佐賀城(さがじょう)

佐賀城の基本情報

通称・別名

佐嘉城、栄城、沈み城、亀甲城、(村中城)

所在地

佐賀県佐賀市城内2-14

旧国名

肥前国

分類・構造

輪郭式+連郭式平城

天守構造

型式不明[4重5階/1611年築/焼失(火災)]

築城主

鍋島直茂、鍋島勝茂

築城年

慶長7年(1602)

主な改修者

鍋島直正

主な城主

鍋島氏

廃城年

明治4年(1871)

遺構

曲輪、門、櫓、移築御座の間、石垣、堀

指定文化財

国重要文化財(鯱の門及び続櫓)、県史跡(佐賀城跡)、市重要文化財(御座の間)

再建造物

御殿(佐賀県立佐賀城本丸歴史館)、石碑、説明板

周辺の城

水ヶ江城(佐賀県佐賀市)[0.4km]
高木城(佐賀県佐賀市)[4.1km]
鹿江城(佐賀県佐賀市)[5.3km]
蓮池城(佐賀県佐賀市)[5.3km]
三重津海軍所(佐賀県佐賀市)[5.5km]
姉川城(佐賀県神埼市)[6.9km]
直鳥城(佐賀県神埼市)[7.0km]
陣の森城(佐賀県小城市)[8.2km]
津村城(福岡県大川市)[8.5km]
帯隈山神籠石(佐賀県佐賀市)[10.2km]

日本100名城・続日本100名城スタンプ情報

番号・名称

89 佐賀城

設置場所

佐賀城本丸歴史館受付[地図

佐賀城の解説文

佐賀城(さがじょう)は佐賀県佐賀市にあった日本の城。古名は佐嘉城。別名、沈み城、亀甲城。江戸時代初頭に完成し、外様大名の佐賀藩鍋島氏の居城であった。

概要
佐賀城は佐賀市の中心に位置し、城郭の構造は輪郭梯郭複合式平城である。幅50m以上もある堀は、石垣ではなく土塁で築かれている。平坦な土地にあるため、城内が見えないように土塁にはマツやクスノキが植えられている。城が樹木の中に沈み込んで見えることや、かつては幾重にも外堀を巡らし、攻撃にあった際は主要部以外は水没させ敵の侵攻を防衛する仕組みになっていたことから、「沈み城」とも呼ばれてきた。

江戸時代には、城下と城内に掘割が縦横に張り巡らされ、生活用水に使用されていた。また、城下には豊前小倉から長崎まで続く長崎街道が通り、宿場町としても栄えた。

明治時代初期に起こった佐賀の乱により大半の建造物は焼失し、鯱の門と続櫓のみが残っており国の重要文化財に指定されている。

現在、城跡には県庁、合同庁舎、放送局、美術館、博物館、小中高の各学校、公園(佐賀城公園)など公共施設が建ち並んで佐賀県政治経済の中心地となっている。

歴史・沿革
安土桃山時代・江戸時代
佐賀城はもともと龍造寺氏が居城としていた村中城を改修・拡張したものである。九州北部に覇を唱えていた龍造寺隆信は天正12年(1584年)に島津・有馬連合軍に敗れて戦死した。これを機に龍造寺家臣の鍋島直茂が実権を握った。

直茂は早くも、天正13年(1585年)には村中城改修を計画している。しかし未だ当主であった龍造寺政家の居城であり、直茂は蓮池城が居城であったため、主家に憚って計画には手を付けなかった。計画が実現したのは江戸幕府政権下で正当に佐賀藩主として認められた後の、慶長7年(1602年)本丸の改修を始めてからである。直茂の計画に則り、次の藩主鍋島勝茂が慶長16年(1611年)に完成させた。内堀の幅は80mにも及ぶ広壮なもので、5層の天守も建造された。また、元和の一国一城令でかつての居城蓮池城は破却された。

城は幾度も火災に見舞われた。特に享保11年(1726年)には大火に見舞われ、天守以下本丸建造物の大半を焼失した。これにより御殿などが享保13年(1728年)に二の丸に完成し、藩政は二の丸を中心に行われた。更に天保6年(1835年)の火災では二の丸を焼失。これにより再び本丸再建が行われ政務は本丸に移った。現存する鯱の門・続櫓はこの再建時の天保9年(1838年)に完成したものである。同時に立てられた本丸御殿は、明治維新以後、裁判所や学校として利用された。なお、天守は享保の火災以後再建されていない。

近現代
明治7年(1874年)江藤新平を中心とした佐賀の乱が起こり佐賀城はこの反乱軍に一時占拠された。この戦闘の際に建造物の大半を失った。なお、鯱の門には当時の弾痕が現在も生々しく残っている。以後、佐賀城址には学校、測候所、県庁など公共施設が次々と建設された。...

佐賀城の口コミ情報

2021年10月03日 龍馬備中守【】
袋環濠[佐賀城  周辺城郭]



佐賀県の佐賀市にある【袋環濠】♪佐賀平野の中央部、八田江の西岸に立地します☆戦国時代から見える地名になっていて佐嘉郡川副荘の内になります☆佐賀城下の南から西にかけての集落で江戸時代の佐賀城下・武家屋敷にも隣接します☆

千葉某安堵状に『肥前国佐嘉郷河副下庄袋之内瑞応寺壱所之事』と出てきていて龍造寺隠岐入道(龍造寺康家の事です♪)が安堵しました☆

江戸時代には佐賀本領藩の川副上郷に属します☆枝村には鬼丸集落、大崎集落があります☆この鬼丸は佐賀城下の南西側、濠を挟んで接していますが地名の由来は佐賀城の裏鬼門に当たる為と考えられています☆
元禄10年(1697年)に佐賀城の二の丸にあった聖堂がこの鬼丸に移されていて同4年創建の大財聖堂と共に両鬼門として対をなしました☆この2つの聖堂は佐賀藩校の弘道館に先立つ教育機関として機能しました☆
地名柄か?鬼丸には自社仏閣が多くて宝琳院もその1つになります☆古くは慧日山龍造寺宝琳院と呼ばれていて肥前を牛耳った龍造寺家と深く関わりを持ちました☆
開祖は水ヶ江・龍造寺澄覚(家兼の兄)と伝わります☆2代目は家兼の孫にあたる龍造寺豪覚で、豪覚の兄・周家の子の龍造寺隆信は7歳で出家して宝琳院に入っていて『円月』と号しました☆

後に還俗して『五州二島の領主』と呼ばれる程の勢力を培いました☆


更に佐賀藩の焰硝蔵(火薬庫)があった場所でもありました☆集落内には龍造寺隆信が建立した天満宮も残ります☆

今でこそ町割は細分化されましたが、昔の袋は枝村含めて大きかった♪佐賀城の南側な訳なので発展する訳ですね☆

2021年10月02日 龍馬備中守【】
木原環濠[佐賀城  周辺城郭]



佐賀県の佐賀市にある【木原環濠】☆龍造寺氏率いる佐嘉城(水ヶ江城/村中城)の南東側、小田氏率いる蓮池城の真西に位置☆
北に佐賀江川、西に八田江川が流れる場所に存在しています☆

街道宿だと下今宿の南東側一帯、木原古賀、武藤、安住などの集落に隣接していて、日枝神社、阿弥陀寺、岩松軒などが残ります♪所謂、栄えた集落な訳なのであります♪

河上社文書紛失状の中に安政二年(1176年)坪付注文案の中に『七条木原里十七坪内』とあり木原集落は条里制の下で佐賀郡で七条に位置していた事が記されています☆

更に戦国時代には『佐嘉の龍造寺氏』VS『蓮池の小田氏』勢力の間に角遂があり、この木原集落で戦いがありました☆その後、木原集落は水ヶ江龍造寺氏の勢力下に入り鍋島藩政の初期も水ヶ江龍造寺氏の流れを組む多久家の所領でありました☆

その後は佐賀本藩の直轄地となっていきます☆

2021年09月28日 龍馬備中守【】
鰡江陣所[佐賀城  周辺城郭]



佐賀県佐賀市の川副町にある【鰡江陣所】♪特に名前が無いので鰡江陣所という名前を付けています☆集落を縫う濠は、佐賀平野特有の毛細血管状に濠を張り巡らせた縄張りを造り出します☆鰡江にあったこの集落は、龍造寺家の縁の場所でもあります☆現川副町の中央に更には鹿江城の北側に立地します☆
集落には応永年間(室町時代)に創建された臨済宗・東福寺派の無量寺があります☆
龍造寺家兼(隆信の曾祖父)は退いていた筑後から戻り当寺で旗揚げをし、小田政光が占領していた水ヶ江城を奪い返しました☆

筑後・榎津に構えた豊後の大友軍の水軍が数十隻で浮盃津に襲来した際に、無量寺の僧が防戦しています♪所謂、無量寺は城郭寺院の役割を果たしています☆戦う僧兵とはカッコいいですね☆更にこの場所は龍造寺氏、鍋島氏が度々、本陣にしています☆
 
更に大友水軍が襲来した浮盃津にはこんな伝説が残ります☆
今から2200年前に『徐福』は秦の始皇帝から不老不死の薬を探す命を受け日本へとやってきました☆この渡来にまつわる話がこの浮盃津に残ります☆
この浮盃(ぶばい)の地名の由来は有明海にたどり着いた徐福一行は盃を浮かべて流れ着いた所から上陸する事にしました☆この故事から人々は盃が流れついたこの地を「浮盃(ぶばい)」と呼ぶようになったと…
信じるか?信じないかは?あなた次第ですw

2021年09月27日 龍馬備中守【】
村中城[佐賀城  周辺城郭]



佐賀県の佐賀市にある【村中城】♪村中龍造寺家の城郭は佐賀城の内堀に取り込まれる形で、かつて立地しました☆
近世に入ってから鍋島直茂・勝茂が拡張整備した城郭が佐賀城で、それ以前からは同所に中世には龍造寺氏の居城、村中城が存在していました☆
この場所からは発掘調査により大型の掘立柱建物の柱穴跡が出てきていたりと佐賀平野の中でも群を抜いた規模のモノが出てきています♪この村中城での歴史は龍造寺家兼が没後に龍造寺胤信(隆信)が主家を継ぎます☆

龍造寺隆信と家督を争った龍造寺鑑兼を擁立しようと画策した大友義鎮に通じて周辺豪族は参集していきます(土橋栄益・高木鑑房・馬場鑑周・八戸宗暘・神代勝利・小田政光)☆

往時は龍造寺隆信の弟・家信の居城になっていた水ヶ江城とコノ村中城を包囲しました☆籠城側はわずかな兵しかいなかった為、攻め手の蓮池城主・小田政光の家臣・深町理忠の提案に従い龍造寺隆信は開城して筑後へ落ちていきます☆筑後の蒲池氏の援助を受けた龍造寺隆信は挙兵して村中城の奪還に成功しました♪この時幼かった龍造寺鑑兼は一度追放されるも、後に龍造寺隆信の家臣として復帰します♪

肥前守護の大友宗麟は筑後国の吉見岳城(高良山)に本陣を置いて再び佐嘉へ侵攻☆村々に火を放ちながら村中城を包囲するもこの時は和議になっています☆
その後、再び大軍を率いた大友軍は村中城に攻め寄せました♪大友方は大友親貞を大将として村中城攻めに向かわせますが、龍造寺軍は(鍋島直茂を中心に)大友軍の本陣を夜に奇襲し成松信勝が大将の大友親貞を討ちとり大友軍を撃退しました☆これが今山の戦いとなっています☆

2021年09月26日 龍馬備中守【】
少弐氏館[佐賀城  周辺城郭]



佐賀県の佐賀市にある少弐氏館♪龍泰禅寺の境内がその場所となります♪
元々は…九州守護の少弐氏が築いた居館跡であります☆
往時の北部九州は『幕府勢力の九州探題』と『南朝方の朝廷勢力の少弐氏・大友氏・島津氏』の守護勢力がバチバチ争う戦乱の場所となっていました☆九州の守護勢力との戦いに苦戦を強いられた幕府方は周防国の大内氏に九州への介入を命じていきます♪本州から北部九州へ攻めてくる大内氏☆この出来事で北部九州の軍事事情は大きく崩れていく訳です☆
九州守護の一角の少弐氏は次第に追い詰められ…幕府方の大内氏からの攻撃に耐え切れなくなる少弐氏は本拠地の大宰府を捨てて肥前佐嘉に逃げ込みました☆現在の佐賀城に取り込まれる形で少弐氏館は存在しているのですが同年代に少弐氏館のすぐ東に龍造寺家の村中城、更には水ヶ江城が並び、少弐氏は龍造寺家を頼ってココになだれ込んで来たのではないか?と思われます☆
そんな時代に少弐氏の拠点になったのがココ少弐氏館です☆
また戦国時代に入ると、この場所は龍造寺隆信が龍泰禅寺を築いていて菩提寺として祀ります☆因みに大隈重信の菩提寺で墓所もあります☆寺名は「龍造寺安泰」によるものと言われていて龍造寺氏に村田氏と(龍造寺本家)と深い関わりのある寺院になっています♪
龍造寺隆信は本堂、建築前の縄張りを自ら行った様で開山には叔父にあたる山口の龍文寺住職を招いています☆龍造寺隆信は自分の寺という気持ちが強かった様で戦の合間に頻繁に参禅に来ていた様です☆
龍造寺隆信が島原で戦死した時には龍泰禅寺の太圭和尚(四代)は戦場へ急行して遺体を探し出し諌早の和同寺で火葬した後に持帰ったと伝わります☆何処に供養しようか?大和の舂日山の麓にある高城寺と与賀宮で争論しココ龍泰寺が勝ちました☆その後は佐賀城の鬼門(東北)の固めとして宗龍寺という神社が造られていて守護仏として龍造寺隆信の分骨が行われています☆その後、院号をめぐり龍泰禅寺、宗龍寺が別の院号をつけ高伝寺の湛然和尚が、それを調停をしていて今は高伝寺に龍造寺隆信を始め、龍造寺家の墓所、更には鍋島家の墓所が残ります☆
更に凄いのが現在ある本堂は佐賀城の大書院の古材を解体し転用して造られていてコレは大正期に建築されてます☆
肥前の歴史はやっぱり面白いです♪

2021年09月21日 パンジャブ
佐賀城



20年前に訪れた時よりだいぶ整備され、本丸歴史館なるものもできていました。今後は是非とも模擬天守閣を復活させ観光地化してもらいたいと言う淡い期待があります。

2021年09月17日 龍馬備中守【】
満岳氏館[佐賀城  周辺城郭]



佐賀県の佐賀市の久保田町にある【満岳氏館】♪満岡氏館とも描かれます☆
久保田町の久富、旧名を恒安村に居館は存在しました☆
武雄領主である後藤貴明が自運庵と称する居館を持っていたのですが、龍造寺隆信に追われて塚崎城(現武雄市)に逃れました☆

満岳宗久の出自は不明ではありますが、戦国時代の後期には満岳宗久が父である満岳宗成の意思を継ぎ後藤貴明がいた自運庵を改修し曹洞宗満岳山龍顔寺を創建して、ここに居館しました☆
同時代に後藤貴明と龍造寺隆信は和睦をしていて後藤貴明の子、後藤弥次郎晴明は龍造寺隆信の養子になり太俣郷に500町の領地を与えられています☆
後藤弥次郎晴明はまた此処に居館しました☆

集落には濠の名残が残り龍顔寺もシッカリと残っています☆

2021年09月16日 龍馬備中守【】
思齋館[佐賀城  周辺城郭]



佐賀県の佐賀市の久保田町にある【思齋館跡】☆今は石碑のみ残ります☆
長崎街道沿いに位置し、嘉瀬川の西、肥前村田屋敷よりも西にテクテク歩いて600m位の場所に立地しました☆

近くには徳万宿があり江戸時代、佐賀藩が長崎警備にあたった頃に街道の宿場町として往路、帰路共にこの徳万宿で休憩を取っていたと記録が残ります☆

この思齋館は久保田の邑主・10代目の村田政賢が母体を作りました☆この村田氏はそう♪龍造寺政元が村田氏を名乗り脈々と受け継いだ血筋の村田家です☆江戸時代に藩士の子弟の教養を高める為に天明元年以前よりあった学問所を増築しました☆
村田政賢の嫡男・11代目の領主、村田政致は先代に続いて学問所を改善拡大しコレを【思齋館】と名付けました☆所謂、藩校的なモノであり、漢字が変わった現在も思斉館として小中一貫校として小中学生が日々学んでいます☆

2021年09月15日 龍馬備中守【】
村田家屋敷[佐賀城  周辺城郭]



佐賀県の佐賀市にある【肥前村田家屋敷】♪別名を久保田館または久保田城と呼びます☆
戦国時代、戦国大名としての龍造寺家の最後の当主・龍造寺政家が築きました☆

龍造寺隆信の子である龍造寺政家は豊臣秀吉から隠居領を賜っており、鍋島直茂を養子とし国政を委任しました☆戦国時代には肥前国をリードし、九州3強の1人としてのし上がった龍造寺隆信の、後を引き継いだ龍造寺政家☆苦渋の決断だったんだろうなぁ〜って…。本当に思います☆龍造寺家から渡されたバトンは鍋島直茂から始まる鍋島家のサクセスストーリー☆
江戸時代は勿論、明治まで領民を守り切った鍋島家☆江戸時代後期には、異国からの侵略に対し本気で考えそして日本を動かし、『薩長土肥』と呼ばれるまでの存在感に☆やっぱりこの龍造寺家からの熱いバトンパスがあったからだろうなぁ〜って、肥前の歴史を調べる時には、いつも考えます☆
この話は長くなるのでwまた別のタイミングに口コミしますw

さてさて、豊臣秀吉から賜った隠居領☆此処に構えた居館が、この村田家屋敷になります☆
結果的に龍造寺政家は村田家屋敷で没しちゃいます☆悲しい事に子の龍造寺高房も直前に自刃していて、隠居領は二男・龍造寺安良が継いで行きました☆安良は名を龍造寺から村田に改め、久保田村田氏として親類格となり鍋島家に支え佐賀藩の重職を歴任し明治まで生き残りました☆

2021年09月04日 龍馬備中守【】
於保城[佐賀城  周辺城郭]



佐賀県の佐賀市の大和町にある於保城♪現在は於保天満宮となっていて、この於保天満宮も在地豪族・於保氏(おほ)が勧請したと伝わり、この辺り一帯が城域でありました☆

この場所の歴史もまた古くて、縄文時代の遺跡こそ発見されていませんが、弥生土器は見つかっていて往時より水田耕作が行われていた事が確認されています☆弥生時代の住居跡が発見されている久留間遺跡にも近く古来より人々が生活していた痕跡を今に残します☆

中世に於保村を中心に活躍した於保氏♪
多久家文書中には肥前国御家人・於保種宗の所領於保村、地頭職、肥前国執行職などなどの注進状が残ってたりもします☆

また於保種宗の祖父・於保三郎宗益は於保村と益田村(現在の佐賀市増田)も領していて河上社遷宮奉行も務めていたりと活躍☆

蒙古襲来の弘安の役の戦績により肥前国執行職に命じられました☆
その後の於保氏は嘉瀬川の東部に進出☆
下地中分などによって島崎庄(現在の蠣久環濠付近)まで進出するも、高木城の高木氏の領域までは踏み込まず☆
戦国時代に入ると佐賀の最大の合戦、『今山の合戦』で大友宗麟に合力した後に没落していきます☆
近隣には於保氏の菩提寺と伝わる長禅寺があります(現在は廃寺です☆)
城郭の南西には於保氏の墓と思われる墓石が残ります☆

2021年09月03日 萌魏左近衛大将叡声
佐賀城

薩長土肥の肥前藩庁、佐賀県庁所在地だけあって城域は広大。濠内に県庁や図書館、博物館、美術館とあり、いまだに中心地。ただ佐賀駅から歩くにはちと遠い。(30分くらい)歴史俯瞰には、入場無料の本丸歴史館がお勧め。

2021年09月03日 龍馬備中守【】
尊光館(城崎城)[佐賀城  周辺城郭]



佐賀県の佐賀市にある尊光館(城崎城)♪城郭は現在は城徳禅寺、付近にその面影を残します☆
鎮西八幡為朝の助力によって地頭に復帰した国分忠俊の居城として築かれたと伝わります☆
国分忠俊書状によると朽井村の地頭・国分忠俊は尊光寺に田畑山野を寄進しています♪この尊光というのは国分忠俊の法名となっています☆国分氏は代々、国分寺と朽井の地頭を兼ねました☆国分忠俊は高城寺を建立していたりもしてます☆南北朝時代に入ると国分長季が引き続き国分寺の地頭として異国警固番役の事などで鎮西探題に訴えてます☆
その後、肥前・千葉氏の進出によりこのエリアは鑰尼氏が支配する事になります☆
激動の肥前佐賀の歴史は戦国時代、そして江戸時代に向けて進んでいきました☆

遺構としては城徳禅寺の西側に二重の土塁が残っています☆この二重の土塁間は浅くはなっていますが堀が確認出来ます☆
北側の住宅地の中にも断片的に土塁が残されていて城域は広かった様です☆

2021年09月02日 龍馬備中守【】
国分氏館[佐賀城  周辺城郭]



佐賀県の佐賀市にある【国分氏館】☆館名のとおりに国分氏の居館があったとされている場所になります☆嘉瀬川の中流の東岸、川上扇状地に立地していて中央を市ノ江川が南流します☆山内〜佐賀間、小城〜神埼間の通路が交差している場所になっていて佐賀北部の交通の要衝地といえる場所です☆

この辺りは肥前国府、国分寺、国分尼寺などが置かれた所で、古来より肥前の文化、政治等の中心地でありました♪北側が中心地と言う理由は有明海の海岸線が今よりも北側にあった事にあります♪

この国分氏館は天満宮の辺りにあったと伝わっていますが、現在は市街地になってしまっていて往時の面影はありません☆

歴史詳細の多くは不明ですが藤原季永が国分寺地頭に補任されていて、その子孫が国分を名乗りこの地に生きました☆
鎌倉時代の肥前武士では、この国分氏、高木氏、龍造寺氏、松浦党の草野氏などが台頭☆平安時代から源平の争覇の頃までは皆んな、平氏に属しましたが、源頼朝が平氏を討伐した後は松浦党以外は皆んな源氏に味方しました☆その後の国分氏の動向はイマイチ分からず仕舞いです…
現在は住宅地の中ではありますが、多くの歴史が残っています☆
そんな豪族・国分氏の居館跡の話でした♪

2021年07月31日 龍馬備中守【】
江上館[佐賀城  周辺城郭]



佐賀県の佐賀市にある【江上館】♪佐賀江川の南岸に位置します☆現在は北川副町江上となっている場所に居館は存在しました☆
地名の由来は神埼郡の城原城主・江上家種が地内に居館を設けた事に由来します☆
『館』という地名も残っています☆

江戸時代には江上村となっている場所で江上宿もありました♪この江上宿は蓮池往還沿いにあり、東西の横長に集落、宿を形成していました♪
集落内には福満寺があるのですが、始まりは最澄が入唐に際して発願した寺と伝わっていてカナリ古い寺となっています☆
元は最澄の天台宗でしたが、後に空海の真言宗御室派に属しました☆
この福満寺は高倉、亀山、正親町各上皇、源頼朝、足利尊氏の当国における祈願所となっていて、北条時政により伽藍再興、足利直冬による山門建立と金党補修があったのですが、その後、山門は火災に遭い、龍造寺家と鍋島両家がともに再建し寺領を与えて尊崇しました(肥前古跡縁起)☆同寺に伝わる室町末期から安土桃山期にかけての作と推定されています☆
『紙本著色福満寺古図』には足利直冬が補修後の七堂伽藍の配置が描かれています☆

福満寺の南東に「館ノ内」や「館」と呼ばれる区画が残り江上館の中心部はこの辺りと思われます☆現状は水田になっています☆

2021年07月10日 龍馬備中守【】
上飯盛館[佐賀城  周辺城郭]



佐賀県の佐賀市にある【上飯盛館】現在も縦横にクリーク(濠)が走ります♪
飯盛と書いて(いさがい)と読めなかったw
中々漢字は難しいですw

上飯盛の地は龍造寺氏の譜代家臣・石井氏の本拠地でしたが後に龍造寺氏は石井氏を川副郷の鹿江村に移しました☆集落内にある妙光山常照院は日蓮宗の寺院で室町時代に石井忠国が建立しています☆妙光山常照院は戦国時代には一時集落の南側に移転しますが、石井常延が逝去に際して現在の場所に復しました☆初代・佐賀藩主の鍋島勝茂は鍋島家の祈願所ともしました☆
鍋島勝茂の母で(直茂の妻)陽泰院は石井常延の娘で特に妙光山常照院を手厚く保護しました☆
有馬晴純との合戦に勝利した龍造寺隆信は鍋島直茂らと軍勢を従え佐嘉城(佐賀城)に凱旋の途上に石井家の居城・上飯盛館に立ち寄り昼食をとります☆城主・石井常延は鰯を焼いて振る舞う事にしますが龍造寺氏の家臣達の人数が多くて城の厨房では人数分の鰯を中々焼く事が出来ずに侍女達が難儀していました☆
そこに陽泰院が現れ侍女達に「手際が悪い」と叱責して、自ら釜戸の火をかき出して庭先に広げその上に鰯を並べ大量の鰯を手際よく焼き上げました☆
この機敏な姿に感嘆した直茂は「あのように機転の利く女性を妻に持ちたい」と惚れ込み陽泰院に求婚した逸話が『葉隠』には記されています☆こうやって鍋島直茂と後に妻になる陽泰院は出会いました♪

ラブロマンス♡上飯盛館でした♪

2021年07月09日 龍馬備中守【】
高太郎丸館[佐賀城  周辺城郭]



佐賀県の佐賀市にある高太郎丸館☆別名を犬神屋敷と呼ばれます☆

室町時代には地侍の小太郎丸と高太郎丸の兄弟の屋敷があったと伝わっていて、この地を領した兄弟の名田屋敷だったのでしょう☆

この場所は西は本庄江川、北は厘外、東は上飯盛、南は元相応、丸目に接します(町名)
古くは南側には干潟地(有明海)が広がっていて船津小路などの名前も残っています☆
道端には舟形光景を持つ石造の十一面観音の立像も残ります☆
本庄江川には藩主の遊漁の際の船出場所(御船屋)跡と伝わる場所も残ります☆

ちなみにクリーク内の方形型の浮島には小太郎丸、高太郎丸の墓所が残りココが館の中心部だったと思われます♪

2021年07月09日 龍馬備中守【】
多布施館[佐賀城  周辺城郭]



佐賀県の佐賀市にある【多布施館】☆佐賀城の北西を守る為に築かれた出城になります☆佐賀城下から北西側の玄関口にあたる為に徐々に人口が増えていき、大竜天祐寺を始め、この辺り一帯は城郭、城下町として発達しました♪

佐賀城の惣構えに隣接する出城である【多布施館】は犬塚信昌が在番しました☆後に龍造寺高房の菩提寺として大竜天祐寺が造られて、その東側に在番の家臣屋敷が配置されました☆

龍造寺隆信の孫、龍造寺高房は妻を刺殺し、その後自殺的な死を遂げます…
最初は近隣の泰長寺に葬られ、のちに不祥事が起こると、宗竜寺へ移葬、更に、この大竜天祐寺が建てられ葬られました☆
寺号は龍造寺高房の法号の大竜院殿天祐宗春大居士にちなみ、本尊は薬師如来様です☆
城下の北の外堀は十間堀川の外に東西に対称的に2つの寺院が立ってます☆コレが、東側の清心院と西側のこの大竜院天祐寺です☆共に周囲を濠で囲み城郭といった顔をみせます☆百武志摩守賢兼の塔も残ってます☆百武賢兼の塔は百武氏に所縁の石塔です♪龍造寺四天王の1人もここに縁がありました☆
因みに龍造寺隆信と争った神代勝利はこの多布施館で毒殺されそうになりました☆神代勝利の側近の馬場四郎左衛門の機転で事なきを得ます☆その帰り際に神代勝利は龍造寺隆信の愛馬に飛び乗ると即興で以下の歌を歌いました☆「おどま山からじゃっけんノーヤ、お言葉も知らぬヨウ、あとで御評判な頼みます」コレはノーヤ節と言って神代勝利の三瀬方面に伝わる歌です☆龍造寺隆信らが呆気に取られる中を神代勝利は意気揚々と引き上げましたw

そんな歴史深い【多布施館】でした♪

2021年07月08日 龍馬備中守【】
大財端城[佐賀城  周辺城郭]



佐賀県の佐賀市にある【大財端城】佐賀城の北東側を守る出城になります☆

清心院のある一帯に築かれていて、この清心院は佐賀城の鬼門に鎮守の為に設けられました♪佐賀藩の2代目藩主の鍋島光茂の妻、甘姫が吉茂を出産する際に寄進した寺院です☆
鍋島吉茂も観音堂を建立しています☆
南側を除く三方には堀が残っていて往時を想像させます☆マップで見ると城館というのが一目で分かり城域を濠で囲みます♪
また清心院は鍋島・龍造寺家の祈祷所にもなっていて本尊の不動明王は龍造寺胤家が筑前から清心院に移したものとも伝わっています☆
城郭の詳細の多くは不明ですが龍造寺胤家の館です☆近世には佐賀城の惣構えの出城となって機能しました☆

2021年07月08日 龍馬備中守【】
八戸城[佐賀城  周辺城郭]



佐賀県の佐賀市にある【八戸城】佐賀城の西側、城内への玄関口になります☆

このエリアは元々は肥前の豪族・高木氏の流れを組む於保氏が元々支配した土地です☆この於保氏は他に、新庄、嘉瀬、蠣久、津留、増田、木角など中々広範囲に領有した在地豪族です☆於保氏の出である八戸氏♪
この八戸城を治めました☆
八戸氏最盛期は戦国時代の当主・八戸宗暘かな〜?八戸宗暘は龍造寺隆信の姉を妻としていて龍造寺隆信とは親戚関係に当たります☆
が…しかし八戸宗晹は龍造寺家に従いながらも、神代氏や大友氏と共に反龍造寺の動きを見せます…☆龍造寺隆信の攻撃を受け落城、城は廃棄されました☆その後にこの地を追われた八戸宗晹は今山の戦い時には大友方として参戦も、戦傷後に没しちゃいました☆

この八戸城は佐賀城の西側の佐賀城下端に位置していて南部を長崎街道が走る交通の要衝になっています☆街道に沿う様に東西に八戸宿も形成されて行き次第に城下含めた町は大きく造り込まれていきました☆西側の玄関口は商人や職人が住み、郷宿としても独立する様になっていきます☆八戸城周囲には堀が巡らされています☆城郭の主要部は現在、龍雲寺となっています☆

今山の戦いが元で没した八戸宗暘の子は命を助けられました☆八戸の子は山本姓を名乗っていきます☆生かされて良かったです☆
この山本氏は代々この地に生き残り、後に【武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり】で有名な山本常朝へと繋がっていきます♪
龍雲寺には山本常朝と墓と葉隠の碑が残っています☆大事な山本常朝の墓を撮り忘れたwまた行きます♪
長崎街道にはノコギリ型家並が残っていて側溝がギザギザしてます☆ギザギザに街道を造る事で攻めての勢いを削ぐ事が出来たりとか小さな気づきですが小技が効いた街並みがまた素敵です♪

2021年06月25日 あっきい右衛門佐
佐賀城

佐賀城本丸御殿歴史館は無料で入れ、武将姿やお姫様で写真を画面で撮るお遊びのほか、資料も沢山あります。
ゆっくり2時間ほど見られます。
記念メダル、御城印も販売してます。

2021年06月17日 龍馬備中守【】
鍋島館[佐賀城  周辺城郭]



佐賀県の佐賀市にある【鍋島館】♪宅地開発が始まろうとする中、遺構は残りません☆

鍋島氏の祖長・岡伊勢守経秀が山城国は長岡から移り住んで居館を構え、この地で鍋島の姓に改めたと伝わります♪

集落内には御館の森と呼ばれる場所が残り、横馬場、立町田端、北小路、南小路の地名が残ります☆
この地に天満宮を移し、その横に臨済宗観音寺を建立して大獄高を開山したと伝わります♪鍋島氏が佐賀城の近郊に本庄館に居を移した後も帰依が厚く、江戸時代には佐賀藩主・鍋島治茂は本堂を再建し寺領として鍋島村に与えています☆
現在『御館の森』の一部しか残りません☆西北を嘉瀬川の堤防に囲まれて、東は増田、南は木角、東新城、西南は西新城に接する南北に長い集落になっています☆

鍋島直茂を筆頭に後に佐賀を治める鍋島家の出自の鍋島集落☆なんだか感慨深いものがありますね☆

写真1御館の森♪この辺りが館跡と伝わります☆
写真2嘉瀬川を天然の堀としました♪
写真3鍋島家がこの地に移した観音寺☆横には天満宮があり☆
写真4御館の森を引きで撮る♪

2021年06月11日 龍馬備中守【】
石井樋[佐賀城  遺構・復元物]



佐賀県の佐賀市にある【石井樋】♪ 嘉瀬川の洪水防止の目的と多布施川への取り水の為に成富兵庫茂安が江戸時代に築いた分水施設となります☆

多布施川は以前から佐賀城下の用水・下流の灌漑用水・舟運など城下町の経営と農業用水の確保に欠かせない川でしたが、洪水による井堰の破損などで用水の確保が難しい状態でした☆明治時代の長崎県の河上川筋等についての問答書には次の事が書かれています☆
北村から多布施川に通ずる分水はこだいからの事でつまびらかではない。とあり佐賀への流水は鎌倉時代にはあったモノで、と古書には記載されてます☆藩史にも『元亀二年北村の井関普請』と記されています☆という訳で鎌倉時代頃からはあった様です♪
その後、成富兵庫茂安が分水口を石井樋に変えて『象の鼻』や『川中島』を築き『天狗の鼻』を奇工し水流を循環させて石井樋にも巡らせました☆余水は島と井樋の間から、また本流に流失させました☆戸立を設けて橋を『島とり橋』と呼びました♪

成富兵庫茂安は佐賀で治水の神様なんです☆
『水にさかわらず』の立場を取りこの石井樋を設け洪水に対しては野越で溢水を遊水池に導くなど往時最新の土木技術を見せました♪

中小河川やクリークとか江湖等を巧妙に結び付け平野全体で治水、利水、排水を処理するというシステムを造り上げました☆この功績により江戸期を通じて佐賀藩では水争いや百姓一揆による暴動がほとんど起こらなかったんです☆凄い事ですね♪
その後も佐賀県に多くの堤を築き(千栗堤防、横落水路、中原水道、羽佐間水道、三方潟の大日堰などなど)川の流れを調節して多くの民を守りました☆
更には成富茂安の死後、時は流れて明治時代に入り、この内政手腕は明治天皇にも大いに賞賛される事になります♪この功績で従四位を追贈されました☆

荒くれ武将からいつしか『治水の神様へ』現在の佐賀県の治水事業は成富兵庫茂安から始まりました☆佐賀県のクリークや城下町用水から佐賀城を守る水堀♪見る目が変わりました☆

2021年03月18日 龍馬備中守【】
本庄館[佐賀城  周辺城郭]



佐賀県の佐賀市にある本庄館♪佐賀城の一画として館はありました♪遺構は無しです☆

南北朝時代に鍋島氏によって築城されたと伝わります☆鍋島経直のとき鍋島村からこの本庄村へ館を移しました☆
今は碑が残るのみですがココが鍋島氏の…って考えるだけで胸熱ですね♪鍋島直茂はこの本庄館で生まれてます♪
鍋島氏は経直→経房→清久→清房→直茂と続き存続していきます♪

周防の大内義隆が筑前守護代の杉興運を大将として肥前へ侵攻して来てて少弐氏と田手畷で戦いました☆この戦いで少弐方は劣勢でしたが鍋島清久父子率いる一団が赤熊を被って大内軍に突進し攻め立てました☆

大内軍は筑紫尚門や横岳資貞などが討死し劣勢を翻しました☆その後に龍造寺家兼は鍋島清久の次男・鍋島清房に龍造寺家重の娘を娶らせ本庄八十町を与えました☆この鍋島清房と龍造寺家重の娘との間に生まれたのが鍋島直茂です☆
以降の鍋島家は龍造寺家に忠義を告げ後に佐賀藩を創り上げていきました〜☆


2020年12月31日 征夷大将軍慶誾尼☆寧
佐賀城



佐賀城本丸歴史館に年末恒例の「鼓の胴の松飾り」観に行って来ました〜♪

雪が降る中、佐賀市の佐賀城本丸歴史館では正月に向け、江戸時代から受け継がれている松飾りが設置されました。 飾り付けられた松飾りは、佐賀城本丸歴史館の開館以来、地元の自治会によって毎年飾られているもので、楽器の鼓に似ていることから「鼓の胴の松飾り」と呼ばれています。松飾りは地元の田んぼで作られた稲わらでできていて、高さ80センチ、幅120センチで重さは約50キロあるということです。松飾りの歴史は、江戸時代の1638年に島原の乱で、謹慎処分を受けた佐賀藩が12月29日に処分を解かれ正月を迎える準備ができなかったことから、米俵などのわらを使って作ったのが始まりということです。 【蓮池町の保存会会長 長野幸雄さん】 「今年初めからコロナで大騒動だったでしょ。それを吹き飛ばすような気持ちで、皆さんに見てもらってよい正月を迎えていただきたいと思います」 この「鼓の胴の松飾り」は、来年1月15日まで飾られるということです。

STS ニュースより

2020年12月04日 丹波右京大夫太郎字
佐賀城

佐賀駅からまっすぐ南下、天気が良ければ気分良く到着。入城?は無料ですが、あの建物の維持を思うと募金は当然です。

2020年09月23日 明石家船上
佐賀城



本丸御殿のあるところは、本丸の中の一部で、実際の本丸はかなり広い面積を持っています。
多くの分家家老や龍造寺末裔の家老の屋敷跡も本丸内です。
街中の水路も江戸時代からのものが残っています。

2020年09月05日 nyarくん
佐賀城



佐賀城本丸御殿は台風9号の被害で御殿の一部は拝観制限中、10号で更に被害が出ないことを祈ります。

2020年09月04日 mtmt
佐賀城

とても綺麗に整備されてました。門には当時の実弾の跡もありリアルに感じました。

2020年08月31日 鬼羊大学助与六
佐賀城



佐賀城は石垣の刻印が多く、大変見応えあります。特に鯱門を入って右側のハートの石付近はたくさん刻印が見られます。また矢板のあとも他の城の石垣に比べ大きくてワクワクします。

2019年05月16日 ちろりん紀伊守
本丸御殿[佐賀城  遺構・復元物]



佐賀藩10代鍋島直正が再建した本丸御殿
一部を歴史館として復元された

2019年05月02日 近江守syutagon
佐賀城



佐賀の乱で大半の建造物が消失したが、現在では佐賀城歴史館として御殿が復元され、佐賀城下再生百年構想が進められている。

2017年05月10日 織田上総介晃司
佐賀城

NHKの近くに2ヶ所駐車場あり。

現存する鯱の門の扉には佐賀の乱の弾痕が残っている。
気に留めなかったらそのまま素通りしそうなので気にかけましょう。

復元された佐賀城本丸御殿は入場無料ですが、維持管理のための募金はお願いしています。(城好きの善意ということで…)

明治維新の立役者の藩として「薩長土肥」
肥前佐賀藩はいち早く近代化を推し進めた事により維新に一役買っていた。

佐賀の土産に「丸ぼうろ」「小城羊羮」
そして足を伸ばして嬉野温泉で温泉に浸かり「温泉湯どうふ」を食べるのも思い出になります。

2013年10月06日 上杉鷹山公
佐賀城

佐賀城城内、佐賀県立博物館にて龍造寺隆信公の甲冑を展示中。12月8日まで。


2012年02月12日 大宰少弐ためぞう
佐賀城

本丸御殿の外回りの説明が丁寧にされてます。中ではけっこうイベントやってるみたいです。

2011年01月11日 June02
佐賀城

鯱の門、迫力ありました。天守台から見た鯱の門と本丸御殿(復元=歴史博物館)は、感慨深いものありました。
写真は、見にくいですが「佐賀の乱」の弾痕が残る門扉です。


2010年11月04日 加藤豊後守清正
佐賀城

36万石の鍋島家の敷地としては割と小さいかも。石垣も完全な状態で城としては悪くはないでしょう。

2010年09月13日 綾瀬雪太郎
佐賀城

本丸歴史館 入場無料です。ボランティアの方々が詳しく解説してくれます。

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