直鳥城(なおとりじょう)

直鳥城の基本情報

通称・別名

所在地

佐賀県神埼市千代田町大字直鳥字三本松

旧国名

肥前国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

犬塚家久

築城年

永正年間(1504〜1521)

主な改修者

主な城主

犬塚氏

廃城年

元亀2年(1571)?

遺構

曲輪、堀

指定文化財

再建造物

石碑

周辺の城

姉川城(佐賀県神埼市)[3.1km]
蓮池城(佐賀県佐賀市)[3.1km]
城島城(福岡県久留米市)[5.6km]
吉野ヶ里(佐賀県神埼郡)[6.0km]
水ヶ江城(佐賀県佐賀市)[6.9km]
高木城(佐賀県佐賀市)[7.0km]
佐賀城(佐賀県佐賀市)[7.0km]
帯隈山神籠石(佐賀県佐賀市)[7.5km]
三重津海軍所(佐賀県佐賀市)[7.8km]
津村城(福岡県大川市)[8.0km]

直鳥城の解説文

直鳥城(なおとりじょう)は、戦国時代に佐賀県神埼市に存在した日本の城(平城・クリーク城館)。中世にこの地方で独自に発展を遂げた低平地城の典型である。

概要
佐賀平野の城原川右岸に設けられ、現在の神埼市に位置する。周囲を環濠に囲まれていた。築城は犬塚家久が永正年間(1504年-1520年)に行ったとされる。城跡は現在、直鳥環濠集落クリーク公園として整備、公開されている。

歴史・沿革
直鳥城跡は、南流する城原川と国道264号が交わる直鳥橋の南西200mの右岸にある平城(水城)で、規模は東西330m、南北330mである。

弥生時代、有明海岸が後退した頃からこの地に人々が定住を始め、中世にはほぼ現在に近い形の集落が形成された。初めは小規模だったが、16世紀に犬塚氏の支配下に入ってから徐々に要塞的な環濠集落として発展を遂げていったと考えられている。

江戸時代に編纂された歴史書や軍記物(「北肥戦誌」など)に、城の沿革が書かれている。築城は、犬塚家貞の四男家久で永正年間とされる。2代目城主犬塚家清は、大友宗麟の命により、筑後の諸将と共に筑前侍島の筑紫惟門を攻めた敗走し、家清とその嫡男尚家は宝満岳で戦死した。3代目城主犬塚鎮家は、西犬塚(鎌田江)の所領を相続して、鎌田江城に居住し、大友方として龍造寺氏と対峙した。元亀元年(1570年)、大友親真を主将とした3万の軍勢が佐賀城を攻めたが、龍造寺氏の家臣鍋島直茂の奇襲戦法「今山の戦い」により大敗した。翌年(1571年)の春、佐賀城の龍造寺隆信は鎌田江城を攻め、鎮家はこれに敗れて筑後に落ち延び、直鳥城に戻ることはなかった。

直鳥城の周囲に発生していた「城下町」に相当する集落は、城跡を取り込んで環濠集落の郷村として継続し、江戸時代を通して現在まで残っている。

直鳥城は、崎村城、姉川城と同様に、佐賀平野特有の濠(クリーク)を防御線として利用している。現在、クリーク内の各島々の竹藪となっているところは、防御のための土塁が設けられていたと考えられている。直鳥城は、この地方で独自に発達を遂げた中世の低平地城館の典型であり、貢重な文化財として保護されている。

参考文献
角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典(41.佐賀県)』、角川書店、1982年

直鳥城の口コミ情報

2021年08月02日 龍馬備中守【】
米多城[直鳥城  周辺城郭]



佐賀県の上峰町にある米多城☆クリーク(濠)を巡らせた平城になっています♪
古くは鎌倉時代より『米多荘』として名前が出てきていて三根郡の内の1つになっています☆この米多荘の中心部は安楽寺周辺と思われ、鎌倉中期に書かれたとされている天満宮安楽寺草創日記には米多荘の名前が出てきています☆安楽寺少別当法眼信朝所職屋敷等注進状にも、『一、米多御庄 政所職』と出ていて、屋敷と言う文字が出てきます☆
時代が進み南北朝時代にも『米多庄』として記されています♪

戦国時代に突入すると、肥前国の雄、龍造寺隆信は東肥前の経略の為に姉川の姉川信安を、この米多に移しています☆
『北肥戦誌』には櫛田宮の由来附執行本告(本告氏)の事の条に『姉川中務大輔信安を、姉川より米多に移し、横武が知行の内を米多村にて百町押取り、信安に給はり』と三根郡・養父の両郡の守りにしたと記されています♪築城年、廃城年、共に不明ですが鎌倉時代〜室町時代頃迄は荘園として機能したと思われますが戦絶えない戦国期には城館として造り込まれたのでしょう☆

因みに江戸時代には佐賀本藩領に属しました♪

聞法寺、円城寺周辺が城館の中心地と思われます♪

2021年08月01日 龍馬備中守【】
山領氏館[直鳥城  周辺城郭]



佐賀県の佐賀市にある【山領氏館】♪佐賀平野の南東部で佐賀江川の支流の新川の東部に位置します☆
山領の枝村としては西に福田、南東に小杭などがあり、同村に接します☆

中世の山領の村域には垣内氏が代々、居住しました♪この垣内氏は藤原孫六郎太郎広元が光法という別郷に郭を構えて、その周囲を囲んだ事から垣内氏と称しました♪
のちに垣内氏は山領村を領しながら、枝村の福田に居館を構えています☆
垣内氏は元々、少弐氏に仕えましたが、その後は龍造寺隆信の家臣になりました☆

そして館の名前通りに山領館は龍造寺氏の家臣・山領氏の館とも伝わります☆この山領氏は古くは龍造寺康家、胤家の時代から佐賀地方にいた太田氏、光増氏、石井氏、南里氏と手を結び、戦国乱世を生き抜いていきました☆

2021年07月29日 龍馬備中守【】
伝・蒙古屋敷[直鳥城  周辺城郭]



佐賀県の神埼市にある【伝・蒙古屋敷】♪伝・蒙古屋敷のある東尾崎☆日の隈山の南西部に位置します☆中世の神崎庄の北西端にありました♪
『九州治乱記』には尾崎村と名が残ります☆

この地の名産に尾崎焼きがあって、尾崎焼きは元寇の際の捕虜が伝授したものと伝わります☆弘安の役(蒙古襲来)の際に、この捕虜が居住したと伝わる場所が蒙古屋敷と呼ばれました☆
尾崎焼きの他には、瓦や火鉢、鉢物類、人形や玩具などの焼き物をこの地で作りました♪
また伊予の御家人・河野通有が神崎荘内に恩賞を得ていて河野氏に関係する屋敷跡とも推測されています♪どちらの屋敷跡か?は分かっていませんが、看板には伝・蒙古屋敷で描かれています☆

戦国時代には太閤・豊臣秀吉が名護屋に向かう際に大和町の尼寺を通りかかると、鍋島直茂の義母、慶誾尼の命により握り飯を土器(尾崎焼き)にのっけて提供したと伝わっています☆この土器(尾崎焼き)が豊臣秀吉から賞賛を受けて、制作者である家永彦三郎は土器師の朱印状を授与されその子孫がこの地で先住者の跡を継いだといいます☆
江戸時代には佐賀藩から幕府に贈る月次献上品の中に『十二月には神埼郡尾崎産土器』と残っています☆
蒙古屋敷は神埼町尾崎にある光明寺の南側一帯に築かれていたと伝わります☆
集落にはやっぱりクリークが残ります♪

2021年07月27日 龍馬備中守【】
台場屋敷[直鳥城  周辺城郭]



佐賀県の神埼市にある【肥前・御台場屋敷またの名を岩田台場】と呼びます☆江戸時代には、この地には佐賀藩運営の岩田台場と称される射爆場がありました☆石火矢頭留書には台場の築城は1688年〜1704年にかけて造られていて、佐賀藩の4代藩主・鍋島吉茂と10代藩主・鍋島直正の時代にもっとも多く使用されました☆長崎の御番を命じられた佐賀藩は武器の改良進化を図る事を要求されていて、ココに台場を築き日の隈山を的場として大筒の射撃訓練をしています☆この地に築かれたのは日の隈山が佐賀藩の御狩場になっていた事が理由の様です☆因みに日の隈山は戦国時代には火の隈山と呼ばれていて勢福寺城の狼煙場になっていた場所でもあります☆時は進み日の隈山に名前が変わっています☆江戸末期に10代藩主・鍋島直正の命により武雄の鍋島十左衛門が砲術を披露したと記録が残っています☆台場屋敷のある唐香原には砲や火薬庫、役宅、番宅が建てられ御台場屋敷と名前が変化しています☆幕末期に入ると台場の使用は減っていきます☆射程距離が伸びる武器に弾丸の威力の増加、火術の上達などの理由から諸富の三重津(三重津海軍所)へ移行していきます♪この三重津海軍所は明治日本の産業革命遺産として世界遺産に認定されています☆日本でいう幕末期にイギリスが開発した最新の大砲♪アームストロング砲♪往時の最新技術を駆使した、この大筒を佐賀藩は既に持っていて、更にこの御台場屋敷にて既に使用していました☆更に黒船が来航した江戸湾☆江戸幕府は大慌てでアメリカとの交渉を重ねました☆これを機に江戸湾の防衛強化が課題になり幕府は品川への砲台建設を急ぎ決定しました☆この時に幕府は品川台場の備砲として佐賀藩に鉄製大砲200門の製造を打診し、佐賀藩は50門の製造を受注♪多布施公儀石火矢鋳立所で大砲の鋳造をおこないました☆完成した大砲は運送中に沈没した8門をのぞき、品川台場に設置されています☆
そうなんです☆実は大砲を造るには鉄☆鉄を造る反射炉は佐賀藩が1番最初に造営してるんです☆凄くないですか?これは、火を扱う事に関して長けていた証で、有田焼、伊万里焼などの技術が進んでいた結果なんじゃ無いかな〜?って思ってます☆幕末期に名を馳せた佐賀藩☆やっぱり凄い大藩です☆
御台場屋敷の南側には軍事訓練を指揮した原家と原就本のお墓が残ります☆

2021年07月27日 龍馬備中守【】
長者原城[直鳥城  周辺城郭]



佐賀県の神埼郡の吉野ヶ里町にある【長者原城】♪現在は道路整備や宅地開発により遺構は消失してしまっています☆

脊振山地から南に伸びた低丘陵地に、かつて城郭は存在しました☆別名を竹原城(タケバル)と呼びます☆九州は原をバルと独特な呼び方があって今回の長者原城も(チョウジャバル)と呼びます☆

少弐氏家臣の執行氏の城郭になってます☆
この執行氏ですが、大伴安麻呂九世少納言兼直が鳥羽天皇の時代に神埼庄の櫛田宮の勅使として下向し土着しました☆
後に兼直の曾孫・兼貞が仁比山の日吉神社の宮司に命じられた時に長者原に居を構えました☆この時に名前を『執行』と称しました☆執行氏は後に城原(ジョウバル)の勢福寺城主・江上尚種に属します、が、周防の大内軍、蓮池城の小田政光、の攻撃を受け、更に神代勝利の攻撃を受けてしまい、落城してしまいました☆

2021年07月27日 龍馬備中守【】
鳥ノ隈城[直鳥城  周辺城郭]



佐賀県の神埼郡の吉野ヶ里町にある【鳥ノ隈城塞】♪
吉野ヶ里遺跡の東側・500mの地点に城郭は存在しました☆脊振山地から南に伸びた台地上の南西側に位置します☆西側に田手川が流れます☆周辺は北に横田、南に吉田と接します☆

詳細は一切不明な城郭ですが、この辺りは勢福寺城、長者原城、日吉城を中心に領した少弐氏の家臣・江上氏の領域になっています☆もしかしたら、この、江上氏の城郭なのでは無いか?と疑問が出てきました☆城郭の位置関係を見ると勢福寺城の南東側の守りの城塞だったのでは無いか?
もう少し突っ込んで調べてみます☆
城郭の位置関係のマップを作成してみました☆

このエリアは周防の大内軍が攻め、豊後の大友軍に肥前の龍造寺軍が攻め度々戦火に巻き込まれました☆

現在、城郭には鳥ノ隈天満宮が祀られていて削平地が残ります☆この鳥ノ隈城塞の北側には東西に走る古代の官道が残り、これを堀として転用していた様です☆
古代の時代から佐賀平野の少し高まった台地は貴重な存在でヤハリ古くからも活用され、その形を今に残してます☆

江戸時代には鳥ノ隈村という集落に発展しました☆またの名を殿熊村とも呼ばれました♪この鳥ノ隈村は小山平五左衛門が知行しています☆小山家は佐賀本藩、鍋島勝茂の時に蔵入地の代官を勤めています☆

2021年07月25日 龍馬備中守【】
松枝環濠集落[直鳥城  周辺城郭]



佐賀県の三養基郡にある【松枝環濠】☆此方も地名に城館の名残を残します☆
南流する筑後川の中流、右岸の低平地に立地しています☆東側に切通川、西側に井柳川2つの川は合流して筑後川へ流れます☆立地良いですね〜☆作った写真の位置関係は治水地図を使いました☆現在はは護岸工事で川の流れは変わってますが、古くは松枝環濠は切通川に接しました☆

松枝は鎌倉時代から出てくる村名になっています☆初見は、肥前国留守所下文案、河上神社文書で留守所は河上宮五八月両会流鏑馬を勤行するように各郡司に求めますが、その際に三根郡の中に『松枝』と出てきます☆
その他に室町時代の文書に、九州探題の渋川満直は綾部の土着豪族・綾部満幸に三根郡内の5カ所の所領を安堵するのですが、その一つに『松枝』の集落名が出てきます☆

現集落内は宅地の間を縫う様に濠が走ります☆長泉寺の南西一帯を「館ノ内」と呼び、この辺りを中心にして環濠集落は発達しました☆松枝の地は江戸時代には佐賀本藩領になりました☆

因みに経塚と呼ばれる貝塚があり弥生時代の中期、後期に有明海の海岸線はこの辺りにありました♪古くから人の気配がある訳です☆

2021年07月25日 龍馬備中守【】
西島城[直鳥城  周辺城郭]



佐賀県の三養基郡にある【西島城】☆佐賀平野の平坦地に築かれた平城になります♪

少弐一族である横武鎮貞が戦国時代に築いたと伝わり周囲にクリーク(濠)を張り巡らせます♪

『北肥戦誌』には「欺かりし程に隆信(龍造寺)広門(筑紫)と軍争に及ばず、養父の陣を払って三根郡に打入られ、横武中務大輔鎮貞が西島の城をせめられしかども、利あらずして、先手の龍造寺上総介家晴、同名越前守家就・同名伊賀守家直以下引退く」と出ていて一時、その攻撃を退けますが、後に落城し廃城になります☆

集落の北側に西乃宮八幡宮神社が残ります♪この神社は平安末期の保元の乱後に創建したと伝わります☆この神社は西島城の北側で城域範囲♪佐賀平野東部、筑後川沿いで、切通川を天然の濠にしている♪そんな立地になっていて、中世期には大宰・少弐資之の子・資頼の孫・横武孫次郎房頼が鎮守となって社勢を盛んにしました☆

この地は龍造寺氏と少弐氏の接線地区になっていて、横武鎮貞が龍造寺隆信に降ってからは往時の面影を変え三根郷の宗社として崇敬されました☆

2021年07月25日 龍馬備中守【】
江迎城[直鳥城  周辺城郭]



佐賀県の三養基郡にある【江迎城】♪佐賀平野の東部の筑後川の支流で、南流する切通川右岸に位置します☆今でこそ住宅地の中に溶け込んでいる為に往時の縄張りは何処までが城域だったのか?分かりません♪が、幾つかの浮島の中からは掘建柱建物の跡や白磁皿や蓮弁文青磁碗などが出てきていて相当身分の高い武将の居館だったということが分かってます☆

江迎の同地内には加茂環濠集落、一本柳、一本松、一の橋環濠集落があるのですが、集落内を縫う様にクリーク(濠)は点在していて明らかに、その集落部分を守っています☆
この、一本柳の集落を利用して、造られたのが江迎城になります☆

江迎城は城主等の伝承は無くて、不明な点が多いです☆南西にあった一の橋環濠集落、八枚の北東に隣接し、主要部分と思われる場所は現在は公園になっています☆発掘調査で鎌倉時代後半期の遺物や掘立柱建物跡を検出していて在地領主の城館として確認されています☆

江戸時代・佐賀藩初代藩主・鍋島勝茂判物に『江向之内』として出てきていて、宮部善右衛門、小山平五左衛門に知行地として与えられています☆

この江迎には大堀、添目堀、鎌夫東堀、鎌夫西堀、畑田堀、ダッチウ堀、菱堀、大戸堀、狐地堀、庄原堀と呼ばれるクリークを一部それぞれ残します♪

2021年07月24日 龍馬備中守【】
大島館[直鳥城  周辺城郭]



佐賀県の神埼市にある【大島館】上空の地図から見ても、その城館具合は一目で分かります☆

歴史詳細は一切不明となります☆
江戸時代には村名として大島村として出てきますが、平安、鎌倉と室町、戦国とヤハリ確認が取れません☆
が、クリークは明らかに大島集落を守っている為、何かあった〜と考えるのが自然な流れですね☆
東側には井柳川、江見川が合流する場所で筑後川の下流、右岸の平野に立地します☆川を防衛ラインとして利用した城館集落です☆
円通寺一帯が環濠になっていて現在も人々の生活が残ります☆
円通寺の南東側の少し離れた場所に「大屋敷」「館の裏」の地名が残ってます♪
地名が残るという事はやはり領主、在地豪族等がいたのでしょうね☆

この円通寺は江戸時代に文徹が開基し同江戸時代に晃山が中興したと伝わります☆
因みに大島集落は佐賀本藩領でありました☆

2021年07月23日 龍馬備中守【】
柳島城[直鳥城  周辺城郭]



佐賀県の神埼市にある【柳島城】☆柳島集落には現在も人々が住んでいます☆

鯰江と呼ばれた、この場所は筑後川の下流の右岸部に位置します☆弥生時代には有明海の入江に点在する1つであったと推測されていて、柳の木が多い島だったという事から地名は来ています☆

中世期の鎌倉時代〜南北朝時代から名前は出てきていて神崎荘の1つになっています☆
この『柳島』という文字は脊振山僧団の一僧侶だった成賢の申状案に初見します☆
この修学院文書によると柳島村の地頭職は元々、智妙房賢秀の私領であったのを弟子の、この成賢が譲り受けました☆ところが、僧・覚秀なるものに、押領されたので、成賢は博多の鎮西探題に上訴して、覚秀に非を認めさせて避状を出させています☆
脊振山の長老16名はこの、成賢の申状を認め、後証として、連署署判を残しました☆
その後は、南北朝時代の内乱期に一時、脊振僧団の管理の手を離れた時期があった様で、隼人正某奉書により『神崎庄内柳嶋田畠半分』を返付されています、と残ってます☆
柳島地内には柳島古城と称されている地があって、『小森権之助という者の古城』と残っています☆この小森権之助とは何者なのか?分かりません☆在地豪族といった所でしょうかね〜☆神埼郡村誌には、小森権之助の墓は字九本柳の林薮にあると伝わってます☆柳島城は柳島公民館・乙護神社の北東に墓地になっている場所があって『野屋敷』と呼ばれてます☆この辺りも城館としての名前が残っていて古い五輪塔が残ります☆この古い五輪塔は南北朝時代のモノと伝わっていて、城主・小森氏のものではないか?と思われます☆つまり神埼郡村誌に伝わる字九本柳の場所か?

そんな柳島城の話でした☆

2021年07月20日 龍馬備中守【】
崎村城[直鳥城  周辺城郭]



佐賀県の神埼市にある【崎村城】意外に広い崎村集落は筑後川とその支流の田手川が合流する場所に立地します☆往古有明海に面した地先に位置していた事から崎村という地名になりました☆中世の平安時代〜鎌倉時代に既に崎村は存在していて神埼郡の1つの村として歴史を刻みました☆櫛田社大宮司職補任状案に『崎村若宮 末社小社』と残ります☆鎌倉時代には詫磨道秀譲状に『肥前国神崎庄内崎村郷内江口南里…』とヤハリ崎村出て来てます☆条里(古代から中世にかけての土地区画制度)の遺構は後々まで残っていて、現在も神埼、崎村付近には条里地割りが沢山分布します☆更にこの地は蒙古合戦勲功賞として、大村太郎家直に加封されました☆
さて崎村城です♪崎村城は田手川の左岸に築かれた平城です☆古城と呼ばれていたその場所の今は河川の改修工事でその遺構は消滅しています☆ですが、濠の名残は残します☆
戦国時代に犬塚家貞が築城しました☆
犬塚家は南北朝時代に宇都宮家貞が征西将軍懐良親王に供奉して九州入り☆筑後国の三潴の犬塚郷に土着して犬塚姓を名乗りました☆
その曽孫の刑部家貞が犬塚一族を率いて崎村へ移りました☆長男の犬塚家直が崎村城の城主に(東犬塚)☆次男の犬塚家重が蒲田江城の城主に(西犬塚)三男の犬塚家種は補佐で蒲田江城に入り、四男の犬塚家久は直鳥城の城主に(直鳥犬塚)五男の犬塚家喜は古賀館主にそれぞれ入りました☆平和だなぁ〜?と思いきや、北肥戦誌には『豊後衆来陣の半ば、去る三月下旬、神埼郡蒲田江の城主・犬塚民部大輔尚重と同じく崎村の城主・犬塚長門守鎮直と害心を挟みて切死しけり。此両人、先祖は下筑後の住人にて、蒲池・大木の一族、当時東肥前の内にして頗る大身の者なり。さればその刺違へし意趣を聞くに、尚重は龍造寺の壻なれども、今度大友に一味し、鎮直はさしたる縁はなけれども、龍造寺に一味す。斯かりし故に、両人従弟ながら、敵味方と分れて、已に討ち果さむとぞ思立ちける』と残っていて、大友宗麟が龍造寺隆信を攻撃した際に崎村城主の犬塚鎮直は龍造寺方に☆蒲田江城主の犬塚家重は大友方に、それぞれが味方し相争い、いずれも城主が戦死しています☆龍造寺隆信は犬塚鎮直の忠死を悲しみ、その遺子の犬塚家広に黒津野300町を与えました☆犬塚家広はその後、三根中津隈に300町を移封されていて龍造寺家の家臣に☆
因みに明治の遺産・埼水門が残ります♪

2021年07月11日 龍馬備中守【】
大門城[直鳥城  周辺城郭]



佐賀県神埼市にある【大門城】浮島が10に及ぶクリーク城館です♪歴史詳細は不明☆少弐氏の家臣の実松信家が大門村・叶村を知行していたという事は残っています♪ここは古くは『大間』と記されていましたが江戸末期より『大門』と表記されています☆以前口コミした莞牟田環濠の『莞牟田合戦』で少し触れました☆『莞牟田合戦』とは龍造寺隆信VS少弐冬尚の戦いで最後は龍造寺隆信が勢福寺城で少弐冬尚を自害に追い込みます…。その前哨戦が『莞牟田合戦』です☆姉川城を本陣に籠る龍造寺隆信♪直ぐ南東方で蓮池城主の小田政光と本告牟田城主の本告頼景が龍造寺軍として戦います☆対して神代勝利、江上勢に城原衆は少弐方として東側に陣を構え龍造寺軍と激戦を繰り広げました☆更に龍造寺軍には神埼南部一帯を治める直鳥城主の犬塚氏が南方に位置する直鳥城から1500余騎を引き連れ出陣☆神埼口で、少弐勢2000余騎と激突しています☆以前の莞牟田環濠では、この付近で犬塚氏VS少弐勢がぶつかったと少し触れました☆
戦場の正確な位置は分かってません…この神埼口、神埼大手門と記されていることがあり、大手門とは即ち大門城、集落への入口と思いました☆この犬塚氏VS少弐勢の争った『莞牟田合戦』の局地戦である神埼口の戦いの場所は何処だったのか?個人的には城原川を挟み対峙したんじゃ無いか?と思っていて城原川の左岸には犬塚氏の直鳥城☆右岸には少弐勢の大門城☆大門城の集落は少弐家臣の実松氏の地です☆つまり…少弐勢はこの大門城を拠点に戦った可能性が大いにあり得るなぁ〜と考えます☆神埼大手門=大門城の事では無いか?大門集落の周りは現在は田んぼしかない状況で野戦を行うには余りにも無防備です☆籠る場所、戦う場所は必要な訳です☆犬塚氏は直鳥城から北方に向け出陣し莞牟田を目指すも少弐勢が阻む…。直鳥城の北方には大石環濠があり、ここ城館的な要素を持っています☆犬塚氏は直鳥城、大石環濠を拠点としたと考えます☆城原川の左岸に犬塚氏の『直鳥城』『大石環濠』があり、右岸に少弐勢が籠り拠点としたかもしれない、この『大門城』と少し南に『丙太田環濠』(此処も堀幅広くて城館色が強い)があります☆布陣図と争った場所は正にこの辺りなんじゃ無いかな〜?と思います☆結果この局地戦は少弐勢が勝利し犬塚氏は撤退を余儀なくされてしまいました☆マップ作って載せときますので見て見て下さい♪

2021年07月10日 龍馬備中守【】
下田城館[直鳥城  周辺城郭]



福岡県の久留米市にある【下田城館】☆
寛政三年(1462年)下田村を領した堤貞正入道妙光が、現在の下田天満宮を中心とした地域に南北八十間・東西六十間の城館を構えたと伝わります☆

大友義鎮が筑後に出兵して高良山に陣を構えましたが、堤筑前守貞元は龍造寺氏に属して大友氏に対抗して戦いました☆

城郭は筑後川の右岸に位置し西に切通川、東に開平江川、更には南東側には筑紫川の支流の広川が合流してくる抜群の立地に位置していて川を天然の堀として守られています☆
古くはこの下田城館の南側に下田の渡し(舟で往来)があった場所で筑後から肥前へ入るルートにもなっていた場所です☆
ただし川に挟まれ低地の為に度々、水害に悩まされた様です…。

地域で仲良くなったお爺ちゃんが下田天満宮に古くから奉納されている木彫りの神様を見せてくれました☆時代感は分かりませんが、中々鬼気迫るお顔をした木彫りの神様はいつからあったんだろう??
戦や、どうしようも無い戦況に巻き込まれた時、人はやっぱり神頼み☆木彫りで神様を作り祈る…どうか村をお守り下さいって☆
そんな人間らしさが垣間見える☆
そんな風に思えてなりませんでした☆
時代背景ってあって厳しい時代に作られた神仏の石仏、木彫りだったりの神様の表情は険しく、平和な時代背景の中の神様はどこか微笑ましい☆癖や特徴が出やすいものです☆

かなり劣化が進む木彫りの神様☆
きっと古い時代に作られたんだろうな〜♪

2021年07月10日 龍馬備中守【】
猪面屋敷[直鳥城  周辺城郭]



佐賀県の神埼市にある【猪面屋敷】☆『いのおもて』『いのめん』と呼びます♪

屋敷と残っている為にコレは…と思い行ってみました☆

神埼宿の西北、城原川の西岸に位置していて土手下に広がる集落が「猪面屋敷」です☆猪面は『忌部』の転訛で櫛田宮の祭祀に関係して定着した様です☆


江戸時代には川久保神代家の鍋島弾馬の地米高が最も多く米を佐賀藩に献上しました☆米が豊富に取れた集落を往時は特別に「屋敷村」と呼んでいた様です☆その名残が、この集落の名前の由来になっています♪なるほど〜と勉強になりました♪

2021年06月22日 龍馬備中守【】
大石環濠・実松氏館[直鳥城  周辺城郭]



佐賀県の神埼市にある【大石環濠・実松氏館】♪光円寺一帯にクリークが広がります☆

大石環濠集落は城郭といっても良い位にまとまった形状をしている環濠集落です♪

集落内には弥生時代の貝塚(大石貝塚)も確認されていて古くから人が居住していた事が分かります☆
大小の浮島と濠で構成されていてそのままの形を良好に残しています☆

歴史詳細は不明ですが少弐氏に属した実松氏の館跡があったと伝わっていて、実松氏の後裔は大石に名前を変えて小城藩に仕えました♪
集落内には享保11年・実松右近太夫信恒の開基と伝わる光円寺や天満宮・大石権現が祀られています☆
また江戸時代には集落の中央を東西に通る道路上の濠に架かる「両国橋」を境に西は蓮池藩領・東は佐賀藩本領に分離されていました☆昭和に入り西大石、東大石は統合され現在の大石集落になっています☆

2021年06月21日 龍馬備中守【】
上黒井環濠[直鳥城  周辺城郭]



佐賀県の神埼市にある【上黒井環濠】クリーク(濠)の城館にすっかり魅せられてます…☆☆☆
佐賀平野東部・神埼地区を中心に独特の縄張りを持つ環濠集落は古くは弥生時代から発生し中世には城館として、更には現代も人々が暮らしているという独特かつ特徴的な物を持っています♪
天下泰平の時代には生活、農業生産の為の用水として活躍して人々の生活を支えました☆
戦絶えない戦国動乱期の中でのクリーク(濠)は人々の命を守るものとして、ここ神埼には多くのクリーク(濠)が今も残されています♪

この上黒井環濠は犬童川の東方に立地していて南方には下黒井環濠に接します☆
集落内には菅原道真を祀る天満宮が残ります☆更に集落の東端には熊野神社も祀られていて集落の方々が代々守っています☆

さて…歴史詳細は不明です☆
集落北部には屋敷地が推定される長方形の島が見られます☆誰がいたんでしょうね??
地元では『屋敷』と呼ばれる浮島が残ります☆西端部の集落への入り口付近の堀に『鎌倉橋』と呼ばれる橋が架かっていた様です☆
現在は新しく橋がかけられてます☆

周辺の環濠集落と比較すると少し大きめな浮島で構成されていて『屋敷』『鎌倉』等の地名が残されてます☆

この集落は朝鮮系無文土器などが出土していて弥生時代の遺跡である上黒井遺跡が確認されてます☆古くから人々の生活を感じる事が出来ます☆

2021年06月18日 龍馬備中守【】
下渕環濠[直鳥城  周辺城郭]



佐賀県の佐賀市にある【下渕環濠】♪鎌倉時代から南北朝時代にかけて『淵里』または『淵村』の記録が見られます☆東は巨瀬川を挟み野中、若宮、西に市ノ江で濠に囲まれた集落が残ります☆
集落内にある日蓮宗の渕川妙常寺は濠に囲まれた広い寺域を持ちます☆小城郡に勢力を伸ばした千葉胤繁が建立したと伝わります☆

隣接していた本照寺が廃寺になるとコレも併せて佐賀藩内日蓮宗十二ヶ寺の一つと称されました☆

幕末期の庄屋は古賀忠助となっていて年貢徴収の責任者として農村支配の末端機関の役割を果たしました☆

村内には『少屋敷、千足、蔵元、南上ヶ、春日地』の地名を残してます☆
この集落の東側にはひょうたん島が残ります☆
春には菜の花が♪夏には向日葵が咲き誇ります♪このひょうたん島ですが下渕環濠を守る様に南北に島を造り込んでいます☆
馬洗という場所を残していたりと江戸時代には農業用として使われていた名残を残します☆個人的には下渕環濠、更には北方の渕川城を守る防衛ライン、外堀だったんじゃないか??と見ています☆

2021年05月28日 龍馬備中守【】
本告牟田城[直鳥城  周辺城郭]



佐賀県の神埼市にある【本告牟田城】♪この集落もクリークを駆使した城郭になります☆
神埼の中心やや南側に立地していて城原川の西岸の平地に城郭は存在しました♪

本告牟田城は中世以降の文献に多数その名が出てきます☆この地を本拠地にしたのが神埼庄の別当職などを勤めた豪族・本告氏になります☆集落・城内には『館の内』『どん屋敷』と言う地名が残り『旦那さん堀』と呼ばれるクリークが残ります☆

本告牟田集落の南の長崎街道の西端に江上武種の墓があり石の塚が4、5基残ります☆
龍造寺隆信に付いたり付かなかったりした江上武種ですが、和議が成立した後は服従を誓い龍造寺隆信の次男・龍造寺家種を養子に迎えて自らは日吉城に隠居しました(吉野ヶ里遺跡内の城郭)☆

他に本告牟田集落には『のぶたん祇園』と呼ばれる小社があるんですが、かつて当地に江上武種の弟・沢信種なる武士がいました☆
この沢信種なる人物はカナリのキレ者だった様で、龍造寺隆信は将来が恐ろしくなり闇討ちしたと伝わります☆沢信種(のぶたね)の愛称がナマリ、のぶたんとなったようです♪中々チャーミングな愛称ですねw
沢信種は長者林の合戦で討ち死にしたとも伝わります☆闇討ち?長者林の合戦?どっちなんでしょうか〜?分かりませんw

佐賀平野の各集落には必ずといっていい位にクリークが残っていて歴史が残っています☆
遺構が判りにくくても良い☆そこに歴史が在るならば♪名残と地名から歩いて探し見て妄想してます☆

2021年05月28日 龍馬備中守【】
姉本村環濠[直鳥城  周辺城郭]



佐賀県の神埼市にある【姉本村環濠】☆

姉集落は古くからその名前が出て来ていて阿禰(あね)とも記されています☆筑後川の支流の城原川の西岸の平地で直鳥城の直線600m位の場所にクリークを形成しています☆カナリ古い時期から開けた地域と考えられていて付近には弥生時代の貝塚遺跡も存在しています☆中世期に阿禰の名前で出てきていて神崎荘の中の一部です☆櫛田神社大宮司管轄の若宮があった地と伝わり「観音屋敷」と呼ばれる区間には土塁が残っている様です(未確認)

江戸時代には佐賀本領藩の西郷に属しています♪江戸期には長崎街道沿いに南北に開けた土地で、矢白橋にて長崎街道より南へ久留米道が分岐して直鳥村に繋がります☆

佐賀の乱(幕末期に江藤新平、島義勇を大将として明治政府に対し士族が起こした反乱)の極地戦の境原の戦い時にはココ姉村、直鳥付近は激戦地になっていて往時の戦況を、『午前六時出発。第十大隊並砲隊ハ本道ヲ姉村ニ進ミ候処、賊要地並深林ニ寄リ発砲…第十大隊大十九大隊ノ一小隊ハ間道蓮之池ニ突入姉村ニ出、第十大隊ト合併シ奮戦追撃、賊溝凹に拠リ狙撃シ…午後九時頃迄之難戦、賊終ニ去ル』と激戦ぶりを記したものが残ります☆

歴史深い姉本村環濠でした☆

2021年05月28日 龍馬備中守【】
余江環濠[直鳥城  周辺城郭]



佐賀県の神埼市にある【余江環濠】クリークの城郭が続きます☆余江集落をクリークがグルリと二重に、三重に巻き込みます☆

クリークは本当に独特な造り方、縄張りをしています☆全国にあまり類の無い城郭、館跡だなぁ〜と感じます☆過去に行った奈良県の若槻環濠や今井環濠、稗田環濠なども良くってクリークの城って面白いな〜ってずっ〜と思っていました☆
が、佐賀平野のクリークは更にその上をいく数、良く留めている原型に驚く事ばかりです♪
この余江は『あまりえ』『あまいえ』とも呼びます☆筑後川の支流である城原川の右岸部の平地に立地して中央に犬童川が南流する場所にあります☆地名の由来は昔々に有明海が深く入江を形作っていた事にちなみます☆

大きな歴史詳細は不明です…が、香椎神社の南東側に「たっどん(館殿)さん」と呼ばれる区画が残っていて領主の館跡ではないかと考えられています☆
江戸時代には蓮池藩領になり北は直鳥村、東に柴尾村と接しました☆村内には長崎街道が走り蓮池往還が分岐する要衝地となっていきます☆蓮池藩の煙硝庫がココに置かれ消防兼侍、足軽の警備を配置しました☆この香椎神社ですが蓮池藩初代藩主・鍋島直澄を始め代々の藩主が社殿の造営・祭祀料の共進を行なったりしています♪

2021年05月28日 龍馬備中守【】
姉陣所[直鳥城  周辺城郭]



佐賀県の神埼市にある【姉陣所】♪姉集落の中にあり当地は長崎街道沿いに南北に開けた形をしていて境原宿の北方に立地します☆

戦国時代に肥前国に侵入した大友宗麟勢は龍造寺隆信が籠る佐賀城の攻撃の為にこの姉集落に陣を張りました☆大友宗麟の家臣・臼杵鑑速が1度目に2度目は戸次道雪が同じく姉に陣を構えてます☆この姉陣所から佐賀城は南西に6キロ位の位置にある集落で中々の接近具合が見て取れます☆

集落の中には「陣の屋敷」と「大屋敷」と呼ばれる水濠が巡った方形区画の島が東西に二つ並んでます☆この辺りに陣が構えられていたのかな〜??

2021年05月27日 龍馬備中守【】
柴尾環濠[直鳥城  周辺城郭]



佐賀県の神埼市にある【柴尾館・環濠】☆下直鳥環濠の更に南側、直線500m位の位置にある柴尾集落☆城原川の西側にクリークを巡らせた環濠集落になっています☆

歴史詳細は不明です…。が柴尾環濠は「源さん屋敷」と呼ばれる区画を中心とした環濠集落で鎌倉期の遺物・遺構が検出されています☆
正保絵図にも村名が描かれていて蓮池藩領となっています☆
江戸時代には蓮池藩の火災における参候所および防衛部署になっていて役丁5名が城内・西小路英彦山権現社の警衛消防に当たっています☆時の蓮池藩・城主の鍋島直温は柴尾村における蓮池藩主の火矢相図の演習を観覧していたという記録も残ります☆

因み当地には柴尾遺跡群もあって古くは弥生時代の土器(壺、器台、高杯、鉢、支脚)などなども出土していて、この頃から柴尾集落付近は陸だった事が分かります☆※佐賀平野は大昔は有明海の一部なんです☆今の佐賀平野の半分以上海でした☆
現在もクリークが残り集落を形成しているという事は歴史を遡り南北朝時代も戦国時代もあったと考えます☆
どの主君に付いてどうやって生きてきたのか?何を守って戦ったのか?クリークに点在する集落に興味しかありません♪

2021年05月27日 龍馬備中守【】
下直鳥環濠[直鳥城  周辺城郭]



佐賀県の神埼市にある【下直鳥環濠】☆
城原川の西岸で直鳥城の南側直線500mの下直鳥集落に位置します☆集落を縦横のクリーク(濠)が走ってます☆
佐賀平野には集落にクリークを巡らせた場所が幾つもあって城郭や館跡、屋敷跡の名残を残しています☆

下直鳥環濠も同様で現在も島の中には居住されている方々もいらっしゃいます☆知れば知る程面白い佐賀平野です☆古くは環濠集落として生活していた場所が戦国時代という戦の耐えない環境の中で先祖古来の土地を守ろうとしたからこそクリーク(濠)を巡らせて戦いました☆ロマンがありますね〜☆

歴史詳細は不明デス☆誰が居たか?何をしたか?共に不明とはなりますが中心の島は「次兵衛屋敷」と呼ばれる場所があってクリーク(濠)の中に浮島を造ります☆
場所からして直鳥城の犬塚氏の家臣?の居住区とかになっていたのかなぁ〜?
妄想が広がります☆

江戸時代には正保絵図に村名が見えて蓮池藩領でありました〜☆

2021年03月05日 美作守こうちゃん播磨の守♡
直鳥城



R264に「直鳥クリーク公園」の看板が有りその下に(直鳥城跡)と書いてます(写真参照)
ガレージ有り🅿

公共交通機関利用の方なら佐賀駅バスセンターと西鉄久留米駅を結ぶ西鉄バスで最寄りバス停「直鳥」です🤗直鳥城跡まで徒歩5分程!!1時間に1本の割合で運行してるので行って戻って丁度良い時間になります。

2020年10月05日 源陸前守ポンコ2@ⓦ
直鳥城



国道264号に直鳥クリーク公園の案内標識があり、東行を右折・直進するとメイン入口があります。
駐車場は10数台駐車可、トイレ完備です。

城域は水濠が縦横に張り巡らされ、各郭が島のように20くらいあります。郭も大きさはマチマチですが、今の主郭は東屋と貸農園になってます。
案内板の江戸時代後期の絵図には、郭の地名、城屋敷、屋敷内、鍛冶屋敷、観音屋敷、町小路、奥小路、中橋小路、大手口等の記載があり、今の地形もあまりかわらないようです。
これら郭には、公園施設以外にも民家や墓地などあったりしますので、そのあたりは配慮が必要かと思います。

案内板撮影したスマホ片手に城内や周囲を小一時間歩きましたが、自分がどこにいるのかわからなくなる水濠の迷路のようでした。

弥生の頃からの環濠集落とのことでしたが、水濠、水濠、水濠というのは今まで経験したことないお城で、個人的に面城かったです。

2020年09月07日 こにゃんこ武将
直鳥城

ここはお城なのかと思われる方も1人二人ではないと思います。が、西欧や大陸の城塞都市の縮小版だとも言えないこともないかも。園内は家庭菜園をされる方への貸出もされているようなので民間人に注意して攻めてください。

2019年07月14日 風祭すぅ
直鳥城



水郷に囲まれてる平城。いまは、クリーク公園として整備されています。
訪問したのが雨だったので、景色はよくないですが、晴れた日は、散歩コースに丁度よいと思います。
無料駐車場あります。

2016年09月17日 カーネル
直鳥城

長崎本線神崎駅から

駅を背に南へ進み国道34号で右折し、城原川沿いに左折して南下します。広い歩道があります
川沿いを10分ほど歩いたら[→本告城]という標識があったので、右折して10分ほど寄り道。お寺の境内に説明板がありました

川沿いの道に戻り南下すると歩道がなくなるので、土手に登り土手を歩きました
国道264号に出たら右折して西へ。駅から1時間20分で直鳥島に到着です

お城は公園になっていてキレイに整備されています。濠が張り巡らされた造りは初めて見ました
雨が強かったのもあり誰もいませんでしたが、晴れていれば憩いの場になってそうです

そのまま南に抜けて蓮池城へ向かいます。ここまで駅をでて1時間40分

歩き計画されている方の時間目安になれば幸いです

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