梶峰城(かじみねじょう)

梶峰城の基本情報

通称・別名

多久城

所在地

佐賀県多久市多久町2001

旧国名

肥前国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

多久宗直

築城年

建久4年(1193)頃

主な改修者

主な城主

多久氏、龍造寺氏

廃城年

慶長5年(1600)

遺構

曲輪、土塁

指定文化財

再建造物

周辺の城

獅子ヶ城(佐賀県唐津市)[8.0km]
須古城(佐賀県杵島郡)[8.2km]
おつぼ山神籠石(佐賀県武雄市)[9.0km]
佐留志城(佐賀県杵島郡)[9.0km]
潮見城(佐賀県武雄市)[10.0km]
塚崎城(佐賀県武雄市)[10.1km]
小城城(佐賀県小城市)[10.5km]
陣の森城(佐賀県小城市)[11.4km]
千葉城(佐賀県小城市)[12.2km]
日在城(佐賀県伊万里市)[13.5km]

梶峰城の解説文



梶峰城(かじみねじょう)は、佐賀県多久市にあった日本の城(山城)。別名多久城(たくのじょう)[1]

概要 

多久市にある標高201mの梶峰山の頂に位置する。津久井氏を祖とする多久氏は、当初南多久の館に拠ったが、建久4年(1193年)頃に多久宗直が当城と砦、居館を築いた。

以降は350年以上にわたり多久氏が居城としたが、天文13年(1544年)に龍造寺周家に攻められると当主・多久宗時は逃亡して周家が城主となった。翌14年(1545年)に有馬氏の支援を受けて多久氏が当城に復帰したが、永禄5年(1562年)に龍造寺隆信・長信に再び攻められて須古に移った。以後は長信が城主となり、天正15年(1587年)に豊臣秀吉より多久藩主に任ぜられている。やがて慶長5年(1600年)に廃され、多久藩は鍋島藩内の多久邑となった。

出典 

参考文献 

  • 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典(43.熊本県)』、角川書店、1987年

梶峰城の口コミ情報

2024年06月01日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
多久御館[梶峰城  周辺城郭]



佐賀県の多久市にある【多久御館】♪梶峰城の北側の平野部で、牛津川と小さな河川が合流する左岸に後多久氏の居館は存在しました♪

現在は一段高まり、畑となっている為、遺構は残りません。この地は中世の頃より、多久氏が在地領主として勢力を振るいました♪この元々いた多久氏を前多久氏と呼び、後に龍造寺長信から多久に所領を賜った多久氏が後多久氏と呼ばれています♪
後多久氏は別称を水ヶ江龍造寺氏とも呼ばれます♪戦国大名である龍造寺隆信の実弟・龍造寺長信(前多久氏の後の梶峰城主)の嫡男で、初代・多久領主の安順が後多久氏の祖となります♪龍造寺隆信が水ヶ江龍造寺氏から本家筋の村中龍造寺氏の相続者になった際に、水ヶ江家の名跡を継いだのが龍造寺長信であり、水ヶ江の流れを組みます♪

安順は『文禄・慶長の役』に参加し、その戦の引き揚げの時に、朝鮮から同行した陶工の李参平らを多久で預かり、肥前国磁器(伊万里焼)の源流を作りました♪関ヶ原の戦いでは主家に従い西軍に属しながらも、徳川家康に大量の米を送っています。慶長12年(1607年)龍造寺氏本家である龍造寺高房が死去し断絶すると、それを引き継いだ鍋島氏に重用されています♪以降の後多久氏は、親族と同等の待遇を得ており、佐賀藩請役を務めました♪
この多久御館に関しては、あまり利用されなかった様ではありますが、2万1700石余の多久領はその家臣達が守りました♪
後多久氏の当主は、佐賀城の多久屋敷で政務を全うしております♪

現在は畑になっているものの、そこは高まりを見せます♪東側の川には『唐堀』という名前が付いており、天然の濠として利用した事でしょう♪畑に立ってみて、御館を想像してしまいました♪

2024年02月17日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
上小田館[梶峰城  周辺城郭]



佐賀県の杵島郡の大町町にある【上小田館】♪近隣には天子社があり、上小田館には土塁と石塔の破片(お地蔵様の脇に)が残ります♪その他の遺構は無しです♪

この上小田館ですが、詳細は不明です☆
ですが、室町中期の小田には草場姓を名乗る豪族がいました♪その末裔である草場民部太夫は、龍造寺氏🆚有馬氏の西肥前の抗争に巻き込まれています☆有馬方の梶峰城主・多久宗利の配下としてこの抗争に参陣☆天正2年(1574年)須古城の戦いの時に、龍造寺隆信が須古城主・平井氏を攻めた際にこの草場民部太夫も討死したと伝わります…。。

この後に、小田を領した龍造寺隆信の弟・龍造寺信周です♪龍造寺信周が須古城へ居を移した後に、三根の中野城から馬場肥前守鑑周(綾部城城主・馬場頼周の孫)が小田へ移っています♪従って、この草場民部太夫、龍造寺信周、ハタマタ馬場肥前守鑑周の居館だったのかなぁ〜???この辺りの土豪、武将が絡んでるのは間違い無さそうです♪

眼下には長崎街道が走り、上小田は一段高台になります♪北東側の丘陵地には乙宮山城♪調べてみて分かった事ですが、古来の有明海の海岸線は、上小田のすぐ下まで来ていました♪

現在も上小田集落には天子社が残ります♪
この天子社境内には、寛政3年(1791年)に建てられたとされる乙護法石祠があります♪護法とは仏法を守護する為に示現する、童形の鬼神の事を指します♪幼童風の名を付けていて、乙護法と呼ばれています♪

2024年02月17日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
乙宮山城[梶峰城  周辺城郭]



佐賀県の杵島郡の大町町にある【乙宮山城】♪鬼ノ鼻山(標高434m)を含む北側に存在する山塊は多久との境界線になります♪この山塊から東へ二又に伸びる南側の尾根の麓、丘陵地(標高64m)に乙宮山城は存在します♪南側は佐賀平野が広がり眺望は開け、眼下には長崎街道が走り街道は塩田や武雄(塚崎)へ向かう分岐点にあり、また北の多久へも向かう重要な要衝地となる場所にあったという事が分かります♪

さてこの乙宮山城ですが、築城年などは不明の城郭でありますが、その造りは中々技巧的であり主郭周りを掘られた横堀は段を付けて二重に築かれ横矢を掛け、土塁で囲み込み虎口を開口させます♪
戦国時代の後半まで使用された城郭と思われます♪

元亀年間(1570年~1573年)龍造寺隆信は弟の龍造寺信周を小田に置いて須古城の平井氏や有馬氏に備え守備しています♪
平井氏が、まだ須古城で守りを固めていた頃の、この小田エリアは特に、龍造寺氏と有馬氏の境目だったと思われます♪
幾度に渡り、須古城を攻めたてた龍造寺隆信ですが、第四次須古城攻めで遂に平井氏を須古城から陥落させると天正3年(1574年)龍造寺信周を小田から須古城へ移し、三根の中野城から馬場肥前守鑑周(綾部城城主・馬場頼周の孫)を小田へ移しました♪従って、乙宮山城は馬場肥前守鑑周の城だったと思われます♪
※ 因みに馬場頼周と龍造寺家兼(龍造寺隆信の曽祖父)は主家の少弐氏を巡り対立しています☆馬場頼周は佐嘉から龍造寺家兼を追放しようとしたけど、結果、筑後の蒲池氏に助けられ難を逃れています☆天文15年(1546年)頃の話です☆この時より、龍造寺氏と馬場氏はバチバチではありましたが、馬場肥前守鑑周の代には龍造寺家の家臣となっています♪

この馬場氏ですが、慶長16年(1611年)馬場茂貞が改易されるまでこの地を統治してたと伝わります♪

2023年12月02日 気分爽快豊後守
梶峰城



一言で言い表せば多彩な堀が印象に残る城です。
とても写真8枚ではお伝えできませんが、何かの参考になれば。
登りは多久神社からのルートと、駐車場の南にある登山道からのルートがあり、幟旗が目印となっている登山道ルートが断然わかりやすいです。ただし、多久神社ルートにある縄張り図を地図に取り込んでから攻城すると、遺構の見逃しが少なくなります。私はこれをしなかったので縦状畝堀探索を諦めました。
多久神社からのルートは途中道がわからなくなるのと凄い藪で地図がないと遭難するかもしれません。
①登山道を登り切ると現れる最初の堀切
②この堀切は竪堀につながっている
③両側が竪堀となっている土橋
④六番目の堀は、郭の急峻な切岸手前にあった
⑤雌城方向の尾根にある岩盤堀切
⑥石垣のようにも見える急峻な尾根路
⑦主郭から落ち込む竪堀を下から見上げた
⑧多久神社から登った先にある郭北側の長い横堀

2023年03月15日 隠岐守雪之葉介
梶峰城



現在登城するには、多久八幡宮から城北側の尾根づたいに、6条の堀切を超えて到達できます。現地の方により、ノボリや案内板が設置されており、迷わずに行けます。途中一部崩落しかかっている部分もあります。

2022年03月05日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
多久氏館[梶峰城  周辺城郭]



佐賀県の多久市にある【多久氏館】♪
別名を陣内館とも呼ばれています☆
建久年間(鎌倉初期)に摂津国から下向して来た多久太郎宗直が最初に居を構えた居館と伝わります☆

南多久のほぼ中央部の庄集落にある小高い丘陵地で周囲には空堀を巡らし南に牛津川が流れ南面の平坦部が一望出来る場所に城郭は存在しました☆
この多久氏館を中心にして九九町の城下が形成されていた様で現在も地名として椋町、上田町、柳井町、細工町、屠蘇町、皿屋敷、庄、外廻などが残ります♪

居館跡は延寿寺の境内とされています☆
この延寿寺は安国山と号していて臨済宗☆
開山は建久年間であり多久太郎宗直の創建と伝わります☆境内には五輪塔が5基残っていて、この多久太郎宗直一族の墓所とされています☆菩提寺なのでしょう☆

以下、延寿寺の住職様から聞いた話になります♪→源頼朝家来から武功を立てた事により全国の多久の地を賜った♪多久宗直☆この頃は陣内館と呼ばれていた♪北に山(天山)南に川(牛津川)西に坊山で東が開けたエリア、風水的な事❓何かゲンを担ぐ意味があったんだと思われる☆牛津川の場所に船着場→台地上にカラホリと呼ばれる道、土塁あり☆
肥前は多久に土着し居館した多久氏館から以後は梶峰城(牛津川の氾濫などにより)へ移っている☆と延寿寺では伝わっている様です☆貴重な話を聞く事が出来ました♪

2021年02月27日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
芳岩様御屋敷[梶峰城  周辺城郭]



佐賀県の多久市にある芳岩様御屋敷跡☆龍造寺長信屋敷跡の方が有名かもしれません☆梶峰城の山の麓にある居館跡となります♪

芳岩様は 龍造寺長信の妻になります☆現在居館跡は西渓公園となっていて数段の段郭と切岸、梶峰城側には堀切が残っています♪

駐車場もあるので梶峰城とセットで行かれる事をオススメします♪

2016年10月31日 カーネル
梶峰城

北麓の多久八幡宮から南に伸びる作業用林道を進みます
すぐに白い欄干の橋があるので渡り、そのまま直進です。真っ直ぐに道があるとは思えないくらい藪です
私は白い柵に沿って左折して歩いてしまい、藪に閉ざされ、正規ルートに戻るのに四苦八苦しました
とはいえ、正規ルートも藪に覆われて全然進めません。ただ足元が平なのと、どちらに進めばいいかの判断にはなります

林道が終点になったら目の前の尾根に取りつきます。道はあるようでないです。尾根筋に着くと平らになり、道があります

尾根から最後の登りに取り付くとこで、また道がありません。少し登ってから左(東)へ50mくらい獣道を辿ってトラバースすると、堀が2つありここから直登すると主郭で(登りきったとこにリボンがあるから正規ルートかと)
主郭は南北に長く、浅い土塁と大きな穴がありました

神社から往復1時間半で、服に着いた種取りに30分かかりました


梶峰城の周辺スポット情報

 芳岩様御屋敷(周辺城郭)

 多久氏館(周辺城郭)

 乙宮山城(周辺城郭)

 上小田館(周辺城郭)

 多久御館(周辺城郭)

 登山口(その他)

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