直鳥城(なおとりじょう)

直鳥城の基本情報

通称・別名

所在地

佐賀県神埼市千代田町大字直鳥字三本松

旧国名

肥前国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

犬塚家久

築城年

永正年間(1504〜1521)

主な改修者

主な城主

犬塚氏

廃城年

元亀2年(1571)?

遺構

曲輪、堀

指定文化財

再建造物

石碑

周辺の城

姉川城(佐賀県神埼市)[3.1km]
蓮池城(佐賀県佐賀市)[3.1km]
城島城(福岡県久留米市)[5.6km]
吉野ヶ里(佐賀県神埼郡)[6.0km]
水ヶ江城(佐賀県佐賀市)[6.9km]
高木城(佐賀県佐賀市)[7.0km]
佐賀城(佐賀県佐賀市)[7.0km]
帯隈山神籠石(佐賀県佐賀市)[7.5km]
三重津海軍所(佐賀県佐賀市)[7.8km]
津村城(福岡県大川市)[8.0km]

直鳥城の解説文

直鳥城(なおとりじょう)は、戦国時代に佐賀県神埼市に存在した日本の城(平城・クリーク城館)。中世にこの地方で独自に発展を遂げた低平地城の典型である。

概要
佐賀平野の城原川右岸に設けられ、現在の神埼市に位置する。周囲を環濠に囲まれていた。築城は犬塚家久が永正年間(1504年-1520年)に行ったとされる。城跡は現在、直鳥環濠集落クリーク公園として整備、公開されている。

歴史・沿革
直鳥城跡は、南流する城原川と国道264号が交わる直鳥橋の南西200mの右岸にある平城(水城)で、規模は東西330m、南北330mである。

弥生時代、有明海岸が後退した頃からこの地に人々が定住を始め、中世にはほぼ現在に近い形の集落が形成された。初めは小規模だったが、16世紀に犬塚氏の支配下に入ってから徐々に要塞的な環濠集落として発展を遂げていったと考えられている。

江戸時代に編纂された歴史書や軍記物(「北肥戦誌」など)に、城の沿革が書かれている。築城は、犬塚家貞の四男家久で永正年間とされる。2代目城主犬塚家清は、大友宗麟の命により、筑後の諸将と共に筑前侍島の筑紫惟門を攻めた敗走し、家清とその嫡男尚家は宝満岳で戦死した。3代目城主犬塚鎮家は、西犬塚(鎌田江)の所領を相続して、鎌田江城に居住し、大友方として龍造寺氏と対峙した。元亀元年(1570年)、大友親真を主将とした3万の軍勢が佐賀城を攻めたが、龍造寺氏の家臣鍋島直茂の奇襲戦法「今山の戦い」により大敗した。翌年(1571年)の春、佐賀城の龍造寺隆信は鎌田江城を攻め、鎮家はこれに敗れて筑後に落ち延び、直鳥城に戻ることはなかった。

直鳥城の周囲に発生していた「城下町」に相当する集落は、城跡を取り込んで環濠集落の郷村として継続し、江戸時代を通して現在まで残っている。

直鳥城は、崎村城、姉川城と同様に、佐賀平野特有の濠(クリーク)を防御線として利用している。現在、クリーク内の各島々の竹藪となっているところは、防御のための土塁が設けられていたと考えられている。直鳥城は、この地方で独自に発達を遂げた中世の低平地城館の典型であり、貢重な文化財として保護されている。

参考文献
角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典(41.佐賀県)』、角川書店、1982年

直鳥城の口コミ情報

2021年10月18日 龍馬備中守【】
東妙寺陣所[直鳥城  周辺城郭]



佐賀県の神埼郡吉野ヶ里町にある【東妙寺陣所】♪
中世にはこの東妙寺は兵乱の際には陣所として利用された寺院になります☆

長崎街道沿いの田手宿のやや北側に立地しています☆西側に田手川が南流♪田手集落の中に東妙寺は存在します☆動乱期には陣所として機能を果たしていた為に【東妙寺陣所】と名前を付けています☆
肥前誌を漁るとよく目にする東妙寺文書♪
この東妙寺の歴史は古くて弘安年間に蒙古掃攘の祈願を込められて創建されています☆

東妙寺文書の内容で、隣接する妙法寺の記述があります☆『妙法寺者建立以後即令止住尼衆 歴四十余廻之星霜畢 彼是両寺依有勅願』妙法寺は尼寺で東妙寺より40余年前に建立されていたという事で両寺共に記載があります☆この、東妙、妙法の2つの寺を住持する為に後宇多天皇の信頼厚い唯円が下向してきたと伝わります☆鎌倉時代の浄土真宗の僧で奈良西大寺中興の祖、叡尊の弟です☆
そんな凄い東妙寺、妙法寺の2つの寺院ですが、歴史は動きます☆
南北朝時代にはこの東妙寺は南朝方に付きます♪後醍醐天皇・後村上天皇や征西将軍・懐良親王から厚遇を受けました☆
が…この頃より既に周辺の土豪、武士による寺領の侵略が発生しています☆
その後、足利直義、義満や鎮西探題の少弐氏、今川氏、一色氏は東妙寺を祈願所にしたり、乱妨狼藉の禁止、騒乱訴訟の判決などの判物を送ったりと、東妙寺を幕府方へ取り込もうともしました☆
東妙寺はこの時期、その後中世期に、かなりの力があった事が判ります☆

更に戦国時代には豊後の大友宗麟が東肥前へ侵攻☆龍造寺隆信は防戦に努めます☆
大友勢は今山の合戦へ出陣する直前に兵舎として利用した東妙寺が焼失☆龍造寺領域の寺として焼き討ちにしたのでしょう☆
その領地を攻める際は城郭は勿論、寺院(領主と寺院の結び付きはどのエリアにもあります☆その領主代々の菩提寺だったりもする為)も狙われると言う事はあるあるですから、恐らく大友勢は火を放ってから今山へ向かったのでしょう☆

地形を見たら分かりますが、南側の佐賀平野から脊振山地に向かい徐々に高まりを見せ、舌状台地状を形成する、その付け根部に東妙寺は存在しています☆北側には吉野ヶ里遺跡もあり更には田手畷の合戦(少弐氏VS大内氏)との戦もあったなど古くから何かがある場所でありました☆

2021年10月17日 龍馬備中守【】
西渕環濠[直鳥城  周辺城郭]



佐賀県の佐賀市にある西渕環濠♪兼ねてより、この集落には何かある☆と上空MAPよりずっと認識していました☆やっとこさ、いけたので、今回はこの西渕環濠を口コミ上空MAPで見るよりも、やっぱり濠がデカ〜イ♪集落を縫う濠はやっぱり独特☆結論としては中世の歴史は不明でしたが、実相院文書の正平二二年の(1367年の頃)増生所職所領等譲状には『佐嘉郡平尾村渕里』と記載があってこの西渕集落の事と思われます☆室町時代には既にあった事になります♪東名遺跡がすぐ北にあってこの遺跡からは縄文時代の貝塚と人々の生活の痕跡が出土されていて、縄文時代は海岸線に位置した場所になっています☆
推測ではありますがこのエリアは、高木集落に隣接している為に中世においては高木城の高木氏の領域に属したものと思われます☆グルグルに回された濠は居館跡さながらの顔を持ちます☆この高木領は広くて今でも高木瀬という地名を残してます☆
この高木氏は元々からこの地に根を張った在地豪族で藤原氏の後裔となります☆
高木氏からは菊池氏、於保氏、龍造寺氏、上妻氏、草野氏の諸氏が分出したと伝わります☆肥前の名家となっていて高木宗家は源平合戦に際しで源氏方に立ち活躍☆
源頼朝から本領の佐嘉郡深溝北郷内甘南備の地頭職に補任され御家人へとジャンプアップ☆鎌倉時代には肥前国一宮の河上社の大宮司職を相伝し免田の給主として神事や造営に努めました♪ただし勢力が拡大するにつれて同社座主職との対立が激しくなりました☆
河上社の大宮司としては南北朝時代中期までで、それ以後、大宮司職は肥前千葉氏によって代わられたので一在地領主へ☆その勢力は衰退していきました☆
高木城からは北東1キロの場所に位置する西渕環濠☆もう少し突っ込んで調べてみたいと思います☆肥前の歴史を調べる事においてやっぱり高木氏は避けては通れないw

江戸時代の藩政期に入ると『山城さん』と呼ばれる白石鍋島家(鍋島山城家)の配分地となっています☆この西渕環濠は白石鍋島家に納める年貢米を一時保管したりしていた場所になります☆幕末期の庄屋様は田中幸右衛門となってます☆
また、集落内にある宗善寺☆
戦国時代に土肥佐渡守が開基しています☆
開山は佐賀市赤松町にある龍泰寺の4代目・太圭宗椿大和尚様となっています☆

戦国時代に建てられている宗善寺、中々立派な寺院でした♪

2021年09月25日 龍馬備中守【】
犬塚氏館[直鳥城  周辺城郭]



佐賀県の佐賀市の東古賀集落にある【犬塚氏館】☆この東古賀もまた、クリークで集落を守っています♪この地に居館を構えた犬塚氏♪
犬塚氏館と名前を付けています☆
この場所は鎌倉時代後期の1300年頃の有明海の海岸線に立地します♪
同じく鎌倉時代後期の沙弥某寄進状、北条為時寺領寄進状に『東故衙(ひがしこが)』と文が残っていて、この頃に東古賀村は有明海の干潟から荒野に移ったと推定されています☆

東古賀集落には犬塚氏館があったと伝わります☆犬塚氏は明応年代に筑後から神埼郡崎村(崎村城の城主は犬塚氏)に移ってきました☆
往時、肥前を手の中に収めていた少弐氏の家臣で時の当主・犬塚家貞には子が5人いて各々分封されていて崎村城を東犬塚氏、蒲田江城を西犬塚氏と呼び直鳥城の直鳥犬塚氏と合わせて三犬塚氏と称していました☆

この中の5男がこの東古賀村に居館を築きました♪村内には犬塚氏の墓碑も残ります☆

集落には淀姫社、妙福寺、正善院が残ります♪

2021年09月23日 龍馬備中守【】
井茅環濠[直鳥城  周辺城郭]



佐賀県の佐賀市にある【井芽環濠】♪現在は伊賀屋集落と漢字を変えています☆元々は井茅(いがや)で描かれていました☆
佐賀平野の中央部、筑後川の支流の巨勢川の東岸に立地します♪佐賀本領藩となっています☆
江戸時代の初期に佐賀藩・治水の神様である成富兵庫茂安の年譜に『巨勢郷は其以前渺々たる荒野にして高峰村より北尾崎まで凡一里半の処、皆萱野生茂りしを茂安見計り百姓共を集めて此以後田地に取立てたしと存する者には彼処を二町三町づつ割つて之を渡すべし 水筋の儀は上佐嘉より少しも滞りなく流しとうすべし』とあり江戸時代の初期の井芽付近の様子や市ノ江川による灌漑や排水設備により美田化した事が記録されています☆
現在の長崎本線伊賀屋駅の南の水田地帯の事となります☆その時の農地整理が現在にも残っているって凄い事ですね☆
井茅集落は城原川を水源として横落水道により灌漑が行われていましたが寛政4年(江戸時代)に姉川村にある井樋からの配水を止められ井茅村(中野吉村は枝村)の水稲が枯死する危険が生じていて一触即発の事態を藩が仲裁しています♪
この井芽集落は白石鍋島家(勝茂の4男・鍋島直弘を祖とする)の知行地になっています☆幕末期の庄屋は御厨氏で、井芽村は中野吉村と合同の郷蔵を持っていました☆
集落内にある伊賀屋天満宮の祭神は菅原道真・天照大神・大綿津見命・加藤清正♪
加藤清正は謎ですw何故に加藤清正が入っているのか?
伊賀屋天満宮の創立の年月は不明ですが社殿下棟木に「延宝8年鍋島大和守藤原直氏再興」と残っている様です☆下棟には「宝暦7年 鍋島山城守願主となって再興する」と註記されてて、その創始はそれ以前という事になります☆昔から文教の神、また五穀豊作、雨乞いの神として巨勢郷の各地区よりの参詣者も多かった様です☆
干ばつには祭神を有明沖にお下し申し浮立を奉納して降雨を祈った☆と伝わります♪

2021年09月22日 龍馬備中守【】
戸次陣所[直鳥城  周辺城郭]



佐賀県の神埼市の千代田町にある【戸次陣所】♪長崎街道沿いに東西に開けたこの場所は多くの歴史を持ちます☆
境原の地名は神埼郡と佐賀郡の境界に立地する原野という事から古くは堺原と描かれています☆

戦国時代に大友宗麟が肥前へ侵入し龍造寺隆信を攻撃した際に大友家の家臣・戸次鑑連が陣所を設けた場所として『九州治乱記』に地名が記されています☆
という訳で戸次陣所と名前を付けています♪

集落の西側で長崎街道から分かれて余江環濠を経由して蓮池城から蒲田津までの道、蓮池往還があり街道の交差点でもあるこの場所に歴史が多いのも納得ですね☆

更には境原の内に取り込まれた原ノ町には長崎街道の宿場、境原宿もありました☆

明治に入ると佐賀の乱では大激戦地になっていて境原宿の一帯は焼失してます☆

集落の中には若宮神社が残っているのですが、祭神は天忍穂耳尊、吉備大臣、豊玉姫命ら九柱を合祀し、更には太宰少弐高経の霊を祀ります♪

この若宮神社は元々は広滝山(脊振集落)の一つの峰、中野原鷹取山の頂にあった様ですが市川で(現佐賀市の富士)自刃した少弐高経の霊が現れたとしてココに祀ったと伝わります☆この若宮神社にはもう1つ伝わっている事があって豊臣秀吉が朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際に戦勝祈願の為に神馬を奉納したと☆その後、鍋島家代々の藩主も軍馬の安全を祈る為に献馬を恒例にして飼料を付与したとも伝わります☆

2021年09月21日 龍馬備中守【】
又南里環濠[直鳥城  周辺城郭]



佐賀県の佐賀市にある又南里環濠♪筑後川の支流の田手川、東岸部の平坦地に立地します♪『股南里堀』という濠が集落を走ります☆
古代より条里の名残が地名になってます☆
龍造寺鎮賢(後の政家)の朱印状にも『肥前国神崎郡 下東郷 又南里九里ノ内 四ノ坪 藤木ノ 壱反 九郎次郎 同坪 一反 大膳亮 九ノ坪 三反内三丈否光室』と残りその名残を、しっかりと伝えています☆

中世、南北朝時代から見えるその名前は神崎荘の内に入ります☆初見は同じく神崎荘にある東妙・妙法両寺寺領坪付注文写で『中郷又南里 十坪 五段三丈 十五坪七段四丈 十六坪一段ニ丈中』と土地を示してます♪
因みに、東妙寺、妙法寺は神崎荘の中で大寺でした☆坪付注文写には又南里の土地の一部は鎌倉時代に薦田氏が知行を与えられていて、その領域となっています☆
東妙寺と妙法寺共に薦田氏が管理していたと考えられています☆

下って戦国時代には龍造寺鎮賢判物に龍造寺鎮賢の旗下の豪族・五郎可帯刀に『肥前国 神崎郡 下東郷 又南里九里ノ内』を安堵してます☆

城館を彷彿とさせる様な濠を回し込んで集落を守ります☆

2021年09月18日 龍馬備中守【】
千住氏館[直鳥城  周辺城郭]



佐賀県の佐賀市の兵庫町ある【千住氏館】♪
佐賀平野の中央部、筑後川の支流、巨瀬川の東岸に立地し経島寺を中心に環濠集落が広がります☆

今でこそ佐賀市兵庫町という地名になっていますが中世、戦国期には千住という地名になっています♪この場所に居館を造った在地豪族・千住伊賀守忠時の子の千住時房は太閤秀吉の朝鮮出兵の功により『千住』の代官になりました☆

集落内には経島寺があり治承3年に平重盛が父の平清盛の罪障消滅を祈って創建しました♪開山した僧は不明ですが天正6年に千住伊賀守忠時が四国から湛蔵司を招いて住持にして再興しています☆

集落内は濠に囲まれていて浮島を造ります♪
西洋風の小さな小さなお城が建っていたのが印象的でした♪手造り風で可愛い😍

2021年09月07日 龍馬備中守【】
高尾環濠[直鳥城  周辺城郭]



佐賀県の佐賀市の巨瀬町にある【高尾環濠】♪佐賀城から真東に立地し城下より牛島集落を通り巨瀬川に掛かる高尾橋を渡ると、この高尾環濠(高尾集落)往時は高尾宿に入ります☆長崎街道(長崎⇔小倉)は高尾宿の直下に形成されていて、集落には濠を構えます☆

江戸時代の郷村帳には『高尾小路、宿、南小路、北小路、井出小路、竈王院小路』などの地名が残ります☆
長崎街道と巨瀬川の水運という恵まれた場所で『高尾のお蔵』と呼ばれる鍋島藩の米蔵や高尾郷蔵と呼ばれる備荒用の囲米保存の蔵が並んでいました♪

高尾宿は郷宿だったので宿と言いながらも旅人の宿泊は禁じられていて、うどん屋や駄菓子屋などが軒を連ねていた事に過ぎなかった様です☆すぐ隣には牛島宿がある為、発展しきれなかったのでしょうね☆

濠はシッカリと残ってはいるのですが、身を守る為の濠というよりは生活用水、農業用水で灌漑用の濠でありました♪また巨瀬川の水運を利用した運搬などなどが行われていたので鍋島藩の台所として活躍したのでしょう☆
争い絶えなかった乱世にはクリークは『身を守る濠として』平和な時代に入ると『用水を生活を守る大切な濠として』2つの顔を持つ濠がこの佐賀平野には多く残っています☆

2021年09月06日 龍馬備中守【】
垣内氏館[直鳥城  周辺城郭]



佐賀県の佐賀市、諸富町にある【垣内氏館】♪新川西岸に位置します☆北東に山領氏館、石志氏屋敷、山津環濠、真西に犬塚氏館に接していて、いずれも半径3キロ以内の場所に立地しています☆

名前の通りに土豪・垣内氏の居館跡になります♪垣内氏は光法(現佐賀市北川副町)の地頭・藤原亀益の孫・六太郎広元が垣内氏を称したのが始まりになっていて時代は南北朝と考えられています☆

垣内氏は山領村を領し小村である福田村に代々居館を置きました☆

福田村には天神・八龍社の一帯が垣内氏館があった場所になります☆垣内広元の孫・垣内新左衛門尉資家が少弐政資に属し、この垣内資家の孫の右近允光家は少弐政資の子・少弐資家(垣内、少弐共に資家です)に支えました☆その後は龍造寺家に支え、更に鍋島家にも支えていて逞しく生き残っていきました☆

2021年09月06日 龍馬備中守【】
南里氏館[直鳥城  周辺城郭]



佐賀県の佐賀市、川副町にある【南里氏館】♪八田江上流の東部に位置します☆
この南里集落の『南里』は条里制の南端の里と言う由来と伝わります☆
南北朝時代から続く領主・南里氏の館がありました♪

中世(鎌倉〜戦国時代)からその名前は見えていて佐賀郡・河副荘にあたり、肥前守・北条為時寄進状案に河副荘三分一方の『荒野壱所』の四至として『限西、南里前通潟、限北、南里土居』と残ります♪
鎌倉中期にこの南里南側は海岸縁辺に泥土の堆積する干潟だった様です☆

南里有家(源有家とも)は南里の小地頭だったのですが新田開発を行っていて田畑の耕作が出来る様に注力しました☆今でこそ有明海は南にありますが、往時の佐賀平野は海に覆われていた訳なのであります♪南里氏の様に先人達が新田開発を行った結果が今の地形になっていると言う訳ですね☆
本当に凄い事ですね♪
南里氏館は多聞院の南にある公民館(農村公園)の南西側にあったとされていて現在は田んぼになっています☆この多聞院は南里氏の菩提寺で本堂の北側には南里氏の墓石が残ります☆

2021年09月02日 龍馬備中守【】
石志氏屋敷[直鳥城  周辺城郭]



佐賀県の佐賀市にある【石志氏屋敷】☆
文永の役(蒙古襲来)により活躍した松浦党の石志氏の屋敷跡と伝わります☆
実際には蒙古恩賞地として与えられたと言う文献は調べたけど分からずしまいでした…
でも、確かに石志氏屋敷として集落内には伝わっています☆
佐賀平野中央部で角町集落内、新川の西岸に立地します☆江戸時代には佐賀藩の本領藩となっていて蓮池藩に接する場所です♪
多くの歴史は残っておらず詳細は不明ですが、南北朝時代に石志氏の屋敷があったと伝わります☆

江戸時代の佐賀城下の南東にあたり寺井津(現諸富町)に向かう街道に面していて幕府巡見使の巡回路でもありました☆
巡見録には石高682石余、人数290人、家数50軒余りと記録されています☆

昨日の山津環濠同様に、中世時代(龍造寺氏)の歴史は良く分かりませんでした…

集落内には西宮社が残り、周りを濠が囲います☆ただ去年2020年11月に西宮社は火災によって焼失…現在、土台のみ残っています☆
この西宮社は信濃国の武将・本田昭雲が保元・平治の乱時に亡命、肥前山口の里に仮寓中に摂津国の西宮を、この川副荘に勧誘したと伝わります♪初めは西の宮大明神と称された社は佐賀平野の五穀豊穣の神と信仰されました☆
江戸時代になると祭神のえびす様は商家の福の神、幸の神として厚い信仰が増し藩主・鍋島家の崇拝も受けています☆
現在も佐賀市内の町ごとに数百の石造りの、えびす像『えびすさん』が残っていて、何でこんなに『えびすさん』?不思議でしたw
恐らくこの西宮社から来るものなんでしょう♪理由が分かってスッキリ♪

2021年09月02日 龍馬備中守【】
山津環濠[直鳥城  周辺城郭]



佐賀県の佐賀市にある【山津環濠】♪集落内をクリークが縫う様に走ります☆

佐賀平野中央部の佐賀江川南岸に立地してます♪村名は佐賀郡の内になっていて江戸時代には佐賀本藩領になってます♪川副上郷の東端にありました☆
益田村(増田)・深町村・犬尾(村)を含み総称される事もある位に範囲は広めです♪
濠に囲まれた集落の中心に長安寺が残ります☆天草、島原の乱の直後には島原の折木名に移住した川副郷出身者6名の中に、この山津村の福島八郎左衛門尉の名前が残ります♪
何者かは分かりません…☆
明治に入ると佐賀の乱における激戦地となった場所でもあります☆

中世の歴史はあまり確認が取れませんでした…集落には弘生院という寺院も残っていて、創建は鎌倉時代で平家の落人、和田義胤がこの地に逃れて出家、弘生法師と名乗って、この寺院を創建したとして伝わってます☆戦国期の龍造寺家の村中城、水ヶ江城の南東側5キロの範囲に位置し小田氏が守った蓮池城からは南西側の3キロの範囲に位置してます☆絶対なにかがあった筈だとは思います…☆上から(色別標高図)で見た時の濠の廻し方は紛れもなく城館の匂いしかしません…が、一先ず分からずしまいw

2021年09月01日 龍馬備中守【】
下黒井環濠[直鳥城  周辺城郭]



佐賀県の神埼市にある【下黒井環濠】♪
北には上黒井環濠と隣接していて犬童川の東側に立地♪下黒井環濠に上黒井環濠は田んぼの真ん中、南北に2つの集落を形成します☆
弥生時代には有明海の海岸線に当たる場所で、この時代の東大貝塚、上黒井貝塚、東大石遺物包含地などが残ります♪条里制の名残からか十条などの地名も残ります♪

そんな下黒井環濠の歴史詳細は分かっていません☆下黒井環濠集落は南北約450m・東西150mの南北に長い環濠集落です☆集落内の浮島には『くどやしき』『ふどうやしき』『かもんやしき』等の屋敷地名に『中の小路』『北小路』『南小路』としこ名が残ってたり…周辺の水田は『六の坪』『七の坪』『十二坪』など条里地割のしこ名も伝わります♪集落内の中央には天満宮が祀られていて
観音像や地蔵様などの石造も見られます♪

2021年08月31日 龍馬備中守【】
下板屋敷[直鳥城  周辺城郭]



佐賀県の神埼市千代田町にある【下板屋敷】と名前を付けてます☆気になる事が幾つかあったので訪れてみました☆

筑後川の支流、田手川と馬場川が合流する場所に集落は存在しています☆北に倉戸城、倉戸環濠のある倉戸集落と接します☆
この下板は弥生時代に条里制が置かれていた様で『東一之坪〜東五之坪』『西一之坪〜西四之坪』とその地名を残します☆

歴史詳細等不明です☆中世にはその名前を発見する事が出来ませんでしたが集落は明らかに濠に囲まれていて、畠地、墓地や権現社も残ります☆
その周囲を集落の方々は『城東』『城南』『城西』とハッキリと地名も残してます♪
下板集落を歩いて見た印象は城郭では無く、城館だったんじゃないかな〜☆と言うのが率直です☆それは規模感☆決して大きくは無い☆濠幅も圃場整備が入っているので推測にはなりますが、そこまで大きな物では無いです☆ただしそれは立地からくるモノでは無いかとも考えられます☆田手川と馬場川の合流点の為に外濠はこの2つの川であり集落内はそこまで濠幅を広げる必要が無かったのかもしれません☆濠のクランク具合は、通常の城館と遜色なし♪色んな考えを張り巡らせた結果、豪族の居館跡だろうという結論に至りました☆

後日、図書館へいってみたら案の定、居館跡と推測されるとあった為…bingo♪
ってなった下板屋敷でしたw

2021年08月19日 龍馬備中守【】
高志環濠[直鳥城  周辺城郭]



佐賀県の神埼市にある【高志環濠】☆集落を守るかの様にクリーク(濠)が廻ります☆神埼のクリークは本当に良く残っています♪

南流する馬場川、田手川の西方に立地した高志集落♪
集落には高志神社が祀られています♪
高志神社は元々、コシノ宮と称していて、出雲国高志郷(ごしごう)の高志社より分霊して、この地を高志の里(こしのさと)と呼んでいた様で、いつの頃からか『たかじ』と呼んで集落名になったと神埼郡郷土誌には記されています☆

この高志神社は櫛田宮と並び手厚く保護を受けており、南北朝の動乱機には足利直冬(足利尊氏の落胤)が『櫛田宮』『高志宮領』に対する軍勢の乱入を禁じていて、更に高志大宮司の本告秀幸に天皇方勢力退治の祈禱を命じています♪

足利直冬は神埼庄内の高志、櫛田、更に崎村三社宮の管理と神宮職を大宮司・本告秀幸に任せました☆南北朝時代、肥前国に名前がよく出てくる本告氏は本告城を本拠地とした在地豪族です☆

そんな守られていた高志神社ですが戦国時代に大友宗麟の東肥前への侵攻の際に焼失したと伝わります☆
その後再建をはかり龍造寺政家は米十三石を高志大宮司に寄進していたり、江戸時代には佐賀鍋島本藩の保護を受けました♪

高志では能と狂言が盛んに行われていました♪これは佐賀県重要文化財指定の際に『高志狂言』と命名されましたが以前は『鷺流狂言』と呼ばれていました♪この高志には芸能集団がかつて存在し今も各家元様も残ります☆佐賀領において、新庄村(佐賀市)に『美麗』と呼ばれる能役者一門もいて『佐嘉繁昌記』には高志神社で奉納したという記録も残ってます☆

因みにこの高志神社からは貝塚も発見されていて、牡蠣、赤貝、土器片の層も発見されてます☆古くから人の気配があるものの、中世の歴史の多くは確認が出来なかったです☆

2021年08月18日 龍馬備中守【】
丙太田環濠[直鳥城  周辺城郭]



佐賀県の神埼市にある丙太田環濠♪佐賀平野、南流する城原川の左岸に立地してます☆個人的には城館だったのでは?とも思ってしまうほどにクリーク(濠)が綺麗に残ります☆

丙太田は江戸時代以前に蛭牟田村と呼ばれてまして旧大字嘉納の中心的な集落でした☆
環濠という名前にしていますが、個人的には城館だったのではないか?と思ってます☆豪族臭がプンプンしますw
理由は濠幅が大きい事☆20mの幅を持つ場所もあり、この濠幅は通常の集落には必要ありません☆何かから身を守る為に、また、乱世に突入した南北朝?戦国時代?に何らかの形で濠幅を拡げてると思ってます☆
北方にある大門城にも負けない位の素晴らしい濠を持っています☆
このエリアは少弐氏の家臣の実松信家が知行していた事は分かってます☆
北方の直線500mにある大門村・叶村を抑えた実松氏☆つまり、実松氏に関連する何か?ではないかと考えちゃいます☆

南北約400m・東西約200mの範囲☆大規模な濠に囲まれ大小の浮島で構成された環濠になっていて集落内の島や道路などには「はっちょん屋敷」「おっくん屋敷」「西小路」「南小路」「東小路」などの内部の構造を伺う事ができる地名(しこ名)が残っています☆

江戸時代には蓮池藩の8代目の藩主・鍋島直与は丙太田で捕獲された鯉を見に行ったと記録が残っていたりしますw
平和ですね☆
神埼の集落を調べれば調べる程、何か出て来ますね〜☆面白いです☆
丙太田に関しては、もう少し突っ込んで調べてみます♪

2021年08月16日 龍馬備中守【】
倉戸城[直鳥城  周辺城郭]



佐賀県の神埼市にある【倉戸城と倉戸環濠】☆田手川と馬場川の合流点の、中洲北側の平地部に城郭は存在しました☆倉戸城は遺構は一切無しで現在は田んぼになってしまっていて、倉戸環濠は、その東側に隣接します♪地域のおじいちゃんに倉戸城の場所は確認しました☆おじいちゃんが子供の頃は田んぼではなく森が存在していたそうでその森が倉戸城だった様です(現、田んぼ)☆鎌倉時代から倉戸郷として存在し蒙古合戦の恩賞地として肥後国(現熊本)大野田嶋十郎幸隆と、同じく肥後国の大野岩崎太郎なる者に倉戸郷内の田地が配分されています☆更にこの倉戸郷は託田の詫磨氏にも配分されていて、この三氏が領しています☆詫磨氏に関しては託田も配分されている為、中々の広範囲にわたる領地を獲得している事が分かります☆中世の鎌倉期から室町期の詫磨道覚譲状案に初見として名前が出てきます☆この詫磨状案には、たくたのかう(託田郷)と、くらとのかう(倉戸郷)とその名前が記されていて、かつて詫磨直秀が幕府より与えられた土地でした☆詫磨道覚は、これを嫡男の『たけくま丸』に譲っています☆また南北朝時代の建武2年に本告氏、田嶋氏、香田氏の三氏が倉戸郷内の土地の地頭職を持っていました☆戦国時代になると小田弾正弼鎮光は東肥前に勢力を張った西島の在地豪族・横武資誠に『取成可申御領地之事』として5ヶ所をあげ、その中の1ヶ所に倉戸の名前が出てきます☆更に豊後国・大友宗麟の勢力を防戦していた龍造寺隆信は対大友戦で戦死した犬塚長門守鎮直の子『百十丸』へ倉戸郷の内の曽我部ヶ里を安堵しました♪また大友宗麟は横武資誠の孫、横武中務大輔(横武鎮貞)に『倉戸郷百四拾町』を含む神埼郡内の土地を預けています☆龍造寺隆信に大友宗麟に共に同土地を与えているという事はカナリバチバチなやり合いがあったと想像出来ます☆因みに倉戸集落には荒堅目遺跡という遺跡があります♪有明海からの対外交流の歴史を物語る弥生時代の遺跡です☆この時代から対外交流です☆進んだ文化が入り込んでいた証拠ですね〜☆『櫛田大明神由緒記』には櫛田宮造営の木材を倉戸津へ船で運んだとあり、当地に「津」が置かれ有明海だったという事が分かります♪この荒堅目遺跡からの出土遺物には、木簡や帯金具・硯など役所施設などで多く見られる遺物や、緑釉陶器や墨書土器なども多数見つかっています☆凄いです☆

2021年08月15日 龍馬備中守【】
詫磨屋敷[直鳥城  周辺城郭]



佐賀県の神埼市にある【詫磨屋敷】☆現在は託西、託東と東西に長い環濠になっています☆古くは侘田とも記されています☆

筑後川の支流・田手川の西岸に立地します☆
地図を見た時から何かある…。としか思わなかった託田集落☆案の定、歴史が詰まってました♪古くから条里制が引かれたこの場所は、一之折から六之折と、条里制が行われたと思われる地名が残ります☆

中世の鎌倉期から室町期には託田郷として詫磨道覚譲状案に初見として名前が出てきます☆この詫磨状案には、たくたのかう(託田郷)と、くらとのかう(倉戸郷)のうち『てんち五丁、やしき八ヶ所、はくち二ヶ所』と記され豊後の詫磨直秀が幕府より与えられた土地であり屋敷、城館があったのでしょうね☆因みにこの、詫磨一族は同じく神崎荘内に詫磨直秀の弟の泰秀、一族の道秀が恩賞配分を受けていて、この地に生きました♪

更に足利直冬(足利尊氏の落胤)は松浦党の斑島氏に『神崎庄内内田久田村田地屋敷』を安堵していたりもします☆先に託田を安堵されていた詫磨氏も、その後も相続されている事から色んな勢力が動いていた事と共にこの託田に生きていた事、意外に地元豪族の勢力の関係はやっぱり、穏やか良好だったのでしょう☆

南北朝時代に入ると鎮西探題方の一色直氏は高志・櫛田社の本宮司・本告季幸に『託田郷の内、加治分伍町』の知行を安堵しています☆
また反鎮西探題勢力の足利直冬も同様に知行を認めていて、一色氏、足利氏共に地元勢力である本告氏を味方に付けたいという双方の動きが分かります☆徐々に雲行きが怪しくなっていく肥前国…☆戦国の乱世には在地豪族達の命運が分かれていきました☆

遺構としてはクリークが集落を巡ります☆
国道に面して若宮八幡神社があるのですが、この神社は鎌倉時代に建立されたと伝わります☆神社には肥前鳥居が残り市指定文化財になっています☆

2021年08月07日 龍馬備中守【】
前牟田城[直鳥城  周辺城郭]



佐賀県の上峰町にある【前牟田城】☆前牟田城は圃場整備によって消滅しています☆城跡は現在、田んぼが広がってます♪往時の面影は一切残っていません☆頭の中で妄想してましたw

筑後川の支流、切通川と井柳川に挟まれた平地に立地します☆前牟田集落の西側、屋敷の坪・大坪に前牟田城は存在しました☆
ただし、前牟田城の詳細は不明です☆鎌倉執権・北条氏の一族・越後孫四郎の館跡と伝えられています☆

前牟田城は圃場整備が行われる前までは環濠集落があって集落を濠が囲っていました☆その中に「城跡」や「ヤンボシ屋敷」と呼ばれる島が残されていました☆

水田の中に古いお墓が残っていて、いつ時代のお墓やろか〜?と疑問が残りました??

2021年08月06日 龍馬備中守【】
坊所城[直鳥城  周辺城郭]



佐賀県の上峰町にある【坊所城】☆佐賀平野の東部で、筑後川の支流、南流する切通川の右岸部の平坦地に位置します☆

樫寺遺跡、杉寺遺跡などなど古くからの集落や古墳が城域には残ります♪少し高まった場所にある為に、大昔から人の気配を感じる事が出来る場所です☆

鎌倉時代〜南北朝時代には坊所保として、その名前が出てきます☆鎌倉時代、代官賢親・和与状には『西良所保越後万寿殿知行分名々』、更に鎮西探題裁許状に『西坊所保』と出ています☆西坊所保は西良所と称していて、代官賢親が先例に背いて社役を辞めた為に、河上宮雑掌は鎮西探題の北条随時に訴え双方の和与状によって『西良所保越後万寿殿知行分』から弥福武名内乙藤里弐拾参坪壱町(宇牟多田)力武名内同里伍坪参段(字三段田)を河上社に引き渡す事で解決しています♪

南北朝時代にはこの坊所に大友貞載は家臣・後藤又次郎に守護代と共に御厨安を後藤氏に沙汰し据える事を命令しています☆

室町時代には、この坊所合戦が行われて『代官大豆屋掃部助討死之由』と残っていて合戦があった事を物語ります☆この戦は九州探題の渋川満頼が東肥前に勢力を伸ばしてきた赤星氏と会戦し敗北した時の話です☆

その後、渋川満直の時には綾部兵庫助に三根郡の5箇所を安堵するのですが、その一つが、この坊所になります☆

この坊所の南西部に環濠平城の坊所城があって、坊所氏の館があったと今に伝わります☆

佐賀平野の中でも少しだけ高台に位置する坊所☆広がる平野の面積が広いだけに、少し高台には何かがある♪そんな坊所城の口コミでした☆城内には土塁、クリークが残ります☆

2021年08月05日 龍馬備中守【】
境原環濠[直鳥城  周辺城郭]



佐賀県の神埼市にある【境原環濠】(さかいばる)☆古くは堺原とも記されました☆

東西を犬童川と流浪川の両川に挟まれた平地に立地☆地名は佐賀と神埼の境にある原野に由来します♪

古く大昔は有明海があって弥生時代に自然陸化したと考えられていて、古代には条里が置かれ一ノ坪、二ノ坪、三ノ坪、五ノ坪という地名が残ります☆中世は不明ではありますが近隣の姉に大友宗麟軍が陣所を構え(姉陣所)肥前国の龍造寺隆信を攻めました☆

江戸時代には佐賀本藩領に属していて境原宿がありました☆この境原宿は長崎街道の佐賀城下と神埼宿の中間に位置し、街道を多くの人馬が行き来しました☆
更に蓮池城より蒲田津に至る蓮池往還があって下西村を経由して姉川に向かう上佐賀道の分岐点になっていたりと交通の要衝地でもありました♪周囲は下直鳥、川崎、東野ヶ里、下西、上西、更には蓮池藩領との境界になる為、多くの紛争が起こっています☆
明治に入ると佐賀の乱、境原戦では商家が全焼するなどの被害に見舞われています☆

そんな境原環濠は現在も濠が集落を守っています☆

2021年08月04日 龍馬備中守【】
犬童屋敷[直鳥城  周辺城郭]



佐賀県の神埼市にある犬童屋敷☆現在は上犬童、下犬童と地名を残します☆犬童川の西方に集落は存在します☆境原の北西側に接します☆

『歴代鎮西誌』では戦国時代に豊後国・大友宗麟が肥前侵攻の際に『東は巨勢野、神埼郡西端の犬童林、北は城原』と記しています♪

伝承によると、犬童丸という豪族が居住していた様で、現在も犬童という地名が残ります☆調べても名前が出てこないので【犬童屋敷】という名前を付けました☆

今でこそ、宅地、道になってしまっている箇所が多く正確な場所等は分かりませんが南北に縦長に広がる集落内を濠が巡ります☆

また、大友宗麟が記した『犬童林』☆
伝えでは、『北方に姉川城があり』と出ているので、何となくの場所は判っています☆
が、往時とは景観が大きく変わっていて、現在は宅地、国道34号線上が、その場所だったのでしょう☆この犬童林は竹、老樹などが広がっていた様で、野鳥獣も多く住んでいた様で江戸時代には佐賀藩主の狩場にもなっていた場所です☆

2021年08月02日 龍馬備中守【】
米多城[直鳥城  周辺城郭]



佐賀県の上峰町にある米多城☆クリーク(濠)を巡らせた平城になっています♪
古くは鎌倉時代より『米多荘』として名前が出てきていて三根郡の内の1つになっています☆この米多荘の中心部は安楽寺周辺と思われ、鎌倉中期に書かれたとされている天満宮安楽寺草創日記には米多荘の名前が出てきています☆安楽寺少別当法眼信朝所職屋敷等注進状にも、『一、米多御庄 政所職』と出ていて、屋敷と言う文字が出てきます☆
時代が進み南北朝時代にも『米多庄』として記されています♪

戦国時代に突入すると、肥前国の雄、龍造寺隆信は東肥前の経略の為に姉川の姉川信安を、この米多に移しています☆
『北肥戦誌』には櫛田宮の由来附執行本告(本告氏)の事の条に『姉川中務大輔信安を、姉川より米多に移し、横武が知行の内を米多村にて百町押取り、信安に給はり』と三根郡・養父の両郡の守りにしたと記されています♪築城年、廃城年、共に不明ですが鎌倉時代〜室町時代頃迄は荘園として機能したと思われますが戦絶えない戦国期には城館として造り込まれたのでしょう☆

因みに江戸時代には佐賀本藩領に属しました♪

聞法寺、円城寺周辺が城館の中心地と思われます♪

2021年08月01日 龍馬備中守【】
山領氏館[直鳥城  周辺城郭]



佐賀県の佐賀市にある【山領氏館】♪佐賀平野の南東部で佐賀江川の支流の新川の東部に位置します☆
山領の枝村としては西に福田、南東に小杭などがあり、同村に接します☆

中世の山領の村域には垣内氏が代々、居住しました♪この垣内氏は藤原孫六郎太郎広元が光法という別郷に郭を構えて、その周囲を囲んだ事から垣内氏と称しました♪
のちに垣内氏は山領村を領しながら、枝村の福田に居館を構えています☆
垣内氏は元々、少弐氏に仕えましたが、その後は龍造寺隆信の家臣になりました☆

そして館の名前通りに山領館は龍造寺氏の家臣・山領氏の館とも伝わります☆この山領氏は古くは龍造寺康家、胤家の時代から佐賀地方にいた太田氏、光増氏、石井氏、南里氏と手を結び、戦国乱世を生き抜いていきました☆

2021年07月29日 龍馬備中守【】
伝・蒙古屋敷[直鳥城  周辺城郭]



佐賀県の神埼市にある【伝・蒙古屋敷】♪伝・蒙古屋敷のある東尾崎☆日の隈山の南西部に位置します☆中世の神崎庄の北西端にありました♪
『九州治乱記』には尾崎村と名が残ります☆

この地の名産に尾崎焼きがあって、尾崎焼きは元寇の際の捕虜が伝授したものと伝わります☆弘安の役(蒙古襲来)の際に、この捕虜が居住したと伝わる場所が蒙古屋敷と呼ばれました☆
尾崎焼きの他には、瓦や火鉢、鉢物類、人形や玩具などの焼き物をこの地で作りました♪
また伊予の御家人・河野通有が神崎荘内に恩賞を得ていて河野氏に関係する屋敷跡とも推測されています♪どちらの屋敷跡か?は分かっていませんが、看板には伝・蒙古屋敷で描かれています☆

戦国時代には太閤・豊臣秀吉が名護屋に向かう際に大和町の尼寺を通りかかると、鍋島直茂の義母、慶誾尼の命により握り飯を土器(尾崎焼き)にのっけて提供したと伝わっています☆この土器(尾崎焼き)が豊臣秀吉から賞賛を受けて、制作者である家永彦三郎は土器師の朱印状を授与されその子孫がこの地で先住者の跡を継いだといいます☆
江戸時代には佐賀藩から幕府に贈る月次献上品の中に『十二月には神埼郡尾崎産土器』と残っています☆
蒙古屋敷は神埼町尾崎にある光明寺の南側一帯に築かれていたと伝わります☆
集落にはやっぱりクリークが残ります♪

2021年07月27日 龍馬備中守【】
台場屋敷[直鳥城  周辺城郭]



佐賀県の神埼市にある【肥前・御台場屋敷またの名を岩田台場】と呼びます☆

江戸時代には、この地には佐賀藩運営の岩田台場と称される射爆場がありました☆石火矢頭留書には台場の築城は1688年〜1704年にかけて造られていて、佐賀藩の4代藩主・鍋島吉茂と10代藩主・鍋島直正の時代にもっとも多く使用されました☆長崎の御番を命じられた佐賀藩は武器の改良進化を図る事を要求されていて、ココに台場を築き日の隈山を的場として大筒の射撃訓練をしています☆この地に築かれたのは日の隈山が佐賀藩の御狩場になっていた事が理由の様です☆因みに日の隈山は戦国時代には火の隈山と呼ばれていて勢福寺城の狼煙場になっていた場所でもあります☆時は進み日の隈山に名前が変わっています☆江戸末期に10代藩主・鍋島直正の命により武雄の鍋島十左衛門が砲術を披露したと記録が残っています☆台場屋敷のある唐香原には砲や火薬庫、役宅、番宅が建てられ御台場屋敷と名前が変化しています☆幕末期に入ると台場の使用は減っていきます☆射程距離が伸びる武器に弾丸の威力の増加、火術の上達などの理由から諸富の三重津(三重津海軍所)へ移行していきます♪この三重津海軍所は明治日本の産業革命遺産として世界遺産に認定されています☆日本でいう幕末期にイギリスが開発した最新の大砲♪アームストロング砲♪往時の最新技術を駆使した、この大筒を佐賀藩は既に持っていて、更にこの御台場屋敷にて既に使用していました☆更に黒船が来航した江戸湾☆江戸幕府は大慌てでアメリカとの交渉を重ねました☆これを機に江戸湾の防衛強化が課題になり幕府は品川への砲台建設を急ぎ決定しました☆この時に幕府は品川台場の備砲として佐賀藩に鉄製大砲200門の製造を打診し、佐賀藩は50門の製造を受注♪多布施公儀石火矢鋳立所で大砲の鋳造をおこないました☆完成した大砲は運送中に沈没した8門をのぞき、品川台場に設置されています☆
そうなんです☆実は大砲を造るには鉄☆鉄を造る反射炉は佐賀藩が1番最初に造営してるんです☆凄くないですか?これは、火を扱う事に関して長けていた証で、有田焼、伊万里焼などの技術が進んでいた結果なんじゃ無いかな〜?って思ってます☆幕末期に名を馳せた佐賀藩☆やっぱり凄い大藩です☆
御台場屋敷の南側には軍事訓練を指揮した原家と原就本のお墓が残ります☆

2021年07月27日 龍馬備中守【】
長者原城[直鳥城  周辺城郭]



佐賀県の神埼郡の吉野ヶ里町にある【長者原城】♪現在は道路整備や宅地開発により遺構は消失してしまっています☆

脊振山地から南に伸びた低丘陵地に、かつて城郭は存在しました☆別名を竹原城(タケバル)と呼びます☆九州は原をバルと独特な呼び方があって今回の長者原城も(チョウジャバル)と呼びます☆

少弐氏家臣の執行氏の城郭になってます☆
この執行氏ですが、大伴安麻呂九世少納言兼直が鳥羽天皇の時代に神埼庄の櫛田宮の勅使として下向し土着しました☆
後に兼直の曾孫・兼貞が仁比山の日吉神社の宮司に命じられた時に長者原に居を構えました☆この時に名前を『執行』と称しました☆執行氏は後に城原(ジョウバル)の勢福寺城主・江上尚種に属します、が、周防の大内軍、蓮池城の小田政光、の攻撃を受け、更に神代勝利の攻撃を受けてしまい、落城してしまいました☆

2021年07月27日 龍馬備中守【】
鳥ノ隈城[直鳥城  周辺城郭]



佐賀県の神埼郡の吉野ヶ里町にある【鳥ノ隈城塞】♪
吉野ヶ里遺跡の東側・500mの地点に城郭は存在しました☆脊振山地から南に伸びた台地上の南西側に位置します☆西側に田手川が流れます☆周辺は北に横田、南に吉田と接します☆

詳細は一切不明な城郭ですが、この辺りは勢福寺城、長者原城、日吉城を中心に領した少弐氏の家臣・江上氏の領域になっています☆もしかしたら、この、江上氏の城郭なのでは無いか?と疑問が出てきました☆城郭の位置関係を見ると勢福寺城の南東側の守りの城塞だったのでは無いか?
もう少し突っ込んで調べてみます☆
城郭の位置関係のマップを作成してみました☆

このエリアは周防の大内軍が攻め、豊後の大友軍に肥前の龍造寺軍が攻め度々戦火に巻き込まれました☆

現在、城郭には鳥ノ隈天満宮が祀られていて削平地が残ります☆この鳥ノ隈城塞の北側には東西に走る古代の官道が残り、これを堀として転用していた様です☆
古代の時代から佐賀平野の少し高まった台地は貴重な存在でヤハリ古くからも活用され、その形を今に残してます☆

江戸時代には鳥ノ隈村という集落に発展しました☆またの名を殿熊村とも呼ばれました♪この鳥ノ隈村は小山平五左衛門が知行しています☆小山家は佐賀本藩、鍋島勝茂の時に蔵入地の代官を勤めています☆

2021年07月25日 龍馬備中守【】
松枝環濠集落[直鳥城  周辺城郭]



佐賀県の三養基郡にある【松枝環濠】☆此方も地名に城館の名残を残します☆
南流する筑後川の中流、右岸の低平地に立地しています☆東側に切通川、西側に井柳川2つの川は合流して筑後川へ流れます☆立地良いですね〜☆作った写真の位置関係は治水地図を使いました☆現在はは護岸工事で川の流れは変わってますが、古くは松枝環濠は切通川に接しました☆

松枝は鎌倉時代から出てくる村名になっています☆初見は、肥前国留守所下文案、河上神社文書で留守所は河上宮五八月両会流鏑馬を勤行するように各郡司に求めますが、その際に三根郡の中に『松枝』と出てきます☆
その他に室町時代の文書に、九州探題の渋川満直は綾部の土着豪族・綾部満幸に三根郡内の5カ所の所領を安堵するのですが、その一つに『松枝』の集落名が出てきます☆

現集落内は宅地の間を縫う様に濠が走ります☆長泉寺の南西一帯を「館ノ内」と呼び、この辺りを中心にして環濠集落は発達しました☆松枝の地は江戸時代には佐賀本藩領になりました☆

因みに経塚と呼ばれる貝塚があり弥生時代の中期、後期に有明海の海岸線はこの辺りにありました♪古くから人の気配がある訳です☆

2021年07月25日 龍馬備中守【】
西島城[直鳥城  周辺城郭]



佐賀県の三養基郡にある【西島城】☆佐賀平野の平坦地に築かれた平城になります♪

少弐一族である横武鎮貞が戦国時代に築いたと伝わり周囲にクリーク(濠)を張り巡らせます♪

『北肥戦誌』には「欺かりし程に隆信(龍造寺)広門(筑紫)と軍争に及ばず、養父の陣を払って三根郡に打入られ、横武中務大輔鎮貞が西島の城をせめられしかども、利あらずして、先手の龍造寺上総介家晴、同名越前守家就・同名伊賀守家直以下引退く」と出ていて一時、その攻撃を退けますが、後に落城し廃城になります☆

集落の北側に西乃宮八幡宮神社が残ります♪この神社は平安末期の保元の乱後に創建したと伝わります☆この神社は西島城の北側で城域範囲♪佐賀平野東部、筑後川沿いで、切通川を天然の濠にしている♪そんな立地になっていて、中世期には大宰・少弐資之の子・資頼の孫・横武孫次郎房頼が鎮守となって社勢を盛んにしました☆

この地は龍造寺氏と少弐氏の接線地区になっていて、横武鎮貞が龍造寺隆信に降ってからは往時の面影を変え三根郷の宗社として崇敬されました☆

2021年07月25日 龍馬備中守【】
江迎城[直鳥城  周辺城郭]



佐賀県の三養基郡にある【江迎城】♪佐賀平野の東部の筑後川の支流で、南流する切通川右岸に位置します☆今でこそ住宅地の中に溶け込んでいる為に往時の縄張りは何処までが城域だったのか?分かりません♪が、幾つかの浮島の中からは掘建柱建物の跡や白磁皿や蓮弁文青磁碗などが出てきていて相当身分の高い武将の居館だったということが分かってます☆

江迎の同地内には加茂環濠集落、一本柳、一本松、一の橋環濠集落があるのですが、集落内を縫う様にクリーク(濠)は点在していて明らかに、その集落部分を守っています☆
この、一本柳の集落を利用して、造られたのが江迎城になります☆

江迎城は城主等の伝承は無くて、不明な点が多いです☆南西にあった一の橋環濠集落、八枚の北東に隣接し、主要部分と思われる場所は現在は公園になっています☆発掘調査で鎌倉時代後半期の遺物や掘立柱建物跡を検出していて在地領主の城館として確認されています☆

江戸時代・佐賀藩初代藩主・鍋島勝茂判物に『江向之内』として出てきていて、宮部善右衛門、小山平五左衛門に知行地として与えられています☆

この江迎には大堀、添目堀、鎌夫東堀、鎌夫西堀、畑田堀、ダッチウ堀、菱堀、大戸堀、狐地堀、庄原堀と呼ばれるクリークを一部それぞれ残します♪

2021年07月24日 龍馬備中守【】
大島館[直鳥城  周辺城郭]



佐賀県の神埼市にある【大島館】上空の地図から見ても、その城館具合は一目で分かります☆

歴史詳細は一切不明となります☆
江戸時代には村名として大島村として出てきますが、平安、鎌倉と室町、戦国とヤハリ確認が取れません☆
が、クリークは明らかに大島集落を守っている為、何かあった〜と考えるのが自然な流れですね☆
東側には井柳川、江見川が合流する場所で筑後川の下流、右岸の平野に立地します☆川を防衛ラインとして利用した城館集落です☆
円通寺一帯が環濠になっていて現在も人々の生活が残ります☆
円通寺の南東側の少し離れた場所に「大屋敷」「館の裏」の地名が残ってます♪
地名が残るという事はやはり領主、在地豪族等がいたのでしょうね☆

この円通寺は江戸時代に文徹が開基し同江戸時代に晃山が中興したと伝わります☆
因みに大島集落は佐賀本藩領でありました☆

2021年07月23日 龍馬備中守【】
柳島城[直鳥城  周辺城郭]



佐賀県の神埼市にある【柳島城】☆柳島集落には現在も人々が住んでいます☆

鯰江と呼ばれた、この場所は筑後川の下流の右岸部に位置します☆弥生時代には有明海の入江に点在する1つであったと推測されていて、柳の木が多い島だったという事から地名は来ています☆

中世期の鎌倉時代〜南北朝時代から名前は出てきていて神崎荘の1つになっています☆
この『柳島』という文字は脊振山僧団の一僧侶だった成賢の申状案に初見します☆
この修学院文書によると柳島村の地頭職は元々、智妙房賢秀の私領であったのを弟子の、この成賢が譲り受けました☆ところが、僧・覚秀なるものに、押領されたので、成賢は博多の鎮西探題に上訴して、覚秀に非を認めさせて避状を出させています☆
脊振山の長老16名はこの、成賢の申状を認め、後証として、連署署判を残しました☆
その後は、南北朝時代の内乱期に一時、脊振僧団の管理の手を離れた時期があった様で、隼人正某奉書により『神崎庄内柳嶋田畠半分』を返付されています、と残ってます☆
柳島地内には柳島古城と称されている地があって、『小森権之助という者の古城』と残っています☆この小森権之助とは何者なのか?分かりません☆在地豪族といった所でしょうかね〜☆神埼郡村誌には、小森権之助の墓は字九本柳の林薮にあると伝わってます☆柳島城は柳島公民館・乙護神社の北東に墓地になっている場所があって『野屋敷』と呼ばれてます☆この辺りも城館としての名前が残っていて古い五輪塔が残ります☆この古い五輪塔は南北朝時代のモノと伝わっていて、城主・小森氏のものではないか?と思われます☆つまり神埼郡村誌に伝わる字九本柳の場所か?

そんな柳島城の話でした☆

2021年07月20日 龍馬備中守【】
崎村城[直鳥城  周辺城郭]



佐賀県の神埼市にある【崎村城】意外に広い崎村集落は筑後川とその支流の田手川が合流する場所に立地します☆往古有明海に面した地先に位置していた事から崎村という地名になりました☆中世の平安時代〜鎌倉時代に既に崎村は存在していて神埼郡の1つの村として歴史を刻みました☆櫛田社大宮司職補任状案に『崎村若宮 末社小社』と残ります☆鎌倉時代には詫磨道秀譲状に『肥前国神崎庄内崎村郷内江口南里…』とヤハリ崎村出て来てます☆条里(古代から中世にかけての土地区画制度)の遺構は後々まで残っていて、現在も神埼、崎村付近には条里地割りが沢山分布します☆更にこの地は蒙古合戦勲功賞として、大村太郎家直に加封されました☆
さて崎村城です♪崎村城は田手川の左岸に築かれた平城です☆古城と呼ばれていたその場所の今は河川の改修工事でその遺構は消滅しています☆ですが、濠の名残は残します☆
戦国時代に犬塚家貞が築城しました☆
犬塚家は南北朝時代に宇都宮家貞が征西将軍懐良親王に供奉して九州入り☆筑後国の三潴の犬塚郷に土着して犬塚姓を名乗りました☆
その曽孫の刑部家貞が犬塚一族を率いて崎村へ移りました☆長男の犬塚家直が崎村城の城主に(東犬塚)☆次男の犬塚家重が蒲田江城の城主に(西犬塚)三男の犬塚家種は補佐で蒲田江城に入り、四男の犬塚家久は直鳥城の城主に(直鳥犬塚)五男の犬塚家喜は古賀館主にそれぞれ入りました☆平和だなぁ〜?と思いきや、北肥戦誌には『豊後衆来陣の半ば、去る三月下旬、神埼郡蒲田江の城主・犬塚民部大輔尚重と同じく崎村の城主・犬塚長門守鎮直と害心を挟みて切死しけり。此両人、先祖は下筑後の住人にて、蒲池・大木の一族、当時東肥前の内にして頗る大身の者なり。さればその刺違へし意趣を聞くに、尚重は龍造寺の壻なれども、今度大友に一味し、鎮直はさしたる縁はなけれども、龍造寺に一味す。斯かりし故に、両人従弟ながら、敵味方と分れて、已に討ち果さむとぞ思立ちける』と残っていて、大友宗麟が龍造寺隆信を攻撃した際に崎村城主の犬塚鎮直は龍造寺方に☆蒲田江城主の犬塚家重は大友方に、それぞれが味方し相争い、いずれも城主が戦死しています☆龍造寺隆信は犬塚鎮直の忠死を悲しみ、その遺子の犬塚家広に黒津野300町を与えました☆犬塚家広はその後、三根中津隈に300町を移封されていて龍造寺家の家臣に☆
因みに明治の遺産・埼水門が残ります♪

2021年07月11日 龍馬備中守【】
大門城[直鳥城  周辺城郭]



佐賀県神埼市にある【大門城】浮島が10に及ぶクリーク城館です♪歴史詳細は不明☆少弐氏の家臣の実松信家が大門村・叶村を知行していたという事は残っています♪ここは古くは『大間』と記されていましたが江戸末期より『大門』と表記されています☆以前口コミした莞牟田環濠の『莞牟田合戦』で少し触れました☆『莞牟田合戦』とは龍造寺隆信VS少弐冬尚の戦いで最後は龍造寺隆信が勢福寺城で少弐冬尚を自害に追い込みます…。その前哨戦が『莞牟田合戦』です☆姉川城を本陣に籠る龍造寺隆信♪直ぐ南東方で蓮池城主の小田政光と本告牟田城主の本告頼景が龍造寺軍として戦います☆対して神代勝利、江上勢に城原衆は少弐方として東側に陣を構え龍造寺軍と激戦を繰り広げました☆更に龍造寺軍には神埼南部一帯を治める直鳥城主の犬塚氏が南方に位置する直鳥城から1500余騎を引き連れ出陣☆神埼口で、少弐勢2000余騎と激突しています☆以前の莞牟田環濠では、この付近で犬塚氏VS少弐勢がぶつかったと少し触れました☆
戦場の正確な位置は分かってません…この神埼口、神埼大手門と記されていることがあり、大手門とは即ち大門城、集落への入口と思いました☆この犬塚氏VS少弐勢の争った『莞牟田合戦』の局地戦である神埼口の戦いの場所は何処だったのか?個人的には城原川を挟み対峙したんじゃ無いか?と思っていて城原川の左岸には犬塚氏の直鳥城☆右岸には少弐勢の大門城☆大門城の集落は少弐家臣の実松氏の地です☆つまり…少弐勢はこの大門城を拠点に戦った可能性が大いにあり得るなぁ〜と考えます☆神埼大手門=大門城の事では無いか?大門集落の周りは現在は田んぼしかない状況で野戦を行うには余りにも無防備です☆籠る場所、戦う場所は必要な訳です☆犬塚氏は直鳥城から北方に向け出陣し莞牟田を目指すも少弐勢が阻む…。直鳥城の北方には大石環濠があり、ここ城館的な要素を持っています☆犬塚氏は直鳥城、大石環濠を拠点としたと考えます☆城原川の左岸に犬塚氏の『直鳥城』『大石環濠』があり、右岸に少弐勢が籠り拠点としたかもしれない、この『大門城』と少し南に『丙太田環濠』(此処も堀幅広くて城館色が強い)があります☆布陣図と争った場所は正にこの辺りなんじゃ無いかな〜?と思います☆結果この局地戦は少弐勢が勝利し犬塚氏は撤退を余儀なくされてしまいました☆マップ作って載せときますので見て見て下さい♪

2021年07月10日 龍馬備中守【】
下田城館[直鳥城  周辺城郭]



福岡県の久留米市にある【下田城館】☆
寛政三年(1462年)下田村を領した堤貞正入道妙光が、現在の下田天満宮を中心とした地域に南北八十間・東西六十間の城館を構えたと伝わります☆

大友義鎮が筑後に出兵して高良山に陣を構えましたが、堤筑前守貞元は龍造寺氏に属して大友氏に対抗して戦いました☆

城郭は筑後川の右岸に位置し西に切通川、東に開平江川、更には南東側には筑紫川の支流の広川が合流してくる抜群の立地に位置していて川を天然の堀として守られています☆
古くはこの下田城館の南側に下田の渡し(舟で往来)があった場所で筑後から肥前へ入るルートにもなっていた場所です☆
ただし川に挟まれ低地の為に度々、水害に悩まされた様です…。

地域で仲良くなったお爺ちゃんが下田天満宮に古くから奉納されている木彫りの神様を見せてくれました☆時代感は分かりませんが、中々鬼気迫るお顔をした木彫りの神様はいつからあったんだろう??
戦や、どうしようも無い戦況に巻き込まれた時、人はやっぱり神頼み☆木彫りで神様を作り祈る…どうか村をお守り下さいって☆
そんな人間らしさが垣間見える☆
そんな風に思えてなりませんでした☆
時代背景ってあって厳しい時代に作られた神仏の石仏、木彫りだったりの神様の表情は険しく、平和な時代背景の中の神様はどこか微笑ましい☆癖や特徴が出やすいものです☆

かなり劣化が進む木彫りの神様☆
きっと古い時代に作られたんだろうな〜♪

2021年07月10日 龍馬備中守【】
猪面屋敷[直鳥城  周辺城郭]



佐賀県の神埼市にある【猪面屋敷】☆『いのおもて』『いのめん』と呼びます♪

屋敷と残っている為にコレは…と思い行ってみました☆

神埼宿の西北、城原川の西岸に位置していて土手下に広がる集落が「猪面屋敷」です☆猪面は『忌部』の転訛で櫛田宮の祭祀に関係して定着した様です☆


江戸時代には川久保神代家の鍋島弾馬の地米高が最も多く米を佐賀藩に献上しました☆米が豊富に取れた集落を往時は特別に「屋敷村」と呼んでいた様です☆その名残が、この集落の名前の由来になっています♪なるほど〜と勉強になりました♪

2021年06月22日 龍馬備中守【】
大石環濠・実松氏館[直鳥城  周辺城郭]



佐賀県の神埼市にある【大石環濠・実松氏館】♪光円寺一帯にクリークが広がります☆

大石環濠集落は城郭といっても良い位にまとまった形状をしている環濠集落です♪

集落内には弥生時代の貝塚(大石貝塚)も確認されていて古くから人が居住していた事が分かります☆
大小の浮島と濠で構成されていてそのままの形を良好に残しています☆

歴史詳細は不明ですが少弐氏に属した実松氏の館跡があったと伝わっていて、実松氏の後裔は大石に名前を変えて小城藩に仕えました♪
集落内には享保11年・実松右近太夫信恒の開基と伝わる光円寺や天満宮・大石権現が祀られています☆
また江戸時代には集落の中央を東西に通る道路上の濠に架かる「両国橋」を境に西は蓮池藩領・東は佐賀藩本領に分離されていました☆昭和に入り西大石、東大石は統合され現在の大石集落になっています☆

2021年06月21日 龍馬備中守【】
上黒井環濠[直鳥城  周辺城郭]



佐賀県の神埼市にある【上黒井環濠】クリーク(濠)の城館にすっかり魅せられてます…☆☆☆
佐賀平野東部・神埼地区を中心に独特の縄張りを持つ環濠集落は古くは弥生時代から発生し中世には城館として、更には現代も人々が暮らしているという独特かつ特徴的な物を持っています♪
天下泰平の時代には生活、農業生産の為の用水として活躍して人々の生活を支えました☆
戦絶えない戦国動乱期の中でのクリーク(濠)は人々の命を守るものとして、ここ神埼には多くのクリーク(濠)が今も残されています♪

この上黒井環濠は犬童川の東方に立地していて南方には下黒井環濠に接します☆
集落内には菅原道真を祀る天満宮が残ります☆更に集落の東端には熊野神社も祀られていて集落の方々が代々守っています☆

さて…歴史詳細は不明です☆
集落北部には屋敷地が推定される長方形の島が見られます☆誰がいたんでしょうね??
地元では『屋敷』と呼ばれる浮島が残ります☆西端部の集落への入り口付近の堀に『鎌倉橋』と呼ばれる橋が架かっていた様です☆
現在は新しく橋がかけられてます☆

周辺の環濠集落と比較すると少し大きめな浮島で構成されていて『屋敷』『鎌倉』等の地名が残されてます☆

この集落は朝鮮系無文土器などが出土していて弥生時代の遺跡である上黒井遺跡が確認されてます☆古くから人々の生活を感じる事が出来ます☆

2021年06月18日 龍馬備中守【】
下渕環濠[直鳥城  周辺城郭]



佐賀県の佐賀市にある【下渕環濠】♪鎌倉時代から南北朝時代にかけて『淵里』または『淵村』の記録が見られます☆東は巨瀬川を挟み野中、若宮、西に市ノ江で濠に囲まれた集落が残ります☆
集落内にある日蓮宗の渕川妙常寺は濠に囲まれた広い寺域を持ちます☆小城郡に勢力を伸ばした千葉胤繁が建立したと伝わります☆

隣接していた本照寺が廃寺になるとコレも併せて佐賀藩内日蓮宗十二ヶ寺の一つと称されました☆

幕末期の庄屋は古賀忠助となっていて年貢徴収の責任者として農村支配の末端機関の役割を果たしました☆

村内には『少屋敷、千足、蔵元、南上ヶ、春日地』の地名を残してます☆
この集落の東側にはひょうたん島が残ります☆
春には菜の花が♪夏には向日葵が咲き誇ります♪このひょうたん島ですが下渕環濠を守る様に南北に島を造り込んでいます☆
馬洗という場所を残していたりと江戸時代には農業用として使われていた名残を残します☆個人的には下渕環濠、更には北方の渕川城を守る防衛ライン、外堀だったんじゃないか??と見ています☆

2021年05月28日 龍馬備中守【】
本告牟田城[直鳥城  周辺城郭]



佐賀県の神埼市にある【本告牟田城】♪この集落もクリークを駆使した城郭になります☆
神埼の中心やや南側に立地していて城原川の西岸の平地に城郭は存在しました♪

本告牟田城は中世以降の文献に多数その名が出てきます☆この地を本拠地にしたのが神埼庄の別当職などを勤めた豪族・本告氏になります☆集落・城内には『館の内』『どん屋敷』と言う地名が残り『旦那さん堀』と呼ばれるクリークが残ります☆

本告牟田集落の南の長崎街道の西端に江上武種の墓があり石の塚が4、5基残ります☆
龍造寺隆信に付いたり付かなかったりした江上武種ですが、和議が成立した後は服従を誓い龍造寺隆信の次男・龍造寺家種を養子に迎えて自らは日吉城に隠居しました(吉野ヶ里遺跡内の城郭)☆

他に本告牟田集落には『のぶたん祇園』と呼ばれる小社があるんですが、かつて当地に江上武種の弟・沢信種なる武士がいました☆
この沢信種なる人物はカナリのキレ者だった様で、龍造寺隆信は将来が恐ろしくなり闇討ちしたと伝わります☆沢信種(のぶたね)の愛称がナマリ、のぶたんとなったようです♪中々チャーミングな愛称ですねw
沢信種は長者林の合戦で討ち死にしたとも伝わります☆闇討ち?長者林の合戦?どっちなんでしょうか〜?分かりませんw

佐賀平野の各集落には必ずといっていい位にクリークが残っていて歴史が残っています☆
遺構が判りにくくても良い☆そこに歴史が在るならば♪名残と地名から歩いて探し見て妄想してます☆

2021年05月28日 龍馬備中守【】
姉本村環濠[直鳥城  周辺城郭]



佐賀県の神埼市にある【姉本村環濠】☆

姉集落は古くからその名前が出て来ていて阿禰(あね)とも記されています☆筑後川の支流の城原川の西岸の平地で直鳥城の直線600m位の場所にクリークを形成しています☆カナリ古い時期から開けた地域と考えられていて付近には弥生時代の貝塚遺跡も存在しています☆中世期に阿禰の名前で出てきていて神崎荘の中の一部です☆櫛田神社大宮司管轄の若宮があった地と伝わり「観音屋敷」と呼ばれる区間には土塁が残っている様です(未確認)

江戸時代には佐賀本領藩の西郷に属しています♪江戸期には長崎街道沿いに南北に開けた土地で、矢白橋にて長崎街道より南へ久留米道が分岐して直鳥村に繋がります☆

佐賀の乱(幕末期に江藤新平、島義勇を大将として明治政府に対し士族が起こした反乱)の極地戦の境原の戦い時にはココ姉村、直鳥付近は激戦地になっていて往時の戦況を、『午前六時出発。第十大隊並砲隊ハ本道ヲ姉村ニ進ミ候処、賊要地並深林ニ寄リ発砲…第十大隊大十九大隊ノ一小隊ハ間道蓮之池ニ突入姉村ニ出、第十大隊ト合併シ奮戦追撃、賊溝凹に拠リ狙撃シ…午後九時頃迄之難戦、賊終ニ去ル』と激戦ぶりを記したものが残ります☆

歴史深い姉本村環濠でした☆

2021年05月28日 龍馬備中守【】
余江環濠[直鳥城  周辺城郭]



佐賀県の神埼市にある【余江環濠】クリークの城郭が続きます☆余江集落をクリークがグルリと二重に、三重に巻き込みます☆

クリークは本当に独特な造り方、縄張りをしています☆全国にあまり類の無い城郭、館跡だなぁ〜と感じます☆過去に行った奈良県の若槻環濠や今井環濠、稗田環濠なども良くってクリークの城って面白いな〜ってずっ〜と思っていました☆
が、佐賀平野のクリークは更にその上をいく数、良く留めている原型に驚く事ばかりです♪
この余江は『あまりえ』『あまいえ』とも呼びます☆筑後川の支流である城原川の右岸部の平地に立地して中央に犬童川が南流する場所にあります☆地名の由来は昔々に有明海が深く入江を形作っていた事にちなみます☆

大きな歴史詳細は不明です…が、香椎神社の南東側に「たっどん(館殿)さん」と呼ばれる区画が残っていて領主の館跡ではないかと考えられています☆
江戸時代には蓮池藩領になり北は直鳥村、東に柴尾村と接しました☆村内には長崎街道が走り蓮池往還が分岐する要衝地となっていきます☆蓮池藩の煙硝庫がココに置かれ消防兼侍、足軽の警備を配置しました☆この香椎神社ですが蓮池藩初代藩主・鍋島直澄を始め代々の藩主が社殿の造営・祭祀料の共進を行なったりしています♪

2021年05月28日 龍馬備中守【】
姉陣所[直鳥城  周辺城郭]



佐賀県の神埼市にある【姉陣所】♪姉集落の中にあり当地は長崎街道沿いに南北に開けた形をしていて境原宿の北方に立地します☆

戦国時代に肥前国に侵入した大友宗麟勢は龍造寺隆信が籠る佐賀城の攻撃の為にこの姉集落に陣を張りました☆大友宗麟の家臣・臼杵鑑速が1度目に2度目は戸次道雪が同じく姉に陣を構えてます☆この姉陣所から佐賀城は南西に6キロ位の位置にある集落で中々の接近具合が見て取れます☆

集落の中には「陣の屋敷」と「大屋敷」と呼ばれる水濠が巡った方形区画の島が東西に二つ並んでます☆この辺りに陣が構えられていたのかな〜??

2021年05月27日 龍馬備中守【】
柴尾環濠[直鳥城  周辺城郭]



佐賀県の神埼市にある【柴尾館・環濠】☆下直鳥環濠の更に南側、直線500m位の位置にある柴尾集落☆城原川の西側にクリークを巡らせた環濠集落になっています☆

歴史詳細は不明です…。が柴尾環濠は「源さん屋敷」と呼ばれる区画を中心とした環濠集落で鎌倉期の遺物・遺構が検出されています☆
正保絵図にも村名が描かれていて蓮池藩領となっています☆
江戸時代には蓮池藩の火災における参候所および防衛部署になっていて役丁5名が城内・西小路英彦山権現社の警衛消防に当たっています☆時の蓮池藩・城主の鍋島直温は柴尾村における蓮池藩主の火矢相図の演習を観覧していたという記録も残ります☆

因み当地には柴尾遺跡群もあって古くは弥生時代の土器(壺、器台、高杯、鉢、支脚)などなども出土していて、この頃から柴尾集落付近は陸だった事が分かります☆※佐賀平野は大昔は有明海の一部なんです☆今の佐賀平野の半分以上海でした☆
現在もクリークが残り集落を形成しているという事は歴史を遡り南北朝時代も戦国時代もあったと考えます☆
どの主君に付いてどうやって生きてきたのか?何を守って戦ったのか?クリークに点在する集落に興味しかありません♪

2021年05月27日 龍馬備中守【】
下直鳥環濠[直鳥城  周辺城郭]



佐賀県の神埼市にある【下直鳥環濠】☆
城原川の西岸で直鳥城の南側直線500mの下直鳥集落に位置します☆集落を縦横のクリーク(濠)が走ってます☆
佐賀平野には集落にクリークを巡らせた場所が幾つもあって城郭や館跡、屋敷跡の名残を残しています☆

下直鳥環濠も同様で現在も島の中には居住されている方々もいらっしゃいます☆知れば知る程面白い佐賀平野です☆古くは環濠集落として生活していた場所が戦国時代という戦の耐えない環境の中で先祖古来の土地を守ろうとしたからこそクリーク(濠)を巡らせて戦いました☆ロマンがありますね〜☆

歴史詳細は不明デス☆誰が居たか?何をしたか?共に不明とはなりますが中心の島は「次兵衛屋敷」と呼ばれる場所があってクリーク(濠)の中に浮島を造ります☆
場所からして直鳥城の犬塚氏の家臣?の居住区とかになっていたのかなぁ〜?
妄想が広がります☆

江戸時代には正保絵図に村名が見えて蓮池藩領でありました〜☆

2021年03月05日 主膳佑こうちゃん播磨の守♡
直鳥城



R264に「直鳥クリーク公園」の看板が有りその下に(直鳥城跡)と書いてます(写真参照)
ガレージ有り🅿

公共交通機関利用の方なら佐賀駅バスセンターと西鉄久留米駅を結ぶ西鉄バスで最寄りバス停「直鳥」です🤗直鳥城跡まで徒歩5分程!!1時間に1本の割合で運行してるので行って戻って丁度良い時間になります。

2020年10月05日 源陸前守ポンコ2
直鳥城



国道264号に直鳥クリーク公園の案内標識があり、東行を右折・直進するとメイン入口があります。
駐車場は10数台駐車可、トイレ完備です。

城域は水濠が縦横に張り巡らされ、各郭が島のように20くらいあります。郭も大きさはマチマチですが、今の主郭は東屋と貸農園になってます。
案内板の江戸時代後期の絵図には、郭の地名、城屋敷、屋敷内、鍛冶屋敷、観音屋敷、町小路、奥小路、中橋小路、大手口等の記載があり、今の地形もあまりかわらないようです。
これら郭には、公園施設以外にも民家や墓地などあったりしますので、そのあたりは配慮が必要かと思います。

案内板撮影したスマホ片手に城内や周囲を小一時間歩きましたが、自分がどこにいるのかわからなくなる水濠の迷路のようでした。

弥生の頃からの環濠集落とのことでしたが、水濠、水濠、水濠というのは今まで経験したことないお城で、個人的に面城かったです。

2020年09月07日 こにゃんこ武将
直鳥城

ここはお城なのかと思われる方も1人二人ではないと思います。が、西欧や大陸の城塞都市の縮小版だとも言えないこともないかも。園内は家庭菜園をされる方への貸出もされているようなので民間人に注意して攻めてください。

2019年07月14日 風祭すぅ
直鳥城



水郷に囲まれてる平城。いまは、クリーク公園として整備されています。
訪問したのが雨だったので、景色はよくないですが、晴れた日は、散歩コースに丁度よいと思います。
無料駐車場あります。

2016年09月17日 カーネル
直鳥城

長崎本線神崎駅から

駅を背に南へ進み国道34号で右折し、城原川沿いに左折して南下します。広い歩道があります
川沿いを10分ほど歩いたら[→本告城]という標識があったので、右折して10分ほど寄り道。お寺の境内に説明板がありました

川沿いの道に戻り南下すると歩道がなくなるので、土手に登り土手を歩きました
国道264号に出たら右折して西へ。駅から1時間20分で直鳥島に到着です

お城は公園になっていてキレイに整備されています。濠が張り巡らされた造りは初めて見ました
雨が強かったのもあり誰もいませんでしたが、晴れていれば憩いの場になってそうです

そのまま南に抜けて蓮池城へ向かいます。ここまで駅をでて1時間40分

歩き計画されている方の時間目安になれば幸いです

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