千葉城(ちばじょう)

千葉城の基本情報

通称・別名

東千葉城、祇園城、牛頭城、牛頸城、小城城

所在地

佐賀県小城市小城町松尾860-2

旧国名

肥前国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

千葉胤鎮

築城年

文安2年(1445)

主な改修者

主な城主

千葉氏

廃城年

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀)

指定文化財

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

小城城(佐賀県小城市)[1.9km]
陣の森城(佐賀県小城市)[7.3km]
古湯城(佐賀県佐賀市)[8.1km]
高木城(佐賀県佐賀市)[8.4km]
佐留志城(佐賀県杵島郡)[10.3km]
佐賀城(佐賀県佐賀市)[10.8km]
水ヶ江城(佐賀県佐賀市)[11.2km]
帯隈山神籠石(佐賀県佐賀市)[12.1km]
梶峰城(佐賀県多久市)[12.2km]
姉川城(佐賀県神埼市)[13.0km]

千葉城の口コミ情報

2022年08月04日 龍馬備中守【佐竹扇】
普賢寺城[千葉城  周辺城郭]



佐賀県の小城市にある【普賢寺城】♪牛尾山(牛尾城・以前口コミ済)の麓、東側♪晴気川に沿った独立低丘陵上に城郭は築かれていました♪
歴史詳細は不明です♪
肥前千葉氏の支城群と云われる城郭となります♪城郭というよりは、砦の赴きです♪郭のみ残る普賢寺城です☆この肥前千葉氏は下総より文永11年(1274年)に九州へ下向した武士団となっています☆肥前高田城を初期の城郭として肥前千葉城に移りました☆室町時代に肥前千葉氏の勢力は往時、肥前国において絶大なるモノがありました♪後に九州三強の一角と呼ばれた龍造寺氏もその傘下にありました☆

以前、口コミした両子山陣所に繋がる普賢寺城ですが、有馬氏の小城侵攻の際に千葉胤連は普賢寺柵で有馬方の小城郡侵攻に対抗したと伝わります♪
その前の千葉胤頼の時は普賢寺城と松尾城の両城で周防国・大内方の軍勢に対抗したと残っています♪

牛尾山(牛尾城)の東側で千葉城の南西側☆
郭のみ構成されている普賢寺城☆防御性には乏しい所を見ると本城を守る為の砦だったのでしょう☆それにしても普賢寺城の普賢寺…お寺があったのか?
調べたけど解らず仕舞いでした♪
ただし、遠くは雲仙・普賢岳も見える…その普賢かな〜?普賢寺の普賢?であれば海の菩薩様ですね♪
そして…遠目の写真しか撮っていなかった事…この口コミを作りながら気づいちゃいました♪

写真1️⃣枚目は手前の森が普賢寺城♪背後の丘陵地が牛尾城♪更に背後の空に突き出した山(右)が両子山陣所です♪川の写真は晴気川です♪

2022年02月05日 龍馬備中守【佐竹扇】
妙見遺跡[千葉城  周辺城郭]



佐賀県の小城市にある【妙見遺跡】またの名を【北浦遺跡】とも呼びます♪肥前千葉城の北西方一帯で清水川が祇園川に合流する北浦集落☆
肥前千葉城の東千葉氏の居館を含む城下町(都市)があったと云われる場所になります♪
千葉胤貞は下総国より下向してきた際に守護神である妙見社をこの地に勧請したと伝わる妙見社が残ります☆この妙見社の背後には土塁が残っていて、その北側の道は堀っぽくなっています☆
肥前千葉城、北浦集落を中心とした城下町は往時、相当な規模の城下町だったんではなかろうか❓肥前で勢力を張っていた千葉氏の領地だった訳ですし容易に想像が出来ます♪

幕末には北浦堤(小城藩が造った堤で芦刈水道の起点となった溜池)一帯に小城藩の射撃場が設けられました🔫 (′ω’ 🔫)バキュン‼️

2022年02月04日 龍馬備中守【佐竹扇】
晴気城[千葉城  周辺城郭]



佐賀県の小城市にある【晴気城】♪肥前・千葉氏の初期の城郭(山城)となります☆別名を西千葉城とも呼びます☆千葉胤貞は南北朝時代に下総国より小城に下向してきました☆

この晴気は平安時代より晴気庄として成立したと考えられています☆鎌倉時代には藤原隆頼宛、源頼朝消息に『筑紫ニ肥前ニ晴気領と申候ところ一所、為御志所令進候也』と残り源頼朝から尾張少将隆頼に与えられています♪その後は藤原隆頼の嫡子、参河前司藤原成亮に譲られています☆一時、宗像神社大宮司の荘園として成立しますが、その後は小城郡支配の実力者に名乗りを上げた肥前千葉氏が押さえていきます♪
結果的に肥前千葉氏の荘園侵略により晴気庄は荘園としての機能を終えたと考えられています♪

さて♪晴気城は西晴気の西方の城山と呼ばれる標高200mに立地しました☆
戦国時代の初期に土一揆合戦の後、肥前千葉氏は二家に分かれますが、吉田の千葉城に拠る東千葉に対して、この晴気城の西千葉と呼ぶ様になります☆少し時が進み千葉胤資の時には少弐政資と少弐高経と籠城戦を展開し、東千葉の千葉興常が率いる大内軍と戦い、敗北しています☆
千葉胤資は此処で討死、少弐政資は多久の専称寺で自刃、少弐高常は市ノ川(現、佐賀市富士町)で自刃☆その後も大内氏、少弐氏の力がブツカリこの晴気城では何度か攻防戦が繰り広げられました☆
龍造寺隆信の支援を受けた牛尾城(口コミ済み)城主・千葉胤連♪
少弐時尚を擁した、晴気城主・千葉胤頼を攻めて落城に追い込んでいます☆
少弐時尚は神埼にある勢福寺城へ逃げ込みますが耐え切れなくなり自殺☆コレにより少弐氏は絶え晴気城主・千葉胤頼も討死しています☆

城郭遺構としては削平地(郭)箱堀状の堀切、尾根を切断した堀切、土塁等が残っています☆斜面鋭い山肌が印象的でした☆
有事に籠った山城の晴気城に対して居館は寄居一帯にあったと思われます☆
明確な登山道はありませんでした☆
等高線を見ながら行かれてください☆

2022年01月24日 龍馬備中守【佐竹扇】
牛尾城[千葉城  周辺城郭]



佐賀県小城市の【牛尾城】☆正確な場所は不明ですが、現在牛尾神社のある丘陵地とされています♪後に千葉氏の手が入りますが、今回はそれ以前に牛尾神社に根を張った別当坊達の話です☆
この牛尾神社、平安初期に良厳(天台宗の僧)が福長寿院別当坊を立てた事に始まります☆
鎌倉時代直前には九州へ影響を強めていた平氏を討伐すべく源範頼が出陣した際、牛尾山・別当坊の衆徒3000余騎が参陣したとされています♪この時はまだ、居館である高台を利用したにすぎないようです♪本格的に城郭機能を持ったのは南北朝時代と思われます♪松浦党源授軍忠状に『大将軍(今川直貞)御著肥前国塚崎庄之間…中略…多々良峰 小城郡牛尾城、春日山 烏帽子岳所々御陣忠節』と残ります☆南北朝時代には城郭との認知があった様です☆南北朝時代といえば足利氏♪ここから話を繋げます☆足利直義は自身の養子である足利直冬(尊氏の実子)を長門探題とし西国へ走らせました💨が京都で観応の擾乱が勃発、足利直冬は直義党として実父の尊氏に叛きます☆
怒った足利尊氏は直冬を討つ為に九州まで追い立てます☆一方九州・大宰府には九州探題の一色範氏が☆尊氏党の一色範氏に対し、九州へ逃げ込んだ足利直冬は輩下の今川直貞を総大将に肥前塚崎から兵を進め、肥前平定を命じ更には太宰府へと進ませました☆
南里文書によると小城の祇園城に拠る尊氏党の千葉胤泰に対し、牛尾城は足利直冬軍の今川直貞が陣を張っています☆
この頃の小城の諸勢力の中で、牛尾城を今川直貞の前線基地とさせた別当坊衆徒達は、足利直冬・今川直貞へ加担したようです☆別当坊衆徒☆戦う僧兵として活躍したのでしょう♪

更に別当坊衆徒の活躍は戦国時代にも残ります☆肥前を攻める豊後大友軍☆今山の戦いで鍋島直茂が奇襲を仕掛けた際、この別当坊衆徒も戦いました☆
という事は…前に口コミした『丹坂峠の戦い』時も、龍造寺側として有馬勢と戦った可能性も☆両子山に陣を設けた有馬氏ですが、牛尾山に陣所を張れなかったのはこの牛尾城の存在が理由かもしれません☆

丘陵の南先端に五重の石塔、墓石跡など残ります☆遺構はほぼ消失したようで、今は牛尾神社と牛尾梅林が残ります☆
牛尾神社には肥前鳥居があります♪佐賀藩初代藩主・鍋島勝茂が寄進したものです♪丹坂峠の戦い時に作ったマップは、立地が解りやすい為載せます☆

2021年09月10日 龍馬備中守【佐竹扇】
戊遺跡[千葉城  周辺城郭]



佐賀県の小城市、三日月町にある【戊(つちのえ)遺跡】♪ 祇園川が造成した扇状地の僅かに高まる場所に、かつて存在した遺跡になります♪

歴史詳細は不明です☆ただし弥生時代から古墳時代更には中世の居館跡や墓跡などが出土している場所です☆今は田んぼになってはいますが複合的に、しかも時代を跨いで人々が根を張ったという事は住みやすく心地の良い場所だったのでしょう♪

古墳時代の居住跡が発見されていてそれに重複させる形で中世の居館が営まれていた様です♪中世で言うと鎌倉時代辺りなのかな〜?

古墳時代の遺物としては壷、坩、杯、高杯が☆平安時代の遺物は皿形土器が、その他に碗形瓦器や滑石製器物片や青磁碗などが出土しています☆

吉祥神社の南東側一帯が戊遺跡ですが現在は水田になっている為に妄想するしかない訳であります☆

更にこの場所から北方には日吉神社と円教寺があります☆この日吉神社は『山王さん』と呼ばれていて創建は南北朝時代に肥前千葉家の千葉胤貞です☆
江戸時代には小城鍋島家の崇敬厚くて、2代目の鍋島直能は石灯籠を、9代目鍋島直堯は鳥居をそれぞれ奉献しています☆

従って戦国時代、龍造寺隆信がのし上がる前迄は、千葉氏の領域だと思われます☆

古代から中世と歴史がある戊エリア♪
歩いてみると確かに明るくて気持ち良い場所でした☆

2021年09月09日 龍馬備中守【佐竹扇】
平井氏館[千葉城  周辺城郭]



佐賀県の小城市にある平井氏館♪現在は宅地の中にひっそりと土塁の断片を残します☆

室町時代にはこの平井という地には肥前千葉氏一族の平井氏館があったと伝わりますが、中心的な場所は不明です☆
一色道猷地頭職宛行状(実相院文書)には『同国小城郡平井村内田地弐段畠地捌段(久布志良三郎入道跡)』と残っていて久布志良三郎入道の後を実相院にかかわる服部美濃房に宛行った事が分かります♪集落内には日蓮宗の修善院があるのですが本寺は鍋島直茂の妻・陽泰院の実家・石井家の菩提寺でもあります♪この修善院と国道との間辺りが城域とされていて、この辺りは『千葉舘屋シキ』と呼ばれ城館があった名残を今に残します♪
他にも何かないか☆一通り歩きましたが遺構らしきものはありませんでした☆

結論、築城年代は不明ではありますが戦国時代の千葉氏一族の平井氏の館だったのでしょう♪住宅地に残る土塁の断片は今なお、ひっそりと居館があった証拠を今に残しています♪

2021年06月19日 龍馬備中守【佐竹扇】
今山陣所[千葉城  周辺城郭]



佐賀県佐賀市の【今山陣所】♪龍造寺隆信が一躍、名を知らしめた『今山の戦い』で大友宗麟軍の総大将・大友親貞が築いたのがこの今山陣所です♪高良山に布陣した大友宗麟は諸将に佐嘉城(後の佐賀城)攻略を命じるも容易には進まず、弟の親貞を戦へ派遣します☆大友軍は佐賀平野を取り囲む様に北側の山中から平野部へ6〜8万の兵で攻め寄せます☆対する龍造寺隆信、鍋島直茂の佐嘉城には5千の兵☆最大の危機に陥ります☆4ヶ月に及ぶ戦に業を煮やした大友宗麟は親貞に総攻撃を命じます☆しかし親貞は占いの凶兆を案じ直ちに総攻撃に踏み切らず…一方、長引く戦に佐嘉城の城兵達の士気も下がり龍造寺軍は降伏を考え出しますが、隆信の母・慶誾尼が一喝☆「猫を前にして恐れている鼠のようではないか…!」と、此れにより直茂を中心に奇襲隊を結成☆佐嘉城を飛び出し敵陣を潜り抜けた5百の兵が、親貞の構える今山陣所の背後に伏せます☆この時親貞は本陣で勝利の前祝いと、宴の真っ最中☆軍の士気は緩んでいました☆間者によりこれを知った直茂は夜襲を決行☆敵陣に鉄砲を放つと『寝返った者が出たぞ!』と虚報を流し大友軍を混乱に追い込みます☆同士討ちを始め手薄になった親貞の陣に突入し、6人がかりで親貞を討ち取りました☆総大将を失った大友軍は散り散りに退却☆奇襲は大成功に終わり、この時の大友軍の犠牲は2千人に及びました☆この今山の布陣図は非常に興味深く…龍造寺軍は鍋島直茂、徳島氏、鴨打氏に納富氏や百武氏など古くからの龍造寺家の家臣中心なのに対し、大友軍は大友親貞、高木氏、横武氏、犬塚氏、姉川氏、小田氏、本告氏など佐賀の東側・神埼を中心としたクリーク城館の城主達に加え、佐賀の山間部の少弐氏や神代氏、更には西部の有馬氏、大村氏、西郷氏など多数の佐賀の城主が参戦しています☆龍造寺隆信の急激なのし上がりに、名家・大友からの圧力☆佐賀平野の城主達はこの戦に相当な迷いがあったんじゃ無いかな〜?生き残る為に何が最善なのか?大変興味深いです☆勝機を逃した大友軍は半年の包囲を続るも佐嘉城攻略はならず龍造寺側から和睦提案があり隆信の弟・信周を人質に差し出す事で、講和を受諾☆宗麟は豊後に帰国しました☆この戦を契機に龍造寺隆信は徐々に周囲の勢力を討伐し大友・島津に並ぶ九州三強へとのし上がりました☆どんな戦況に成ろうが諦めなければ道は拓く♪どの時代にも言える事ですね☆

2021年06月19日 龍馬備中守【佐竹扇】
今山の古戦場[千葉城  その他]



佐賀県の佐賀市にある【今山の古戦場】♪今はみかん畑が拡がります☆

眺めが素晴らしくって佐賀市は勿論、遠くは島原半島も望む事が出来る素敵な立地です☆

この場所は龍造寺軍と大友軍が激突した場所で龍造寺軍はこの戦闘に勝利♪龍造寺隆信は一躍九州三強の一角として名乗りを上げていきました♪背後の山に大友親貞は陣を張りました☆そして…この山から佐賀城を睨み付けました☆

山上からは綺麗に船塚古墳も見えます〜♪

2017年10月17日 カーネル
千葉城

唐津線 小城駅から北へ向かいます

県道48号で右折して東へ向かい、祇園川を越えたら、すぐに左折し川沿いを歩くと、薄い肌色の小さな建物がポツンと建っています
この建物の背後に「千葉城址展望台」の看板があるので、案内の従い進むと、登り坂になります

坂道を登り切ると、千葉公園の碑があるので、進むと展望台があります。ここにはお城の説明も

公園入口に戻り、北東へ向かう未舗装路を進むとミカン畑になり、地形が切岸と曲輪がよく残っています

そのまま東に抜けると、金毘羅社があり、お城のものかわかりませんが、階段状の曲輪がいい感じに連なってます

そのまま下って県道48号に戻り、小城城に寄りました。キレイに整備されててよかったです

その後、小城駅に戻って2時間でした

千葉城の周辺スポット情報

 太閤腰掛石(遺構・復元物)

 土塁(遺構・復元物)

 由緒書き(碑・説明板)

 千葉城跡・須賀神社説明書(碑・説明板)

 今山陣所(周辺城郭)

 平井氏館(周辺城郭)

 戊遺跡(周辺城郭)

 晴気城(周辺城郭)

 妙見遺跡(周辺城郭)

 牛尾城(周辺城郭)

 普賢寺城(周辺城郭)

 赤自城(周辺城郭)

 駐車場(4台)(駐車場)

 駐車場(大)(駐車場)

 今山の古戦場(その他)

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