姉川城(あねかわじょう)

姉川城の基本情報

通称・別名

所在地

佐賀県神埼市神埼町大字姉川字二本杉

旧国名

肥前国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

菊池武安

築城年

正平15年〔南朝〕/延文5年〔北朝〕(1360)

主な改修者

主な城主

姉川氏

廃城年

天正15年(1587)?

遺構

曲輪、横堀(水堀)

指定文化財

国史跡(姉川城跡)

再建造物

説明板

周辺の城

直鳥城(佐賀県神埼市)[3.1km]
帯隈山神籠石(佐賀県佐賀市)[4.6km]
吉野ヶ里(佐賀県神埼郡)[4.8km]
高木城(佐賀県佐賀市)[5.1km]
蓮池城(佐賀県佐賀市)[5.4km]
勢福寺城(佐賀県神埼市)[5.6km]
佐賀城(佐賀県佐賀市)[6.9km]
水ヶ江城(佐賀県佐賀市)[7.0km]
城島城(福岡県久留米市)[8.4km]
堤土塁(佐賀県三養基郡)[9.1km]

姉川城の解説文



姉川城(あねがわじょう)は佐賀県神埼市に存在した平城。国の史跡。

概要 

佐賀平野に設けられ、現在の佐賀県神埼市に位置する。周囲は溝渠に囲まれていた。

菊池武安が正平15年(1360年)に築城したとされる。後に菊池氏の子孫である姉川氏が入り、戦国時代には少弐氏に属していた。その後龍造寺隆信が台頭するとその下に入り、大友義鎮の侵攻を防ぐなどの働きを見せている。元亀3年(1572年)に姉川氏は加増を受け、姉川から坊所に転封された。その後の当城の詳細は不明だが、城館跡と環濠集落跡が発掘され、2010年に国の史跡に指定された。

参考文献 

  • 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典(41.佐賀県)』、角川書店、1982年

姉川城の口コミ情報

2022年04月30日 大五郎
姉川城



菊池武安が築いたと伝わる。南北朝時代、覇権をかけ懐良親王や菊池武光が太宰府や筑後川で死闘を繰り広げていたんだと想いを馳せる。曲輪はあるが、何もない荒地で草が茂っている。しかも民家?がある。

2022年01月28日 RED副将軍【新宮党】
姉川城



佐賀を代表する環濠集落(クリーク)の平城です

オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎

1360年に菊池武安によって築城と伝わります。
その後、菊池氏庶流の姉川一族の居城となりました。
姉川氏は少弐氏に属していましたが、龍造寺隆信が勢力を伸ばすとその傘下となり、1559年の勢福寺城攻めの際は姉川城が本陣となりました。
1570年に、大友宗麟が龍造寺隆信を攻めると、姉川惟安は大友方に参陣。しかし、大友氏が龍造寺氏に敗れると、再び龍造寺氏に加担。
姉川氏は少弐氏、龍造寺氏、大友氏の趨勢を見極めて存続して来たようです。
1572年に 龍造寺氏が朝日山城の筑紫貞治を敗ると、姉川信安はその論功行賞により加増され姉川から米田へ転封。姉川城は廃城となった様です。
姉川氏は、龍造寺氏が衰退すると、鍋島直茂に仕え、朝鮮の役にも出陣して活躍しました。

見所
縦横に巡る水路を水堀として防御。浮島のように郭が配置される典型的なクリーク。
近隣の横武城、直鳥城より規模が大きく、水路の幅も広い分、全体像が見えにくく写真では川の様に見えます。
曲輪跡の島は神社、農地、宅地等となっており、特に整備はされていないのが残念。

2021年12月08日 龍馬備中守【】
神埼宿[姉川城  寺社・史跡]



佐賀県の神埼市の本堀にある【神埼宿】♪
長崎街道の宿場町である神埼宿はその名残を今に見せます☆

神埼宿が栄えていた名残として櫛田宮や多くの寺院が残ります☆櫛田宮の門前町として室町時代には、その中心部は出来ていたと云われています☆

近世に入ると『神埼百田旧記』には、
・天正十九年 四日町、七日町馬場立
・慶長四年 八日町立
・寛永十七年 横町杉山開
・天和三年 東溝より三本松の迄町立
・元禄二年 ひの柱地蔵町立
などなど記録が残ります☆
その後に二日町、五日町、九日町が出来て東・西の新町に挽木町も出来ています☆
今なお地名として残っています♪

月の四、七、八、九日の数字の日には市場的な催しが行われていて、その後には、二、四、五、七、八、九日と市は進んでいったと考えられています☆

古代から栄えた駅ヶ里(地名です)に代わって、この櫛田宮を中心とする神埼宿は栄えていったのでしょう☆長崎街道沿いに5箇所の曲がり角を持ち、鉤形に細長く伸びた町が形成されていきました☆

この町を鉤形にしたのは城下町同様に戦時の際の通し矢による被害を避ける為でしょう☆

その後…幕府や藩の商農分離政策と相まり江戸時代迄に今ある神埼宿、櫛田宮を中心とした町が出来上がったという訳ですね☆

宿の東・東新町と西・西新町の端には警備の為の木戸が設けられていました☆
通常、領内の一般の木戸は門扉式ですが神埼宿の木戸は少し変わっていた様ですw
太田南畝の小春紀行には、こう描かれています☆『文化二年十月十二日 神埼宿に入る。 此宿の出入の門のさまこと所に たがひて古風なるものなり。門の柱より木をたてて あじろめく(網代)扉を半蔀の如くにつきあげたり。長崎両番所の坂の門ごとし』と残ってます開門時には板を縦横斜めに組み合わせた戸板を蔀の様に突き上げて支えて、その下を潜り出入りしていた様です♪

長崎街道は長崎と小倉を繋ぐ街道ですが、肥前佐賀には多くの宿場町がありました☆
宿場町巡りもまた歴史に触れる事が出来て面白いですね〜☆

2021年06月21日 龍馬備中守【】
莞牟田環濠[姉川城  周辺城郭]



佐賀県神埼市の【莞牟田(くぐむた)環濠】佐賀平野に点在する環濠集落の一つです♪長崎街道が傍を通り東に城原川が流れます♪南に直鳥城、西に姉川城、北に横武城、北東に本告牟田城という立地です☆『九州治乱記』に戦国時代の莞牟田合戦が記されています♪勢福寺城攻めの局地戦としてここ莞牟田で行われました☆ここで奮戦する小田政光は一時、龍造寺隆信と並ぶ程有力でしたが隆信が力を持つにつれ、それを快く思わない国人と合力し隆信を何度も筑後へ追放します☆結局は隆信が佐賀へ戻り、小田氏の蓮池城を落城、政光は隆信に臣従する事となります☆以前『神代勝利』の口コミをしましたが、神代氏は九州守護だった少弐氏の家臣で隆信の天敵でした☆隆信は神代の力を削ぐべく、少弐方の江上武種の勢福寺城を攻めます☆隆信は先述の小田政光を先陣に進軍☆龍造寺軍は援軍の本告牟田城・本告頼景を加え約3000兵☆一方、迎撃の為出陣した少弐軍、神代や江上率いる城原衆も約3000兵☆ほぼ同数がここ莞牟田畷の長者林で激突し戦闘を開始☆隆信は姉川城を本陣に構えます☆龍造寺軍は莞牟田から進軍する小田勢と別に1500余騎の直鳥城・犬塚氏が、神埼口で少弐軍2000兵と激突します☆
犬塚氏と少弐城原衆は、城原川を挟み西に龍造寺軍、東に少弐軍、と対峙したのではと推測します☆この神埼口の戦は少弐方が勝利し犬塚氏は撤退☆一方、莞牟田で戦う龍造寺勢の小田・本告連合軍☆敵は戦慣れした少弐勢の主力、神代・江上連合軍です☆政光は少しずつ押され先陣が崩れ始めます…これはマズイ!と、政光は姉川城の隆信に援軍を要請も…まさかの本隊は動かず…先陣は総崩れ、政光は死を覚悟し敵勢に切り込みました☆激戦の末に政光は戦死☆更に援軍の本告氏も戦死☆一時は敵として隆信と戦った小田政光…☆隆信から信頼を得ようと、先鋒にも関わらず兵を引かなかった結果が戦死となったのでしょう☆政光の死を知った隆信は本隊を前進☆神代・江上連合軍を吉野ヶ里遺跡の中の日吉城まで追い込みます☆そのまま隆信は勢福寺城へ進軍、落城させました☆更に…小田政光の居城・蓮池城を攻撃☆主君を見殺しにされた小田一族を野放しにはしておけなかったのでしょう☆佐嘉村中城、水ヶ江城など隆信の本拠地と近すぎる蓮池城…危険な勢力は排除するしかなかったんでしょうね…☆悲しみ…☆
そんな激戦の莞牟田環濠でした☆

2021年06月20日 龍馬備中守【】
野田城[姉川城  周辺城郭]



佐賀県の神埼市にある【肥前・野田城】♪城原川の右岸、日の隈山の南側に立地していて直ぐ北東には横武城、北西には姉川城に接します☆距離でいうと…どうだろう〜??直線700m位かな〜?ゲキ近ですw
そうですそうなんです☆

姉川氏の支城の城館なんです☆これだけ近ければそうなりますよね〜♪
城主は姉川城主・姉川惟安の孫の姉川勝次郎で後に姓を変えていて野田孫右衛門と名乗りました☆

姫ヶ里と呼ばれたこの場所は、今屋敷等の地名を残します☆
若宮八幡宮の一帯に築かれてました☆
クリークを駆使した環濠集落のような平城館になっていて佐賀平野特有の縄張りを持ちます☆若宮神社の参道に野田城の碑が立ちます♪

2021年06月18日 龍馬備中守【】
渕川城[姉川城  周辺城郭]



佐賀県の佐賀市にある【渕川城】♪巨勢川、土井川、市ノ江川の合流点の南側に立地します☆集落内には多くのクリークが網目を張り巡らせます☆
築城年代は不明ですが空閑光家によって築かれたと伝わります☆この空閑氏は清和源氏で光家の時代に渕川城を築いて居館を造ってます☆
南北朝時代の『肥前守源某下知状』では『大路□壱町渕村内田地等事』と記されていて『渕村』という環濠集落名が出ています♪
古くから集落を形成していて環濠集落は、いつしか城館に変化していったという訳です☆
戦国時代に入ると空閑家重は龍造寺家和の娘、空閑光家は、それぞれ龍造寺家兼の娘と婚姻関係を取り龍造寺家との結び付きを強くしました☆
江戸時代の藩政期には佐賀藩本藩の本領となっていて現在の渕と藤木にあたる各集落は佐賀本藩の蔵入地となる一方、若宮、瓦町、西渕には白石鍋島家、村田鍋島家を始めとする鍋島家臣の知行地でもありました☆

集落の南端の更に南側の水田の中に『廟』と呼ばれる空閑氏の墓所が残されています♪この地に生きた証拠ですね☆この場所に案内板が設置されています☆因みに肥前国に古賀という苗字が結構多いのですが(亡くなられた柔道の古賀さんとか)この空閑氏(こが)と関係があるのかもしれません☆

因みに『渕』はこの地が古く有明海の入り江の頃に波打ち際だったことに由来します☆

渕川城は現在も人々が居住していて生活をしています☆『蔵屋敷、蔵ノ内』と呼ばれる環濠区画が残り空閑氏の館跡であったと伝わります☆

2021年05月30日 龍馬備中守【】
横武城[姉川城  周辺城郭]



佐賀県の神埼市にある【横武城】☆豪族・横武氏の城館です☆戦国時代には横岳とも記しています☆
クリークを駆使した城郭の中でも原型を良く留めていて直鳥城、姉川城と共に佐賀平野のクリークの城の代表的な1城になっています☆

この横武氏ですが文献に名前が現れるのは室町時代頃です☆
室町時代に北部九州の守護・少弐一門の横武頼房が佐賀平野・三根郡の拠点として西島の環濠集落を徐々に整備して行き本拠として西島城を築いた事から始まります☆

往時、北部九州を中心に勢力を奮っていた少弐氏ですが、周防国の大内氏と大宰府周辺の覇権を争う宿敵同士でバチバチでした☆田手畷の戦いで大内義興は少弐政資を滅ぼして、かつては鎮西の覇者であった少弐氏を肥前の一地方の勢力に転落させる事に成功します☆この合戦によって頭角を現す龍造寺家☆この戦いの後に佐賀平野南部の有力領主らを味方につけ戦勝に貢献した龍造寺氏が、少弐家中での発言権を強めて後に戦国大名化していく事になります☆

室町時代、戦国時代と徐々に勢力を失われて行く少弐氏…☆その中でも横武氏の動きは分かっていません☆少弐氏の滅亡によって龍造寺家を押し上げた龍造寺隆信は勢力伸張していきます☆肥前国を攻めきれない豊後国・大友宗麟はコノ横武氏に神埼郡内の所領を預けてたりしているので、この時期は大友宗麟とコンタクトを取っていた事が判ります☆どうしても肥前国を納めた〜い大友宗麟は肥前国へ攻め込んでいきます☆
今山の戦いが勃発します☆
この時、横武氏は大友宗麟勢に付いています☆村中城(後の佐賀城)を守る龍造寺隆信は5千の兵に対して攻める大友宗麟は6万の兵で攻め込みます☆結果的に鍋島直茂の奇襲により龍造寺氏が勝つわけですが…☆これは後にまた口コミしますw

横武氏は肥前国を守り切った龍造寺家の家臣になっていて龍造寺軍の主力として数々の合戦に出陣しています☆筑後・海津城に拠る安武氏を攻めた際には龍造寺軍の主将として参戦し見事これを陥落させました☆
とまぁ横武氏の途中、途中は解らない事が多いですが肥前国に置いて上手く立ち回り生き残っていきました☆

独特の佐賀平野は他に類を見ない城郭の宝庫です☆佐賀を代表するクリーク城の1つとしてオススメです☆


2021年05月30日 龍馬備中守【】
柳郷城[姉川城  周辺城郭]



佐賀県の神崎郡にある【柳郷城】☆現在は会社の敷地の外側を覆う様にクリークを巡らせています☆

姉川城からは真東に直線1キロ位かな〜?横武城からは南西1キロ位かな〜?の位置にあり姉川城、横武城の両城に挟まれた形で存在します☆遺構はクリークのみで34号線を跨ぐ感じで城郭は形成されていたんじゃないかと考えてます☆従って形含めて大きく変わってしまっている可能性があります☆

歴史詳細は不明です☆が、此処にはかつて城跡があったと伝わります☆
姉川城、横武城、そして柳郷城☆果たしてこんなに接近して城がいるのだろうか?
ハテナ的な疑問が浮かびましたw
佐賀平野の豪族達は古来より戦国時代も変わらず意外に関係が良好だったのかもしれない☆豪族といえど普段は農民として農耕で生計を立ててる訳で生活が第一☆
集落が何処も近い以上はご近所付き合い的な形で平和に暮らしていたのかもしれません☆
それがこの地方を制圧したい!という意識の高い武将が出てくる事によって掻き乱された☆集落のリーダーは従う他に自分達の命は無いから生き残る為には従い戦うしかない☆
なんだかそんな風にすら思えて来た…☆
距離感がそれを物語ってます☆
分からない事だらけだけど、考える事が楽しいですね〜☆

2021年05月29日 龍馬備中守【】
下六丁環濠[姉川城  周辺城郭]



佐賀県の神埼市にある【下六丁環濠】☆六丁牟田集落内にある環濠になります♪
上六丁館から直ぐ南西側の直線150m位の所に立地しています☆浮島を造り現在でも人々が生活しています☆

残るしこ名としては
「やなごう」…柳郷は城跡です☆
「おおえ」…大江☆
「しまげ」…島外→環濠集落として成り立っていた証拠ですね〜☆
などが残ってます☆
誰が居住していたのか?う〜む分からずじまいです☆

歴史詳細は一切不明です☆上六丁館の話の続きになるのですが、この地にはかつて少弐高経を祀った社があって、その宮司職を代々世襲した山辺家の屋敷が存在していました☆

佐賀平野には古代より溝渠(クリーク)と呼ばれる濠に囲まれた数多くの環濠集落が存在しています☆古くは弥生時代からその片鱗を見せています☆平安時代の中期以降は、その地の豪族が各自の館を中心とする農村集落の内外をクリークで囲み環濠集落を形成していました☆南北朝、室町、戦国と時代は血生臭いものになるに連れて環濠集落はいつしか、身を守る為の城館として農村集落の人々は時には戦う武将として独自の進化を遂げていったと思われます☆調べれば調べる程、独特の味があって各集落に入り込めば何か出てくる☆それが面白くって最近はクリークの城館ばかりにハマってますw

2021年05月29日 龍馬備中守【】
上六丁館[姉川城  周辺城郭]



佐賀県の神埼市にある【上六丁館】☆姉川城の北東側、横武城の真西に位置する上六丁館☆クリークに守られた六丁牟田村の集落になります☆

奈良時代、平安時代には神埼庄に含まれていたと考えます☆横武城、姉川城に隣接する事から、横武氏?はたまた姉川氏?の家臣?一族の居館跡か?2つのクリークと比べると濠幅は狭く城郭では無い、居館的な雰囲気がプンプンします☆
残り具合としては素晴らしく縦横にクリークを走らせてます☆

残るしこ名としては
「きたんやしき」…北屋敷☆
「みないやしき」…南屋敷☆
「しんじゃぼい」…身代堀☆
などなどが残ってます☆
歴史詳細は不明です☆誰が居住していたのか?分からずじまいです☆

この集落にはこんな話が残ります☆
少弐高経は晴気城に逃亡したが周防・大内勢に千葉興常も加わり晴気城を攻撃しました☆
少弐政資は多久の梶峰城に逃げ、少弐高経と主従4名は石体越え(現小城市)で市の川(現佐賀市)まで逃げますが、遂にその地で自害してしまいます☆後にその霊魂が神埼郡の広滝山に現れたらしく社を造りました☆この社をココ六丁牟田村に遷座、更に境原の地に遷座し正一位社と称しました☆
と言う話です☆社とは若宮神社の事だと思われます☆

昔の人々は霊魂を鎮める時は社などを建ててたんですね〜☆そういう話は全国各地にあるので中々興味深い話です☆霊魂的なものもそうだけど信仰ってのも古くからありますよね〜☆古くは磐座から始まり神様だったり仏様だったりと、この辺りもヤッパリ興味深いです☆人は限界までやり切った時には最後は神頼み的な感じなのかなぁ〜?
分からなくも無いけどw
個人的には霊的なモノは全く信じないので感覚が分からないw

2021年02月18日 龍馬備中守【】
横武城[姉川城  周辺城郭]



佐賀県の神埼市にある横武城☆現在は横武クリーク公園としてバッチリ整備されています☆別名を西島城と呼びます♪
公園化されているクリークに、民家の中に残るクリーク♪ハタマタ田圃の中にあるクリーク♪沢山の環濠集落がこの佐賀平野には残っています♪古くは古代より環濠集落の発生から始まり、平安時代は豪族の館を中心にして農村集落の内側、外側をクリークで囲み込み環濠集落が出来ました♪環濠集落から更には戦う城郭へと進化して行きました☆この横武城もその一つとなります☆
平安、鎌倉期には西島氏が発端となってここを拠点としました☆その後、室町時代に入ると豪族・横岳氏(横武氏)が整備し更なる発達をしていきます☆
この横岳氏は北九州の守護大名だった少弍一族に支えた訳なんですが、この少弍氏は徐々に諸大名に押されていきます☆
少弐政資は大内氏・渋川氏の軍に敗れて自刃してしまいます☆少弍政資の遺児の少弐資元は幼少だったので横岳氏の横武城で保護されます☆保護されながらも何とか生き延びて行く少弍氏なのでありますが少弐冬尚(少弍氏17代・最後の当主)の時に龍造寺隆信に敗れ自刃して少弐氏は滅亡☆その後、北部九州の最大勢力の大友氏は少弐家再興を大義名分として少弍冬尚の弟である少弐政興を立てました☆その後、更に龍造寺隆信は横岳氏の守る横武城を攻めますが失敗、、、も、結果的に龍造寺氏に降りました☆

2019年04月24日 笑門来猫
姉川城



この地域特有のクリーク城跡。浮島を利用した曲輪が多数並んでいます。

2016年11月27日 柴崎中納言幸助
姉川城

城の西南部にある公園内に、詳しい案内板があります。空撮写真からは全体像がよく分かります。
歩いてみると、入りくんだ濠によって迷路に迷い込んだ感覚になります。

姉川城の周辺スポット情報

 説明板(碑・説明板)

 下馬口跡(碑・説明板)

 構口跡(碑・説明板)

 説明板(碑・説明板)

 横武城(周辺城郭)

 上六丁館(周辺城郭)

 下六丁環濠(周辺城郭)

 柳郷城(周辺城郭)

 渕川城(周辺城郭)

 野田城(周辺城郭)

 莞牟田環濠(周辺城郭)

 (寺社・史跡)

 神埼宿(寺社・史跡)

「ニッポン城めぐり」を始めるには?

「ニッポン城めぐり」は、iPhone・androidの両アプリに対応。
利用料金は無料、アプリ内の課金も一切ナシ!いますぐ城めぐりを始めてみよう!

スマートフォンからのアクセス方法

app store app store  ■iPhone
 AppStore で「ニッポン城めぐり」を検索。

google play ■Android
 Google play で「ニッポン城めぐり」を検索。

スマホを持って城をめぐろう!スマホでお城スタンプラリーゲーム「ニッポン城めぐり」 ニッポン城めぐりとは? GooglePlay Appstore