長瀬忍者屋敷
長瀬忍者屋敷([高木城 周辺城郭])
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長瀬忍者屋敷の口コミ情報
2021年11月12日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
佐賀県の佐賀市の高木瀬にある【長瀬忍者屋敷】♪と名前を付けています☆
濠割に囲まれた集落は南流する多布施川の東側に立地します♪元徳2年(1330年)北条英時の鎮西下知状(河上神社文書)には河上神社に対する長瀬孫太郎の『大般若免田五段』の『神用物銭段別百文』の未納について記されています☆この頃より以前には長瀬という地名が成立している事を物語ます☆
肥前刀『肥前忠吉』の刀鍛冶は戦国末期から江戸初期にかけ佐賀城下にもある同名前の長瀬町に移住する以前、この高木瀬の長瀬村に住んでいたと伝わり佐賀城下の長瀬町の町名はココから来ていると云われてます☆
忠吉系統の刀鍛冶は鎌倉時代からこの高木瀬の長瀬村に住んでいた様で古くは朝鮮半島からの渡来者で太宰府にも住んでいたと伝わっています♪弘安以降、この地で刀を製作していたのですが『大忠吉』と呼ばれる初代・新本新左衛門忠吉は戦国時代にこの長瀬村で生まれたと伝わります☆
藩政期の江戸時代には佐賀本藩の蔵入地になっていて、集落内には長瀬天満宮が残ります☆豊後国の大友宗麟が襲来した今山の戦いでの戦勝は、この長瀬天満宮の御神徳によるものとして社殿修造を寄進しています☆
集落内には長瀬七曲と称する入り組んだ小路が沢山あって各戸の敷地は広く濠割が囲っている事から忍者屋敷とも呼ばれていました(江戸時代)♪北小路、大木戸、馬場、出口、矢倉などの城館や豪族屋敷に関する多くの地名を残します☆