佐留志城(さるしじょう)
佐留志城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 佐賀県杵島郡江北町大字佐留志字三本松
旧国名
- 肥前国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 前田家定
築城年
- 元亀年間(1570〜1573)
主な改修者
- -
主な城主
- 前田氏
廃城年
- -
遺構
- 消滅
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑
周辺の城
-
陣の森城(佐賀県小城市)[4.2km]
須古城(佐賀県杵島郡)[8.0km]
小城城(佐賀県小城市)[8.6km]
梶峰城(佐賀県多久市)[9.0km]
千葉城(佐賀県小城市)[10.3km]
佐賀城(佐賀県佐賀市)[12.0km]
おつぼ山神籠石(佐賀県武雄市)[12.1km]
水ヶ江城(佐賀県佐賀市)[12.2km]
常広城(佐賀県鹿島市)[12.7km]
高木城(佐賀県佐賀市)[13.2km]
佐留志城の口コミ情報
2024年06月05日 龍馬備中守【】
秋田氏館[佐留志城 周辺城郭]
佐賀県の多久市の東多久にある【秋田氏館】♪両子山から南東に伸びる尾根上に常應寺というお寺さんがあるのですが、この一帯が城館とされています♪東側対岸には、牛尾梅林のある丘陵地があり、眼下には牛津川が南に蛇行しながら流れ、佐賀平野が広がります♪戦国時代は龍造寺氏VS有馬氏がバチバチやった場所です。
この秋田氏館ですが、現在は館林と地名で残ります♪秋田氏は宮内大輔と称して、名を豊定と言います♪元々は紀州から、天徳元年(957年)に、肥前に下向して来ています♪村上天皇の御代として、肥前国の守護となり納所を拠点としました♪
秋田宮内大輔豊定の子、秋田城介豊次も肥前守護を継いでいます♪後には、姓を納所と改めました♪因みに、納所と云う地名は官庫を置いて領内の租税を、納めた為、この場所が納所と呼ばれる由来と伝わります♪
遺構等は無しですが、『館林』や『館の用水』と呼ばれる地名が存在しています♪秋田氏館は常應寺の東麓に築かれ高台を維持します♪現在、常應寺には秋田豊定、豊次父子の墓が残ります♪
2024年05月07日 龍馬備中守【】
川越城[佐留志城 周辺城郭]
佐賀県の小城市の上砥川にある【川越城】佐賀には珍しく雪が降りました♪この時期に雪はミスマッチかもですが、引き続き行った流れのまま口コミします♪
小城市と杵島郡の境目に立地する別名、広厳城は北西方には三宝山、大平山を配し東方には多久川が流れ、南は佐賀平野に接します♪この山々の南東部に突き出した、標高22m程の先端に城郭は立地します♪南面はコンクリートで固められていますが、見るからに山斜面は鋭いです♪
建武4年(1337年)田中行祐申状(実相院文書)には『小城郡砥河内得久名田地壱町五段余、屋敷畠地』は、行祐重代相伝知行と残ります♪
更に康永2年(1343年)千葉胤朝畠地宛行状には『小城郡砥河保内東方楽仏苑畠地』を田中彦七入道に半分は御恩として、半分は御手所とし
て宛行うとあります♪砥河は、砥川の事です♪
応永11年(1404年)田中孝季申状には『肥前国小城郡之内戸河田中孫八季秀申、由緒
分…以下続く…下賜御判、可備後代金鏡』と残り戸河として出て来ます♪
時は鎌倉時代から室町時代初頭にかけて、砥川には知行主として田中氏がいた事が知られています♪
小城は古くから肥前千葉氏の領有するエリアとなる為、砥川の田中氏は千葉氏の家臣団の1人だったのでしょうね♪
但し『九州治乱記』には千葉胤繁が鮎川氏、桜井氏らの家人を砥川に配置して東西の敵に備えたとして記載があります♪
特に天文年間以降は、このエリアは、肥前千葉氏VS有馬氏の対決の場になっています♪
現在、愛宕神社が主郭の場所となり、北向きに段郭が数段続きます♪西側に虎口状の開きを見せます♪南側には長崎街道が走り、街道監視の城郭でしょう♪城域を考えても、砦感が強いです♪
2023年12月22日 龍馬備中守【】
八幡山城[佐留志城 周辺城郭]
佐賀県の小城市にある【八幡山城(八幡岳砦)】♪八幡山城は標高243mの御岳山より東へ舌状に伸びた低丘陵地(標高29m)の突端部に立地します♪山頂部には八幡神社があり、眼下には長崎街道(蒲原宿)が走ります♪現在は34号線が貫通しており、北側の山容部は今はもう見れません☆
平野部と山間部の接地面であり街道、川の流れ場所から何となくなんかありそうだなぁ〜?とずっと気になっていた場所ではありました♪
この八幡山城のある場所は古くは弥生時代〜鎌倉、戦国時代頃の遺物、遺構が出てきています♪見通しの良い八幡山はやっぱり、昔から何かある場所なのです♪
山頂にある八幡神社♪砥川三所八幡宮の1つでコレを上宮と称し、肥前・千葉胤貞の勧請と伝わっています♪相模国の鶴岡八幡宮の分霊と云われてます♪
『砥河三所八幡宮者、千葉何某之創造、而鎌倉鶴岡之勧請也。本宮在内砥川、中宮在谷村、下宮在下砥川、云云』とありますが、現在、中宮は下砥川、下宮は上砥川と残り長崎街道の宿場町(古賀宿)に鎮座します♪
さて♪この八幡山城ですが、詳細は不明の山城です☆ただ、建武4年(1337年)頃の砥川の地は田中行祐重代相伝の知行地とあり、『…去年故殿鎮西御下向之時…』と記されていて故殿とは千葉胤貞の事と考えられています♪田中行祐重代相伝は、砥川の地で千葉氏の支配下にあった事が推測されます♪
戦国時代には長きに渡り、この地の覇権を争う龍造寺氏🆚有馬氏☆当初は佐賀(嘉瀬川より東西)⇔小城が境目の地でしたが、龍造寺氏の勢力拡大に伴い、小城⇔杵島が境目となり徐々に西側へ有馬氏を押し戻す様な形で西側へ移動しています♪この、龍造寺氏🆚有馬氏の勢力抗争ですが、明応年間(1492~1501年)頃には芦刈に鴨打氏(鴨打城)を置き、砥川の広厳城(肥前・川越城)には桜井氏・鮎川氏の両氏を置き、更に、この一環として乙柳の持永氏(持永城)を加えて、そのエリアの守りを強固にしています♪
詳細不明な八幡山城ではありますが、この事をふまえ考えると、戦国時代には龍造寺氏、ハタマタ有馬氏の属城だった事が考えられます♪んで調べてみたら…『鎮西志』には『家老・納富但馬守(鴨内胤忠、徳島信忠、前田氏を率いて)は八幡岳砦を攻略した』とありました☆
つまりは、有馬方の拠点城だった城を攻め落としたという記述を見つけました♪その後は、龍造寺氏が使用したのかな〜??戦略的拠点だった事は間違い無い様ですね♪取った取られたは付き物の戦国時代です☆時は進み…『丹坂峠の戦い』では龍造寺氏🆚有馬氏の戦いが繰り広げられていて、有馬氏は両子山に本陣を構え、丹坂峠で激突☆結果的には龍造寺軍が勝利を収めています☆
この戦いにより、龍造寺軍は一層その勢力を強めています☆その頃にも、この八幡山は砦として機能した事でしょうね♪
平成4年には国道の道幅拡張により、工事に先立って発掘調査が行われていて、戦国時代特有の二重堀切の一部や竪堀などが検出されています♪更には白磁碗を中心とする輸入陶磁器の破片が、かなりの数で出土しています♪有力な人物が存在していた証拠でしょうね♪有力な土豪で、砥川を本拠地とする、田中氏の、後に龍造寺氏、有馬氏の抗争の際に使用された城郭♪が濃厚そうですね♪
2023年12月18日 龍馬備中守【】
城野山城[佐留志城 周辺城郭]
佐賀県の杵島郡にある【城野山城】♪北方は辨天山♪太平山から西に伸びる山塊南側の麓部でその山容は南に突き出す様な形で、城郭は存在しました♪西側は新堤があります♪現在は県道が通り北へ行くと多久に抜ける場所となっていて、鈴山峠があり、古くから多久へ抜ける街道としての役割を匂わせます♪
詳細不明ですが、城主は於保氏が伝えられますが、色々調べたのですが、たどり着けませんでした☆不明な点が多すぎて。。
何故、於保氏なのか?分かりません☆
於保氏と云えば、古くは高木城の高木氏の一族であり、嘉瀬川の西、於保集落にその城郭を構えています♪古くから肥前に根を張り勢力を構えた於保氏♪元弘3年(1333年)には、九州探題・北条英時を博多で攻めたり、永正2年(1505年)には横辺田(現、江北町小田付近)の戦いでは、於保馬太夫資宗は戦死したりと、確認が取れます♪その他も記述には出てきますが、衰退したり、盛り返したりしています♪特出すべきは於保備前守胤宗は妻が龍造寺家兼の娘であるという姻戚関係から天文14年(1545年)龍造寺家兼が多久城を攻めた時、これに参戦し志久峠の戦で討死したが、その軍功によって於保家もまた再興しています♪何が言いたいかと言うと、於保城の場所から西側の多久付近で活躍していると言う事です♪もしかしたら、その時に与えられた地なのかもしれません♪
城野山城は現、地名は山口(山口にも花祭の字は残っています☆)ではありますが、古くは鈴山峠北方にある花祭村の一部だった様です♪花祭の場所は現在考える、花祭よりももっと広大だったと思われます♪
この花祭を調べてみました♪
戦国時代には領主・花祭一族の山城があったとされています♪その後は多久領の一部となり鈴山峠付近には見張り所が置かれました♪規模の大きい往時の花祭♪山間部が張り出し、眼下には長崎街道、多久へ向かう要衝地である以上、この城野山城は、この見張り所としてという事も十二分に考えられる♪
花祭氏か、はたまた於保氏の城郭だったのか?今は知る余地もありません…。。
今一度、調べてみようと思いました☆
因みに、門前と云う地名が残っていて、コレは城郭に由来するものかと考えられます♪
2023年12月17日 龍馬備中守【】
山口城[佐留志城 周辺城郭]
佐賀県の杵島郡の江北町にある【肥前・山口城】♪北側に標高243mの御岳山が聳え麓に東西に長崎街道が走り、東には佐留志城♪南には六角川が、蛇行しながら東流していきます♪
現在は山口の西分には『館屋敷』と呼ばれる場所があって、現在は水田となっています♪
周りには濠遺構と思われる、水路の名残のみを残しています♪所謂、平野に築かれたクリーク城館だった事が考えられますが、今はその縄張り、規模共に知る余地もありません☆
因みに、山口には東分もあるのですが、約一千数百年前の鯨骨が出土されています♪
この鯨骨が埋まっていた地層は水田の地表下2メートル程の沖積層から出土♪有明海まで、約7キロの内陸部ですが、平安時代の始め頃までは、水深5メートル以上の海であった様です♪有明海の海の後退と干拓によって新田開発が行われたのが、平安時代中期以降だったと云われています♪
築城年は不明ですが、城主は井元左近充と云われています♪有馬氏の家臣であり、後には龍造寺氏に従っています♪
このエリアは室町時代中期以降は、肥前・千葉氏🆚有馬氏の対立☆戦国時代には龍造寺氏🆚有馬氏の競合争闘の渦中に置かれています♪室町時代中期、肥前・千葉氏は六角川の北岸に進出して、有馬氏は白石地方に進出して、両軍は衝突を繰り返しています☆
永正10年(1513年)千葉興常は、山口80町の地を橘一族である中村三河守に安堵しています☆
天文10年(1541年)前田志摩守尚忠は肥前・千葉氏から、佐留志城(肥前・山口城より東)を与えられています♪
ただこの頃、佐留志の代官は高橋氏を前田志摩守、子の伊予守が討ち果たしています☆
永禄5年(1562年)の出来事です☆
この時代より、既に龍造寺氏と有馬氏の争いに入っています☆コレにより、有馬仙岩はまず、佐留志城を攻めています☆前田志摩守は討死していますが、子の前田伊予守は肥前・山口城主の井元左近充と共に功績があった様です☆
天正4年(1576年)龍造寺隆信が藤津に侵攻した際には井元上野介が龍造寺方として横造城攻めに従軍したと云われています☆
龍造寺氏、有馬氏の境界線である、このエリアに生きた国衆達もまた、歴史の渦中に巻き込まれています☆
戦国末期には、肥前・山口城のある、山口集落は豊臣秀吉の朱印状により龍造寺高房が安堵しています♪
江戸時代からは佐賀藩領となっています♪
2022年02月28日 龍馬備中守【】
羽佐間城[佐留志城 周辺城郭]
佐賀県の多久市にある【羽佐間城】♪両子山系の大佐古山、宝満山の北の麓で牛津川の両岸に形成され、背後には由利岳がある立地に集落内に城郭は存在しました☆
永禄5年の丹坂峠の合戦(龍造寺氏🆚有馬氏)の際に龍造寺氏はココ、羽佐間の田中掃部助の案内により陣を構えた場所でもあります☆
この田中氏は近江の佐々木一族で、鎌倉時代の承久の乱の功により羽佐間を与えられ下向しこの地に土着したと云われています♪
この田中氏の館は宝満山の東、現、臨済宗南禅寺派・虎渓寺の一帯で羽佐間城と称しています☆羽佐間城は目ぼしい遺構はありませんが一段高い場所にある為、成る程♪納得な場所です☆
更にこの羽佐間は平野部で更に川の近くの低位地にある為度々水害に悩まされました☆
佐賀の治水の神様である成富兵庫茂安は大堰を築いていて羽佐間周辺の治水事情に噛んでいます☆現在もこの大堰は下流域の灌漑用水の確保に大きな役割を果たし、大井手と呼ばれています♪
2022年01月17日 龍馬備中守【】
肥前石切丁場[佐留志城 遺構・復元物]
佐賀県の小城市の上砥川・谷地区にある【肥前石切丁場】♪肥前にも実は石工集団が居ました☆
この肥前石工は安土桃山時代以降から石仏や各種石造物(肥前鳥居・肥前狛犬など)を多く手掛けていて砥川石工集団を作り石材加工業を営んでいました☆
特に元禄は江戸時代を中心に平川与四右衛門など優れた石工を輩出しています♪
平川与四右衛門などが残した石造物はこのエリアに無数に残っています☆更に佐賀、長崎、熊本の3県にまたがり在銘像が確認されています☆
石を切り出す方法には色々ありますが通常、山中にある巨石などに楔を打ち付けて割り、石を採掘します☆よく見る石切丁場です♪が此方の肥前石切丁場は抗内堀で石を採掘していました☆抗内堀とはイメージで言うと巨石を横穴状にして石を採掘していく方法です♪石を丸く加工したものかな〜?そんなのも転がってました☆牛津川、佐賀平野が望める山の中♪佐賀に石工集団が居た☆なんだか嬉しくなりました♪
2021年11月13日 龍馬備中守【】
佐留志城
佐賀県の杵島郡の江北町にある【佐留志城】♪別名を馬場城とも呼びます☆
歴史詳細が無い為、口コミに入れておきます♪遺構は無いとなっていますが濠の名残は残してます☆それは戦国時代には身を守る濠として、泰平の世には生活を守る灌漑、または生活用水として活用しました☆
戦国時代には有馬氏に属し丹坂峠の戦いの頃より龍造寺隆信の家臣として前田伊予守家定が領有しました☆
北部には御岳山南麓から南部の六角川下流に至る南北に長い平坦地に立地します♪地名の由来は『芦の広場』を意味するアイヌ語のサルシでこの辺り一帯がアシの群生地だったとする説があります☆
中世には南北朝時代に見える集落名で杵島郡の内になります☆戦国時代には大友親世知行国々散在所領所職注文に諸国の知行地と共に肥前佐留志の名前が残ります☆
ただし、その他には所見が無くて色んな事が不明です☆集落を歩いてみる限りは城郭と言うよりは城館、居館だったのでは無いか?と思われます☆佐留志城は濠に囲われた佐賀平野特有の城館といった印象です♪ 『館屋敷』と呼ばれる場所が下惣区公民館の北側一帯に築かれていました☆
この肥前前田氏の出自もよく分かっていませんが肥前千葉喜胤がこの地を前田志摩守に与えたとも伝わります♪
また戦国時代には堤弥八郎宛て龍造寺隆信判物には『さるし・惣領分』として6箇所、計10反の地が与えられています☆
堤氏は南北朝時代以来、筑後下田城(館)に移り後に龍造寺隆信に属しその後は鍋島家に仕えています☆
また集落内には西林寺ともう一つ寺院が残ります☆もう一つは泰松寺☆泰松寺は前田氏の菩提寺と思われます☆この泰松寺には前田家の五輪塔が残ります☆
2021年10月15日 龍馬備中守【】
丹坂峠古戦場[佐留志城 碑・説明板]
佐賀県の小城市にある【丹坂峠の古戦場】東肥前に侵攻して来た島原の有馬氏VS龍造寺氏の決戦の舞台です☆島原の日野江城を拠点とする有馬義貞は小城郡、佐嘉郡へ侵攻☆佐留志城に陣を張りながら有馬勢は柳鶴の入江へ船体を送り込んできました☆此処でまず有馬勢の先鋒・安徳氏は在地豪族で龍造寺方の徳島氏、鴨打氏の奮戦により退けられ撤退☆前哨戦である柳鶴の戦いで敗北☆次に有馬勢は牛津へ攻め入ろうと砥川大橋口へ侵攻☆北に展開☆も…砥川の江口氏ら在地豪族に阻まれ撃退されちゃいます☆更に北へ…丹坂口で遂に両雄は決戦【丹坂峠の戦い】に発展☆初戦は東肥前の在地豪族で凌いだ龍造寺隆信は千葉胤連、小城衆と共に出陣☆一方有馬義貞、有馬勢は両子山、納所天山に陣城を造り張り多久勢と合流しています☆龍造寺方の持永盛秀ほか小城衆は丹坂口に進み千葉胤連と共に丹坂山から東郷、西郷にかけて陣を張り有馬勢の侵略に備えました☆小城へ侵攻しようとする有馬勢の動きを察した千葉胤連隊は両子山陣所含む納所天山陣所を攻撃するも兵が少なく撃沈☆が、千葉胤連は実はこの間に龍造寺隆信に有馬勢の動きを急報☆本隊・龍造寺隆信は800騎余を丹坂口へ走らせました☆遂に動き出す両者です☆
有馬勢の丹坂口への攻撃は島原純茂を大将として攻め入り☆数に勝る有馬勢は戦を有利に展開するも龍造寺氏(佐嘉衆)千葉氏(小城衆)がこの線を死守☆更に牛尾山(牛津丘陵)有馬方の別当が裏切り有馬勢は総崩れになり潰走☆龍造寺隆信は勢いのまま、肥前別府をへて大村氏を追い相浦氏の案内で下多久の陣内城を攻撃☆城主・多久宗利は出陣中の為に陣内城は落城☆多久氏は白石の平井氏を頼り落ち延びました☆本隊・有馬義貞は白石、武雄へ後退☆反撃せんと策しますが…追う龍造寺隆信は反撃の刃を察していました☆次々に陣に火をかけ焼き討ちに有馬義貞は戦意を喪失して島原へと退却☆西肥前の諸将達も陣払い…コレが『丹坂峠の戦い』の一部始終です☆龍造寺隆信にボコボコにされ東肥前の在地豪族達にもやられた有馬家☆西肥前の諸将達は有馬家から反逆☆平戸、佐世保、武雄、諫早が離反し反目に回っていきました☆唯一、忠誠を誓った白石、須古城の平井統治は一転して敵地に孤立する形に☆難攻不落の須古城も龍造寺隆信の手に落ちるのも時間の問題…一時は肥前制覇に最も近かった有馬家☆この戦により西肥前の覇権を失った訳なのです☆
2021年10月14日 龍馬備中守【】
納所天山陣所[佐留志城 周辺城郭]
佐賀県の多久市の【納所天山陣所】♪この城砦の詳細は不明☆東肥前を狙った『丹坂峠の戦い』時の有馬勢の陣所と思われます☆有馬義貞の本陣の両子山陣所から北に1キロも無い場所の天山に納所天山陣所は構えられています☆同山系に立地し両子山陣所が標高366mに対し、ここ納所天山陣所は標高が264mと大きく比高を落とします☆天山は両子山と違い周囲はなだらかな緩斜面地形でハッキリとした切岸などは確認出来ません☆ただ兵を溜めるには打って付けの削平地が残ります☆お送りしている『丹坂峠の戦い』☆今回は前哨戦は柳鶴の戦い☆肥前の牛津川より西側は島原・有馬氏が支配していたエリアです☆西肥前の諸将は皆有馬氏に従って出陣☆普通に考えたら有馬氏に軍配が上がる☆それ位に有馬家は名門で西肥前において力を持ってました☆有馬家は20万石の石高を持ち兵5万余騎を誇りました☆往時の当主・有馬義貞はキリスト教の教えと、その後ろにあるポルトガルとの貿易(南蛮貿易)に利点を感じキリスト教に改宗☆大きな利を築き上げました☆ドン・アンドレと言う洗礼名を持つキリシタン大名となります☆丹坂峠の戦いの前哨戦である柳鶴の戦い☆肥前の雄である有馬勢がこの初戦でまさかの伏兵に翻弄され一時退却を余儀なくされるなんて…有馬勢の安徳氏は先鋒隊として先に堤尾岳に陣を張り前乗り☆砥川の馬渡俊光は当初・有馬方でしたが龍造寺方と内通していて佐留志城の前田氏、鴨打城の鴨打氏、肥前徳島城の徳島氏と謀議を重ね策を練っていました☆この馬渡氏は一族の使者を送り『徳島氏が降参する』と有馬氏を騙し芦刈への派兵を促します☆有馬氏にとって芦刈を叩く事が佐嘉、小城郡への侵攻の足掛かりとなる重要な場所☆牛津川の線を守る徳島氏を組み入れる事が出来るならば…芦刈攻略は容易でありました☆芦刈を拠点に出来るならば…マンマと策にのる有馬勢の先鋒・安徳氏は堤尾岳から柳鶴に侵攻☆忠実な龍造寺家臣である鴨打胤忠の鴨打城を包囲しました☆牛尾丘陵から上がった狼煙を合図に、徳島氏、更に龍造寺方に内通している馬渡氏は突如、安徳氏に襲い掛かり鴨打勢も出撃してきました☆此れにより有馬勢は総崩れ☆有馬方が在地豪族らに惨敗した事で有馬方からは離反者が続出する事態になりました☆龍造寺隆信の与党、鴨打胤忠、徳島長房、持永盛秀♪この在地豪族達が地の利を活かして奮戦活躍♪局地初戦の柳鶴の話でした♪
2021年10月13日 龍馬備中守【】
両子山陣所[佐留志城 周辺城郭]
佐賀県の多久市にある【両子山陣所】♪この両子山陣所は『丹坂峠の戦い』の際に小城郡、佐嘉郡に侵攻を図ろうとした有馬氏の本陣となります♪両子山はこの付近では南側に1番突き出た山系で加えて、その高さも群を抜いています(標高366m)☆山頂からは東側に牛尾丘陵(牛尾ノ城)を眼下に佐賀平野が広がり、遥かに筑後の山脈、南に有明海を隔てて大牟田辺りまで眺望する事が出来ます☆南から西側にかけては、杵島山、多良山系、武雄地方の山々が眺望出来る抜群の場所に立地しています☆
この両子山は2つのピークを持つ特徴的な山になっています♪山麓の牛津川から見ると両子山(ふたごやま)の由来をうかがわせる2つの峰が南北に並ぶ姿が望めます♪北側に立地する山のピークこそが有馬氏が本陣を張った両子山陣所です☆
肥前の両雄・龍造寺氏VS有馬氏が争ったこのエリア☆有馬仙岩(晴純)は国主の嫡男、有馬義貞に(肥前有馬氏12代目当主)肥前小城郡へ攻め入る様にと兵をつけ、藤津郡(肥前鹿島市)に送り一気に小城郡、佐嘉郡へ侵攻しよう企てました☆九州治乱記には大友宗麟が有馬氏を誘い龍造寺氏を挟撃しようとしたという事で描かれています☆
牛津川以西は往時、有馬氏が支配していたエリアは西肥前の諸将(大村氏、西郷氏、島原氏、松浦氏、多久氏、平井氏、後藤氏etc)は、みな有馬氏に従って出陣☆隠居した筈の有馬仙岩は好機あらばと虎視眈々と小城郡、佐嘉郡を狙っていた訳なのであります☆
有馬義貞はこの山より西肥前への領域拡大の野望を抱いたのでしょう☆
両子山ピークにある主郭を中心に東側に数段の段郭を持ちます☆郭間には横堀を二重に入れ込みます♪横堀は竪堀となり山裾に落ちていきますが、この横堀は浅め☆急遽造り込んだものといった印象です☆東向きに防御を強化している事が分かります☆(正に佐嘉、小城方面)主郭下の段には張り出した郭があってこの側面に綺麗に石積みが残っておりました☆