岸岳城(きしたけじょう)

岸岳城の基本情報

通称・別名

貴志岳城、鬼子岳城、岸獄城、鬼子城、吉志峯城

所在地

佐賀県唐津市相知町牟田部他

旧国名

肥前国

分類・構造

連郭式山城

天守構造

築城主

源持

築城年

平安時代後期

主な改修者

主な城主

波多氏

廃城年

文禄2年(1593)

遺構

曲輪、石垣、堀切、竪堀、井戸

指定文化財

県史跡(岸岳城跡)

再建造物

説明板

周辺の城

青山城(佐賀県唐津市)[3.5km]
日在城(佐賀県伊万里市)[5.3km]
獅子ヶ城(佐賀県唐津市)[7.9km]
唐津城(佐賀県唐津市)[10.8km]
伊万里城(佐賀県伊万里市)[12.7km]
鬼ヶ城(佐賀県唐津市)[13.7km]
梶峰城(佐賀県多久市)[15.7km]
住吉城(佐賀県武雄市)[17.3km]
梶谷城(長崎県松浦市)[17.6km]
唐船城(佐賀県西松浦郡)[18.6km]

岸岳城の解説文



岸岳城(きしたけじょう)は、佐賀県唐津市相知町佐里・北波多岸山にあった日本の城(山城)。もともとは鬼子岳城と書いた。佐賀県指定史跡。

概要 

唐津市北波多と同市相知町との境界をなす標高320メートルの鬼子嶽に位置した。東から松浦川が、西から波多川(徳須恵川)が流れて合流する中間の要害に位置し、唐津湾に至る水運を支配する上での要衝であった。山頂付近は急崖に囲まれ、城はその山頂部の南側尾根の上に築かれている。

伝説によれば、この山は古来より鬼が住んだといい、それが鬼子嶽の由来である。ただしここでいう“鬼”とは即ち、お上に従わない地方豪族をさしている。長元4年(1031年)、乱を起こした平忠常が滅ぼされた後、その徒党である信州福原の武士稲江多羅記という者が九州に落ち延びて松浦郡波多郷に住み着いたが、その子に狐角という強力の者がおり、鬼子嶽の要害に山砦を築き略奪強盗を働いて国守の手に余る暴れっぷりであったため、朝廷は四天王の一人で鬼退治で有名な渡辺綱の次男の判官筒井源太夫久を派遣してこれを討たしめたという話がある。

延久元年(1069年)、肥前国松浦郡宇野の御厨検校となり、検非違使に補されて下向した、上記の渡辺綱の曾孫とされる松浦久が松浦党の祖であるが、その子孫には土地が分割され、波多郷を与えられた松浦持が鬼子嶽に同城を築城したという。同時に波多城、島村城、青山城を築いた。持の子孫は波多氏を名乗り、約400年後の17代・波多親まで続いた。

文禄2年(1593年)には豊臣秀吉によって波多氏が改易され、所領には唐津藩主・寺沢広高が入ったが、寺沢氏は交通の便のよい平野部に唐津城を建築して移り、当城は廃城となったとされる。しかし、城郭考古学者の千田嘉博は石垣の積み方やその状況から見て、文禄・慶長期に作られたものであるとし、波多氏滅亡後も城として維持されていたと推測している[1]

鬼子嶽の南、相知町佐里の集落が城下町の跡であり、当時唐津の町は存在していなかった。山腹には無念に思った波多氏の家臣百人が腹を切った集団墓地もある。

城跡は1996年(平成8年)11月15日付けで佐賀県の史跡に指定された。

参考文献 

  • 【書籍】「北波多郷土誌」
  • 【書籍】「東松浦郡史」

岸岳城の口コミ情報

2024年04月04日 今孔明ユーチューバー
岸岳城



大きな山城で石垣の堀切が2つ、井戸、曲輪の石垣など見応えがありました!登り降り含めて90分ほどかかりました。最初だけ急登です😀

2024年03月12日 mootze
岸岳城



車で、看板通り進むと、山の中腹あたりに、駐車場が5台くらいとめられます。道は、整備されて歩きやすいです茶園の平まで平たんですが、そこから三の丸までは直登です、そこにたどりつくと分かれ道で、左は旗竿石、右は本丸方面です、まずは本丸方面へ向かいました尾根伝いに、行くと堀切が、ドーンと現れます、歩行橋がついていますが、堀の先端は、急斜面です、またその先に三の丸と二の丸の間の堀切は、両ほうが石垣で、仕切られた堀切、三の丸の堀切より、規模が大きくなってます、また二の丸には、石垣で、できている埋み門があり、状態は、良好に残ってます、その先井戸曲輪の井戸も石垣で、脇を固めてあり、その先も、大手道と書いた看板があり、枡形虎口になっているようでした、本丸も、帯曲輪で防御している感じです普通は、これで終わりと思ったら、その先に三左衛門殿丸に算木積の石垣がドーンと残っていて、石垣ファンにはたまりません、その奥も姫落とし岩や抜け穴など、超断崖があります、そこから、見渡すと足がすくみます、戦国期の遺構から江戸期の遺構まであるこのお城は、お勧めです

2022年05月15日 あらし肥前守
岸岳城



駐車場に車を止め直ぐ近くの登山口から320m(標高差120m位)の尾根まで登り、三の丸、二の丸、本丸、三左衛門殿丸から姫落としまで尾根沿い1.5kmに渡って遺構が残ってます。登山道が良く整備され要所に案内標識もあり迷うこともありません。所要時間は3時間位欲しいですね。

石垣、井戸、堀切、曲輪、櫓台とかなり良い状態で遺構が残り、特に二の堀切は両岸が割石を用いた幅9m高さ6mの石垣で構成されており、三左衛門殿丸の高さ5mの石垣は圧巻でした。

戻りの尾根筋で小さなマムシと初めて出会いました。逃げずに頭を上げて威嚇して来ましたが、小枝で追い払いました。良い状態で残ってますので皆さんも是非登城してみてはいかが。

2022年05月06日 龍馬備中守【】
相知城[岸岳城  周辺城郭]



佐賀県の唐津市にある【相知城】♪相知は二つの川(厳木川と松浦川)が『逢う地』に存在した城郭で唐津城下と伊万里、多久、佐賀を結ぶ交通の要衝として街道の押さえの城として立地しました☆

相知城直下の相知盆地は厳木川と松浦川に形作られた扇状地です☆高まる丘陵地には立石岩陰遺跡、鵜殿、岩陰遺跡、天徳山遺跡など縄文時代の遺跡が残っていて古代より人々の暮らしが垣間見えます☆

此処は上松浦党の相知氏が支配した場所であります♪厳木川を天然の堀として天徳山の丘陵地を防衛ラインとしたのでしょう☆
築城年代は不明ですが、平安末期から鎌倉時代にかけての築城と云われていて相知勝は幕府から相知邑の安堵状を得たと記録が残りこの頃なのでしょうね〜♪

相知勝の子、相知小太郎比は蒙古襲来の際に活躍をしています☆以降の相知氏は上松浦党の中で石志氏、神田氏と並ぶ在地豪族へとのし上がりました☆
南北朝時代に相知氏は終始、南朝方に付き九州探題の北条英時を破っています☆

現在は熊野神社の場所が城郭とされています♪熊野神社の斜面も調べてみましたが、神社の石垣が残っているのと、崩れたものがある位…怪しいな〜と思う箇所は何箇所かあったんですが…目ぼしい遺構は見当たりませんでした☆

2022年05月04日 龍馬備中守【】
島村城[岸岳城  周辺城郭]



佐賀県の唐津市にある【島村城】♪別名を田中館と呼びます♪徳須恵盆地の中央部の低平な独立丘陵、平山城です♪

松浦古来略伝記には『嘉暦2年葛原親王18世の苗裔波多伊勢守橘好政が島村城に入部』と残っていて、上松浦党の波多氏時代に岸岳城の支城群の一つとして設けられたと考えられています☆以降は波多三河守の代になり、波多家臣・松尾右京之助は、その命により組下13人で島村城を守備しました☆
天正18年(1590年)には豊臣秀吉之山城禁止令によって、ココ島村城を居城にした様です☆

東西を流れる2つの川、徳須恵川、田中川を天然の外濠として北方は2つの川が分かれる分岐点に城郭は立地しました☆
文禄・慶長の役によって没落していく波多氏☆

その後は唐津藩初代藩主・寺沢志摩守広高の拝領になり、唐津城が完成するまでの7年間をこの島村城で過ごしました☆

現在は、集落の中に溶け込んでいます☆
古墳時代の遺跡も多くて葛原親王を祀る親王塚をはじめ、薬師堂古墳群や小松山古墳群なども残っていて、古くから人々の生きた気配を感じます☆

2022年05月03日 龍馬備中守【】
波多城[岸岳城  周辺城郭]



佐賀県の唐津市にある【波多城】♪中世には松浦党の波多氏が支配した土地で往時は波多郷と称されています♪中世後期の戦国時代には波多氏が上松浦党の首領として、波多城の北方にある岸岳城に拠りました☆岸岳城をメインとして使用する以前の城郭かと思われます☆
始まりは渡辺綱が下向してこの地の畠城(波多城)を居城としたと伝わります♪
この渡辺綱の曾孫にあたる松浦久の二男の松浦持が波多の地に移り以後、波多持と波多姓を名乗っています☆後に岸岳城を本城として発展しました☆
波多城の突き出した先端部には波多八幡神社が残るのですがコレは、この時に氏神として波多八幡神社を創建したと云われます☆

波多氏は戦国時代の文禄の役では鍋島氏の与力大名として渡海しますが鍋島氏と行動を共にしようとせず軍令違反を犯してしまいます☆渡海中に所領を没収されていて徳川家康にお預けとなります…文禄③年に波多氏は滅亡☆秀吉から所領を没収されて武士・大名としての波多氏は滅亡しちゃいました☆

江戸時代には唐津藩の一寒村となってしまい唐津藩政期には唐津から武雄への街道(塚崎往還と伊万里街道)の追分の宿場町にすぎなくなりました☆

この波多城からは大量の中国、朝鮮半島からの輸入陶磁器が出土しています☆波多氏が異国との交易で財を成していた事が分かります♪波多八幡神社の背後の尾根上に城郭は立地しています♪岸岳から西に伸びる尾根上に城郭は存在☆低山ではありますが周囲は垂直の岩盤が切り立った険峻な地形になっていてイカにも松浦党らしい要害感がでた素敵な城郭となります☆岩盤の土橋、畝状竪堀群が見所です☆

2022年03月23日 龍馬備中守【】
牟田部館[岸岳城  周辺城郭]



佐賀県の旧東松浦郡、現唐津市にある【牟田部館】♪岸岳の東南山麓一帯の山間部にある牟田別氏の館☆現在も集落が生きてます♪北側に松浦川が流れる立地、唐津街道が走ります☆
古代は松浦川の河口部分だった様で泥沼の多かったみたいです☆『牟田部』と言う集落の名前はこの沼地帯からきているとされています☆

古代・弥生時代の名残り牟田部甕棺遺跡も出土されていて古くから人の気配を感じる事が出来ます☆

中世に、この牟田部氏が居住していて牟田部氏は『松浦党』に属しました☆
『松浦家世伝』には、牟田部氏ら松浦太郎高俊を祖とし鎌倉時代に1番勢力を奮いました☆松浦昔鑑には『牟田部七郎栄、牟田部村を知行す。財牟田部館に居住す。頃は建武之時分と見へたり』と記されます☆
この牟田部集落には同じく松浦党の波多氏の家臣・真名子森之進もいたと言われていて、その子孫の真名子三郎左衛門の墓があります☆

江戸藩政期の初期には牟田部組大庄屋が置かれました☆

遺構は残りません☆高台になっている♪と言う事は明確に分かります☆
昔ながらの素敵な駅が残ります☆
途中から大雨に振られた…w
レンズに雨のしぶきが…w

2021年12月23日 RED副将軍
岸岳城



急峻な岩山の上に石垣を多用した肥前の名城✨

オススメ度 ★★★★★

築城年代は不詳。
松浦党の一族である波多氏により築城。
元々は比高50mの低山の波多城が波多氏の居城で岸岳城が詰め城でしたが、戦国時代には岸岳城を改修し本城となり、波多城は支城に入れ替わりました。
波多氏は、約400年の17代 波多親まで続きましたが、1593年に改易。
発端は豊臣秀吉による九州征伐において、兵を送らずに秀吉に不興を買いました。鍋島直茂の計らいにより減知されたものの存続を認められたが、文禄の役で鍋島氏の与力大名として朝鮮に渡海するも、行動を共にしなかった事を軍令違反とみなされ、所領を没収され徳川家康預かりに。常陸筑波山麓へと配流となり滅亡したもの。一族、家臣は後追いや残党狩りにあったと言われています。
波多氏が改易され、唐津藩主・寺沢広高の支配となりましたが、交通の便のよい唐津城を建築して移り、廃城となったと見られています。

見所
標高320mの岸岳の尾根筋に主に3つの曲輪が連なる連郭式山城です。
一見縄張りはシンプルですが、一つ一つが長大な曲輪であり全長は1kmにもおよぶ巨大山城です。
石垣遺構が素晴らしく、主郭北側下にある三左衛門殿曲輪は特に見事な石垣が残ります。
三ノ丸と二ノ丸の間にある二の堀切は大規模な上に石垣で補強されており一見の価値あり。

急峻な岩山に築かれていますが、車でかなり登ることができ、駐車場も完備。
但し、かなり城域が広く見所も多いため2時間近くかかるかと思います。

⚠️元々、岸岳は鬼子嶽と呼ばれ、豊臣秀吉に滅ぼされた際に、山頂の「姫落とし岩」から子女が突落されたり、集団自害したりと、皆殺しにされた伝承から地元では有名な心霊スポットでもあります。岸岳城で検索すると、サジェストはその類ばかりです。

写真
① 三左衛門殿丸の石垣
②③石垣で補強された二ノ堀切
④岩盤掘削の三ノ堀切
⑤本丸の隅石垣
⑥⑦岩山の急峻な痩せ尾根に築かれています
⑧姫落としの岩の先は100m以上の断崖

2021年11月10日 RED副将軍
波多城[岸岳城  周辺城郭]



ほとんど整備されてませんが、残存度の高い堀切と畝状竪堀、主郭の垂直岩盤が見所です✨

オススメ度 ★★★★⭐︎

築城年代は不詳。松浦党の一族である波多氏の居城。
元々は波多城が波多氏の居城で岸岳城が詰め城であったが、戦国時代には岸岳城を改修し本城となり、波多城は支城となった。
波多氏は、約400年の17代波多親まで続いたが、1593年に改易。
発端は、豊臣秀吉による九州征伐において、秀吉と謁見したが島津と通じていたことから兵を送らずに秀吉に不興を買う。鍋島直茂により減知されたものの存続を認めらたが、文禄の役で鍋島氏の与力大名として渡海するものの、行動を共にしなかった事を軍令違反とみなされ、所領を没収、徳川家康預かりとされ常陸筑波山麓へと配流となったもの。
波多氏が改易され、唐津藩主・寺沢広高の支配となったが、交通の便のよい唐津城を建築して移り、廃城となったと見られる。

見所
主郭背後の堀切は深く尾根筋を分断。
主郭南側は傾斜が緩やかであり、防御線を張るため畝状竪堀を敷設。これらの残存度は極めて高い。
主郭は高さ4〜5mの垂直岩盤が切り立ち、ロープがかかってますが、回り込めば楽に登ることができます。

縄張り図を見れば、主郭背後の堀切の先には更に曲輪と堀切が続く様であったが、ヤブ化により進みませんでした。

行き方は波多八幡神社の背後より登城します。周辺の路肩に駐車は可能です。
ヤブ化してますが、尾根筋を進めば迷うことはありません。
比高は50mほどで15分も進めば主郭に辿り着きます。

写真
①②主郭は峻険な岩盤が切り立つ
③主郭背後の堀切
④主郭南側の畝状竪堀
⑤主郭を巡る土塁
⑥主郭の虎口
⑦⑧登城路

2021年08月07日 龍馬備中守【】
池田城[岸岳城  周辺城郭]



佐賀県の唐津市にある【肥前・池田城】☆昔は東松浦郡に属してましたが、平成の大合併により唐津市相知町横枕になりました♪地元では謎の城と呼ばれています☆

厳木川の右岸の丘陵地に造られた山城になります☆在地豪族・相知氏の東側の支城となっていましたが、戦国時代には西側に位置する岸岳城の出丸として機能しました☆
岸岳城との関係性…つまりは…松浦党の城郭だったという訳ですね〜♪突っ込んで調べてみると在地豪族・相知氏はやっぱり松浦党でした☆

戦国時代には同じく松浦党の武将・池田治部少輔岩之丞の居城になっています☆

唐津の海と山岳を制した松浦党…やっぱりカッコいいですね☆そして地元の方々の愛のある整備に感謝です♪

2021年05月29日 さすらいの征夷大将軍慶誾尼☆寧
岸岳城

5月29日姫落とし手前にマムシがいました…生まれて初めてマムシがトグロ巻いてるとこ見ました!あっ、そんな事はどーでもいい…皆さまお気をつけあそばせ〜

2021年05月05日 さすらいの征夷大将軍慶誾尼☆寧
岸岳城



城友が事前に準備してくれた数々の資料に目を通して出発しました。

駐車場〜説明板〜旗竿石〜三の堀切〜三の丸〜二の堀切〜二の丸〜井戸跡〜本丸〜三左衛門殿曲輪〜姫落としまで写真撮りながら休憩なしで約2時間…
帰りは約1時間と合計3時間
五月晴れで鳥の囀りをBGMに森林浴って悠長に書きたい気持ちは山々だけど、ここは『山』です!『やーま』『ヤマ』『YAMA』
それなりの低山用の靴だけは履いて行ったものの…
行き交う人々は頭の先からつま先まで『登山そのもの』の格好
はい、すれ違う方々の『あの方達、随分と軽装だったよね〜』と言う声がするのではないかと耳を澄ませました笑

靴はちゃんとしたのを履いて行ってください。
途中、ロープやチェーンがあるので手袋も忘れずに…
下る時、杖があったら楽だと思いました。

最後にもう一度
概要に、『山頂付近は急崖に囲まれ、城はその山頂部の南側尾根の上に築かれている。』と書かれている通り『山』です。

【駐車場】
駐車場の案内板があるきちんとした駐車場が二箇所準備されています。
その駐車場までの道もきちんと舗装されており道中はなんら問題ありません。


2020年11月15日 大納言尼子保久
岸岳城



岸岳の西方から案内に従い車を走らせ、、登山口近くの駐車場に車を停めて、登城。30分かからず本丸へ到着。天気も良く、多少汗かきましたが、事前調べで心霊スポットとわかったので何やら背筋に寒気を感じながら下山はダッシュで。午前中の登城で良かった。途中誰にも会わず。

2020年05月23日 国府左京大夫城介
岸岳城

公共交通機関を使って岸岳城のリア攻め方法。

一つは、筑肥線の山本駅から徒歩。
これについては、先人たちの口コミを参考にしてください。

もう一つは、唐津バスセンター(大手口)から、バスで向かう方法です。
「市民病院きたはた」行で、「坊中」若しくは「芳谷」で下車してください。唐津から、ここまで約35分位でつきます。午前中は、一時間に一本はあります。バス停から、15分位で、登城口である法安寺に到着します。

あと、登城する前には、必ず帰りのバスの時間は確認しておいて下さい。
休める場所が、法安寺近くの岸岳ふれあい館しかないので。

2019年01月06日 織田上総介晃司
岸岳城

車で登山口まで行くことができ、駐車場も2ヶ所あります。
しかし茶園の平脇の駐車場への入り口は急角度でミニバンなどホイールベースの長い車はバンパーの底を擦るかもしれません。

登山口へ行く途中にも城の遺構があります。
岸岳城の縄張りは峰に沿っているため細長く、すべて見ようとすれば1kmくらい歩くようになります。

2018年01月27日 笑門来猫
岸岳城

案内板から受ける印象とは異なり個々の郭サイズが大きいので、端から端まで歩き、さらに道を少し外れたりすると、結構な時間がかかると思います。

行きはそれぞれの郭を乗り越えていったのですが、石垣あり高低さあり、かなり大変。
しかし実はほとんどの場所で郭を迂回する脇道が用意されており、帰りは楽々でさした。
ただ、脇道は遺構が全然見えないので、利用は片道だけのが良いと思います。


2018年01月17日 カーネル
岸岳城

筑肥線の山本駅から

小雨が降ってるが、コンビニがないので、傘を買えず・・・。雨をかわしながら向かうことにする

駅正面の国道203号を左折して南下すると、道の右側に青山城の看板があります。帰りに寄りました

駅をでて10分で県道51号を右へ曲がり、さらに15分ほどで芳谷バス停があり、この先の鬼子岳城址法安寺の看板で左折する

ここまで歩道もあり歩きやすいです。先に進んだふれあい館に岸岳城の案内地図があります。法安寺の護摩堂の脇を通り、山に入ります

山道は、本丸まで案内も多数あり迷わず進めます。旗竿石、三の丸、二ノ丸、本丸から姫落としまで細長い城域は楽しめ、霧に霞む石垣は最高でした

法安寺でお参りしたら、お茶を御馳走になってしまった。

青山城に寄ってから、駅に戻ったのは3時間50分後。時間が足りず、最後は走った


2013年10月13日 筑前守とんかつ
岸岳城

最寄り駅は筑肥線西相知駅(秘境駅です)。踏切を渡って約3km弱行くと城址の案内看板があります。道中の道はアスファルトですが、通行量が少ないと思われます。落ち葉とか折れた木が散乱してる箇所もあります。夜なので、駐車場とかは見つけきれませんでした。

2013年03月01日 唐獅子牡丹
岸岳城

岸岳城は、別名鬼子岳城と、言われています。この城は、昔秀吉に攻められて、皆殺しにい、今でも山に入ると、祟られると、地元の人達は、噂し恐れられています。またこの地域一帯には、あっちこっちに、落人の墓があます。地元では、心霊スポットとして、有名で、誰も近づきません、
麓には、マンガのへうげもんに出てくる、岸岳釜跡がいくつかあります。
近年はその釜跡を、盗掘する輩がいるので、定期的に、見廻りされているそうです。

2012年01月08日 中務少輔なおつぐ
岸岳城

山歩きに自信が無い方は、でほたる公園を通って相知に抜ける道路を走っていると、岸岳城への看板が有りますから左折して、暫く走ると5台位止めれる駐車場が有ります。そこから登れば30分もかかりません。因みに駐車場から少し歩くと小さな社が有りますので参って下さい。岸岳末孫に取り付かれ無いようにする為に


2011年11月08日 大膳大夫マイリバ
岸岳城

ちなみに、やけに細長〜〜〜〜〜い城で、旗竿岩からの尾根歩きの距離も長く、100名山登山で鍛えた拙者の健脚でも岸岳ふれあい館のからの往復で約1時間かかりました(写真撮るのにかなり足を止めたけど)
自信の無い方は、岸岳ふれあい館にある解説板の前と法安寺にある波多三河守の像の前で記念撮影してくださいね

2011年11月08日 大膳大夫マイリバ
岸岳城

「素晴らしい」の一言に尽きます
「吉○ヶ里」よりも日本100名城に相応しいと言うと感情移入しすぎかな?
特に二の堀切&やぐら跡に現存する石垣は感動モノ
旗竿岩には本当に竿が据え付けてありました
姫落とし岩からの画像もアップしましたが、携帯では『引き込まれそうな』スリル感は伝わらないので、是非リアル攻めしてください

2010年08月21日 中務少輔なおつぐ
岸岳城

岸岳城の最終目的地の姫落とし
その昔、岸岳城の姫が秀吉から見初められ、城上がりを言われたが拒否した為に攻められ落城。その時に姫は岩の上から身を投げたと言われているのが姫落とし。その岩の上に立ち下を見ると足がすくみます。

旗立岩からは遠く唐津の町や海や島が見えます。

岸岳城の周辺スポット情報

 伝旗竿石(遺構・復元物)

 三の堀切(遺構・復元物)

 三の丸(遺構・復元物)

 二の堀切(遺構・復元物)

 本丸(遺構・復元物)

 三左衛門殿丸(遺構・復元物)

 姫落し岩(遺構・復元物)

 やぐら跡(遺構・復元物)

 池田城(周辺城郭)

 牟田部館(周辺城郭)

 波多城(周辺城郭)

 島村城(周辺城郭)

 相知城(周辺城郭)

 おまん塚(寺社・史跡)

 駐車場(駐車場)

 駐車場(駐車場)

 登山口(その他)

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