前田利家陣
前田利家陣([名護屋城 周辺城郭])
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前田利家陣の口コミ情報
2025年12月23日 ᴿᴱᴰ副将軍
前田利家が朝鮮出兵に際して名護屋城に着陣した際の陣跡⚔
オススメ度 ★★★★⭐︎
1593年の豊臣秀吉による朝鮮出兵に際して前田利家が造営した陣城。
1592年に前田利家は八千騎を率いて京を出立。諸侯に先んじて肥前名護屋へ向かい参陣し陣城を築きました。
前田利家は朝鮮に渡ることはありませんでしたが、
豊臣秀吉が自ら朝鮮に渡海して采配を振るおうとした際には諫め、豊臣秀吉が母である大政所が危篤となり一時大坂へ帰った際には、徳川家康とともに留守居役を務めて采配を振るうなど重要な役割を果たしました。
見所
名護屋城の南東に隣接した陣城であり、名護屋城の表を守備する位置関係にあります。
丘陵北側麓を削平した陣所と丘陵頂部を削平した連郭式の陣所の2つから構成されています。
麓の陣所は石垣造り内桝形の虎口が特徴的で石組み井戸跡、旗立石が発掘調査で見つかっています。
また、新たに北側から西側の外郭線を沿う大規模な横堀が見つかっています。
山上の陣所は低土塁、石塁が残り、段郭が連なります。
行き方は、道の駅「桃山天下市」の第二駐車場の南側に隣接しています。
2022年05月09日 龍馬備中守【】
佐賀県の唐津市にある【前田利家陣】♪名護屋城を取り巻く陣所の1城です♪
加賀国金沢城主で百万石の大名で有名な前田利家の陣所であります♪
織田信長の時代には黒母衣衆、赤母衣衆を筆頭に抜擢され多くの与力を添えられています☆(黒母衣衆、赤母衣衆は信長の親衛隊的存在の直属精鋭部隊です♪)
信長が推進する統一事業に従い戦に参加していきました☆
信長が本能寺の変で明智光秀に討たれてからは柴田勝家の与力として賤ヶ岳の戦いに参戦しますが、秀吉との狭間で揺れ動きました…。結局は戦わない内に戦線を離脱しており秀吉軍の勝利を決定付けました☆
後に国内を統一した秀吉は唐入り、朝鮮出兵を始めていきました☆文禄2年には(1593年)渡海の命を受け陣立てまで定まりましたが間もなく明との講和の動きが進み結局は渡海しませんでした☆
講和に向けて明使が名護屋に着くと家康・利家の邸宅がその宿舎とされています♪
豊臣政権の五大老の一人として活躍しました☆
陣所は道の駅『桃山天下一』の背後にあたる場所に築かれました☆石垣を駆使した内枡形の虎口は、往時の前田利家の力を見て取る事が出来ます☆
2021年05月23日 国府左京大夫城介
名護屋城の陣屋の中でも最大級の陣屋
【歴史】
文禄の役において、前田利家は、天正20年(1592)の4月中旬には名護屋に到着し、当初は名護屋城の北で名護屋湾東岸に着陣した。しかし、徳川軍と飲み水で争いを起こしたが、伊達政宗の仲裁により、両者の陣は名護屋城近くの現在残っている陣屋に移った。その後、文禄の役が終わり、文禄2年(1593)の8月下旬に、名護屋を出発している。
慶長の役において、前田利家も渡海するために準備をしていたが、豊臣秀次切腹事件が発生し、渡海する計画はなくなった。
【遺構】
名護屋城の南東400mほどに位置し、名護屋城の各大名の陣屋の中でも最大級約10万平米を誇る。
陣屋は山上の曲輪群と、平地の居館部に分かれており、石垣で囲まれた内枡形の虎口や蔵、井戸、雪隠、蹲踞(つくばい)、池の跡が残っている。
【感想】
豊臣政権の重鎮である前田利家の威容に相応しい陣屋で、虎口の石垣は見事しか言えません。陣屋でこのレベルの石垣を組むのだからこそ、如何に秀吉がこの戦いに力を入れていたのか分かるというものです。また、御殿には池などの数寄を楽しむ施設があり、長期滞陣できるようになっており、実際に朝鮮からの特使を迎え入れており、かなり立派だったことは容易に想像することが出来ます。
山上にも遺構があるようですが、ここを訪れたのは、アプリを始める前(令和元年8月)なので、がっつりとリア攻めしておらず、全く確認していません。なので、次に訪れる時は山上の曲輪群も確認したいと思っています。そして、もう少しマシな写真を撮りたいorz
【アクセス】
道の駅桃山天下市の南側の駐車場から登城することができる。
【写真】
1:登城口途中の石垣
2:虎口の石垣
3:井戸
4:旗立石
5:蔵跡(多分)









