勢福寺城(せいふくじじょう)

勢福寺城の基本情報

通称・別名

成福寺城、清福寺城

所在地

佐賀県神埼市神埼町大字城原字土器山

旧国名

肥前国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

一色直氏

築城年

正平8年〔南朝〕/文和2年〔北朝〕(1353)

主な改修者

主な城主

一色氏、菊池氏、少弐氏、江上氏、大友氏、大内氏、龍造寺氏

廃城年

天正17年(1589)

遺構

土塁、堀

指定文化財

再建造物

周辺の城

帯隈山神籠石(佐賀県佐賀市)[2.1km]
吉野ヶ里(佐賀県神埼郡)[3.6km]
姉川城(佐賀県神埼市)[5.6km]
鎮西山城(佐賀県三養基郡)[6.3km]
堤土塁(佐賀県三養基郡)[6.5km]
直鳥城(佐賀県神埼市)[8.1km]
高木城(佐賀県佐賀市)[8.7km]
蓮池城(佐賀県佐賀市)[10.9km]
城島城(福岡県久留米市)[11.8km]
佐賀城(佐賀県佐賀市)[11.9km]

勢福寺城の解説文



勢福寺城(せいふくじじょう)は、佐賀県神埼市神埼町城原字北外[1]にあった日本の城。

概要 

文和2年/正平8年(1353年)に九州探題・一色範氏の子で肥前守護の一色直氏により築城されたという。直氏は後に二代目の九州探題となる。その後菊池氏、少弐氏、大友氏、大内氏、龍造寺氏の城となった。

天文9年(1540年)少弐冬尚が少弐氏を再興するが、 永禄2年(1559年)に龍造寺隆信に攻められ勢福寺城は落城する。その後龍造寺隆信の次男である江上家種が城主となったが天正17年(1589年)に蓮池城に移り、廃城となった。

勢福寺城の口コミ情報

2024年06月15日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
平原城[勢福寺城  周辺城郭]



佐賀県の佐賀市の久保泉町にある【平原城】♪別名を川久保城山というこの中世の山城は、標高117mの低山に存在します♪北側は脊振山地の山々が連なり、山間部の間は峠道となり、神代氏が領した三瀬へと繋がります♪
佐賀平野と山岳部へと繋がる場所に存在している為、佐賀平野側を監視する目的とした城郭なのでしょう♪
この城郭のある低山の谷間を挟み、西側には鈴隈山、南東側には帯隈山(帯隈神籠石)があり、平原城のある山と鈴隈山の谷間は、山岳部や三瀬方面へ向かう天然の虎口にも見えてきます♪平原城の西麓には、神代勝利を祀った勝宿神社もあります♪
築城年、城主等、不明な城郭ですが、立地を見るからに神代氏の属性の城郭でしょう♪

神代氏といえば、三瀬城を本城として、山内二十六ヶ山(※山内を治める26の豪族の意です)を束ねた神代勝利♪戦国時代には龍造寺隆信とバッチバチにやり合っています。
神代勝利の死後、家督を継いだ神代長良は、龍造寺氏の一族である鍋島直茂の甥、家良を養子に迎え、家督を継がせました。これにより、長きに渡った龍造寺氏との戦いが終わっています。
鍋島家がいよいよ、佐賀藩主として地位を確立していくと、神代家は鍋島家の親類格となり、佐賀藩の重臣として、お家は続いていきます♪元和3年(1617年)鍋島直茂は、孫の元茂に小城に知行地を与え(後の小城藩)、側近の一部を元茂の元へと配置させました。その側近の中に、神代源内という神代家の一族が含まれていて、神代氏は小城藩の上級家臣としても存続していきました。
…と神代氏の話ではありましたが、この平原城はあくまで、誰の城かは分かっていませんw

南北に標高117m付近に築かれた城郭は神代氏の城郭か?大きく3つの郭で構成?主郭から小郭を挟み堀切(土橋付き?)、更に削平地あり、コレは副郭かな?その先に三重堀切がある。南側の防御が固く、その先には佐賀平野が広がります。北側はスロープ状の動線の先に削平地。スロープの途中の東側には土塁か?高まりを見せる♪主郭スペースは狭く、砦感満載である。主郭から北東側に派生された尾根先にも、堀切と削平地あり♪とまぁこんな感じの城郭でありました♪見所は三重堀切かな〜?いずれも、山岳戦を得意とした、神代氏の城郭かと思われます♪

2024年01月20日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
仁比山城[勢福寺城  周辺城郭]



佐賀県の神埼市にある【仁比山城】♪
仁比山神社の背後にある仁比山山頂付近一帯を城塞化しています♪標高222mの地点に築かれた中世の山城となります♪

山頂部からの景色は佐賀平野が広がり、麓には肥前国庁と太宰府に通じる、古代官道が東西に走ります♪北側には一際高い、脊振山が屏風の様に山陵を構え自然の要害をなしています♪

そんな仁比山城♪築城年は不明ですが、元徳3年(1331年)の仁比山神社の文書に、『仁比山衆徒御返事』とあり、仁比山衆徒の宮司の砦の様なモノがあったのかもしれません♪

正平6年(1351年)頃には、九州探題の一色範氏が居城しています♪

『右肥前の国 田手村に於て警固の上 今月七日就中 仁比山を追落し 同九日菩提寺城に於て 一色五郎以下没落の時 忠節致し候…正平八年七月 進上御奉行所』

『右去る 四月五日御所 高良山に御成り以来 所々御陣に於て警固致し…同七月七日仁比山、菩提寺城御発向の時 御手に属し 忠節を抽んで両城を追い落とす…』
コレは草野孫次郎永行の軍忠申状に記されています♪〝御所、高良山に御成り”は懐良親王の事となり、仁比山城には一時、九州探題の一色氏が在城していた事が分かります♪

更に正平15年(1360年)南朝方である菊池武光は、甥の菊池肥前守武安をこのエリアに派遣して、武家方の徹底討伐を目論みました☆菊池肥前守武安はこの仁比山城を拠点として、本告城、姉川城、牟田城、神田江城、横大路城、松崎城、菩提寺城など、諸城に軍兵を配置して、積極的に佐嘉、小城、松浦に攻め入り、江上氏、高木氏、龍造寺氏、千葉氏、松浦氏や少弐氏などとバッチバチに、やり合う動きを見せています☆

前期は九州探題の一色氏が居城し、後期は宮方の拠点となっています♪

標高222mの仁比山山頂の尾根に城郭は存在します♪幾つか郭の様な削平地がありますが、一面シダに覆われていて分かりにくいですw東側の最高所には明確な堀切が1条あります♪巨石が多くて、自然の要害感が強い印象を受けました♪馬蹄状の尾根の間には巨大な谷があり、2段の削平地状の平場あり♪武者溜まりの様に兵を溜めれそうです♪平時は、城原川が造りだした扇状地の麓で生活かな?山上は有事の際に籠る程度の印象が強くて、堀切、郭、岩などの自然物で要害感を演出♪砦感の強い城郭でありました♪
西に3キロ程の距離に勢福寺城があり、後の戦国時代にはそちらがメインの城郭となり、仁比山城は使用されなかったのでは無いか?そんな印象を受けました♪
そもそも、仁比山神社自体も郭的な要素に見える為、その規模感は結構おっきいです♪
仁比山神社方面からが、大手でしょう♪
仁比山神社を取り込んだ、仁比山城♪
神仏に手出しが出来るか?と言わんばかりに、菊池氏の陣所の構え方に、感動を覚えました♪

2024年01月13日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
菩提寺城[勢福寺城  周辺城郭]



佐賀県の神埼市の吉野ヶ里にある【菩提寺城と八天山(土器山)】♪

同神埼市にある吉野ヶ里遺跡を散策している時に、前々から1つ気になる事がありました♪
古来より吉野ヶ里に住む人々は、自然災害から身を守る為、また生きていく為に豊作や無病息災を願ったり、自分達が生きる為に何を崇めて生きていったのか?今でこそ、神様、仏様などに祈ったりしますが、往時はどうだったのだろう?自分は神も仏も信じませんw自分自身、信仰心が薄いので、余計に気になったのですw

古来より自然信仰があったと云う事は以前にも述べました♪それは、太陽信仰の様な火を神様とするものだったり、山岳信仰として山自体を神様とするもの、磐座として岩を神様とするものだったりと、往時は当たり前の様に自然信仰が行われています♪
そんな中、吉野ヶ里における信仰の対象は何だったのだろう?と気になったという事で、八天山へ足を運びました♪吉野ヶ里から北東側を眺めると、脊振山地の一画に前に突き出す様な形の山があり、コレが八天山となります♪

この八天山は別名、土器山とも呼ばれています♪土器山?土器と云う言葉が、弥生時代、古墳時代の土器に繋がるものがあり、より妄想を掻き立てます♪
登ってみた結果として、この八天山は修験道の山であり、中世の山城だった♪という事で、やはり歴史は繋がっていました♪良い場所というのは、いつの時代も変わらず何かある場所♪という事は改めて再認識出来ました♪

さて、信仰の対象としたのでは無いか?
と考えたこの八天山ですが、眼下には吉野ヶ里、脊振山地、島原の雲仙普賢岳と眺望素晴らしく、山頂には磐座、更にはストーンサークルがありました♪
ふと思いつき登ってみた山ではありましたが、磐座の下には土器(盃)を祀るという慣わしは今でも行われていました♪
近場での信仰は八天山、北側に脊振山♪コレも信仰対象かな〜?更に南側には雲仙普賢岳♪雲仙は耐えず火山活動があったと思われるので、今みたいに標高が高く無かった可能性もある為、ハテナ?ではありますが☆土器山、脊振山は当時の人々の信仰対象と十分考えられます♪吉野ヶ里に立ち寄った際には、北の山々を見てみて下さい♪
因みに八天山の麓には、八天神社が祀られています♪八天神社と云えば、肥前・火の神が祀られている神社となっています♪

さて菩提寺山城です♪
標高429mに築かれた中世の山城です♪
脊振山地と佐賀平野の境界は、徐々に高まる扇状地、朝日集落、的集落の北側に存在します♪対岸の仁比山にも、同様に仁比山城が存在し、中世・南北朝時代には、北朝幕府方の一色範光が仁比山城に居た所を、南朝宮方の勢力によって追われ、菩提寺城へ逃れたと伝わります♪延文5年(1360年)には南朝方の菊池氏が菩提寺城に籠もり、少弐氏に攻められています☆

戦国時代の記述は薄いのですが、南側には江上武種が籠った勢福寺城があります♪谷を挟み1.5キロの距離です♪
更に南麓平坦地には、雲上の城と呼ばれる江上氏の居館があった場所となります♪
立地から、菩提寺山城は江上氏の支城群の1城であったか?ハタマタ、山内二十六ヶ山(佐賀、神埼、小城の山間部)を領地とした、龍造寺隆信の最大のライバル・神代勝利の山岳戦時に利用した城では無いかなぁ〜?
そんな印象を受けました♪
東西に長く伸びる稜線上に城郭を形成♪
この場所は詰め城と思われます♪
輪郭部には土塁を配置して、防御を強化♪
北向きの尾根部は恐らく堀切があったのでは無いだろうか?と思われる箇所ありです♪

現、八天神社の上宮部分も削平地となり、郭の一部だと思われます♪更に比高を下げた310m付近、八天神社の中宮部も削平地があり、同様に郭と思われます♪その先にはつづらに折れる切り通しは山頂へと続きます♪

ふと登ってみた先には、信仰対象に相応しい、磐座にストーンサークル♪修験道の山と更には中世の山城♪歴史は繋がります♪

2023年07月28日 気分爽快豊後守
勢福寺城



種福寺の東に案内板と登城口があります。案内板の縄張り図を写真にとり、リア攻めマップの縄張り機能に取り込み山頂を目指しました。長崎自動車道を過ぎた先に堀切が連続してあり、更に登ると広い郭の虎口に到着します。

その先は井戸、大堀切、岩盤を利用した堀切、枡形状の窪み、竪堀等々があります。

①途中の堀切
②南域の郭の虎口
③南域の郭の土塁
④大堀切
⑤⑥北域の郭
⑦岩盤堀切
⑧南域の井戸

2022年04月21日 RED副将軍
勢福寺城



九州北部の守護職 少弐氏の最後の居城。

オススメ度 ★★★★⭐︎

1353年に、九州探題の一色範氏の子で肥前守護職である一色直氏により築城。
肥前と筑前を結ぶ要衝にあり、その後は、菊池氏、少弐氏、大友氏、大内氏、龍造寺氏の城に入れ替わります。
1540年に、大内氏の侵攻により弱体化していた16代当主の少弐資元が大友氏の支援を受けて再興し居城とします。
しかし、家臣であった龍造寺氏が謀反を起こし、1559年に17代当主を継いだ少弐冬尚は龍造寺隆信に攻められ自害。少弐氏は滅亡しました。
その後は、龍造寺氏に降った江上武種が城主となりますが、大友氏と龍造寺氏の争いの中で大友氏に従います。その結果、再度龍造寺氏に攻められ降伏。龍造寺隆信は二男の家種を養子に送り込み、龍造寺氏の支城となりました。養子を迎えたとは聞こえが良いですが、事実上は乗っ取りです。
1589年に江上家種は蓮池城へと移ったため、勢福寺城は役目を終え、その後、一国一城令の際に廃城となりました。

見所
標高196.1mの城山山頂に主郭を置き、北西から南東に伸びた尾根筋に郭群が連なる縄張り。大きく北郭群と主郭のある南郭群に分かれています。
主郭は、北西に高土塁、南東下には井戸が確認でき、北側下の北郭群への尾根筋は大堀切で分断されており一番の見所です。
北郭群は北側の尾根筋は堀切で遮断し、南側斜面は竪堀で堅められています。

行き方は、南麓の種福寺から登山道が整備されており駐車スペースもあります。
写真
①大堀切
②最初に現れる南尾根の堀切
③南郭群の竪堀
④土塁
⑤南郭群と北郭群の鞍部は巨石が点在
⑥北郭群の竪堀
⑦井戸跡
⑧案内板の縄張り図

2022年01月06日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
執行氏館[勢福寺城  周辺城郭]



佐賀県の神埼市にある【執行氏館】吉野ヶ里遺跡の北西側、脊振山地より南に伸びた舌状丘陵地と城原川の中間地帯に存在した竹原集落♪北は志波屋集落、南は馬郡集落に隣接します☆

この竹原集落に執行氏館は存在しました☆
仁比山神社文書には
『きしんたてまつる かわらのやしき一しよの事あり ひせん(肥前)のくにかんさきのしよう(神埼庄) 上条こうたかはらかり(竹原里)廿八坪二反四丈の事』と残ります☆
九州治乱記には元亀三年(1572年)に勢福寺城の城主・江上氏に招かれた執行氏はこの、竹原集落に城館を構え戦国末期に執行種兼の活躍で執行家の名を後世に残しました☆
その後も主君を江上氏に委ねた執行氏は、江上氏が蓮池に移ると執行氏も此れに従いました☆

集落にある浄円寺の周辺からは2百数十体の遺体が出て来ています☆この遺体は今から2千年ほど前にこの地に生きた人々なんです☆
流石、吉野ヶ里遺跡のすぐ近くの竹原集落です☆今は浄円寺が供養塔を建てお祀りしています☆古い時代の歴史も残ってます☆

2021年11月03日 さすらいの征夷大将軍慶誾尼☆寧
勢福寺城

口が悪い城友から『猿でも迷わない場所だからネーさんでも大丈夫よ』と説明されたとこでも迷う猿以下な方向音痴なあたし。アプリの異名『方向音痴』があったらそれはあたしのもん!!誰にも渡さん♫って自慢はこのくらいで…笑

恐らく、ここで迷う生物はこの世に存在しないと思うわおんな、子ども、猿以下でも…

山の斜面を上がっていくんだけど木々にはリボンやPPバンドなどが切れ間なくつけられてるし、登城口から山頂まで虎ロープもキッチリ張ってあります。うーむ、迷いたくても迷わせてもらえん。笑

行きは30分程、帰りは見学しながら40分程、距離1.5km、標高196mでした。

駐車場は種福寺さんの東側。勢福寺城の案内板(横にパンフレットあり)があるのでその前に止め、そこが登頂口になります。

2021年08月03日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
横田陣所[勢福寺城  周辺城郭]



佐賀県の神埼市の横田にある【横田陣所(籾神社)】♪いくら調べても名前が出てこないので横田陣所と言う名前を付けています☆

まず、古代からは条里がひかれていて横田里となっています☆古代から中世にかけて、この地は皇室御領神崎荘に属していました☆
この頃に創建されたとされている、尼寺、妙法寺の寺領として寄進されています☆
東妙寺というお寺もあり、東妙寺、妙法寺、共に南北朝期には南朝方に付いていて、後醍醐天皇、後村上天皇、征西将軍懐良親王たちの厚い保護を受けていて、足利直義、義満、鎮西探題の少弐氏、今川氏、一色氏も祈禱所として保護を与えてます☆

この頃の横田村を含む寺領は在地豪族や武士による侵略を受けていた様です…☆

戦国時代には中国の覇者・大内家臣の陶道麟が少弐氏を制圧し東肥前に侵攻する為に、ここに陣を構えています☆この時、少弐資元・冬尚の父子は多久の梶峰城にいましたが、少弐家臣の馬場氏、横武氏、姉川氏、龍造寺氏は戻ってきた少弐資元、冬尚の父子を勢福寺城へ迎え入れます☆攻める陶道麟は三津の籾岳(現籾神社付近)に陣を取り石動村を始め各地で転戦していき少弐勢と戦いました☆攻め続けた陶道麟☆龍造寺家兼の居城の佐賀・水ヶ江城まで攻めています…が、龍造寺氏の反撃を受けて籾岳から敗走しています☆この籾岳が横田陣所になります☆
横田の、この場所は勢福寺城と周辺を狙う為には台地上に位置していて田手川を堀に出来る絶好のポイントになっています☆

横田は未だにその名前を残します♪
多くの歴史が残る☆
そんな横田にある陣跡の話でした♪

2021年02月25日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
横大路城[勢福寺城  周辺城郭]



佐賀県の神埼市にある横大路城☆勢福寺城の南東側の日の隈山から伸びた丘陵上に城郭は位置します♪

登城路が見つからず取り敢えず程良い所で直登☆登った先が主郭の横堀に到達しましたw
南北に二つの郭を持ち取り巻く形で横堀がグルリ☆ 同山に位置する松崎城(昨日口コミしました)とは城郭の雰囲気がまるで違う☆この城は街道の監視の砦の様なモノで勢福寺城の城砦群の一つなのかな〜☆と言う印象を受けました☆明らかに戦国期の顔をしております☆南西尾根にも横堀と堀切が一条あって側面には竪堀が落ちていきます☆

歴史としては宮方(南朝側)の軍勢が横大路城と小城城に駐屯していて北朝方の高木城と対峙☆その後、北朝方の宗氏が横大路城を攻めてます☆その後の詳細は不明ではありますが、恐らく龍造寺氏が勢福寺城を抑えた際に改修かな?出城として機能したと思われます☆
佐賀では珍しい形状の城郭になっていて、丘陵台地上に城を造らせるとこんな感じに造り込むのか〜って感激しましたw

2021年02月24日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
松崎城[勢福寺城  周辺城郭]



佐賀県の神埼市にある松崎城☆ 勢福寺城の南側にある日の隈山の東の峰、標高127mの山に築かれています♪南側の先端部には横大路城もあります☆

南北朝時代に菊池武安が仁比山城を拠点にした際に北朝方の宗氏、高木氏、龍造寺氏がこの松崎城と横大路城に攻めかかっています☆
戦国時代には豊後国の大友氏が佐嘉(佐賀)へ侵攻した際に大友氏家臣の戸次鑑連の軍勢が、この松崎城に布陣しました☆龍造寺氏に従っていた勢福寺城主・江上武種に対して大友に味方する勧告して味方に引き入れてしまいます♪

主郭は山頂に位置しています☆南北に長い尾根が伸びていて郭を展開します☆土塁が巡り南端に虎口を付けていて急峻な此方側が大手向きと思われます☆城郭の位置関係的に恐らくこの松崎城と横大路城は勢福寺城の支城では無いか?と思われます☆

2021年02月24日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
雲上城[勢福寺城  周辺城郭]



佐賀県の神埼市にある雲上の城(うんじょうのき)☆勢福寺城の山の麓にある少弐氏の居館跡と推定されてます☆普段の生活はこの雲上の城で生活をし有事の際は背後の勢福寺城に籠る☆横堀に土塁を造り込みこの居館を守りました〜☆遺構としてはシッカリと残ってます♪

一部の城内は私有地になっている為、見学の際はご注意下さい♪

2020年09月12日 しんこう
横大路城[勢福寺城  周辺城郭]

【指定史跡】なし
【遺構】曲輪、空堀、土塁
【歴史】史料上の初見は、南北朝期、九州で最大規模の南北両朝の激突となった筑後大保原合戦の翌年に北朝方は高木城、宮方は小城城と横大路城に分かれて睨み合いが続いたと記録があるようです。その後下って戦国期には勢福寺城の支城として機能し、今見られる特徴的な遺構はこの時期に整備されたもののようです。
また、鎌倉期には肥前御家人の横大路氏の存在が史料で窺われ、その係わりも指摘されているようです。
【感想】城の南側の県道31号線から登城できます。登城口近くに美味しいたい焼き屋さんがあるので、登城後の疲れた後に食べるとサイコーにうまいです。
横大路城は南北に伸びていますが、南北両端に堀切があり、しかも二重堀切になっていて見どころの一つです。概ね堀切は竪堀として落としています。曲輪は南北二つあり、その間は浅い空堀で仕切られています。
横大路城と近くにある上善寺城塞、松崎城へぐるっと一回りすることもできますが、上善寺城塞から松崎城へは竹藪が凄くておすすめできません。

2017年07月17日 はやぶさ
勢福寺城

登城口は多少分かりにくいですが、先人の仰る通り種福寺のすぐ東側にあり、駐車スペースもあります。ゆっくり写真を撮りながらで往復100分でした。
縄張は少弐時代の単純なものと、龍造寺時代に拡張された技巧的なものと、両方が楽しめます。城域は、城下まで入れるとかなり広大で、山城の遺構とともに見応えがあります。もう少しメジャーになってほしい、そんな山城でした。

2016年11月27日 柴崎権大納言幸助
勢福寺城

登山道の入口は種福寺の右奥にあり、案内板が目印です。車は案内板前に若干のスペースがあります。
登山道は整備されており、それほどきつくもなく、案内表示もたくさんあるので、迷うことはありません。
城跡にも縄張り図に現在地を示す作りになっていて、楽しめますが、城の構造上の急斜面があるので、少し注意です。堀切や土塁は分かりやすいのですが、竪堀は分かりにくい…
私は往復1時間30分の城攻めでした!

2016年06月19日 カーネル
勢福寺城

長崎線吉野ヶ里駅をでて西へ
外出を控えましょうという真夏日に行きました
テーマパークのような吉野ヶ里の東口へは15分で到着。東口から入り西口から外へ
この時点で上着は汗でビショビショ
西へ進み、城原川沿いの遊歩道で北上。途中で西進し南の麓の種福寺の右奥に登山口あります

山道は木陰で気温が下がりますが、登山なので体温は上昇。道は近年整備されて歩きやすいです。ありがとうございます
ロープと案内板を頼りに上りますが、要所に案内があるのもうれしい
本丸を超えて、背後の堀切を見たあたりでデジカメが起動しなくなる。修理に出したら、水没のため内部が腐食してると言われた
汗のかき過ぎが原因でした

帰りは神埼駅に戻って、トータル4時間半でした

歩き計画されている方の時間目安になれば幸いです


2014年11月29日 ねここしゃん
勢福寺城

2014/12/07(日)、第5回神埼まちあるき(勢福寺城跡)が開催されます。集合場所:神埼市神埼町城原、城原公民館・駐車場。午前8:30集合、午前9:00出発です。雨天などによる開催有無は、当日の午前7:00までに決定。お問い合せは、政策推進室:0952-37-0121まで。

勢福寺城の周辺スポット情報

 説明板(登山口)(碑・説明板)

 城下町説明板(碑・説明板)

 勢福寺城跡碑(碑・説明板)

 横大路城(周辺城郭)

 雲上城(周辺城郭)

 松崎城(周辺城郭)

 横田陣所(周辺城郭)

 執行氏館(周辺城郭)

 菩提寺城(周辺城郭)

 仁比山城(周辺城郭)

 平原城(周辺城郭)

 城原公民館(駐車場)

 種福寺(駐車場)

 少弐冬尚の墓所(その他)

 江上家種の墓(その他)

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