陣の森城(じんのもりじょう)
陣の森城の基本情報
通称・別名
- 小路(こうじ)館、芦刈城、徳島館、徳島城
所在地
- 佐賀県小城市芦刈町芦溝230(地図は説明板の場所を示す)
旧国名
- 肥前国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 徳島氏
築城年
- 鎌倉時代以前
主な改修者
- -
主な城主
- 徳島氏
廃城年
- 不明
遺構
- 消滅
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
佐留志城(佐賀県杵島郡)[4.2km]
小城城(佐賀県小城市)[6.0km]
千葉城(佐賀県小城市)[7.3km]
佐賀城(佐賀県佐賀市)[8.2km]
水ヶ江城(佐賀県佐賀市)[8.5km]
高木城(佐賀県佐賀市)[9.0km]
鹿江城(佐賀県佐賀市)[10.7km]
梶峰城(佐賀県多久市)[11.4km]
須古城(佐賀県杵島郡)[12.2km]
三重津海軍所(佐賀県佐賀市)[12.2km]
陣の森城の解説文
[引用元:Wikipedia「陣の森城」の項目]
陣の森城(じんのもりじょう)は、佐賀県小城市の佐賀平野にあった日本の城(平山城)。
概要
小城市の佐賀平野に位置する。築城年代は不明だが、1979年の発掘調査では鎌倉時代や16世紀の遺物が多数出土した。九州千葉氏の一族である徳島氏が代々城主を務めた。徳島氏は後に有馬氏に属したが、江戸時代には小城藩士となった。
参考文献
- 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典(43.熊本県)』、角川書店、1987年
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陣の森城の口コミ情報
2021年12月16日 龍馬備中守【】
大戸ヶ里環濠[陣の森城 周辺城郭]
佐賀県小城市の牛津町にある大戸ヶ里環濠♪牛津町中央部の平野地にあり東に勝川が西に晴気川が流れます☆
戦国時代には龍造寺家兼が馬場頼周を肥前・千葉城へ追いやり攻めた時、馬場頼周の子・馬場政員がこの戦いに敗れ、ココ大戸ヶ里環濠に逃げ込みました☆そこを、野田三河守に追撃され槍で突かれて殺されています(九州治乱記) ☆
集落内には天満宮・久昌円長寺が残ります☆
この円長寺は臨済宗南禅寺派となります☆
円長寺・9代目の祖慶は井樋の築造に私費を投じ、更に借財して完成させますが、返済の目処が立たずに責任を負って寺を退いています☆
この大戸ヶ里環濠ですが地元では『大戸ヶ里城』があったという話もあります☆
環濠と記していますが、馬場政員も逃げ込んでいるという事から城館要素を存分に含んでいたと考えて良いのかもしれません☆
現在、集落内を濠が縫う形で名残を残していますが、現代の整備により濠幅は狭くなりその片鱗は闇の中となっています☆
2021年10月12日 龍馬備中守【】
合六城[陣の森城 周辺城郭]
佐賀県の多久市にある【合六城】♪合六集落を囲う様に濠が廻ります♪西に両子山系の北端の皆木山、松瀬山の麓を杵島渠が走りコレに沿う様な形で牛津へ向かって道が伸びます☆南流する牛津川の西側、多久と小城の境目にかつて存在した城郭です☆山間に挟まれた平地に合六城☆こんな場所に城郭?と非常に不思議な場所に城郭は立地☆小城、牛津方面より多久は梶峰城に抜ける、はたまた唐津方面に行く為の唯一の街道だったと思われる、この場所は小城と多久の境界線に位置☆監視の為の城郭?と言うには高さが無く廻りは山間だし、境界線を抑える為の城郭?なのか?にしては防御力に乏しくも思う☆何とも不思議な所にあります☆丹邱巴誌の『古城蹟』には『合六城趾松瀬郷六ニアリ』と描かれます☆この合六城は大友宗麟が佐嘉へ侵攻した際にそれに連携して有馬氏が小城郡へ侵攻☆この時に龍造寺隆信は、合六城を造り佐留志城主・前田家定を配置して守らせたと伝わります☆『丹坂峠の戦い』この戦いで肥前国へ侵攻して来た西肥前の覇者、有馬家☆この出来事から造られたのが合六城なのでしょう☆抑えの城郭として造られたにしては非常に無防備で詰の城郭を持ち合わせていたのか?調べてみたけど解らずでした☆合六城周辺の山間部には幾つか城郭は存在していますが、この丹坂峠の戦い時に機能したかはハテナ?だけど、立地的には高台を使わない手はありませんから間違いなく使ったと考えます☆今後調べてみます♪因みにこの有馬氏は西側の両子山に本陣を構えてます☆今更ながら…丹坂峠の戦いとは龍造寺隆信VS有馬氏の間に起こった戦いです☆有馬氏が小城郡へ侵攻☆有馬勢の侵攻ルートとして…芦刈侵攻(柳鶴戦、鴨打城攻囲)→牛津侵攻(大戸ヶ里戦、大橋口戦)→砥川制圧(雁津戦)→小城侵攻(丹坂峠の戦い)へと発展した戦です☆この戦は龍造寺隆信の勝利で幕を閉じます☆これを契機に肥前国で更なる存在感を示した龍造寺隆信☆丹坂峠の戦い以前は牛津川より西を越えて攻勢に出る事が出来なかった訳ですが有馬氏の敗北により平戸・諫早・武雄の有馬勢傘下の諸将らは離反☆これで西肥前に攻勢へ打って出れる様になりました☆肥前国、最大の逆転劇『今山の戦』で龍造寺隆信が小城衆を味方に付けて今山に転用出来たのも、その後、更に力をつけて、九州三強と呼ばれるまで、のし上がれたのも、この丹坂峠の戦いでの勝利があるからですね☆
2021年10月10日 龍馬備中守【】
鴨打城[陣の森城 周辺城郭]
佐賀県の小城市にある【鴨打城】♪現、宝泉寺を主郭とし、一の丸、二の丸、三の丸、西の郭を要して東側を福所江川で守り、北、南、西を濠で守り込んだ佐賀平野の平城と考えられています☆
松浦党一族で在地豪族・鴨打氏の城館になります☆
松浦党の鴨打家は小城の西千葉家に招かれていて、ここ芦刈に土着しました☆
中溝集落に立地する城郭の中に乙宮神社⛩があります☆この乙宮神社は戦国時代に領主・鴨打陸奥守胤忠が勧請したと伝わります☆
柳鶴の戦いでは鴨打城は有馬勢に包囲されたりもしました♪更には龍造寺隆信vs豊後・大友宗麟との間でおこなわれた『今山の戦い』では鍋島直茂の陣営に徳島盛秀らと共に馳せ参じました☆
実はこの鴨打城の場所は正確には分かっていません…☆乙宮神社、永林寺(鴨打氏館)とも伝わっていて第一候補地として、この宝泉寺を中心とした場所と思われます☆
【鴨打城】と永林寺、即ち鴨打氏館は個人的には1つの城郭と考えます☆主要部分は宝泉寺、鴨打氏館は外郭☆佐賀平野の城郭、城館の城域は予想以上に広いです☆それは、濠の回し方を見れば一目で分かります☆
肥前国長崎県小城郡村誌には『鴨打陸奥守城趾 村ノ東三本松籠ニアリ 今ノ乙宮神社 永林寺ノ地也 平田ニ連リ濠水繞ス 東面凡七十間 南北凡百五十間 残礎 廃井ノ旧趾タルヲ認ムル所無シ』と記されていて遺構は残っていないが、城郭の場所はこの文からそれとなく想像がつきました☆西側には土塁がかつて存在しましたが、今は残りません☆この土塁は西から来る有馬氏を牽制した土塁でしょう☆
さてさて、その後の鴨打氏は佐賀藩主・鍋島勝茂の息子である鍋島元茂の家臣として小城に移りました☆芦刈の歴史もまた面白いです☆
2021年06月13日 龍馬備中守【】
永林寺館(鴨打氏館)[陣の森城 周辺城郭]
佐賀県の小城市にある【永林寺館(鴨打氏館)】♪
周囲にはクリーク(濠)を巡らせた館跡は芦刈エリアに根を張った鴨打氏の館跡となっています☆
鴨打氏は松浦党の所属で肥前・千葉氏よりこの芦刈の地に招かれました☆
龍造寺隆信VS大友宗麟の今山の戦い時に鴨打胤忠と徳島盛秀は鍋島直茂の陣営に馳せ参じました☆
鴨打氏館はここ永林寺と宝泉寺と乙宮神社の3箇所にあったと伝わります♪
肥前国長崎県小城郡村誌には『鴨打陸前守城趾、村ノ東三本松龍ニアリ、今ノ乙宮神社、永林寺ノ地也、平田ニ連リ濠水続ス、東面凡七十間、南北凡百五十間、残礎・廃井ノ旧趾タルヲ認ムル所無シ』と残っていて城館の場所、濠のデカさ、現在は遺構はクリークのみ…と今を物語ります♪豪族・鴨打氏は徳島氏と共に後に小城藩主として鍋島家を支えていきました☆
因みに鴨打氏の墓は宝泉寺にあります☆
2021年06月13日 龍馬備中守【】
陣の森城
佐賀県の小城市にある【陣の森城】☆現在は看板とクリークの名残が残ってます♪別名を小路館とも呼びます☆佐賀平野の平坦地に築かれた肥前千葉氏の一族である徳島氏代々の居城です☆
昭和の調査では15世紀〜16世紀にかけての土器類が多数検出されていて更に鎌倉期の遺物も発見されています♪
芦刈エリアは徳島氏と鴨打氏の領内になっていて徳島氏は肥前・千葉氏の一族としてこの地を任されました☆
後に敵対して行く鴨打氏は千葉胤繁が招きました☆この鴨打氏は鎌倉時代に元は松浦党に属します☆
鴨打氏を芦刈エリアに招いた理由は往時、千葉、千葉同士が抗争(お家騒動)を続けていた事と有馬・渋江の両氏に対する備えを固めようとした事によるモノです☆
同時期に徳島氏も芦刈エリアに入部していて以後、鴨打氏と徳島氏は敵になったり味方になったりしながら戦国時代を生き抜いて行く事になります☆
互いに千葉氏、龍造寺氏、鍋島氏と時代の流れに合わせ主君を変えて行きます☆近世に入ると、この徳島氏と鴨打氏は共にw小城藩主となり鍋島家を支えて行きました♪仲良しですねw
因みに近隣の福田寺は徳島氏の菩提寺となります☆五輪塔は徳島氏の物と思われます☆
2021年06月13日 龍馬備中守【】
神代氏芦刈館[陣の森城 周辺城郭]
佐賀県小城市の【神代芦刈館】♪神代と書いて『くましろ』です☆出自は高良大社の大宮司を務めた名族・物部氏から分かれた一族で、神代勝利の父・宗元の代で没落し肥前・千布村に流れました☆元々は熊代と名乗るも神仏の関係か?後に神代と名乗ります☆神代氏で有名なのは神代勝利☆幼い頃は肥前・千葉氏に養われ…その後、三瀬城主・野田宗利に請われ剣術師範に!更に三瀬・山内を含む一帯を治める事を推挙され結果『山内二十六ヶ山の総領』として豪族らを束ね、後に少弐氏の家臣に♪戦国中期には龍造寺隆信とバチバチの仲に☆元々主君は同じ少弐氏ですが色々あり…隆信の祖父と父が主君・少弐氏への謀反を疑われ誅殺された事で隆信は少弐氏を滅ぼします☆家臣である土橋栄益が隆信の失脚を図り村中城(現佐賀城)攻の際、コレに協力したりと神代勝利は反龍造寺派へ☆ピンチに陥ると柳川城の蒲池氏を頼る隆信は、この時も柳川で挙兵☆対する神代勝利は八戸宗暘の八戸城で防戦するも打ち負け隆信と和睦☆自領の山内へ退きましたが、、和睦した筈なのに隆信と再び対立☆神代勝利は龍造寺領の諸所を放火し抵抗します☆そんな神代勝利を排除すべく龍造寺家臣・小河信安は神代勝利の千布城の湯殿に侵入し暗殺を謀るも、、神代勝利は宴の真っ最中☆不審者を発見した女中が注進するも「そのような者は小河筑前しかおらぬまい。こちらに呼べ」と酒を酌み交わしましたw色々あった結果、隆信の配下になります☆もう一つ♪こんな伝承が…神代勝利は隆信と多布施館で和睦のため会見☆その際、隆信は神代勝利の毒殺を謀るも神代側近の馬場四郎左衛門の機転で事なきを得ます☆帰り際に神代勝利は隆信の愛馬に飛び乗り歌を歌いました☆「おどま山からじゃっけんノーヤ、お言葉も知らぬヨウ、あとで御評判な頼みます」コレはノーヤ節という歌としてこのエリアに残ります♪隆信らが呆然とする中を神代勝利は意気揚々引き上げましたw城館の詳細は…築城年代は定かではありませんが戦国末期でしょう☆神代氏により築城☆山内の雄として隆信と争った神代勝利が隆信と和議を結びその所領は山内から芦刈へ☆和睦後は芦刈・川久保・納所・松瀬など一万石を領した神代氏☆それを当地する為に芦刈館が築かれたと思われます☆「館屋敷」と呼ばれる区画が公園の東に残り、これが主要部でしょう☆北東の鈎状に折れた水路は堀の名残と伝わります♪神代勝利♪ 面白い武将です☆
2021年06月13日 龍馬備中守【】
徳島城[陣の森城 周辺城郭]
佐賀県の小城市にある【肥前・徳島城】クリークを駆使した水城になります♪
肥前千葉氏(下総千葉氏)の庶流の徳島氏の城郭です☆徳島氏は千葉胤繁の孫・義胤が芦刈に土着して徳島氏を称した事から始まります☆
最初に文献に登場する徳島氏は鴨打氏と戦って敗れました☆
その後出てくる徳島氏は有馬義貞が佐賀へ侵攻した時で龍造寺軍に力添え☆丹坂峠の戦いで有馬軍と激突しました☆この時、徳島孫八郎盛秀は龍造寺軍の先鋒として戦っています☆この戦いは龍造寺軍が策略をほどこしていて有馬一族の島原弥七郎を柳津留の入江に誘いこみます☆徳島胤時・鴨打胤忠・持永盛秀らの千葉勢は柳津留の入江に進んできた島原の軍勢を散々に打ち破ります☆この戦いの結果、肥前の豪族たちは次々に龍造寺氏に味方し有馬氏はついに東肥前攻略をあきらめて島原へ引き上げていきました☆その後千葉胤連は龍造寺氏の客将になって小城郡の高田城に配されました☆徳島氏は龍造寺氏麾下の部将となっていきます☆
今山の戦い時の大友軍・佐賀侵攻に先立ち龍造寺隆信と鍋島直茂の妻子を芦刈の徳島館に避難させています☆この『徳島館』が徳島城、もしくは近隣の陣の森城と推測されてますが、解ってません☆この戦いでも徳島盛秀は鍋島直茂に従って大友軍の籠もる今山を急襲し龍造寺軍の勝利に大きく貢献しました☆
戦国末期に徳島氏は芦刈に在住していて江戸時代には小城・鍋島家の家臣となりました☆
徳島堀と呼ばれるものがこの集落に残るのですが、これが徳島城の外堀と伝わります☆正解な縄張りは不明です☆「つき山観音」と呼ばれる土壇が残り、この辺りが徳島城の主要部分と伝えられています☆直ぐの東にある陣
の森城と共に徳島氏の城館だと思われます♪
2020年03月27日 甲斐宗運
陣の森城
ちかくの福田寺で、陣の森城、肥前七城芦刈城の御城印と、坊主原の戦い(徳島盛秀×鴨打胤忠)の古戦場印があります。
2020年03月27日 甲斐宗運
陣の森城
写真の中に二枚、鴨打氏の芦刈城(宝泉寺)の掲示板がアップされています。徳島氏の陣の森城と混同してらっしゃるようですが、まったく別の城です。
芦刈城とは本来は、神代氏の肥前七城の芦ヶ里城です。豊臣秀吉の朱印状にあります。徳島氏の陣の森城も小城藩着到では芦刈城とあります。
鴨打氏の城が公に芦刈城と誤記されるようになったのは明治時代以降、佐賀藩がなくなり長崎県だった時代からです。
徳島氏の陣の森城は、芦刈町芦溝(小路)の農村公園にあります。
小城市は、そろそろきちんと芦刈城の名前を訂正してくれないと歴史ファンに迷惑ですね。
2020年03月27日 甲斐宗運
陣の森城
陣の森城は徳島盛秀の城で、ちかくの福田寺に御城印があります。
徳島が有馬家に属したとよく書かれますが、実際には西千葉家の部将で戦国時代には自立していました。少弐方に属して龍造寺に敵対。久保田町の窪田氏を制圧しますが龍造寺に討伐され降伏し、龍造寺に属するようになりました。
すぐ近くには神代家の芦刈城(芦ヶ里城)もあります。