八幡山城
八幡山城([佐留志城 周辺城郭])
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八幡山城の口コミ情報
2023年12月22日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
佐賀県の小城市にある【八幡山城(八幡岳砦)】♪八幡山城は標高243mの御岳山より東へ舌状に伸びた低丘陵地(標高29m)の突端部に立地します♪山頂部には八幡神社があり、眼下には長崎街道(蒲原宿)が走ります♪現在は34号線が貫通しており、北側の山容部は今はもう見れません☆
平野部と山間部の接地面であり街道、川の流れ場所から何となくなんかありそうだなぁ〜?とずっと気になっていた場所ではありました♪
この八幡山城のある場所は古くは弥生時代〜鎌倉、戦国時代頃の遺物、遺構が出てきています♪見通しの良い八幡山はやっぱり、昔から何かある場所なのです♪
山頂にある八幡神社♪砥川三所八幡宮の1つでコレを上宮と称し、肥前・千葉胤貞の勧請と伝わっています♪相模国の鶴岡八幡宮の分霊と云われてます♪
『砥河三所八幡宮者、千葉何某之創造、而鎌倉鶴岡之勧請也。本宮在内砥川、中宮在谷村、下宮在下砥川、云云』とありますが、現在、中宮は下砥川、下宮は上砥川と残り長崎街道の宿場町(古賀宿)に鎮座します♪
さて♪この八幡山城ですが、詳細は不明の山城です☆ただ、建武4年(1337年)頃の砥川の地は田中行祐重代相伝の知行地とあり、『…去年故殿鎮西御下向之時…』と記されていて故殿とは千葉胤貞の事と考えられています♪田中行祐重代相伝は、砥川の地で千葉氏の支配下にあった事が推測されます♪
戦国時代には長きに渡り、この地の覇権を争う龍造寺氏🆚有馬氏☆当初は佐賀(嘉瀬川より東西)⇔小城が境目の地でしたが、龍造寺氏の勢力拡大に伴い、小城⇔杵島が境目となり徐々に西側へ有馬氏を押し戻す様な形で西側へ移動しています♪この、龍造寺氏🆚有馬氏の勢力抗争ですが、明応年間(1492~1501年)頃には芦刈に鴨打氏(鴨打城)を置き、砥川の広厳城(肥前・川越城)には桜井氏・鮎川氏の両氏を置き、更に、この一環として乙柳の持永氏(持永城)を加えて、そのエリアの守りを強固にしています♪
詳細不明な八幡山城ではありますが、この事をふまえ考えると、戦国時代には龍造寺氏、ハタマタ有馬氏の属城だった事が考えられます♪んで調べてみたら…『鎮西志』には『家老・納富但馬守(鴨内胤忠、徳島信忠、前田氏を率いて)は八幡岳砦を攻略した』とありました☆
つまりは、有馬方の拠点城だった城を攻め落としたという記述を見つけました♪その後は、龍造寺氏が使用したのかな〜??戦略的拠点だった事は間違い無い様ですね♪取った取られたは付き物の戦国時代です☆時は進み…『丹坂峠の戦い』では龍造寺氏🆚有馬氏の戦いが繰り広げられていて、有馬氏は両子山に本陣を構え、丹坂峠で激突☆結果的には龍造寺軍が勝利を収めています☆
この戦いにより、龍造寺軍は一層その勢力を強めています☆その頃にも、この八幡山は砦として機能した事でしょうね♪
平成4年には国道の道幅拡張により、工事に先立って発掘調査が行われていて、戦国時代特有の二重堀切の一部や竪堀などが検出されています♪更には白磁碗を中心とする輸入陶磁器の破片が、かなりの数で出土しています♪有力な人物が存在していた証拠でしょうね♪有力な土豪で、砥川を本拠地とする、田中氏の、後に龍造寺氏、有馬氏の抗争の際に使用された城郭♪が濃厚そうですね♪