千葉城(ちばじょう)
千葉城の基本情報
通称・別名
- 東千葉城、祇園城、牛頭城、牛頸城、小城城
所在地
- 佐賀県小城市小城町松尾860-2
旧国名
- 肥前国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 千葉胤鎮
築城年
- 文安2年(1445)
主な改修者
- -
主な城主
- 千葉氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
小城城(佐賀県小城市)[1.9km]
陣の森城(佐賀県小城市)[7.3km]
古湯城(佐賀県佐賀市)[8.1km]
高木城(佐賀県佐賀市)[8.4km]
佐留志城(佐賀県杵島郡)[10.3km]
佐賀城(佐賀県佐賀市)[10.8km]
水ヶ江城(佐賀県佐賀市)[11.2km]
帯隈山神籠石(佐賀県佐賀市)[12.1km]
梶峰城(佐賀県多久市)[12.2km]
姉川城(佐賀県神埼市)[13.0km]
千葉城の解説文
[引用元:Wikipedia「千葉城」の項目]
須賀神社(すがじんじゃ)は、佐賀県小城市小城町松尾にある神社。旧社格は県社。
祇園川の北側にある、千葉氏の山城・千葉城(別名:祇園城・牛頭城・牛頸城)が置かれていた小山(城山)に鎮座する麓にある、一の鳥居と神門を潜ると急峻な山肌を一直線に上る153段の石段が参道として本殿までをつなぐ。なお石段の途中に肥前鳥居の二の鳥居がある。拝殿には天井絵が残り、その奥、石垣上に本殿がある。「祇園さん」「お祇園さん」の名で呼ばれ親しまれている。
歴史
古くは祇園社と称しており、社伝によれば延暦22年に創建され当初は「清祠」と称し佐賀・小城・杵島3郡の宗廟として栄えたとされる。鎌倉末期の1316年(正和5年)、関東の下総国から九州に下向の際に、城山に千葉城を建造し後に地頭職にあった千葉胤貞が、この社を建立したといわれる。また京都祇園社(現八坂神社)の御分霊を勧請し神体の木像を納め、千葉氏の守護神としたとされる。
戦国期には龍造寺隆信が社地・社領を寄進し、1590年(天正18年)には鍋島直茂が神殿を修復、1591年(天正19年)にはさらに拝殿を再建したが、1828年(文政11年)に火災により焼失している。1876年(明治9年)廃仏毀釈により社号が「祇園社」から「須賀社」に改称された。
祇園会
旧暦1月15日の花紫祇園、6月15日の団扇祇園、8月15日の柿祇園があり、特に団扇祇園の山車曳きは千葉胤貞が軍事訓練の一環として山挽き神事を行ったことから始まり、五穀豊穣、疫病退散、地域の安全を祈願する祭りとして、千葉氏滅亡後も小城藩小城藩主となった鍋島家によっても祭りを受け継いで今日に伝わっている。[1]。
江戸時代には小城藩主鍋島元茂公年譜には藩士主導の下、南北に整備された上町、中町、下町の通りで先山・跡山の2台で執り行われ藩士たちも多く参加していたことが残る。一時中断した時期もあったが、明治期には小城藩前夜祭の横町による浮立奉納から始まり、翌日に須賀神社の氏子や上町・中町・下町の町民によって3台の挽山(山車)での巡行が再興された。[2]。ツタやカズラを用いて毎年組み上げられる下町の山鉾は、山挽行事が始められた頃の製作技法を今に伝えていると考えられている。
かつては能や田楽などもあり「見事見るには博多の祇園、人間見るには小城の祇園」[3]と呼ばれるほど、小城の祇園は温もりにあふれ多くの人々に愛され続けてきた。1843年(天保14年)に鍋島直正による倹約令により一時山車挽きは中止されたが明治に入って再開されている。現在では、小城祇園夏祭りとして毎年7月の第四日曜日に執り行われる風物詩となっている。
その他
「男はつらいよ ぼくの伯父さん」(1989年)「ソフトボーイ」(2010年)で特徴的な参道の石段が撮影場所として使用された。
参考文献
- 【書籍】「 角川日本地名大辞典 41 佐賀県」
- 現地案内看板
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千葉城の口コミ情報
2024年06月07日 龍馬備中守【】
松尾城(旧)[千葉城 周辺城郭]
佐賀県の小城市にある松尾城(旧)♪光勝寺背後の裏山に城郭は立地します♪南北の斜面は鋭く、攻め手を寄せ付けない天然の要塞は、肥前千葉氏である千葉胤基が明徳年間(1390年〜1394年)頃に居城とした城です♪因みに、北側にある松尾城(新)とは別物の城郭となります(過去口コミ済)
千葉氏の始祖である千葉常胤は、鎌倉幕府開府の功績によって、源頼朝から肥前国小城郡の地頭に任ぜられました♪その後この地は、肥前千葉氏の領地となっています♪下総国の名門である千葉家です♪
元寇襲来の際に、九州の防衛の為に下総国より九州に派遣されて以降、肥前国に土着したのが千葉宗胤です♪宗胤を祖として、ここから肥前千葉氏が始まります♪
この松尾城(旧)を居城とした千葉胤基は、明徳年頃(1390年頃)に千葉胤泰から家督を継いでいます♪往時の九州の流れとしては、肥後の八代に御所を置いた南朝方の征西大将軍・懐良親王と共に、良成親王が自ら剣を振るい陣頭に立ち勇戦し、北朝方に抵抗したという背景があります。そんな中…明徳2年(1391年)九州探題である今川了俊は、肥後の八代攻めを決行。千葉胤基もこの軍勢に加わったと云われています。この戦いで八代御所は陥落。。大将軍・良成親王は降伏しています。。
翌、明徳3年(1392年)南北朝の争いは南朝方の事実上の降伏という形で終結し、南朝の後亀山天皇が京都へ帰還しています。北朝の後小松天皇が、南北合一の天皇という形で幕を閉じました…。。が、しかし各地では、まだまだ南朝方の残党が残り、九州では明徳4年(1393年)良成親王が阿蘇惟政と共に、南朝の再興を謀り軍を起こします。不安定な情勢の中で千葉胤基は小城晴気城の東側に松尾城を築き、居城としました。肥前国での千葉胤基の勢力は強く、領地を守りました♪
応永9年(1402年)には佐賀郡高木荘内の田六町、佐賀郡巨瀬荘小太郎丸田地二町を、佐賀郡久池井の玉林寺に寄進しています♪
応永11年(1404年)千葉胤基の家臣・鑰尼刑部大輔泰高は、少弐貞頼に通じて、主君である千葉胤基に反抗します。千葉胤基は九州探題・渋川満頼と今川国秋と連携し、少弐貞頼・鑰尼泰高を攻めています。同年、少弐・鑰尼軍を、松尾城の北東にある佐賀郡川上の戦いで破っています。応永24年(1417年)に55歳で亡くなったと云われています。余り歴史が残っていなくて、不明な点が多い千葉胤基でした。
因みに千葉胤基に刃向かった鑰尼刑部大輔泰高ですが、千葉氏の被官として名の見える有力氏族です。同時に宮司職の家柄である高木氏や庶流の龍造寺氏ら同族と共に、肥前一宮である河上社の執行機構にも深く関わっていた一族となります。応永7年(1400年)河上社遷宮式において、『千葉介代』として『座主権律師増鑁、大宮司鑰尼信濃守季高』が祭礼を差配し、『於保氏、成道寺氏、龍造寺氏、庫河氏、晴気氏、佐留志氏、山口氏、白石氏、藤木氏、宰府朝井氏、白石氏、多比良氏、高来有馬氏、由江氏、西郷氏、高木氏』など肥前武士が動員され、流鏑馬が奉納されています。今でも佐賀の地名に残っている、武将達の名前です♪
さて…その後の戦国時代、肥前千葉氏は繁栄と衰退を繰り返していきますが…室町時代中期の応仁の乱の余波と、家督争いにより弱体化。祇園山城(千葉城)と晴気城と、両家は完全に2つに分裂し、東千葉氏と西千葉氏と雌雄を決しました。祇園山城に拠った惣領家の東千葉氏は大内氏と結び、晴気城の庶家西千葉氏は少弐氏と結び、互いに争っています。
戦国時代後半は、龍造寺家の家臣として、更には江戸時代には鍋島家の家臣として、鍋島姓を賜っています♪
城郭は光勝寺の背後。東西に伸びた尾根上に立地します♪出丸と思われる東の削平地までは道が付いているので、比較的簡単に行けます♪途中に五輪塔の群生あり♪その上部を見上げると、堀切が一条残ります♪堀切は竪堀となって、鋭く斜面を降ります♪堀切は雨などにより、より土砂を削り取り、岩盤が剥き出していました♪西に向かって行くと、2段の削平地がありコレが副郭か?更に西に進むとピークである主郭へと続きます♪大きくは3つの郭で形成か?主郭と副郭、出丸。主郭の西端には土壇があり、櫓台かと思われます♪城郭の南側は城の辻という地名を残しています♪千葉氏建立の光勝寺が居館だったのでしょう♪
鋭い場所に城郭を造った、肥前千葉氏の警戒感が垣間見えます♪
2024年05月04日 龍馬備中守【】
松尾城(新)[千葉城 周辺城郭]
佐賀県の小城市にある【松尾城(新城)】♪光勝寺の背後にある肥前千葉氏の松尾城(旧城)の北西に築かれた戦国時代の山城です♪
岩蔵谷の東方の出口、祇園川の西岸の山中に城郭は存在します♪松尾集落は古くは鎮西本山松尾山光勝寺の寺領となっています♪ この、よく見る寺領と云うのは、往時の寺社仏閣の力強さを見る事が出来ます♪ 古墳時代から平安時代にかけて変わっていった文化の1つとして、豪族などの埋葬方法の変化という事が挙げられますが、大規模な前方後円墳などの古墳群はやがて終焉を迎え、時代感の変わり目と共に仏教の伝来♪
仏教は急速に広まり、古墳を造る土木量を使うよりも…と、寺などの建物を築造する事に力を注ぎ発展していったのでしょう♪自然信仰を行いながら、信仰対象は仏様などに変化♪今に見る仏像や墓跡と云うのは、信仰の対象や埋葬方法の変化と共に、寺社仏閣が力を持っていった証拠なのであります♪地域を細かく調べて行くと、平安時代には『寺領』となっている場所が多くて、この後の鎌倉時代には武家が力を持ち武力を持つモノが強い♪所謂、武家社会の世へと変化して行くと云う訳でございます♪
話は飛んでしまいましたが、寺社仏閣と云うのは、力を持った時代があり、生き残りをかけた歴史があり、今残る寺社仏閣の価値と云うのは、ヤハリ意味がある♪城郭と寺社仏閣の繋がりを見ていく事は、また違った歴史の見方が出来るのかもしれません♪
さて♪この松尾城(新城)の話です♪標高220mに立地します♪北斜面は鋭く、弓形の尾根上に城郭は形成されています♪主郭東側は、一段下り削平地♪副郭かな?その先も段郭が数段あり♪斜面尾根先に数条の竪堀♪シダに囲われていますが、凹凸を確認出来ます♪その先、比高を下げて堀切♪東側の防御が固い印象であります♪主郭西側の尾根が伸びた場所にも削平地があり、虎口状の開きと土塁が確認出来ます♪ この城郭の詳細は不明です☆ 戦国時代の肥前国では、少弐氏を滅ぼした事で肥前一国を支配下に置いた、龍造寺隆信の勢力が伸張し、肥前草野氏もまた、隆信の圧迫を受ける様になってきます☆ 天正元年(1573年)唐津・鬼ヶ城主の草野鎮永は肥前・千葉胤誠の遺臣らを煽動して、龍造寺氏へ一揆を起こさせようとしました☆龍造寺隆信はこの一揆に対して、出兵して鎮圧しています☆
この時に、この松尾山に陣営を構えていたと伝わっています♪千葉胤誠らの居る小城郡を押さえ込む為に築かれた砦と思われます☆ 小城一揆を撃破した際は、肥前・徳島氏(芦刈徳島城)、肥前・鴨打氏(芦刈鴨打城)、窪田氏等が従軍しています♪ その後、天正2年(1574年)小城一揆を掃討した龍造寺隆信は、山内の神代氏と西波多の波多三河守の援軍をもって、2万の大軍で草野鎮永の鬼ヶ城に攻め込みました☆ 龍造寺隆信の狂歌で、『正月の一月二日の事なれば草野を焼きて鏡餅かな』と残っています☆草野鎮永は、実父である原田了栄の下に亡命しています☆ 尾根伝いに南に進んでいけば、松尾城(旧城)に辿り付きますが、コチラは肥前・千葉氏の城郭となり別物となります♪
2023年12月23日 龍馬備中守【】
赤自城[千葉城 周辺城郭]
佐賀県の小城市にある【赤自城(赤自荘)】♪遺構は残りません☆
田畑になってしまっていますが、かつてこの場所には城館が存在しました♪
現在その地名は織島となっていますが、小字では赤司(あかぜ)と残ります♪近隣は肥前・千葉氏の千葉城の眼下を祇園川が流れます♪この祇園川東岸に赤自城は立地します♪
中世の早い時期、平安時代中期〜鎌倉期には、赤自荘と荘園がありました♪
この場所は、宇佐八幡宮の領となっています♪赤目荘とも書かれています♪
赤自荘は天平勝宝年中(749年〜757年頃)に公家が宇佐神宮に寄進したとあります♪
平野から見える天山を山岳信仰していたのでしょうか?赤自宮の存在もそうですが、社僧の私領地として荘内には寺社が幾つか点在していた様です♪
元応元年(1319年)鎮西下知状によると、河上社一切経会免田小柳田地7反3丈の神役をめぐる争いでは、河上社雑掌禅勝と赤自三郎蔵人善願の女子藤原氏女との間に相論が起こり、氏女の所役対捍を禅勝は訴えており、この時には鎮西探題・北条随時によって平和的な下知が下されています♪
ここに出てくる赤自三郎蔵人善願という人物が、この赤自荘の在地領主と思われます♪
同内にある赤司遺跡からは、U字状の濠遺構が発見されていて、濠に囲まれた内側には掘立柱跡が出てきており、中世の豪族の環濠居館跡と推測されています♪赤自三郎蔵人善願の居館跡だった??のかもしれませんね♪
この辺りには、幾つか居館跡が点在しているので、一概には言えませんが…☆
その後、鎌倉時代初期に入ると小城郡の惣地頭には鎌倉の御家人である肥前・千葉氏が付いています♪元寇の戦いの時から、それまでの代官を派遣しての支配から変わり、自ら小城の地へ下り国土防衛に従事しています♪
代々、小城郡で活躍していく肥前・千葉氏ですが、初代である千葉頼胤は『文永の役』の防戦中の傷が元で、小城に没しています☆
その子、千葉宗胤も小城の地に下向し『弘安の役』で活躍♪
千葉宗胤の子、千葉胤貞も鎌倉時代末期から建武新政期にかけて、関東、京、小城と活動範囲を強めました♪
肥前・千葉氏は室町時代に入ると、千葉城、晴気城を中心に、支城群として高田城(正確な所在は不明ですが、遠江、社辺りと思われます☆)、平井館、松尾城、牛尾城と、この赤自城などを拠点として、小城に勢力を振るい活躍しました♪
ここ、赤自城は赤司地区にあり平城形式の城館(砦)であった様です♪古代から中世前期まであった、赤自荘を背景に城館はより強固な形成をされたと思われます♪
嘉瀬川を挟み南東方の佐賀平野、ハタマタ、多久、唐津方面、島原方面と多方向から攻め入る敵勢力の侵入を、支城群である赤自城等が、本城である千葉城や晴気城を守り機能したと推測出来ますね♪
写真の寺院は、勝妙寺です♪肥前に下向した千葉胤貞、胤泰と共に下向して来た日厳が、松尾山光勝寺の院家として、創建した事に始まります♪写真の畑になっている場所付近が、赤自城があった場所となります♪
2022年08月04日 龍馬備中守【】
普賢寺城[千葉城 周辺城郭]
佐賀県の小城市にある【普賢寺城】♪牛尾山(牛尾城・以前口コミ済)の麓、東側♪晴気川に沿った独立低丘陵上に城郭は築かれていました♪
歴史詳細は不明です♪
肥前千葉氏の支城群と云われる城郭となります♪城郭というよりは、砦の赴きです♪郭のみ残る普賢寺城です☆この肥前千葉氏は下総より文永11年(1274年)に九州へ下向した武士団となっています☆肥前高田城を初期の城郭として肥前千葉城に移りました☆室町時代に肥前千葉氏の勢力は往時、肥前国において絶大なるモノがありました♪後に九州三強の一角と呼ばれた龍造寺氏もその傘下にありました☆
以前、口コミした両子山陣所に繋がる普賢寺城ですが、有馬氏の小城侵攻の際に千葉胤連は普賢寺柵で有馬方の小城郡侵攻に対抗したと伝わります♪
その前の千葉胤頼の時は普賢寺城と松尾城の両城で周防国・大内方の軍勢に対抗したと残っています♪
牛尾山(牛尾城)の東側で千葉城の南西側☆
郭のみ構成されている普賢寺城☆防御性には乏しい所を見ると本城を守る為の砦だったのでしょう☆それにしても普賢寺城の普賢寺…お寺があったのか?
調べたけど解らず仕舞いでした♪
ただし、遠くは雲仙・普賢岳も見える…その普賢かな〜?普賢寺の普賢?であれば海の菩薩様ですね♪
そして…遠目の写真しか撮っていなかった事…この口コミを作りながら気づいちゃいました♪
写真1️⃣枚目は手前の森が普賢寺城♪背後の丘陵地が牛尾城♪更に背後の空に突き出した山(右)が両子山陣所です♪川の写真は晴気川です♪
2022年02月05日 龍馬備中守【】
妙見遺跡[千葉城 周辺城郭]
佐賀県の小城市にある【妙見遺跡】またの名を【北浦遺跡】とも呼びます♪肥前千葉城の北西方一帯で清水川が祇園川に合流する北浦集落☆
肥前千葉城の東千葉氏の居館を含む城下町(都市)があったと云われる場所になります♪
千葉胤貞は下総国より下向してきた際に守護神である妙見社をこの地に勧請したと伝わる妙見社が残ります☆この妙見社の背後には土塁が残っていて、その北側の道は堀っぽくなっています☆
肥前千葉城、北浦集落を中心とした城下町は往時、相当な規模の城下町だったんではなかろうか❓肥前で勢力を張っていた千葉氏の領地だった訳ですし容易に想像が出来ます♪
幕末には北浦堤(小城藩が造った堤で芦刈水道の起点となった溜池)一帯に小城藩の射撃場が設けられました🔫 (′ω’ 🔫)バキュン‼️
2022年02月04日 龍馬備中守【】
晴気城[千葉城 周辺城郭]
佐賀県の小城市にある【晴気城】♪肥前・千葉氏の初期の城郭(山城)となります☆別名を西千葉城とも呼びます☆千葉胤貞は南北朝時代に下総国より小城に下向してきました☆
この晴気は平安時代より晴気庄として成立したと考えられています☆鎌倉時代には藤原隆頼宛、源頼朝消息に『筑紫ニ肥前ニ晴気領と申候ところ一所、為御志所令進候也』と残り源頼朝から尾張少将隆頼に与えられています♪その後は藤原隆頼の嫡子、参河前司藤原成亮に譲られています☆一時、宗像神社大宮司の荘園として成立しますが、その後は小城郡支配の実力者に名乗りを上げた肥前千葉氏が押さえていきます♪
結果的に肥前千葉氏の荘園侵略により晴気庄は荘園としての機能を終えたと考えられています♪
さて♪晴気城は西晴気の西方の城山と呼ばれる標高200mに立地しました☆
戦国時代の初期に土一揆合戦の後、肥前千葉氏は二家に分かれますが、吉田の千葉城に拠る東千葉に対して、この晴気城の西千葉と呼ぶ様になります☆少し時が進み千葉胤資の時には少弐政資と少弐高経と籠城戦を展開し、東千葉の千葉興常が率いる大内軍と戦い、敗北しています☆
千葉胤資は此処で討死、少弐政資は多久の専称寺で自刃、少弐高常は市ノ川(現、佐賀市富士町)で自刃☆その後も大内氏、少弐氏の力がブツカリこの晴気城では何度か攻防戦が繰り広げられました☆
龍造寺隆信の支援を受けた牛尾城(口コミ済み)城主・千葉胤連♪
少弐時尚を擁した、晴気城主・千葉胤頼を攻めて落城に追い込んでいます☆
少弐時尚は神埼にある勢福寺城へ逃げ込みますが耐え切れなくなり自殺☆コレにより少弐氏は絶え晴気城主・千葉胤頼も討死しています☆
城郭遺構としては削平地(郭)箱堀状の堀切、尾根を切断した堀切、土塁等が残っています☆斜面鋭い山肌が印象的でした☆
有事に籠った山城の晴気城に対して居館は寄居一帯にあったと思われます☆
明確な登山道はありませんでした☆
等高線を見ながら行かれてください☆
2022年01月24日 龍馬備中守【】
牛尾城[千葉城 周辺城郭]
佐賀県小城市の【牛尾城】☆正確な場所は不明ですが、現在牛尾神社のある丘陵地とされています♪後に千葉氏の手が入りますが、今回はそれ以前に牛尾神社に根を張った別当坊達の話です☆
この牛尾神社、平安初期に良厳(天台宗の僧)が福長寿院別当坊を立てた事に始まります☆
鎌倉時代直前には九州へ影響を強めていた平氏を討伐すべく源範頼が出陣した際、牛尾山・別当坊の衆徒3000余騎が参陣したとされています♪この時はまだ、居館である高台を利用したにすぎないようです♪本格的に城郭機能を持ったのは南北朝時代と思われます♪松浦党源授軍忠状に『大将軍(今川直貞)御著肥前国塚崎庄之間…中略…多々良峰 小城郡牛尾城、春日山 烏帽子岳所々御陣忠節』と残ります☆南北朝時代には城郭との認知があった様です☆南北朝時代といえば足利氏♪ここから話を繋げます☆足利直義は自身の養子である足利直冬(尊氏の実子)を長門探題とし西国へ走らせました💨が京都で観応の擾乱が勃発、足利直冬は直義党として実父の尊氏に叛きます☆
怒った足利尊氏は直冬を討つ為に九州まで追い立てます☆一方九州・大宰府には九州探題の一色範氏が☆尊氏党の一色範氏に対し、九州へ逃げ込んだ足利直冬は輩下の今川直貞を総大将に肥前塚崎から兵を進め、肥前平定を命じ更には太宰府へと進ませました☆
南里文書によると小城の祇園城に拠る尊氏党の千葉胤泰に対し、牛尾城は足利直冬軍の今川直貞が陣を張っています☆
この頃の小城の諸勢力の中で、牛尾城を今川直貞の前線基地とさせた別当坊衆徒達は、足利直冬・今川直貞へ加担したようです☆別当坊衆徒☆戦う僧兵として活躍したのでしょう♪
更に別当坊衆徒の活躍は戦国時代にも残ります☆肥前を攻める豊後大友軍☆今山の戦いで鍋島直茂が奇襲を仕掛けた際、この別当坊衆徒も戦いました☆
という事は…前に口コミした『丹坂峠の戦い』時も、龍造寺側として有馬勢と戦った可能性も☆両子山に陣を設けた有馬氏ですが、牛尾山に陣所を張れなかったのはこの牛尾城の存在が理由かもしれません☆
丘陵の南先端に五重の石塔、墓石跡など残ります☆遺構はほぼ消失したようで、今は牛尾神社と牛尾梅林が残ります☆
牛尾神社には肥前鳥居があります♪佐賀藩初代藩主・鍋島勝茂が寄進したものです♪丹坂峠の戦い時に作ったマップは、立地が解りやすい為載せます☆
2021年09月10日 龍馬備中守【】
戊遺跡[千葉城 周辺城郭]
佐賀県の小城市、三日月町にある【戊(つちのえ)遺跡】♪ 祇園川が造成した扇状地の僅かに高まる場所に、かつて存在した遺跡になります♪
歴史詳細は不明です☆ただし弥生時代から古墳時代更には中世の居館跡や墓跡などが出土している場所です☆今は田んぼになってはいますが複合的に、しかも時代を跨いで人々が根を張ったという事は住みやすく心地の良い場所だったのでしょう♪
古墳時代の居住跡が発見されていてそれに重複させる形で中世の居館が営まれていた様です♪中世で言うと鎌倉時代辺りなのかな〜?
古墳時代の遺物としては壷、坩、杯、高杯が☆平安時代の遺物は皿形土器が、その他に碗形瓦器や滑石製器物片や青磁碗などが出土しています☆
吉祥神社の南東側一帯が戊遺跡ですが現在は水田になっている為に妄想するしかない訳であります☆
更にこの場所から北方には日吉神社と円教寺があります☆この日吉神社は『山王さん』と呼ばれていて創建は南北朝時代に肥前千葉家の千葉胤貞です☆
江戸時代には小城鍋島家の崇敬厚くて、2代目の鍋島直能は石灯籠を、9代目鍋島直堯は鳥居をそれぞれ奉献しています☆
従って戦国時代、龍造寺隆信がのし上がる前迄は、千葉氏の領域だと思われます☆
古代から中世と歴史がある戊エリア♪
歩いてみると確かに明るくて気持ち良い場所でした☆
2021年09月09日 龍馬備中守【】
平井氏館[千葉城 周辺城郭]
佐賀県の小城市にある平井氏館♪現在は宅地の中にひっそりと土塁の断片を残します☆
室町時代にはこの平井という地には肥前千葉氏一族の平井氏館があったと伝わりますが、中心的な場所は不明です☆
一色道猷地頭職宛行状(実相院文書)には『同国小城郡平井村内田地弐段畠地捌段(久布志良三郎入道跡)』と残っていて久布志良三郎入道の後を実相院にかかわる服部美濃房に宛行った事が分かります♪集落内には日蓮宗の修善院があるのですが本寺は鍋島直茂の妻・陽泰院の実家・石井家の菩提寺でもあります♪この修善院と国道との間辺りが城域とされていて、この辺りは『千葉舘屋シキ』と呼ばれ城館があった名残を今に残します♪
他にも何かないか☆一通り歩きましたが遺構らしきものはありませんでした☆
結論、築城年代は不明ではありますが戦国時代の千葉氏一族の平井氏の館だったのでしょう♪住宅地に残る土塁の断片は今なお、ひっそりと居館があった証拠を今に残しています♪
2021年06月19日 龍馬備中守【】
今山陣所[千葉城 周辺城郭]
佐賀県佐賀市の【今山陣所】♪龍造寺隆信が一躍、名を知らしめた『今山の戦い』で大友宗麟軍の総大将・大友親貞が築いたのがこの今山陣所です♪高良山に布陣した大友宗麟は諸将に佐嘉城(後の佐賀城)攻略を命じるも容易には進まず、弟の親貞を戦へ派遣します☆大友軍は佐賀平野を取り囲む様に北側の山中から平野部へ6〜8万の兵で攻め寄せます☆対する龍造寺隆信、鍋島直茂の佐嘉城には5千の兵☆最大の危機に陥ります☆4ヶ月に及ぶ戦に業を煮やした大友宗麟は親貞に総攻撃を命じます☆しかし親貞は占いの凶兆を案じ直ちに総攻撃に踏み切らず…一方、長引く戦に佐嘉城の城兵達の士気も下がり龍造寺軍は降伏を考え出しますが、隆信の母・慶誾尼が一喝☆「猫を前にして恐れている鼠のようではないか…!」と、此れにより直茂を中心に奇襲隊を結成☆佐嘉城を飛び出し敵陣を潜り抜けた5百の兵が、親貞の構える今山陣所の背後に伏せます☆この時親貞は本陣で勝利の前祝いと、宴の真っ最中☆軍の士気は緩んでいました☆間者によりこれを知った直茂は夜襲を決行☆敵陣に鉄砲を放つと『寝返った者が出たぞ!』と虚報を流し大友軍を混乱に追い込みます☆同士討ちを始め手薄になった親貞の陣に突入し、6人がかりで親貞を討ち取りました☆総大将を失った大友軍は散り散りに退却☆奇襲は大成功に終わり、この時の大友軍の犠牲は2千人に及びました☆この今山の布陣図は非常に興味深く…龍造寺軍は鍋島直茂、徳島氏、鴨打氏に納富氏や百武氏など古くからの龍造寺家の家臣中心なのに対し、大友軍は大友親貞、高木氏、横武氏、犬塚氏、姉川氏、小田氏、本告氏など佐賀の東側・神埼を中心としたクリーク城館の城主達に加え、佐賀の山間部の少弐氏や神代氏、更には西部の有馬氏、大村氏、西郷氏など多数の佐賀の城主が参戦しています☆龍造寺隆信の急激なのし上がりに、名家・大友からの圧力☆佐賀平野の城主達はこの戦に相当な迷いがあったんじゃ無いかな〜?生き残る為に何が最善なのか?大変興味深いです☆勝機を逃した大友軍は半年の包囲を続るも佐嘉城攻略はならず龍造寺側から和睦提案があり隆信の弟・信周を人質に差し出す事で、講和を受諾☆宗麟は豊後に帰国しました☆この戦を契機に龍造寺隆信は徐々に周囲の勢力を討伐し大友・島津に並ぶ九州三強へとのし上がりました☆どんな戦況に成ろうが諦めなければ道は拓く♪どの時代にも言える事ですね☆
2021年06月19日 龍馬備中守【】
今山の古戦場[千葉城 その他]
佐賀県の佐賀市にある【今山の古戦場】♪今はみかん畑が拡がります☆
眺めが素晴らしくって佐賀市は勿論、遠くは島原半島も望む事が出来る素敵な立地です☆
この場所は龍造寺軍と大友軍が激突した場所で龍造寺軍はこの戦闘に勝利♪龍造寺隆信は一躍九州三強の一角として名乗りを上げていきました♪背後の山に大友親貞は陣を張りました☆そして…この山から佐賀城を睨み付けました☆
山上からは綺麗に船塚古墳も見えます〜♪
2017年10月17日 カーネル
千葉城
唐津線 小城駅から北へ向かいます
県道48号で右折して東へ向かい、祇園川を越えたら、すぐに左折し川沿いを歩くと、薄い肌色の小さな建物がポツンと建っています
この建物の背後に「千葉城址展望台」の看板があるので、案内の従い進むと、登り坂になります
坂道を登り切ると、千葉公園の碑があるので、進むと展望台があります。ここにはお城の説明も
公園入口に戻り、北東へ向かう未舗装路を進むとミカン畑になり、地形が切岸と曲輪がよく残っています
そのまま東に抜けると、金毘羅社があり、お城のものかわかりませんが、階段状の曲輪がいい感じに連なってます
そのまま下って県道48号に戻り、小城城に寄りました。キレイに整備されててよかったです
その後、小城駅に戻って2時間でした