帯隈山神籠石(おぶくまやまこうごういし)
帯隈山神籠石の基本情報
通称・別名
- 帯隈山神護石
所在地
- 佐賀県佐賀市久保泉町大字川久保/神埼市神埼町大字尾崎
旧国名
- 肥前国
分類・構造
- 神籠石式山城
天守構造
- なし
築城主
- 不明
築城年
- 7世紀頃?
主な改修者
- -
主な城主
- 不明
廃城年
- 不明
遺構
- 門跡、水門、列石
指定文化財
- 国史跡(帯隈山神籠石)
再建造物
- 石碑
周辺の城
-
勢福寺城(佐賀県神埼市)[2.1km]
姉川城(佐賀県神埼市)[4.6km]
吉野ヶ里(佐賀県神埼郡)[4.7km]
高木城(佐賀県佐賀市)[6.7km]
直鳥城(佐賀県神埼市)[7.5km]
堤土塁(佐賀県三養基郡)[8.4km]
鎮西山城(佐賀県三養基郡)[8.4km]
蓮池城(佐賀県佐賀市)[10.0km]
佐賀城(佐賀県佐賀市)[10.2km]
水ヶ江城(佐賀県佐賀市)[10.4km]
帯隈山神籠石の解説文
帯隈山神籠石の口コミ情報
2023年10月15日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
鍵尼遺跡と古代官道・西海道肥前路[帯隈山神籠石 碑・説明板]
佐賀県の佐賀市、神埼市と跨る古代官道【西海道・肥前路】古代に造られた肥前国庁から太宰府を結ぶ幹線道路となります♪リア攻めマップの場所は鍵尼遺跡の場所にしています♪
7世紀頃に造られた古代官道♪律令制下において、中央と地方諸国を結んだ7本の幹線道路です♪この7本の幹線道路は東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道を指します♪天智・天武期(668~686年)頃には本格的な整備が進んだとされています♪官道は幅9~10mと規格性があって丘陵を削り谷を埋めて直線道路が造られました♪大宰府を中心として整備される道路網は、西海道諸国や京、そして海外とをつなぐ交流網だったんです♪直線的に結んだ理由は最短距離だったのでしょう♪
また、駅伝制を用いて30里毎に駅を置きました♪30里と言えばおよそ16キロの距離です♪所謂、駅とは宿場所や人や馬などの施設を随時常備させた、所謂、宿場町であります♪
多くの古代人がこの道のりを行き来した事でしょう♪西海道の肥前路では未だに、道として使用されてもいます♪
面白いのが、吉野ヶ里遺跡を横切る古代官道の切通しは後に戦国の世には吉野ヶ里遺跡内に出来た日吉城の堀切として執行氏、更には江上氏によって活用もされました♪更に鳥ノ隈の台地をも横切る古代官道♪この切通しも南側に立地した鳥ノ隈城の堀切に活用したんでは無いか?妄想が広がります♪
肥前国庁から太宰府に通じる西海道の肥前路♪国分寺下を通り松原→祇園原→唐香原→平山→二子→吉野ヶ里→鳥隈→太宰府と歴史を繋いでいます♪
2021年06月10日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
肥前国庁[帯隈山神籠石 周辺城郭]
佐賀県の佐賀市の大和町にある肥前国庁☆筑紫平野の西部、背振山地に源を持つ嘉瀬川が形成した扇状地の扇中央付近に立地します☆
肥前国庁♪奈良・平安時代の肥前国の都として栄えた場所で肥前国庁跡は現在でいう所の県庁議事堂にあたる建物です☆大型の礎石建物が発見されていて国史跡に指定されています☆
今は公園になっていて約1200年前の国庁の建物の一部を復元しています♪資料館もあり肥前国の時代の流れを知る上で重要な場所となります♪
帯隈山神籠石の周辺スポット情報
肥前国庁-後殿(遺構・復元物)
肥前国庁-正殿(遺構・復元物)
肥前国庁-前殿(遺構・復元物)
肥前国庁-東脇殿(遺構・復元物)
肥前国庁-西脇殿(遺構・復元物)
肥前国庁-南門(遺構・復元物)
肥前国庁-東脇殿北棟(遺構・復元物)
肥前国庁-東脇殿南棟(遺構・復元物)
肥前国庁-西脇殿北棟(遺構・復元物)
肥前国庁-西脇殿南棟(遺構・復元物)
肥前国庁-政庁(遺構・復元物)
鍵尼遺跡と古代官道・西海道肥前路(碑・説明板)
肥前国庁(周辺城郭)
肥前国庁跡歴史公園(関連施設)
肥前国庁跡資料館(関連施設)
佐賀市の北部山麓に築かれた古代山城である。帯隈山(標高175m)を中心に切石を並べた列石線が約2.4kmの長さで一周し、途中、北面に門跡1か所、南面に水門推定地が3か所がある。昭和16年(1941)に発見され、同39年に発掘調査された。県下では他に武雄市のおつぼ山神籠石。
列石線は帯隈山から天童岳、清兵衛山にかけ、尾根上を地形に合わせて複雑に屈曲し、途中、小さな谷を渡る場合は出水に備えて水門を設けていたと思われる。全体としては北側山頂部から下って南側山裾を廻り、2、3の低丘陵を取り囲んで馬蹄形状をなす。
列石の用材は花崗岩で、高さ60cm前後の直方体に切りそろえられたものである。神籠石なる呼称は、かつてこの列石が神域を示すものと考えられていたことによるが、発掘調査の結果、実は列石は土塁の基礎であり、その背後上部には高さ2、3mの土塁が版築によって築かれ、また石塁前面の平坦部には約3m間隔で木柵が立てられていることがわかっている。
神籠石は現在、北部九州から瀬戸内一部にかけて12か所知られる。しかし、その存在は文献に明らかではなく、また規模や立地、城内に建物跡がみられないなどの点で、基肄城跡など朝鮮式山城と様相が異なる。6、7世紀ごろの築城とされるが、正確な年代、目的、性格となると不明で、今日でもまだ謎が多い。
参考文献
・『佐賀市の文化遺産(指定文化財要覧)』佐賀市教育委員会編・刊行、平成15年