2022年12月20日 (火曜日) ~ 2023年3月19日 (日曜日)

【再開館日】: 2023年3月21日(日曜日)

2022年06月05日 たまぴー勘解由次官
名護屋城



極めて短期間で作られた城なので、おそらく、石垣の作成は担当した石工集団の個性が出ているのではないかと想像が膨らみますね。全体的には雨の多い九州に適した野面積みですが、部分的に打込み接ぎも見られますし、遊撃所の石垣は切込み接ぎですよね、たぶん。

石材は玄武岩、凝灰岩、変成岩などが多いように思われます。鏡石はいくつも?ありますが、馬場にあるものはかなりの大きさです。さすが秀吉と言うべきかも

2022年06月02日 千葉相模守早雲
名護屋城



江戸屋敷でもないのに、全国の諸大名が陣屋の軒を連ねる何とも贅沢な場所です。

車でのリア攻めでしたが、ナビが「伊達政宗陣屋跡を左に」と交差点の名前にまで大名の名がついてちょっと興奮。伊達政宗の他にも黒田長政、毛利秀頼、小西行長などの陣屋跡の史跡マークがカーナビ画面に現れました😆

石垣の石がゴロゴロ。破却の名残がそこら中に😭しかし、使用出来なくする事が目的なので徹底的に破壊された感じはなく、元の作りを何となく想像する事は出来ます😁

隣にある佐賀県立名護屋城博物館では、屏風に描かれた図を元にして当時の様子を再現したジオラマがあります。こちらを見てから城内を回ると分かり易いかもしれません。

秀吉が大阪城から持ってきた「黄金の茶室」の展示もあります。金閣、金色堂よりも近くで見られる分、眩いばかり😆

1.大手口。
2.登城坂。左手は三の丸。右手に東出丸が張り出す。
3.東出丸。
4.本丸石垣。
5.三の丸から本丸へ向かう虎口。
6.本丸。御殿の礎石がたくさん見つかります。
7.天守台。海の向こうには壱岐が見えました。
8.黄金の茶室。一服所望😆

2022年05月25日 RED副将軍【新宮党】
生駒親正陣跡[名護屋城  周辺城郭]



生駒親正が朝鮮出兵に際して名護屋城に着陣した際の陣跡🏯

オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎

1593年の秀吉による朝鮮出兵に際して生駒親正が造営した陣城。文禄の役では五番隊として嫡男の生駒一正と5,000の兵を率いて参陣。福島正則、長宗我部元親らとともに渡海し戦いました。各地に転戦し、生駒水軍の名を轟かせました。

見所
玄海国定公園として整備されています。主郭は石塁、土塁が巡り、南西側に虎口が開口。櫓台も敷設されています。

2022年05月09日 龍馬備中守【】
前田利家陣跡[名護屋城  周辺城郭]



佐賀県の唐津市にある【前田利家陣】♪名護屋城を取り巻く陣所の1城です♪

加賀国金沢城主で百万石の大名で有名な前田利家の陣所であります♪

織田信長の時代には黒母衣衆、赤母衣衆を筆頭に抜擢され多くの与力を添えられています☆(黒母衣衆、赤母衣衆は信長の親衛隊的存在の直属精鋭部隊です♪)
信長が推進する統一事業に従い戦に参加していきました☆

信長が本能寺の変で明智光秀に討たれてからは柴田勝家の与力として賤ヶ岳の戦いに参戦しますが、秀吉との狭間で揺れ動きました…。結局は戦わない内に戦線を離脱しており秀吉軍の勝利を決定付けました☆

後に国内を統一した秀吉は唐入り、朝鮮出兵を始めていきました☆文禄2年には(1593年)渡海の命を受け陣立てまで定まりましたが間もなく明との講和の動きが進み結局は渡海しませんでした☆

講和に向けて明使が名護屋に着くと家康・利家の邸宅がその宿舎とされています♪
豊臣政権の五大老の一人として活躍しました☆

陣所は道の駅『桃山天下一』の背後にあたる場所に築かれました☆石垣を駆使した内枡形の虎口は、往時の前田利家の力を見て取る事が出来ます☆

2022年05月08日 龍馬備中守【】
立花宗茂陣跡[名護屋城  周辺城郭]



佐賀県の唐津市にある【立花宗茂陣】♪名護屋城の陣跡巡りをしてきました♪

名護屋城と云えば、文禄・慶長の役の際に豊臣秀吉が朝鮮出兵の為に築いた巨大城郭です☆

秀吉は、この名護屋の地に全国から各諸大名を従え布陣しました☆

秀吉の九州平定の際に活躍をした立花宗茂ですが、その功を認められて筑後国柳川13万2000石を与えられ豊後国・大友氏から独立した直臣大名に取り立てられました☆

文禄の役では小早川隆景を主将とした6番隊に2500兵の軍役を課せられて参陣しました♪慶長の役では侵攻軍には編入されずに釜山の守備を命ぜられています☆

東側にある名護屋浦に突き出る形で丘陵上に陣所は存在します♪削平された数段の郭と低めの土塁が残ります☆陣跡の標柱が示す先は…イキナリの藪w登れば直ぐに、郭が広がります♪

2022年05月07日 龍馬備中守【】
太閤道[名護屋城  遺構・復元物]



佐賀県の唐津市、名護屋城への動線である【太閤道】♪
文禄・慶長の役により造成された唐津の町と名護屋城を結ぶ約16キロの道となります♪

この名護屋の地は海岸線沿いに細長く広がり波戸岬の丘陵を中心に築かれた巨大城郭です☆(各大名の陣跡も凄いです♪)

元々は松浦郡の北東部の小さな湾内に位置し中世(秀吉が来る前)は松浦党の旗頭・波多氏の一族である名護屋氏の居城であり垣副城がありました☆

16世紀後半の文禄・慶長の役、朝鮮出兵の際、豊臣秀吉や全国から集結した武将達が通ったと云われる『太閤道』が残っています☆
秀吉の死後は大陸侵攻は中止され、名護屋城も廃城となり、この『太閤道』も余り使用されなくなったと思われます☆

この道が名護屋城へ続く道♪
秀吉を始め各大名が通った…♪
と考えただけで萌え萌えキュンでした♪

2022年02月21日 RED副将軍【新宮党】
島津義弘陣跡[名護屋城  周辺城郭]



島津義弘が朝鮮出兵に際して名護屋城に着陣した際の陣跡。

オススメ度 ★★★★⭐︎

1593年の秀吉による朝鮮出兵に際して島津義弘が造営した陣城。
文禄の役では、島津義弘も朝鮮に渡海しており、およそ1万1千人を率いたとされています。
渡海時には、国元の薩摩からの船が到着せず賃船で釜山に渡り、釜山から北上し江原道で転戦、戦況の転換や講和交渉の開始とともに朝鮮半島南岸部に撤退しています。
1597年の慶長の役でも再び朝鮮へ渡り、全羅道や慶尚道を転戦。
1598年の泗川城の戦いでは、島津軍が守る泗川城に攻め寄せた明国提督の董一元の大軍を撃破。露梁海戦では、朝鮮水軍の将李舜臣を撃破するなどの戦果をあげています。

見所
郭は石塁、土塁で区切られますが、特に石塁の崩落は激しく、至るところにビニールシートがかかり、土嚢で補強をされています。
名護屋城周辺の陣城群の中で最大規模を誇ります。

2021年12月26日 征夷大将軍慶誾尼☆寧
名護屋城

臨時休館のお知らせ

佐賀県立名護屋城博物館では、施設の一部改修のため、令和4(2022)年 2月 8日(火曜日)から令和4(2022)年 2月20日(日曜日)の間、臨時休館させていただきます。

再開館は令和4(2022)年 2月22日(火曜日)の予定です。

尚、百名城スタンプ押印は名護屋城址観光案内所と警備室にて対応されるそうです。

2021年12月05日 龍馬備中守【】
九鬼守隆陣跡[名護屋城  周辺城郭]



佐賀県の唐津市にある名護屋城の陣城廻りの【九鬼守隆陣跡】♪九鬼守隆は志摩鳥羽藩初代藩主様です☆九鬼氏12代当主となります☆一昨日口コミした九鬼嘉隆を父に持つ九鬼水軍を束ねた当主となります☆
名護屋城に陣を張った時の九鬼家当主は父・九鬼嘉隆でしたが後に家督を継ぎました☆
文禄の役では九鬼嘉隆・守隆は舟手衆として水軍を率い渡海して戦っています☆

秀吉による朝鮮出兵の後は豊臣秀頼から徳川家康に主君を代えて行きました☆以後は徳川家に支えています☆
主君・徳川時代には会津征伐に従軍していて石田三成の挙兵で関ヶ原の戦いが勃発すると急遽国許に戻りました☆
が、しかし父の九鬼嘉隆は鳥羽城にてまさかの西軍方に与していて関ヶ原戦後は息子である九鬼守隆は徳川家康に父の助命を嘆願したりと奔走しています☆
助命が認められると父・嘉隆に使者を派遣します☆が、、しかし、それより前に九鬼家の行く末を案じた九鬼家臣・豊田五郎右衛門は独断で父・嘉隆に切腹するよう促していて、これを受けた嘉隆は自害しちゃいます☆嘉隆の首級が家康の首実検の為に伏見城に送られる途中の伊勢明星で子・守隆の派遣した急使に嘉隆の死を確認されます…☆
これを知った九鬼守隆は激怒☆
豊田五郎右衛門を鋸挽きで斬首のうえ晒首にしました…
その後の九鬼守隆は鳥羽藩の初代藩主として5万6000石を領しています☆九鬼水軍を率いて大坂の陣を戦い抜き江戸城の築城時は木材や石材を海上輸送して江戸幕府に協力しています☆その後、病弱だった九鬼守隆・長男の良隆を廃嫡して仏門に入っていた五男・久隆を還俗させて後継者にしようとしましたが三男の隆季はこれに反対しました☆九鬼家中が千切れていくキッカケになります☆そして九鬼守隆が死去すると…直ぐに家督争いが起こりました☆鳥羽藩内は久隆派(弟)と隆季派(兄)に二分化☆幕府の命令によって九鬼守隆の遺言どおりに弟の久隆が跡を継ぎしたが2万石を削られた上に摂津三田に移封されていきました☆更に兄の隆季には徳島家光の命で丹波に新たに2万石が与えられていて綾部藩を確立しました☆九鬼兄弟が与えられた両地とも海から離れていて九鬼家からは水軍力は失われていきました☆
そんな九鬼守隆が陣張った場所になります☆
削平地、虎口状の開き、堀底状の動線が残ります☆石積みもあったけど…後世のものかな〜☆

2021年12月04日 龍馬備中守【】
上杉景勝陣跡[名護屋城  周辺城郭]



佐賀県の唐津市にある名護屋城の陣城廻りの【上杉景勝陣跡】♪越後の龍の後継者であり『越後中納言』転封した後には『会津中納言』と呼ばれた上杉景勝♪
地元では『越後陣』と呼ばれた米納戸(地名)に陣跡はあります♪小高い陣所のスグ真西に家臣・直江兼続、南西に宇都宮国綱、南に秋田実季の陣跡が立ち並んでます♪

文禄の役の際には5000兵を率いてココ名護屋に駐屯しました☆太閤・秀吉の名代として家臣の高梨頼親らを伴って朝鮮に渡海しています☆この時に朝鮮半島での日本軍、最前線基地として熊川に倭城を築城しました☆

陣跡には郭を区画する為の石積み削平地等が残っていますが、現在は畑になっていて、放置されているのか?荒れ放題でしたwが石積みはシッカリと残ってました♪

2021年12月02日 龍馬備中守【】
九鬼嘉隆陣跡[名護屋城  周辺城郭]



佐賀県の唐津市にある名護屋城の陣城廻りの【九鬼嘉隆陣跡】☆志摩国の鳥羽城主である九鬼家は九鬼水軍として有名です♪伊勢長島の一向一揆、石山本願寺の戦いでも九鬼水軍は大活躍しています☆摂津木津川口の海戦では毛利水軍と熾烈な争いを鉄甲船を駆使して戦いました☆

伊勢湾・紀伊水道・熊野灘一帯の海域を制した九鬼家☆織田信長に支え信長の死後は豊臣秀吉に仕えています☆豊臣水軍の大将格として活躍しました♪文禄の役では九鬼嘉隆は舟手衆として水軍を率い渡海して戦っています☆主力戦艦である安宅船を率いて渡海・上陸し藤堂高虎・脇坂安治らの水軍と共に李舜臣の朝鮮水軍と戦いました☆

少し名護屋城の陣跡関連の口コミが続きます☆

2021年10月18日 さんちゃん
名護屋城

この前、行ったら草むらからヘビが。裏から本丸へ向かったのですが、すごかったです。いい運動になりました!秀吉の凄さを実感しました。

2021年08月12日 龍馬備中守【】
徳川家康陣跡[名護屋城  周辺城郭]



佐賀県の唐津市にある肥前・名護屋城・【徳川家康陣跡】☆後の天下人の徳川家康が文禄・慶長の役時に築いた陣城です☆

三英傑の織田信長、豊臣秀吉、徳川家康♪
徳川家康は『泣かぬなら鳴くまで待とうホトトギス』で有名ですね☆
徳川家康はこの時は武蔵国・江戸城主で24万石の大名となっています☆

文禄の役の際は徳川家康は渡海はしていません☆名護屋城に在陣しただけと記録が残ります☆この時に伊達政宗・南部信直・上杉景勝・佐竹義宣が徳川家康の指揮下にありました☆因みに慶長の役の際も同様に渡航はしてません☆

徳川家康の陣は2つあって、この西側が本陣、東が別陣となっています♪
この本陣には堀があった様で今は埋められています☆名護屋城の陣城に堀を構えた大名は少なくて、徳川家康の警戒ぶりが伺えますね〜☆

2021年08月11日 龍馬備中守【】
黒田長政陣跡[名護屋城  周辺城郭]



佐賀県の唐津市にある肥前・名護屋城・【黒田長政陣跡】☆この時は豊前国・16万石・中津城主の黒田長政が文禄・慶長の役時に築いた陣城です☆
黒田官兵衛の嫡男になります♪

黒田長政は5千人の軍役を命じられ主将として三番隊を率いて一番隊の小西行長や二番隊の加藤清正らとは別の進路を取る先鋒として出陣☆釜山上陸後は金海、昌原、霊山、昌寧、厳風、茂渓津、星州、金山、秋風嶺、永同、文義、清州、竹山と転戦し進軍、進撃♪漢城へ到達しました☆
文禄・慶長の役で数々の武功を挙げましたが同時に吏僚の石田三成、小西行長らと次第に対立していきます☆そして…関ヶ原へ繋がっていく訳です☆

黒田長政陣跡は名護屋大橋の東側の丘陵に築かれています☆土塁囲みをおこなった郭が3つに石積みが残ります☆

2021年08月10日 龍馬備中守【】
大久保忠世陣跡[名護屋城  周辺城郭]



佐賀県の唐津市にある肥前・名護屋城・【大久保忠世陣跡】☆徳川家康を主君とし蟹江七本槍、徳川十六神将の1人に数えられる大久保忠世 ♪文禄・慶長の役時に築いた陣城です☆
大久保忠世は、長篠の戦いでも弟の大久保忠佐、与力の成瀬正一、日下部定好と共に活躍して織田信長から『良き膏薬のごとし、敵について離れぬ膏薬侍なり』と賞賛を受け主君・家康から、ほら貝を与えられたりと武勇に優れた武将様になっています☆

徳川家康の陣城の北東側に陣城を張り込んでいて竜泉寺の東側から行く事が出来ます♪徳川家康の陣城の直ぐ側に在り非常に信頼されていたんだなぁ〜という事を読み取る事が出来ます♪

2021年08月10日 西方
名護屋城



入場は無料ですが、受付で任意の100円払うと城内の地図のパンフレットをもらえます。本丸からの景色が素晴らしいです。

2021年08月09日 龍馬備中守【】
毛利秀頼陣跡[名護屋城  周辺城郭]



佐賀県の唐津市にある肥前・名護屋城・【毛利秀頼陣跡】☆ 信濃国・飯田城主の毛利秀頼が文禄・慶長の役時に築いた陣城です☆
織田信長時代には赤母衣衆として活躍し豊臣政権になってからは侍従の官位と豊臣の氏と羽柴の名乗りを下賜されました♪
戦国末期、九州の役位から聚楽第行幸の時頃にかけて羽柴河内侍従豊臣秀頼と名乗る様になり秀吉に可愛がられた大名になります☆(あの豊臣秀頼とは別人です)

肥前名護屋城の普請に関わっていて在陣はしましたが、朝鮮半島へ渡海はしませんでした☆秀吉が名護屋城内で明の使者と対面した際には京極高次と共に配膳役を務めたりもしています☆

ここ毛利秀頼の陣も含む23箇所の陣跡が国の特別史跡に指定されています☆

陣城は低土塁をクランクさせながら主要部分を守ってます☆

2021年08月08日 龍馬備中守【】
伊達政宗陣跡[名護屋城  周辺城郭]



佐賀県の唐津市にある肥前・名護屋城・【伊達政宗陣跡】☆文禄・慶長の役時に東北の雄・伊達政宗が築いた陣城になります☆この名護屋城の周りに築かれた豊臣家に支えた諸大名の陣跡は130あまり確認されていて内、23ヵ所が特別史跡になっています☆

伊達政宗は文禄の役の時は陸奥・岩出山城主58万石の大名です☆『独眼竜』の異名を持つ伊達政宗は文禄の役に参陣した際、上洛する伊達軍勢は奇抜見事な軍装で行き交う人々を魅了したと伝わります☆流石、伊達男ですね♪伊達政宗は渡海して倭城の普請を行い朝鮮半島を駆け巡りました☆

慶長の役では京に駐屯していて不参加となっています☆

実は…伊達政宗陣跡には行く予定は無かったのですが、つい通り道だったので…看板のみですが…w
肥前・名護屋城の陣跡巡りが少し続きます☆

2021年07月20日 【城郭道】尾張守たっきー
堀秀治陣跡[名護屋城  周辺城郭]

越前北ノ庄城を持っていた堀秀治の陣屋。16歳で名護屋へ参陣。その陣屋跡では、能舞台跡、茶室跡、御殿などの礎石建物と飛び石などの数寄空間も確認されている。

2021年07月20日 【城郭道】尾張守たっきー
黒田長政陣跡[名護屋城  周辺城郭]

黒田長政は5000人を率いて名護屋に参陣。朝鮮半島では、機張(きじゃん)城などを築いた。名護屋城対岸に陣を築き、中央部は明るいで囲まれた長方形の曲輪を配置し、虎口は西側と推定される構造となっている。

2021年07月19日 武蔵守新九郎
名護屋城



破城の痕跡をうまく整備して見せてくれています。徳川家が朝鮮通信使を迎える際、「名護屋城は壊しましたよ」とアピールした効果がよく分かります。とても象徴的です。

2021年07月11日 やしち中務大輔
名護屋城



文禄、慶長の役で活躍した島津義弘が好きで攻城いたしました。天守は無いですが、石垣や本丸からの景色が素晴らしく、朝鮮使節団入城した遊撃丸もあります。近隣の各大名の陣跡巡りも楽しいので、その時間を計算して攻城をオススメします。
私事ですが、帰りに唐津城にもよる予定でしたが、入城時間に間に合いませんでした。

2021年05月30日 国府右京大夫城介
北条氏盛陣跡[名護屋城  周辺城郭]



後北条氏が名護屋に従軍した際の陣屋

【歴史】
北条氏盛は北条氏規の子で、天正19年(1591)に養父である北条氏直の遺領(下野国足利)を継いだ。文禄の役が始まると、父・氏規と共に名護屋に兵200を引き連れて、従軍している。

【遺構】
名護屋城から北北西2.8kmに位置し、大名陣屋の中では最も北にある。周囲には、島津義弘、生駒親正、増田長盛らの陣屋がある。遺構としては、石塁や旗竿石(手水石)が残っている。
なお、国指定「特別史跡」には指定されていない。

【感想】
関東の雄・後北条氏も、豊臣秀吉に従い、朝鮮へ出兵しています。当時の北条氏盛は僅か四千石しか知行がないため、他の陣屋に比べて、だいぶ規模が小さいです。石塁もありますが、あまり高くなく、あくまでも曲輪などの区画を整理するために築かれたものと思われます。
北条氏盛自身は最終的に渡海していないとは言え、関東から九州、朝鮮へ行くとは夢にも思っていなかったはずです。自分自身の身を嘆いたのか、それとも武功を挙げて、家名を少しでも取り戻そうとしたのか、果たしてどんな思いを抱いていたのか興味深いです。

【アクセス】
「名護屋城博物館入口」バス停から、「波戸岬国民宿舎」行きに乗車し、終点で下車。そこから徒歩1分。

【写真】
1:説明版
2:石塁
3:旗竿石

2021年05月23日 国府右京大夫城介
前田利家陣跡[名護屋城  周辺城郭]



名護屋城の陣屋の中でも最大級の陣屋

【歴史】
文禄の役において、前田利家は、天正20年(1592)の4月中旬には名護屋に到着し、当初は名護屋城の北で名護屋湾東岸に着陣した。しかし、徳川軍と飲み水で争いを起こしたが、伊達政宗の仲裁により、両者の陣は名護屋城近くの現在残っている陣屋に移った。その後、文禄の役が終わり、文禄2年(1593)の8月下旬に、名護屋を出発している。
慶長の役において、前田利家も渡海するために準備をしていたが、豊臣秀次切腹事件が発生し、渡海する計画はなくなった。

【遺構】
名護屋城の南東400mほどに位置し、名護屋城の各大名の陣屋の中でも最大級約10万平米を誇る。
陣屋は山上の曲輪群と、平地の居館部に分かれており、石垣で囲まれた内枡形の虎口や蔵、井戸、雪隠、蹲踞(つくばい)、池の跡が残っている。

【感想】
豊臣政権の重鎮である前田利家の威容に相応しい陣屋で、虎口の石垣は見事しか言えません。陣屋でこのレベルの石垣を組むのだからこそ、如何に秀吉がこの戦いに力を入れていたのか分かるというものです。また、御殿には池などの数寄を楽しむ施設があり、長期滞陣できるようになっており、実際に朝鮮からの特使を迎え入れており、かなり立派だったことは容易に想像することが出来ます。
山上にも遺構があるようですが、ここを訪れたのは、アプリを始める前(令和元年8月)なので、がっつりとリア攻めしておらず、全く確認していません。なので、次に訪れる時は山上の曲輪群も確認したいと思っています。そして、もう少しマシな写真を撮りたいorz

【アクセス】
道の駅桃山天下市の南側の駐車場から登城することができる。

【写真】
1:登城口途中の石垣
2:虎口の石垣
3:井戸
4:旗立石
5:蔵跡(多分)

2021年05月18日 龍馬備中守【】
島津義弘陣跡[名護屋城  周辺城郭]



佐賀県の唐津市にある島津義弘陣跡☆文禄・慶長の役時に薩摩・島津家が陣を張った陣城になります☆

島津義弘と言えば島津4兄弟の次男で薩摩国・伊作城で誕生しました☆この文禄・慶長の役の朝鮮出兵時にここ名護屋に着陣し名護屋城の北西側に陣城を構えました♪

文禄の役では島津義弘も渡海していて島津軍は1万人で攻め込んだと言われています☆渡海時には薩摩国からの船が到着せず賃船で釜山に渡り家臣の川上忠智に「日本一の大遅陣」と報じられています☆
朝鮮半島に到着した島津軍は釜山から北上し江原道で転戦☆戦況の転換や講和交渉の開始をおこないながら朝鮮半島の南岸部に撤退しています☆

慶長の役の時も再び朝鮮半島へ渡りヤッパリ転戦☆泗川城の戦いでは島津義弘が守りを固める泗川城に攻め寄せた明国提督の董一元の大軍を破り更に露梁海戦では朝鮮水軍の将李舜臣を破るなど獅子奮迅の活躍を見せました♪

陣城には石積みが残っていて城内を区画しています☆陣城先端部の海側からは馬渡島、加唐島、壱岐島が見えて素晴らしいローケーションになってます☆行った時間が夕方だったので素敵な夕陽に出会えました♪

2021年02月06日 刹那F精鋭佐渡守【】
観光案内所[名護屋城  関連施設]



城跡入場料は善意で少しの寄付でいいそうです。

2021年02月06日 刹那F精鋭佐渡守【】
名護屋城博物館[名護屋城  スタンプ]



受付カウンターにありましてすぐに分かります。

2020年11月22日 鷹大宰大弐
名護屋城

秋から冬にかけては、草刈りをされているので、石垣の破却状況が分かりやすいです。※石垣は修復・保存されている部分があります。

2020年10月17日 播磨屋右京大夫
名護屋城

公共交通機関では本数が少ないながらバスが利用できますが、車を運転できれば唐津からカーシェアリングを利用する手もあります。
周囲の陣地を訪問するにも便利です。

2019年12月31日 大納言Z越前守369
合坂[名護屋城  遺構・復元物]



土塁や石垣を登り降りする坂や石段の一種で、塁側面に坂や石段を向かい合うようにV字型に設けたものをいう。

2019年12月31日 大納言Z越前守369
遊撃丸跡[名護屋城  遺構・復元物]



文禄2年に明国の講和使節が滞在し、もてなしを受けた曲輪といわれている。

2019年12月31日 大納言Z越前守369
東出丸跡[名護屋城  遺構・復元物]



東方に張り出した長方形の曲輪で、大手口・侍詰所があったと推定されます。

2019年07月16日 風祭すぅ
名護屋城



維持協力金100円を支払って、入城しました。
博物館で、タブレット端末やVRで説明を受けることをおすすめします

2018年09月01日 京急渡島守ドレミファ♫
名護屋城

佐世保から特急みどり、松浦鉄道、筑肥線と乗り継いで登城。

【アクセス】
JR唐津線(筑肥線)・鬼塚駅からレンタカーで約30分。
ここのレンタカー屋が安かったので(希望すれば唐津駅等まで送迎あり)。
ナビは博物館に合わせましょう。

【スタンプ】
博物館(入館無料)受付にて。
ここでタブレット端末も借りられます(無料)。

【見どころ】
見どころが多すぎるので、まずはVRのコース通りにめぐるのが良いと思います。
陣屋も含めると見どころは無限に(^^;)
自宅から近ければ、頻繁に通いたいお城です。

【その他】
初回は絶対に休館日を避けましょう!
博物館は必見だし、タブレット端末は必携です!

アクセスは、免許があるなら車をお勧めします。
バスは情報が錯綜していてややこしいようだし、周辺には呼子を含めて観光スポットが多いので。
イカの活き造りは必食ですが、呼子の「萬坊」は平日でも30分待ちでした(但し提供は早い)。

2018年06月16日 天下泰平大蔵卿
名護屋城

西唐津駅からバスで40分くらい。1時間に一本位でした。
バス停前に道の駅と近くにコンビニがあるので、そこで腹ごしらえしてから見学しました。
ここの口コミにあるように、博物館で借りたバーチャルipadが最高でした。

2018年03月20日 源山城守ポンコ2…
名護屋城

唐津駅から玄海エネルギーパーク行乗車、名護屋城博物館前停まで40分・850円でした。唐津駅前からのバスは12:31発の1本しかなく、市役所前の大手口停からの乗車が主でも本数が少ないので、ネット等で往復分の事前確認が必須です。

博物館前バス停から坂や階段を上り5分弱で案内所に、維持協力?金100円を払って登城します。支払は任意だそうですが、維持のためにも是非。

案内所前の大手口から登城坂→東出丸→三ノ丸→本丸大手門→本丸→本丸大手門→三ノ丸石碑右→馬場→弾正丸→遊撃丸→水手郭と回りましたが、1時間半くらいかかりました。
本丸まで破城された石垣が累々と連なった独特な雰囲気が味わえ、荘厳であったであろう往時を想い浮かべられ楽しめました。破城で石が転がり、ますます攻めにくいかも。また、本丸からは、玄界灘、周辺全体が見渡せて小雨交じりでも素晴らしい眺めです。

地面は濡れて革靴着用と滑りやすかったですが、そこは城址、乾いてる時でも運動靴がいいと思います。
先人が仰るように登城前後どちらかに、少し離れた呼子のイカは鮮度抜群でお勧めです。


2017年05月12日 W平八郎北見守鼎衛門
名護屋城

ここから見える景色がとても絶景なので歴史やお城に興味ない方にもお勧めします。皆さんが言うようにここへ来たら呼子のイカは絶対食べましょう(笑)

2017年05月08日 小早川安芸守ケンケン
名護屋城

名護屋城近くの信号名称が、伊達政宗陣屋跡などがあり楽しめます!名護屋城からの景観は晴れの日には海が綺麗で、癒されます。近くの博物館に無料駐車場があります。

2017年05月08日 織田上総介晃司
名護屋城

大手口近くと道の駅・桃山天下市に駐車場あり。

バーチャル名護屋城が見れるタブレットを名護屋城博物館でレンタル(60分400円)できます。

名護屋城から呼子は目と鼻の先なので呼子でイカの活き造りをご賞味あれ。
新鮮で歯応えが良く、ほんのり甘味もありとても美味しいです。

2017年02月06日 ねここしゃん
名護屋城

島津義弘陣跡 発掘調査現地説明会のご案内。
平成29年2月12日(日)
10:30〜12:00(受付開始10:00)波戸岬第一駐車場(唐津市鎮西町波戸1297)
当日受付・資料代100円。
島津義弘陣跡の発掘調査現場、北条氏盛陣跡、増田長盛陣跡、生駒親正陣跡ほか。
雨天中止(小雨決行)
問い合わせ:0955-82-4906

2016年12月06日 主膳正けいすけ
名護屋城

併設する名護屋城博物館、今年11/21〜来年3/23まで工事のため休館とのこと。よく確認せずに訪問してしまい残念でした。なお、100名城スタンプは臨時的に城跡入口受付で押すことができました。

2016年09月29日 瀧乃道左京大夫ユズル
名護屋城

唐津からバスで「呼子線」使用の場合、バスセンターから呼子へ行き、乗るのは同じ車両ですが一旦精算・降車が必要です。帰りも同じ。
路線によって違うかもですが、「呼子線」は切符の買い方注意です。
バスセンターも八時からなので、唐津から朝イチ行かれる場合は事前に確認した方がよいです。

博物館の展示内容はともかく…城跡は見応えがあります。
バーチャル天守用のタブレットは、豪雨だったので貸出はありませんでした。

ぜび、晴れた日に行きましょう!
天守台からの景色もいいみたいですし!

2016年01月18日 まるき〜主殿助
名護屋城

名護屋城に行くまでの道のりには武将の陣跡が沢山あり交差点に武将陣屋の名前が付いていたりと少し嬉しいですよ
博物館は現在無料、名護屋城に関する予習として行っておくと良いです。
城への入城は寄付金として100円徴収されました
博物館でお借りしたVR名護屋というアプリが入った端末(iPad)を使っての城探索は当時の建物の様子を想像しやすく楽しいです。
少し重いですけど…
アプリは個人のスマホ端末でもダウンロードすれば使えますが、容量が100MあるのでWi-Fi環境でないとDLが始まらない(現場でのDLはできなかった)ので事前に入れておく事をお勧めします。
城内は整備されていて広大、歩いていて気持ちが良く石垣のくたびれた感が気分を癒してくれる
海が見え、陣屋跡の位置を示す掲示案内を見て当時の様子を想像、
もう時間がいくらあっても足りないくらいです
近くの道の駅、桃山天下市の裏手に前田利家陣屋跡があり、石垣や旗を立てていたでだろう穴の開いた石台?が残っています
道の駅内の観光センターの方に聞くと凄く親切に教えて頂けます
歩いて五分程で行けますのでお勧めです。


2015年12月21日 綾之助
名護屋城

併設する名護屋城博物館でバーチャル体験ができるタブレットを借りてからまわるのがおすすめです(無料、身分証明書提示)。
石垣や本丸跡等にかざすと、目の前に当時の城の様子が再現されて見応えがあります!

2015年10月28日 柳生兵庫助如雲斎
名護屋城

入口付近にあるお土産屋には今時珍しいペナントが売ってます

2015年09月23日 ひろり
名護屋城

■レンタサイクルについて■

木下延俊陣や島津義弘陣など、駐車場の心配が要らないところもありますが、古田重然陣や豊臣秀保陣、富田信則陣など農地や住宅地にある陣が多いので、じっくり陣を巡るなら自転車がオススメです。

名護屋城の近くにある道の駅桃山天下市に“唐津観光協会 鎮西支所”があり、こちらで電動自転車が借りられます。
利用時間は10:00〜16:00。
料金は2時間/\300(+1時間毎/\100)で、運転免許証や保険証等の確認資料を提示します。

お問い合わせ先:
唐津観光協会 鎮西支所
0955-51-1052

上記は2015/09現在の情報です。情報に訂正が必要な場合は、お手数ですが当方まで御一報下さい。

2015年05月28日 ねここしゃん
名護屋城

2015/05/31(日)、「豊臣秀保の陣跡及び周辺の陣跡」の史跡探訪会が開催されます。

10:30〜12:30(受付開始10時)茶苑「海月」駐車場
参加費:300円

タブレットによるバーチャル体験も予定。
徒歩による往復4kmのコースで、小雨決行です。

問い合わせ先
佐賀県立名護屋城博物館
0955-82-4906


2015年03月20日 コロ助
名護屋城

唐津バスセンターから昭和バスで45分程、名護屋城博物館入口下車すぐ。


名護屋城謎解きアプリがあります。ガラケーユーザーですが、博物館の受付で無料でiPadを貸して頂けるので(身分証明書の提示が必要)遊んでみました。


「この図が示す場所へ行け」と指令が出るので、図を読み解いて城跡を回る。途中でクイズが出題され、解答するとレベルが上がる。という内容です。

初級・中級・上級と3コースあり、中級にしました。難しくはないので、誰でも楽しめると思います。その場所の情報がアプリで見られるのが便利でした。

参加賞で、金屏風の浮き出るARのカードを頂きました。アプリを取らないと見られないので、ガラケーの私は今後見ることがあるか分かりませんが、良い記念になりました。


2015年02月09日 ねここしゃん
名護屋城

徳川家康本陣跡から、出入り口の虎口とみられる「石垣」が発掘によって出土しました。
2015年2月15日(日)午前10時半から現地説明会があります。
お問い合わせは、佐賀県立名護屋城博物館=0955-82-4906


2014年09月30日 百華
名護屋城

非常に広くて、秀吉が築いた石垣がそのまま残っている貴重な所でした。
玄武岩の石垣は昔、城としての機能をなくすため所々崩してありますがあえてそのまま残すそうです。
本丸跡では、今も発掘調査が行われていて、金箔が付いた瓦などが見つかっています。
天守台の上にだいたい松本城くらいの天守が建っていたとのこと。
以上、ガイドさん情報ですが参考までに(*^^*)
博物館も無料とは思えないほどたくさん展示品がありとても立派です。
特別展示がある時は有料ですか…。
ぜひお立ち寄りを…‼︎

2013年07月12日 黒田筑前守如水
名護屋城

イカをもっと安くて美味く食するなら、福岡の芦屋周辺がお勧めです。

2013年05月05日 伊豆坊伊豆守
名護屋城

名護屋城博物館で寄付(いくらでもOK)をするとパンフレットをもらえますが、このパンフレットがかなりおすすめ。
A3両面刷りで、名護屋城ガイドマップ と見どころ、陣跡マップがとても見やすく記載されており、見学するのにとても重宝しました。
全体的な縄張りも把握しやすいですので、しっかり見学される方は是非ゲットしてください。


2013年01月13日 中務卿一之介
名護屋城

書き忘れました。
バスが唐津駅近くのバスセンターや西唐津駅からありますが、本数が極端に少ないので、あらかじめ時刻を確認しておいてください。

2013年01月13日 中務卿一之介
名護屋城

とにかく、規模に圧倒されます。建物が何も残っていないのが残念。
天守台跡や櫓跡からは、各武将の陣が一望できます。訪れたのが曇天だったので、遠くの見晴らしはイマイチでしたが、おそらく派兵先の朝鮮半島までも、秀吉は見渡していたのではないでしょうか。

とにかく広いので、散策前にトイレに行っておくことをお勧めします(^^;

併設の名護屋城博物館は、2013年3月15日まで臨時休館中ですので、ご注意ください。

2012年08月19日 大宰少弐ためぞう
名護屋城

本丸・二の丸・搦め手・三の丸・大手口と、各曲輪がとてもはっきりと配置されていて、縄張りが分かりやすいので、楽しめる。そして1つ1つの曲輪の規模がでかい。さすが秀吉!

2011年08月27日 萬屋参議錦之介
名護屋城

呼子はイカサシもいいけどゲソ天が最高にウマイ

2011年08月25日 伊達者
名護屋城

同じく呼子のイカは一度は食べるべし

2010年07月07日 tomm加賀守
名護屋城

呼子のイカは絶品美味です!

名護屋城の周辺観光情報

佐賀県立名護屋城博物館

名護屋城跡及び陣跡の保存整備事業の中核となるとともに、過去の史実に対する反省の上に立って、日本列島と朝鮮半島の交流の歴史を展示紹介し、今後の友好・交流の推進拠点となっている。

呼子朝市

日本三大朝市のひとつである呼子朝市は、元旦を除き毎日朝7時30分から12時まで開催。朝市には、干物や季節の海の幸、山の幸が並び、元気な売り子のおばちゃんとお客さんとの楽しいやりとりも魅力。

情報提供:唐津市商工観光部観光課

名護屋城の周辺スポット情報

 三ノ丸井戸跡(遺構・復元物)

 水手曲輪(遺構・復元物)

 遊撃丸跡(遺構・復元物)

 大手口跡(遺構・復元物)

 下山里丸跡(遺構・復元物)

 弾正丸跡(遺構・復元物)

 搦手口跡(遺構・復元物)

 馬場跡(遺構・復元物)

 船手口跡(遺構・復元物)

 三之丸櫓台(遺構・復元物)

 山里口(遺構・復元物)

 東出丸跡(遺構・復元物)

 本丸大手門跡(遺構・復元物)

 二の丸跡(遺構・復元物)

 合坂(遺構・復元物)

 太閤井戸(遺構・復元物)

 台所丸(遺構・復元物)

 太閤道(遺構・復元物)

 前田利家陣跡大手虎口(遺構・復元物)

 南西隅櫓跡(遺構・復元物)

 本丸(遺構・復元物)

 天守台(遺構・復元物)

 多聞櫓跡(遺構・復元物)

 馬場櫓跡(遺構・復元物)

 三の丸櫓跡(遺構・復元物)

 名護屋城周辺図(碑・説明板)

 徳川家康陣跡説明板(碑・説明板)

 竹ノ丸陣趾石碑(碑・説明板)

 前田利家陣跡説明板(碑・説明板)

 古田織部(重然)陣跡(周辺城郭)

 徳川家康陣跡(周辺城郭)

 立花宗茂陣跡(周辺城郭)

 長宗我部元親陣跡(周辺城郭)

 大谷吉継陣跡(周辺城郭)

 堀秀治陣跡(周辺城郭)

 島津義弘陣跡(周辺城郭)

 伊達政宗陣跡(周辺城郭)

 毛利秀頼陣跡(周辺城郭)

 黒田長政陣跡(周辺城郭)

 大久保忠世陣跡(周辺城郭)

 北条氏盛陣跡(周辺城郭)

 増田長盛陣跡(周辺城郭)

 佐竹義宜陣跡(周辺城郭)

 徳川家康別陣(周辺城郭)

 小西行長陣跡(周辺城郭)

 木下延俊陣跡(周辺城郭)

 羽柴秀俊陣跡(周辺城郭)

 鍋島直茂陣跡(周辺城郭)

 福島正則陣跡(周辺城郭)

 生駒親正陣跡(周辺城郭)

 九鬼守隆陣跡(周辺城郭)

 加藤嘉明陣跡(周辺城郭)

 加藤清正陣跡(周辺城郭)

 木村重隆陣跡(周辺城郭)

 片桐且元陣跡(周辺城郭)

 長谷川秀一陣跡(周辺城郭)

 木下利房陣跡(周辺城郭)

 九鬼嘉隆陣跡(周辺城郭)

 上杉景勝陣跡(周辺城郭)

 津軽為信陣跡(周辺城郭)

 真田昌幸陣跡(周辺城郭)

 観音寺詮舜陣跡(周辺城郭)

 織田信雄陣跡(周辺城郭)

 前田利家陣跡(周辺城郭)

 山中長俊陣跡(周辺城郭)

 富田信則陣跡(周辺城郭)

 朽木元綱陣跡(周辺城郭)

 大友吉統陣跡(周辺城郭)

 豊臣秀保陣跡(周辺城郭)

 名護屋城博物館(スタンプ)

 トイレ(水手口付近)(トイレ)

 大手門食堂の隣にあるトイレ(トイレ)

 島津義弘陣跡近辺駐車場(駐車場)

 観光案内所(関連施設)

 波戸岬「恋人の聖地」(その他)

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