高木城(たかぎじょう)

高木城の基本情報

通称・別名

所在地

佐賀県佐賀市高木瀬東3

旧国名

肥前国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

高木貞永

築城年

久安年間(1145〜1151)

主な改修者

主な城主

高木氏

廃城年

天文年間?

遺構

横堀跡

指定文化財

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

佐賀城(佐賀県佐賀市)[4.1km]
水ヶ江城(佐賀県佐賀市)[4.5km]
姉川城(佐賀県神埼市)[5.1km]
帯隈山神籠石(佐賀県佐賀市)[6.7km]
直鳥城(佐賀県神埼市)[7.0km]
蓮池城(佐賀県佐賀市)[7.2km]
千葉城(佐賀県小城市)[8.4km]
勢福寺城(佐賀県神埼市)[8.8km]
陣の森城(佐賀県小城市)[9.0km]
小城城(佐賀県小城市)[9.3km]

高木城の解説文



高木城(たかぎじょう)は、佐賀県に存在した平城。佐賀市の佐賀平野に位置する。

概要 

高木氏の祖・藤原文貞(文定)[1]は肥前国の国府に赴任して甘南備城を築き、その孫の高木貞永は久安年間に当城を築いて地名の高木を姓とした。なお、当城の文書での初見は文永8年(1271年)の『鎌倉遺文』である。元寇では高木家宗が活躍し、南北朝時代には足利氏に属するなどして高木氏は勢力を伸ばした。しかし戦国時代に龍造寺氏と争って、天文23年(1554年)に高木鑑房は龍造寺隆信に敗れ、やがて当城は廃された。高木八幡宮の西北約150m付近の位置にあったという(現在、その地点に石碑がある)。

参考文献 

  • 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典(41.佐賀県)』、角川書店、1982年

高木城の口コミ情報

2022年05月31日 龍馬備中守【】
坪ノ上城[高木城  周辺城郭]



佐賀県の佐賀市にある【坪ノ上城】♪城郭中心部の場所と思われる場所は瓢箪型の堀割に囲まれていた様でこの地帯が城郭と思われます☆この一帯の北部を北屋敷、南部を南屋敷と呼ばれています☆江戸時代の正保4年及び元禄14年に作られている肥前国絵図には坪ノ上二七二石と地区名が表示されています♪坪の上は上佐賀の要衝として存在していた様です♪
今から約400年前ここに龍造寺氏の出城(居館でしょう)が置かれていました☆
その後の流れは分かりませんが、城館は平和な時代になるに連れて集落として存在していったのでしょう☆

江戸時代、天明4年の佐賀藩の上佐賀下郷、坪上村の絵地図に坪ノ上天満宮があります☆更に安知木(追手木)の東、古河二角という所には、もう一社の天神社があった様です♪この天神社は今はどうなっているか?今は知る余地はありません☆坪ノ上天満宮の境内に嫡流社という石祠があるのですが、コレが、天神社の名残かもしれません♪
因みに坪ノ上天満宮は、曲渕村に住んでいた秀島氏等が、坪ノ上村に転居の際に奉じて出来た為、曲渕天満宮とも呼ばれました☆
秀島氏はこの場所で庄屋を営んでいました♪

集落内にある浄満寺は寛永10年、鍋島茂忠の家臣・広松源之丞重政が朝鮮出兵による戦死者の慰霊の為、建立したと伝わります♪
昔は常満寺として表されてます♪

2022年05月16日 龍馬備中守【】
実相院[高木城  寺社・史跡]



佐賀県佐賀市の【実相院】と【河上神社】☆
河上神社は度々、河上文書として肥前史に登場します☆実相院の開山は元明天皇の和銅5年(712年)、行基が岩屋山に草庵を建てたのが始まりと伝わります☆その後の寛治3年(1089年)に河上神社の社僧円尋が実相院の裏山に『河上山別所』を建てました☆さて戦国時代にこの場所では川上峡の戦いが行われます☆肥前山内二十六ヶ山の頭領、神代勝利 vs 東肥前最大勢力に昇りつつある龍造寺隆信☆東肥前国統一を描く龍造寺は、抵抗を続ける神代を討つべく最終決戦へ☆これまで甘南備城を落とされ、金敷山城の戦いでは重臣2人を討たれた龍造寺☆因縁の戦いに終止符を打つ為に挑戦状を送り、それに神代が応じたのが『川上峡の戦い』です☆挑戦を受けた神代が場所を指定した為、龍造寺軍は平野部を背に山岳戦の得意な神代軍は山岳部に布陣☆神代軍7千、龍造寺軍8千☆神代勝利本隊は河上社の西総門、実相院の仁王門前に布陣☆龍造寺本隊は西山田に布陣☆神代の右翼で嫡男、神代長良が龍造寺本陣へ攻撃を始め合戦開始☆応戦する龍造寺軍☆序盤は神代優勢でしたが、数に勝る龍造寺軍が徐々に押し返します☆中央に布陣した神代軍左翼の三男・神代周利☆しかし乱戦の最中、神代周利は龍造寺の間者に暗殺されてしまいます☆神代勢の本隊は山内衆が固めていましたが、この神代周利は外様衆、少弐勢力の残党を集めた部隊だった為に、足元は揺らぐ…そんな最中でした☆神代周利を討たれ神代軍左翼は総崩れ☆更に龍造寺軍の右翼・龍造寺信周は川を渡り、神代軍の中央・神代種良の軍勢に攻撃開始☆龍造寺軍中央・納富信景部隊に、右翼龍造寺信周☆二方向からの攻めに、神代種良は討死…戦況不利とみた神代勝利は、嫡男・神代長良を救援すべく龍造寺本陣へ突撃を考えますが、重臣の引止めで退却開始☆神代長良も自害しようとしますが家臣らが退路を開き何とか退却☆龍造寺は勝敗が決したのを見届けると、神代を深追いはせず川上峡を後にしました☆一時は龍造寺隆信と東肥前の覇権を争った神代☆勢力拡大が進む龍造寺に対抗しきれず、龍造寺軍門に下りました☆神代勝利の本隊が実相院の仁王門前に陣を張ったと述べましたが、この実相院背後の裏山は実に城郭的に加工されていました☆河上神社の社僧円尋がこの裏山に建てた『河上山別所』に、神代氏が手を加え城塞としたとしたら…と妄想を膨らませ散策しました♪

2022年04月23日 龍馬備中守【】
金敷城山城[高木城  周辺城郭]



佐賀県の佐賀市の大和町にある【金敷城山城】♪巨石パークから取り付き登城しました♪標高425mのピーク付近がその城郭となります♪

弘治3年(1557年)頃に三瀬の神代勝利が築城したと伝わります☆直ぐ南側にある甘南備城(post済)の攻防を巡り神代勝利🆚龍造寺隆信のバトルが勃発(金敷峠の戦い)しています☆

山岳戦を得意とした神代氏が布陣したのが、この金敷城山城と云われています☆
この戦いで神代勝利は龍造寺軍の小河信安を討ち取りました☆地形を利用したこの戦いは神代軍の勝利に終わっています☆後に川上峡合戦へと発展していきます☆神代勝利と龍造寺隆信☆2人は肥前の中で最大のライバルなのであります☆

金敷山にはこの時に戦死した小川信安を祀った石碑が江戸時代に建立されています☆

城郭遺構としては主郭付近に小さな平段、南方に伸びる尾根に堀切が一条、竪堀らしき堀のみ残ります☆山岳戦を得意とした神代勝利らしいっちゃらしい、ただ戦うのみの砦といった趣きでありました♪

2022年01月08日 龍馬備中守【】
甘南備城[高木城  周辺城郭]



佐賀県の佐賀市の大和町にある【甘南備城】♪別名を春日山城と呼びます♪鎮西屈指の豪族、高木家が鎌倉時代に築いた山城となります☆この肥前・高木氏は藤原累代の豪族で大織冠鎌足の正統、中関白藤原道隆公の後裔と云われています☆代々、太宰府の官吏だった高木氏☆太宰府の役人、藤原一族の者がこの地方に土着して勢力を張り、この辺りを支配する様になったのが高木氏☆始まりは高木氏の始祖である藤原文貞で甘南備山に居住☆その末裔の高木家宗が鎌倉時代に再び甘南備城の城主として城砦を築き肥前国を抑えます☆甘南備城の文書の初見は鎌倉時代の『鎌倉遺文』☆元寇襲来では高木家宗が活躍し南北朝時代には足利氏に属し高木氏は勢力を伸ばしていきました☆更に同南北朝時代に菊池武安に攻められ甘南備城は一時陥落しちゃいます☆その後、戦国時代には龍造寺氏と争い高木鑑房は龍造寺隆信に敗れ廃されていきます☆
こうして、高木氏は肥前での勢力が奪われていくのです…☆佐賀北部の歴史を語る上で高木氏の存在は避けては通れない♪後に高木瀬にある高木城を本城にして有事の際には高木領内にある甘南備城を詰城として機能☆そんな役割を果たしたんじゃ無いかな〜?と妄想しておきます☆この高木氏の歴史は本当に深くって往時かなり力があったと思われます☆高木宗貞の時には肥前守と称して代々、国府の執行の職を担い高木地区のみならず於保郷、川上の於保地区にも領地を持ちます☆更に高木宗貞は度々出てくる河上文書の河上社の宮司も兼ねました☆佐賀北部一帯が高木の支配下にあったという確認が取れます☆もう1つ♪後に豪族、更には戦国大名として肥前史で活躍していく龍造寺氏、八戸氏、於保氏、草野氏、北野氏、上妻氏、益田氏、笠寺氏、長瀬氏、富崎氏の家系は全て高木一族から分かれ発展☆遺構としては浅めの堀切、切岸、郭程度♪昭和時代に建てられた看板が転がってました☆山麓には創建不明、甘南備神社が残ります☆この甘南備神社は⛩河上社の発展と共に衰退☆高木氏との関係性は不明☆古くは平安時代頃にはあった様です(春日山高城寺記)☆また龍造寺隆信🆚神代勝利はこの甘南備城を舞台に山岳戦を展開☆広がる佐賀平野と山岳に入る境界な訳です☆甘南備は神南備(南備は森の意)とも描かれ『神の在す森』の意を示します☆古代神事にちなんだ事からこの名前が付いています☆此処を拠点にした高木氏の意識の高さが光ります☆

2021年12月15日 龍馬備中守【】
朝陽軒(宗寿庵)[高木城  周辺城郭]



佐賀県の佐賀市にある【朝陽軒(宗寿庵)】♪現在は山林及び畑地等となっていて遺構は残っていません♪
『葉隠』口述者である山本常朝が隠棲したのが朝陽軒(宗寿庵)となっています☆
朝陽軒の跡地には『大乗妙典一千部』と描かれた石塔が残っていて、それより東方100メートルほどの所に『常朝先生垂訓碑』が建ています♪元禄13年(1700年)山本常朝は佐賀藩2代藩主・鍋島光茂が死去した為に落髪出家してココ朝陽軒に隠棲しました☆
10年を経て同藩士である田代陣基が自己修養の為に、朝陽軒を訪れ教えを請いた後に大小隈での口述と合せて7年にわたり、その教訓を中心に筆録したのが葉隠11巻なのであります☆
大乗妙典一千部の経塔は佐賀藩2代藩主・鍋島光茂の夫人が亡夫追善の為に法華経一千部を自読した碑で『大乗妙典一千部、元禄十四年辛巳年始繙之而至正徳二壬辰年五月十六日圓満修』と刻まれています☆

朝陽軒は宗寿庵の茶屋に相当する所で周囲には山水を配してて、素晴らしく静寂の境であった様です☆田代陣基がはじめて山本常朝を訪ね武士の心構えや生き方を聞いたのもこの場所で、いわば葉隠発祥の地という訳なのであります☆

葉隠の一節に残る…
『武士道と云ふは 死ぬ事と 見つけたり』
会社勤めの現代のビジネスマンにも重なる所が共感を呼んでビジネス書などにもなっていますね♪

2021年11月14日 龍馬備中守【】
土生島砦[高木城  周辺城郭]



佐賀県の佐賀市の千布にある【土生島砦】♪この砦は友貞集落の西側に立地していました☆神代勝利の子・神代長良の居城であったと云われていて千布城の南西側に位置する土生島砦は現在、水田になっていて遺構は何も残っていません☆かつては土塁が残されていた様で東西約90m、南北約100m程のやや変形した方形区画であったと推測されています☆
さてこの土生島砦が歴史の舞台に現れるのは永禄8年(1565)☆城主・神代長良は神代勝利(父)を亡くし更には子2人の急逝にあい悲嘆にくれていました☆
千布友貞の土生島砦にいた神代長良☆
此処に龍造寺隆信の家臣・納富信景がやって来て悔みを述べると共に縁組の復活の話を持ち出しました☆龍造寺隆信には別心はない旨の誓書を届けたいと申し出をして帰りました☆
ところが…その日の夜に納富信景率いる大軍が手薄な千布城を包囲し攻め込んできました☆神代長良は不意を突かれ家臣の古川佐渡守の子・新四郎等の数名でやっと囲を破って脱出☆山越えして筑前の戸坂に身を隠しました☆これを『千布崩れ』といいます☆

翌年には神代長良は再び山内に迎えられましたが、これ如何にして去年の仇を晴らそうかと家臣の古川氏と計り幸運にも干ばつだった為に納富氏の領地へ流れる水を八ツ溝で堰き止め一滴も流しませんでした☆

納富氏はこれに怒り、子・納富治部大輔に兵を大勢付けて堰崩しに向かわせました☆
神代家臣・古川氏は兵を四つに分け三つは川の近くの窪地に伏せさせ中央の一手を農夫に装わせ八ツ溝近くで納富勢をおびき寄せさせました☆
納富氏は益々怒り自ら陣頭に立って中央隊に攻め込み、遂に南原まで攻め込んでいきました☆ここで伏兵の三つは鬨の声を上げ攻め立てるも敵も中々の強者揃い☆
反撃を繰り返しましたが神代家臣・古川兄弟の槍には勝てず納富治部大輔も討取られてしまいました☆この戦を『八ッ溝合戦』と呼びます☆とまぁ、こんな話が土生島砦には残っています☆これで神代家は千布崩れの恨みも晴れ上佐賀一帯は神代が支配する様になっていきました☆

2021年11月12日 龍馬備中守【】
長瀬忍者屋敷[高木城  周辺城郭]



佐賀県の佐賀市の高木瀬にある【長瀬忍者屋敷】♪と名前を付けています☆
濠割に囲まれた集落は南流する多布施川の東側に立地します♪元徳2年(1330年)北条英時の鎮西下知状(河上神社文書)には河上神社に対する長瀬孫太郎の『大般若免田五段』の『神用物銭段別百文』の未納について記されています☆この頃より以前には長瀬という地名が成立している事を物語ます☆

肥前刀『肥前忠吉』の刀鍛冶は戦国末期から江戸初期にかけ佐賀城下にもある同名前の長瀬町に移住する以前、この高木瀬の長瀬村に住んでいたと伝わり佐賀城下の長瀬町の町名はココから来ていると云われてます☆
忠吉系統の刀鍛冶は鎌倉時代からこの高木瀬の長瀬村に住んでいた様で古くは朝鮮半島からの渡来者で太宰府にも住んでいたと伝わっています♪弘安以降、この地で刀を製作していたのですが『大忠吉』と呼ばれる初代・新本新左衛門忠吉は戦国時代にこの長瀬村で生まれたと伝わります☆

藩政期の江戸時代には佐賀本藩の蔵入地になっていて、集落内には長瀬天満宮が残ります☆豊後国の大友宗麟が襲来した今山の戦いでの戦勝は、この長瀬天満宮の御神徳によるものとして社殿修造を寄進しています☆

集落内には長瀬七曲と称する入り組んだ小路が沢山あって各戸の敷地は広く濠割が囲っている事から忍者屋敷とも呼ばれていました(江戸時代)♪北小路、大木戸、馬場、出口、矢倉などの城館や豪族屋敷に関する多くの地名を残します☆

2021年10月07日 龍馬備中守【】
川上石丁場[高木城  寺社・史跡]



佐賀県の佐賀市にある【川上石丁場】♪佐賀城の石垣の石はここから採掘され運ばれました☆
江戸時代から近代まで使用された石丁場は佐賀藩・初代藩主・鍋島勝茂が設けました♪『小石四十万荷、大石百万』が切り出されたといいます☆1番古いとされている慶長期の矢穴は一際大きくて目を引きます☆

この石丁場から佐賀城までは直線で10キロ位の距離になっています☆さてさてどうやって運んだのでしょうね〜☆現佐賀市の大和町にある川上石丁場♪北に抜けたら神代勝利の生きた三瀬城に、更には福岡は筑前☆
実はこの川上石丁場の直下には嘉瀬川が流れています☆
恐らくですが、重たい石はこの嘉瀬川を利用して運搬されたのでしょうね♪
普通に陸路で運ぶのは無理があり過ぎる☆

石垣の石はやっぱり重たいですね☆
江戸城も大坂城もそうですが、瀬戸内の直島などからも石を運搬していてコレは海を経由して運んでます☆川や海♪この水の力を利用した運搬は往時はスタンダードだったという訳です☆という訳で恐らく、この嘉瀬川から運んだんだと考えます☆

2021年06月17日 龍馬備中守【】
蛎久環濠[高木城  周辺城郭]



佐賀県の佐賀市にある蛎久環濠♪佐賀平野にあるクリークの環濠集落になります♪

東側を多布施川に接して岸川、増田、津留地区に囲まれた集落になります♪
古くから蛎久庄の時代(平安時代頃)の太宰府天満宮安楽寺に寄進される前後から蠣久と天満宮の結び付きが強かった事が考えられていて、社伝によれば天喜勅願によりこの地に分祀された様です☆

中世には一時栄えますがこの蛎久天満宮は龍造寺氏VS大友氏の兵乱(今山の戦い)で焼失したと伝わります。。
が、その後に鍋島家の尊崇を受け復活しました☆
近世に入ると鍋島光茂や宮司の連歌が奉納され、その後も鍋島綱茂も連歌を奉納していきました☆
佐賀城下の六座町に神官の中元寺氏や右近氏がこの地に移り住みました☆所謂、館跡の名残を今に見せていて現在も人々が居住しています☆

恵比寿様の石像など石造物も多くて歴史に触れる事が出来ます☆

因みに佐賀藩祖の鍋島直茂は老年まで男の子に縁が無かった為、蛎久天満宮にお参りをしていて満月の日に佐賀藩の初代・鍋島勝茂を授かったという伝承も残ります☆

2021年06月09日 龍馬備中守【】
築山古墳[高木城  寺社・史跡]



佐賀県の佐賀市の【築山古墳】♪城郭ではありませんが、成富兵庫茂安夫妻のお墓跡あります♪ 成富兵庫茂安はこの地に知行を与えれこの地に住みました♪佐賀の治水事情を語る時には神様的存在の成富兵庫茂安☆武将から転身し数々の功績を残した素晴らしい人物です☆龍造寺氏の家臣である成富信種の次男として誕生します☆龍造寺氏VS大友氏が激突した今山の戦いの時に成富茂安はまだ11歳だったので出陣の許可が出ませんでした☆それに納得ができず誰にも見つからない様に独断で戦場に赴き物見を行ったと伝わります☆この行いが主君・龍造寺隆信の目に留まりそれ以来は小姓として側近くに仕える様になりました☆17歳の時に龍造寺隆信が有馬氏と戦うべく藤津へ進軍した際に初陣を飾りました☆幼少青年期より中々の暴れん坊だった様です☆その後は勉学や武芸に励みました☆龍造寺隆信にその勇猛果敢な戦いぶりを認められ「一月で十度の武功を立てた」という事にちなみ『十右衛門』の名を与えられました☆結構名前を変えてるんですが此処では成富茂安で統一しますね♪沖田畷の戦いで隆信が戦死するとその跡継ぎの龍造寺政家に引き続き仕える事になります☆龍造寺政家の名代として安芸国では小早川隆景に大坂城では豊臣秀吉に謁見しています☆秀吉による九州平定の際には龍造寺軍に属して出陣しました☆その戦いぶりから秀吉を始めとする諸将から一目置かれる様になっていきます☆島原天草の乱にも出陣していて加藤清正、小西行長を援護した功により加藤清正から甲冑を賜ってます☆その後は豊臣氏との外交を担うなど次第に重臣としての才能を開花させていきます☆朝鮮を攻めた文禄・慶長の役では龍造寺軍の先鋒を務めました☆この頃から龍造寺氏の筆頭家老の鍋島直茂に仕える様になります♪本当はこの頃から成富茂安と名乗る様になっていて、この鍋島直茂の茂の字を与えられ名乗りました☆関ヶ原の戦いの際には伏見城の戦い安濃津城の戦いに出陣しています☆鍋島直茂・勝茂親子は風向きを読むべく西軍から東軍に寝返ったのに従い筑後国の柳川城、久留米城を攻め落としました☆この時、鍋島直茂に命じられて柳川城主である立花宗茂に降伏を勧める為に折衝役を務めました☆とまぁ〜武将としてもかなりの強さを発揮した成富兵庫茂安です☆治水事業に乗り出して行くのは江戸時代の平和になった頃の話です♪それは次の【石井樋】でお話ししましょう♪


2021年03月19日 龍馬備中守【】
古陣館[高木城  周辺城郭]



佐賀県の神埼市にある古陣館☆
佐賀市中心部の北東側に位置する城館跡となります☆
ただ、誰の居館跡なのか?裏付ける史料や伝承、歴史等は一切残ってません。。
城館は結構大きな方形型で土塁と堀(一部水堀)が居館をグルリ取り巻いてます☆場所によっては3重の堀になっている場所もアリです☆ただ藪が凄いww
この一帯を「スーフクジ」という名前で呼ばれていた様で、石柱、泰時代の半両銭などが出土している様です☆
徐福「スーフク」と言えば日本が縄文時代から弥生時代へと変わろうとしていた時代に中国に居たと伝わる人物です☆徐福が不老不死の薬を求めて東方に行って帰ってこなかったと言う話ですが、日本にも徐福伝説は各地に残ってます☆歴史にはロマンがありますね〜☆

城館の顔を見る限り南北朝時代から戦国期に使用されていると思われます♪三重の堀、横矢の掛け方、土塁囲み、長崎街道沿いにある立地☆恐らく龍造寺氏、神代氏、大友氏、少弐氏?いずれかの武将様に属した居館跡なんじゃないかな〜?妄想が止まりません♪

2021年03月19日 龍馬備中守【】
千布城[高木城  周辺城郭]



佐賀県の佐賀市にある千布城☆土塁と空堀が残る宅地の中にある城郭となります☆

築城年代は不明の城郭ですが戦国時代に書物に出てきます☆土豪の陣内大和守の居城でした☆神代宗元が筑後から肥前に移って来てから陣内大和守の娘婿となって千布城に住んでいました☆この神代宗元の子として誕生したのが【神代勝利】で三瀬城を居城にしながら更にその子の神代長良は山内から平野部へと進出して来て千布城と土生島城を拠点としていきました☆

肥前にも渦巻く動乱の風☆結果的に龍造寺胤栄に攻められ福島利高と千布次郎家利は城を脱して山内へ逃れていきます☆神代長良の嫡男と娘が疱瘡によって夭折してしまうとこの混乱を好機と見た龍造寺隆信が千布城に攻め寄せ神代長良は畑瀬館へと追われてしまいました☆

佐賀市金立公民館付近が主要部分となっています☆駐車場も存りです☆

2020年09月07日 筑前守釈空流
高木城

今は高木八幡宮になってます。鎧兜がついた、勝守の御守りがあります。

高木城の周辺スポット情報

 千布城(周辺城郭)

 古陣館(周辺城郭)

 蛎久環濠(周辺城郭)

 長瀬忍者屋敷(周辺城郭)

 土生島砦(周辺城郭)

 朝陽軒(宗寿庵)(周辺城郭)

 甘南備城(周辺城郭)

 金敷城山城(周辺城郭)

 坪ノ上城(周辺城郭)

 勝宿神代屋敷(周辺城郭)

 築山古墳(寺社・史跡)

 川上石丁場(寺社・史跡)

 実相院(寺社・史跡)

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