青山城(あおやまじょう)
青山城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 佐賀県唐津市山本字天ヶ谷他
旧国名
- 肥前国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 青山采女正
築城年
- 戦国時代後期
主な改修者
- -
主な城主
- 青山氏
廃城年
- 文禄2年(1593)
遺構
- 曲輪、石垣
指定文化財
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再建造物
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青山城の口コミ情報
2025年11月29日 龍馬備中守【】
青山城
佐賀県唐津市の山本字金谷にある【青山城】♪松浦川左岸に迫る、通称・城山(標高119m)の山頂に独地した、中世の山城となります。眼下には松浦川と、その支流の徳須恵川の合流点が望まれる場所であり、唐津中心部、伊万里、多久に接し、小城、更には佐賀へと繋がる唐津街道(別ルート)沿いでもあります。ただ、古くより両河川の氾濫による水害多発地でもあります。
弥生時代の中尾遺跡のほか、金屋・中尾・トウロに古墳時代の遺跡があります。三の坪という字が残り、これは条里制の遺名と云われます。古代から中世まで、松浦潟の西岸最奥部にあたる山本ですが、明の『籌海国編』に記される馬子頼(まつら)は地内の船原の地と云われ、上松浦党の倭軍船基地の1つと考えられています。
南北朝時代、九州探題として下向した際に、今川了俊は南朝方である菊池氏らの叛に遭った為、迂回して呼子沖へ上陸していますが、松浦党は今川氏に従い、地内にある金屋に陣を引いたと伝わります。(※今川了俊は九州の平定のために派遣されました。観応の擾乱後の九州は、南朝方の菊池武光が征西大将軍・懐良親王を奉じた征西府と、足利直冬等が対立していました。直冬が九州を離れた後に、征西府が北朝(幕府)方の筑前守護・少弐頼尚を撃破して、大宰府を占領し、南朝勢力が強くなっていたのです。)コレが、山本地内であった歴史となります。
さて、青山城ですが、築城年代は不明ではありますが、戦国時代に岸岳城の北の脇城として使用されました。上松浦の松浦党首領であった波多三河守親の臣下である、青山采女正の居城であります。北肥戦誌には『大宰少弐政資は、去ぬる延徳二年に、下松浦の輩を討ち徒へぬ。是よりは上松浦を攻むべしと、明応三年甲寅正月、鏡通を過ぎて上松浦へ発向す。舎弟千葉肥前守胤資・龍造寺隠岐守康家・高木兵部少輔家重・於保・渋谷・内田・江上以下肥前の輩馳せ付きて、其勢夥しく松浦へ著陣す。斯かりしかば波多・鶴田・相知・有浦其外の松浦党共、攻めざる前に附従ふ。政資、力を得て、留守左衛門大夫永恒が青山の城に押寄せ、不日に攻め落し、夫より引返し筑前の内に入り』と記され、少弐氏により攻められ落城していることが分かります。文禄2年(1593年)文禄の役の際に、軍令違反を犯した波多氏は、本城である岸岳城と所領を没収されてしまいます。波多氏の没落後、この青山城も廃城となっています。
また、波多三河守親が龍造寺氏に屈した時、離縁を強要された波多三河守親の前室・心月尼は、青山城主の青山采女正の姉であります。波多三河守親が軍令違反により、徳川家康の預かりとなり、常陸国筑波へ流罪となった後に、青山城に身を寄せ隠棲しています。この地には心月尼の死後に寺が開山され(心月寺)、そこには今日、尼愛用の品々が残されています。
城山山中に五輪塔の空輪が幾つも落ちていたのが、印象的でした。
2019年06月06日 笑門来猫
青山城
二重堀切の1つ。土塁や切岸、竪堀など色々残っています。
2019年06月06日 笑門来猫
青山城
神社の脇から竪堀を渡り歩きながら登りますが、迷う上に滑りやすく、心理的にキツい。帰りはそれを思うと憂鬱になり、思い切って心月寺方面に藪漕ぎ下山。しかし…3倍増しで大変&流血事件(¯―¯٥)









