須古城(すこじょう)
須古城の基本情報
通称・別名
- 高城、隆城
所在地
- 佐賀県杵島郡白石町大字堤字堤
旧国名
- 肥前国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 平井氏
築城年
- 天文年間(1532〜1555)
主な改修者
- 龍造寺隆信
主な城主
- 平井氏、龍造寺氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、石垣、横堀跡
指定文化財
- -
再建造物
- -
周辺の城
-
おつぼ山神籠石(佐賀県武雄市)[4.4km]
潮見城(佐賀県武雄市)[5.7km]
常広城(佐賀県鹿島市)[6.7km]
佐留志城(佐賀県杵島郡)[8.0km]
塚崎城(佐賀県武雄市)[8.2km]
梶峰城(佐賀県多久市)[8.2km]
鹿島城(佐賀県鹿島市)[8.6km]
蟻尾城(佐賀県鹿島市)[10.3km]
陣の森城(佐賀県小城市)[12.2km]
湯野田城(佐賀県嬉野市)[14.9km]
須古城の解説文
[引用元:Wikipedia「須古城」の項目]
須古城(すこじょう)は、佐賀県杵島郡白石町にあった戦国時代の日本の城。平井氏の須古城、杵島城、男島城の3城での連携した防衛体制により難攻不落を誇り、佐賀県下でも最大規模の城郭群を成している。高城、隆城とも。
歴史
室町時代は、平井経治など平井氏の居城であった。4度にわたる龍造寺氏の猛攻により、天正2年(1574年)についに落城した[1][2][3]。
平井氏滅亡後に龍造寺隆信が城に居を移した。隆信は城に大規模な改修を行い、曲輪、土塁、防塁、2重の堀、虎口などを新しく備え、東西長軸560m・南北長軸580mまで拡大し、佐賀県最大の平山城となった。改修の結果、北部九州を実質統治支配した重要な拠点となる。
戦国時代は、須古城の龍造寺氏は大友氏、島津氏と共に九州三大名として九州を支配していた。隆信は須古城から、肥前・肥後・豊前・筑後・筑前国を支配し、須古城は大領国の首都となった。
天正12年(1584年)の沖田畷の戦いで隆信が戦死すると、隆信の弟・龍造寺信周が城主となった。
後に佐賀藩が成立すると須古城は須古鍋島家の居館として整備され、城としての役目を終えた。
城下町
現状
国指定史跡を目指して令和2年(2020年)から白石町が須古城の発掘調査を行っており、発掘調査の結果、陶磁器や、戦国時代のものと見られる瓦が大量に発見され、須古城に瓦葺の建築物があったことが証明された。
画像集
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須古城の口コミ情報
2024年09月26日 城社まにゃ日向守柴田軍織田
須古城
失敗談。8/23の2城目、登城口駐車場で朝食とってましたらゲリラ?豪雨、仕方なし傘差して登る右手の切岸が見事、櫓台天気がよければ眺め好さそうと考えてた。知らなければ自然の工作かとも思います。
円に近い丸い山、順路とか良く整備され主郭まで崩れ防止?ステップ?の砂利詰めビニール袋は激雨に中の砂利ごとズレる感じで何とも言えない滑り方します。帰りは、除けて降りました。
大きな岩が立て掛けて在るような切り残しの岩かはわかりません。主郭には岩ステージみたいな銃弾除けに須古城の赤い旗が良く目立ちます。リアル攻めも終わり虎口観たりして往路を戻って四阿で軽く休憩、雨も当たらずベンチに蟻も歩いてなく蚊もいなく平等院の四阿に似た六角形状で落ち着き、須古城の復習することなく、次の城メグに頭がいっちゃいました。
石垣も櫓台も観ること無く····また、いつか来ようと今は、考えてます。有明海の珍味食べたり須古城周辺城跡などと
2024年02月20日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
樺島山城[須古城 周辺城郭]
佐賀県の杵島郡にある【樺島山城】♪城の北側を長崎街道が走り、東は佐嘉方面、西は武雄方面へと続きます♪同様に六角川も東西に流れます♪北側は多久に接し南東側は白石平野が広がります♪
そんな交通の要衝地である椛島集落ですが、集落の中央に人家と水田に囲まれた丘陵椛島山があり、縄文時代の中期頃までは有明海の島だったと推測されます♪
この麓からは黒曜石の石核が出土していて、丘陵上からは弥生時代の甕棺と石棺が見つかっています♪
なお、『樺島』『椛島』いずれも『かばしま』です♪慶長絵図には『椛島』で描かれ、正保絵図には『樺島』で描かれます♪
時代感によって使用される漢字って何故にその時によって変わるんだろうか?
まぁいっかw
平安時代後期は長島庄で蓮華王院領です♪
鎌倉時代には長島庄惣地頭・橘薩摩氏の所領となり、室町時代には塚崎・後藤氏の所領となります♪江戸時代には佐賀藩領です♪
さて♪樺島山城です♪築城年代は定かではありませんが、永禄年間(1558年~1570年)頃には後藤氏の番城として馬場豊前が在番しています♪場所的に塚崎後藤領の入口的な場所に当たります♪その後、天正年間(1573年~1592年)頃には龍造寺氏の番城となっていた様です♪
樺島山城は南北に2つ峰を持つ独立丘陵地に築かれています♪北側が1番高い標高となり50mの独立丘陵地となります♪このピークを中心に段郭が連なります♪麓の北側には六角川がありコレは天然の濠でしょう♪
須古城同様に、平野部に堀を入れていた可能性は多いに考えられます♪集落を囲う様に堀が取り巻く環境は肥前アルアルです♪
西側の集落側の谷間部が大手かな?
北郭側鞍部には現在若松神社が祀られています♪
2024年02月18日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
小通砦[須古城 周辺城郭]
佐賀県の杵島郡にある【小通砦】♪小通集落にあったクリーク城館となります♪現在、小通砦には僅かに堀割の跡?が残る程度でその他に遺構は残りません☆
標高467mの聖岳を多久との北の境にして、北側には長崎街道が走り、東西に六角川が蛇行しながら東流し有明海に流れ出します♪
蛇行する六角川が砦の東西、南側を囲います♪更に六角川の南側には白石平野が広がります♪長崎街道に通じる小道があった為、小通と云う名前になったと考えられています♪
平安時代後期は、蓮華王院領、鎌倉時代には大町庄となり、宇佐八幡宮の社領です♪
室町時代には橘薩摩氏の一族である牛島氏の所領となっていますが、戦国末期より龍造寺領となっています♪
この砦が築かれたのは永禄6年(1563年)龍造寺隆信が、有馬氏との抗争の最中による築城と思われます♪立地的に南側の六角川を天然の堀として、戦った事でしょう♪
同永禄6年(1563年)丹坂峠の戦いで有馬軍に勝利した龍造寺隆信は、その後、西肥前へ侵攻を掛けています☆
有馬方であった須古城の平井氏を攻めます ☆第一次須古城攻めです☆龍造寺隆信は福母の北小山に陣を張り、その南の六角川沿いに諸勢を備えました☆小通砦はこの一環なのでしょう☆一方、須古城主・平井経治は佐嘉勢が攻め寄せると聞くと、一族の川津経忠、平井刑部大輔、本田純秀、本田純親、白石純通らを遣わし福母の大橋口で防戦させました☆第一次の際は平井勢の猛攻にあい、龍造寺勢は退いています☆この時に大友方が佐嘉へ攻め入るという注進もあり、龍造寺隆信は佐嘉城に引き上げました☆
この時、龍造寺氏は小通村の屋敷を砦に造り変え、佐留志城の前田氏、井元氏に守らせました♪今は集落のみが残っています♪
2024年02月12日 じらい左衛門佐
須古城
令和6年2月11日に開催された発掘調査報告会に参加しました。須古城は龍造寺家の中心的城塞だと聞いていましたが、史跡としての利用がさらに遡ることがわかりました。
山頂の主郭から出土した物の中に、戦国時代以前の物が発見されました。12世紀の中国の陶片や、さらに弥生式土器の破片があったのです。
佐賀平野の西部にポコっと盛り上がっているので城の周囲は見晴らしが良く、佐賀城まで視認できるとのこと。
少なくとも約2000年前から人々がこの地に拠っていたのかと思うと、物凄く感動しました。
2024年01月30日 陸奥守新九郎
須古城
あまり知識がありませんが、面白いお城です。長年にわたって龍造寺隆信を退けたという難攻不落さよりも、その後この城を拠点に本拠整備を行ったという点に興味を覚えました。
2023年11月18日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
大崎館[須古城 周辺城郭]
佐賀県の武雄市北方町にある【肥前大崎館】♪現在は大崎八幡神社の場所となります♪北は多久に抜ける場所であり前多久氏の梶峰城♪東は白石方面で平井氏の須古城♪西は後藤氏の塚崎城♪南は橘薩摩渋江氏の塩見城♪という戦国時代には佐賀西部の諸将がひしめき合うエリアです♪低山に囲まれ、武雄から続く盆地内の北方には徳連岳☆徳連岳の南麓の低丘陵地に居館跡は存在します♪南側には武雄川と六角川が合流しています♪また、眼下には長崎街道も走ります♪
築城年など不明な大崎館ですが、城主は橘薩摩一族の大崎氏と考えられています♪
鎌倉時代、鎌倉御家人であった橘薩摩公業は嘉禎2年(1236年)長嶋荘の惣地頭として入部し泉台(現武雄市)に館を構えて土着しています♪
正安3年(1301年)には長嶋荘内大崎村を巡り橘薩摩公遠と橘薩摩公員(公蓮子息)、子の公綱とに相論が起こり、橘薩摩公員と公綱の大崎村知行が承認されています♪
コレによって橘薩摩公員と公綱の知行した長嶋荘惣地頭職は7か村の村地頭職に分割されて、大崎・大渡・河上の3ヶ村を上村として橘薩摩公員に志保・江・牛嶋・中村の4ヶ村は下村として後家に公蓮の死後相伝されています☆この橘薩摩公員系の橘薩摩氏の家系は、後に宮福氏・大崎氏・大渡氏等を称しています♪この大崎館の城主とされている、大崎氏の事です♪
戦国時代後期には、この橘薩摩一族が衰退した後に天正年間頃に龍造寺氏が平井氏(須古城攻め)、後藤氏との戦いの際に此処に砦を築いていたとも伝わっています☆
2023年08月20日 金氣大宰少弐次郎三郎
須古城
須古城の旗が立ててあって、白石町さんが遺構保存に頑張ってるのがわかりました
2023年05月27日 yasu
須古城
須古小学校の裏山みたいな位置付けになってますが、結構草が伸びてます。山に登る人なら何てことはないでしょう。
山頂の屏風岩は中々のインパクト‼️
2022年07月21日 大納言Z周防守369
須古城
須古小学校に隣接する公民館に自動車駐車スペースあり。30分弱で廻れます。
但し、夏場は蚊🦟が多く発生しているのと、中段部はジャングルになっている箇所もあるので肌露出のない服装で行くのがベスト。
2022年04月07日 ふうふう
須古城
攻略可能範囲がとても狭かったので気になってリア攻めしました。平地の中にポツンと突き出た小高い丘。歩きながら、これは「難攻不落」の城だなと実感しました。十二年に亘る4回の城攻めでようやく落とせたとのこと、さすが。龍造寺隆信が居城にしていたのがわかる気がしました。リア攻めするにはちょうど良い素晴らしい城跡です。
2021年10月26日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
六角判官屋敷[須古城 周辺城郭]
佐賀県の杵島郡の白石町にある【六角氏館】☆有明海の海退に伴い開拓された六角集落は室町時代には名族・須古城の平井氏の所領となります☆戦国末期には龍造寺隆信の領有へ☆更に江戸時代の初めには龍造寺系の須古鍋島氏の領有へと変化していきました☆
この六角集落の北側には地名の由来かな〜?六角川は大きく湾曲する南側に集落は存在していますが、鎌倉時代に水害防止の為に堀削したと伝承が残ります☆
有明海に流れ込む六角川ですが満潮時の逆流に対する速度を調節する為の工事だったのかなぁ〜?川の形が変です♪明らかに人的な力が加わってます☆
さてさて、この居館ですが『佐賀県の中近世城館』に六角氏の居館として登場しています☆この六角氏館ともう一つ近くに六角判官屋敷と2つあるのですが、何方が六角氏の居館か?分かってないんです☆六角氏館とされる場所は六角氏の墓がある場所と六角神社がある付近とされています☆
『杵島郡史』の六角神社明細書に『宇礼志乃某六角判宮として此地に来る』と残ります☆因みに此処で言う宇礼志乃は嬉野温泉で有名な嬉野の事でしょう☆
また六角集落にある延命寺の墓にある六角判宮の墓石には『周防守』と刻銘が残ります☆六角判宮は六角支配の役職名称です☆
龍造寺家の幕下であった六角喜左衛門の知行記録には『六角の城主』とも記されています♪集落全体が城館として機能したのでしょうね♪
江戸時代には長崎街道の宿場町、六角宿もあり佐賀藩主が杵島山での鷹狩りの際のお立ち寄り所となっていました☆更に文化3年(1806年)藩主・鍋島斉直が、長崎警固見回りにこの六角宿に宿泊したと記録が残ります☆集落を囲う様に濠の名残が残ります☆
2021年10月25日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
秀氏館[須古城 周辺城郭]
佐賀県の杵島郡の白石町にある【秀氏館】♪現在は八坂神社境内が秀氏館と伝わっており北と東の水路は濠の名残として残っています☆龍造寺隆信の家臣だった秀伊勢守に知行地として与えられたこの場所に秀氏は居館を構えました☆在地領主としてこの地に生きた秀氏ですが、慶長16年(1611年)初代・佐賀藩主・鍋島勝茂によって一族は滅亡に追い込まれました☆
秀氏館のある八坂神社は白石八坂神社で白石のぎおんさんと呼ばれます♪
昨日口コミした秀屋形は鍋島勝茂の鷹狩りの際の別邸です☆この別邸に対して鍋島勝茂は秀氏館の場所に鬼門鎮護の為に須古集落にあった八坂神社をココへ遷宮して祭祀しています♪
2021年10月24日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
秀屋形[須古城 周辺城郭]
佐賀県の杵島郡の白石町にある【秀屋形】♪
昔の名前は秀村として出てきます♪
多良往還が通り有明海の西岸を諫早に至る沿岸沿いに集落は存在します☆
戦国時代には龍造寺隆信の家臣・秀伊勢守に知行地として与えられていて昔の呼び名の秀村の『秀』はココからきたと伝わります☆
干拓工事の際に掘割が造られて、有明海から舟の運行が可能になり、室町時代以降、港となっていて後に『秀津』と呼ばれる様になります♪広い平野(白石平野)では米や蓮根の積出港として重宝されました☆
此れにより、秀津に住む住民達は天役免除(お上からの仕事の免除)などの特権が与えられていました☆
戦国時代には須古城主・平井氏の所領になっていますが、末期には龍造寺隆信に攻め落とされ、その治下になっていきます♪
江戸時代には初代佐賀藩主・鍋島勝茂が此処に居館を構え【秀屋形】鍋島勝茂の鷹狩用の別邸として使用したと伝わります☆慶長19年(1614年)から着工していますが、完成時期は不明となっています☆
鍋島勝茂の没後は使用されていなくて荒廃していた様です☆綺麗に濠が残っていました♪
2021年10月23日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
島津城[須古城 周辺城郭]
佐賀県の杵島郡の白石町にある【島津城】♪比高10m位のの独立丘陵に築かれています☆
白石五郎通益によって築かれたと伝わります♪この白石氏の初代・白石五郎通益は平治元年頃に肥前で兵を起し平清盛の家臣・筑後守平家貞に討ち取られた日向太郎通良の子と伝わり白石郷を与えられて御家人となり白石姓を名乗りました☆須古城を築城し妻山・稲佐・室島の各支城を築いたとされています☆
また時が進み…白石氏の6代目の白石六郎通泰は元寇が襲来した文永の役時に博多方面の戦闘で窮地に陥った肥後国の御家人・竹崎季長を救援するなど活躍♪
先頭の旗差に続き弓を構えた白石通泰と他、8騎が蒙古襲来絵詞に描かれ、その詞書には『季長以下三騎痛手負ひ馬射られて跳ねしところに肥前国の御家人白石六郎通泰後陣より大勢にて駈けしに蒙古の軍引き退きて麁原に上がる。馬も射られずして夷狄の中に駈け入り通泰続かざりせば死ぬべかりし身なり。思いの外に存命して互ひに証人に立つ』と記される位、勇猛な武人様でありました☆
旗差の持つ白旗には白石氏の家紋である鶴亀松竹等の描かれた丸団扇も描かれます☆
遺構としては独立丘陵を2つに切った堀切が残ります♪砦の顔をした島津城は丘上(比高10m位)東西2つの郭に分かれてます☆生活の基盤はこの下で成り立っていたのでしょうね☆島津城の碑、天満宮が残ります♪
2021年10月20日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
妻山城[須古城 周辺城郭]
佐賀県の杵島郡の白石町にある【妻山城】♪南北朝時代には南朝方の白石氏の妻山城が存在♪北朝方の九州探題・今川了俊の攻撃を受けています☆ただ今回の話は戦国時代☆領主・平井統治の城郭・須古城の北側にある妻山城♪須古城の戦いの際には鍋島直茂が陣を張った場所がこの妻山城です☆今回はこの平井氏にスポットを当ててみます♪有馬晴純はその当主・平井経治に娘を娶せて婿にし杵島郡の数千町を与えその境目を守らせます☆須古城は幾度となく攻め入る諸将を撃退した難攻不落の城郭♪ 1度目の須古城攻めは豊後大友宗麟が有馬氏へ龍造寺隆信により滅ぼされた少弐氏を再興する為の協力を打診した事によるものです☆此れにより有馬晴純は龍造寺隆信討伐の軍を発起するも…龍造寺隆信軍は先に仕掛けます☆有馬勢はこの須古城主・平井経治と塚崎城の後藤貴明に助勢を求めています☆更に龍造寺勢に居城を落とされた多久宗利が平井経治を頼ります☆ここぞ!とばかりに龍造寺隆信は今度は平井経治を攻めるべく納富信景・鍋島直茂に2千の兵を与え進軍☆平井経治は居城の須古城から出陣☆これを迎え討ち散々に打ち負かした上に追い打ちを掛けています☆防衛に成功☆その後、塚崎城主の後藤貴明が平井経治の領地へ侵攻してきた際も平井経治は返り討ちにしています☆2度目の防衛に成功☆諦めない龍造寺隆信は再び須古城へ兵を差し向けます☆コレは丹坂峠の戦い後に起こった須古城の戦いです☆丹坂峠の戦いにより西肥前を手中に入れたも同然の龍造寺隆信♪この時、平井統治は迎撃するも押されて須古城へ退却☆ただ…須古城は難攻不落で城攻めの難儀を悟った龍造寺隆信が和睦を提案☆平井経治もこれに応じました☆平井経治の弟の直秀に龍造寺隆信の養女を娶せ須古城の大溝や土手を崩す事を約束して和睦が成立…。コレは…☆マズイやつですね…龍造寺隆信は平井経治が尚も異心を抱いていると…平井経治討伐に動きます☆平井経治は弟の直秀と共に打って出て数日凌ぐも徐々に押され須古城へと退却☆鍋島直茂は堅城である須古城を落とす為に直秀を説き伏せ平井家臣の殆どを龍造寺方に寝返らせました☆是非も無し☆平井経治は藤津郡の吉田へと落ち延びるもすぐ叔父の新宗吟と共に弟・直秀を攻め滅ぼし須古城へ復帰☆コレを聞いた龍造寺隆信は…すぐ様、須古城へ平井経治討伐へ出陣☆戦は一月余り続き粘るも平井経治は敗れ須古城も落城☆戦に敗れた平井統治でした☆
2021年10月17日 朔筑前守兼成
須古城
駐車場の所にパンフレット(2種類)があります。整備はされていますが、危険箇所(急斜面)には注意が必要です。蚊と蜘蛛が多いので気をつけてください。
2021年09月20日 織田上総介晃司
須古城
車は須古小学校となりの三近堂コミュニティセンターに停めることができます。パンフレットもありますのでゲットしましょう。
駐車場から登城口があります。
一見こぢんまりした山で順路もあり軽装で大丈夫…
と思えますが、石垣を見ようとすればデンジャーゾーンに踏み入るようになりますので、そこそこの装備が必要となります。
2021年05月16日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
小島城[須古城 周辺城郭]
佐賀県の白石町にある男島城☆呼び方によっては小島城とも呼びます☆龍造寺隆信の4度の猛攻により落城した平井氏の居城・須古城の支城になります☆
須古城の周辺には幾つか支城群が在って東側にこの【男島城】西側に【杵島城】と佐賀平野の中に独立丘が2つ残ります☆
往時、杵島城のある須古城の西側は百町牟田という低湿地帯に兵の展開は容易ではなく敵の侵攻ルートとなっていた東側の男島城が須古城を守る重要な拠点になっていました♪
第4次須古攻めによって須古城は落城してしまいます☆守るは平井刑部☆
攻め手は龍造寺隆信の異母弟「龍造寺信周」が約2千の兵を率いて男島城を攻撃☆
龍造寺隆信の重臣である鍋島直茂は北側で須古城の正面から攻撃に参加しました☆
第4次に至るまで、攻められた須古城☆それに支城群☆長く続いたこの戦いは須古城、男島城、杵島城の3つの城郭は強く連携を図り攻め手目線からは立地がいかに厳しかったかを物語ってます☆
杵島城側は低湿地帯になっている以上は須古城とこの男島城の間に城下町、集落を形成して須古城周りを守っていたんでしょうね☆(現在もこちら側に集落があり)
男島城から須古城に向かう途中に乱れ橋という橋が残ります☆
ここで数多くの犠牲者が出た様でこの名前が付いたと伝わります☆
即ち、須古城は男島城がある東側から崩れていったという事なんでしょう☆
その後は須古城は龍造寺隆信の隠居城となっていきます☆
遺構は削平地のみです☆ただ、見張るだけ、ただ、戦うだけの高まりだったのかな〜??
Google先生よりw黒マルの囲いは【杵島城】中央に須古城で西に【男島城】矢印の所にあるのは龍造寺の陣城で鍋島直茂の侵攻ルートは北側からです☆
2021年05月16日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
杵島城[須古城 周辺城郭]
佐賀県の白石町にある杵島城☆須古城の西側を守る支城は独立丘の上に存在しました♪現在は杵島神社が在って須古・鍋島家を祀っています☆
城主・平井氏の支城群は西側に立地していて往時、百町牟田という低湿地帯が広がっていました☆
この肥前・平井氏は中九州の大友氏、南九州の島津氏と並ぶ鎌倉時代以来の三守護家で北部九州の大部分に太宰府を統括した名族「少弐氏」の同族になります☆肥前・千葉城の千葉氏の家臣になって有馬氏に支え、この地へ配された事に始まります☆
戦国時代には須古周辺を支配していて1万余騎を従える地域の一大勢力を誇ったと伝わります☆
婚姻によって杵島の地にいた平井経則は有馬氏に寝返りました☆千葉氏や更には本家・少弐氏とも対立していく位に勢力を拡大しました♪北部九州の覇者となる龍造寺隆信から4度に渡る【須古城の戦い】の攻防を受けてしまい落城し滅亡しちゃいました☆
残された平井氏の遺児達はその後肥前国を治めていく鍋島直茂により鍋島家で召し抱えられました☆その末裔様は蓮池・鍋島藩に末長く仕えました☆
遺構は削平地のみ☆
独立丘の下は湿地帯の名残を残します☆
本城の須古城♪バッチリ見える場所です☆石垣、石積みは神社のものかな〜??
2021年01月03日 こにゃんこ武将
須古城
小学校裏の駐車場からリア攻め開始です。本丸までは10分かからずにつきますが途中振り返ると眺望の良さに行軍速度が落ちるので注意が必要です。本丸は広く、一時とはいえ龍造寺領国の中心地にふさわしいお城だなぁと感じました。本丸から佐賀平野を見渡せばこのお城を欲してやまなかった戦国大名龍造寺氏のお気持ちに近付けた気がしました。たぶん気のせいですね。
2020年12月07日 刻印爺弾正忠抱杏葉
須古城
以前訪れた時からさらに整備されており、まわりやすかった。石垣や石塁とかはなかなか見にくいです。矢穴が残る石や見どころは沢山あります。
2019年06月19日 虹雷 大宰大弐 サンダー
須古城
龍造寺隆信時代の石垣。曲輪B、かなり危険なゾーンです。ずいぶん手入れしてありますご、全体的に竹が凄いことになってます。底の薄い靴は危険です。登山用のシューズで!
2011年11月12日 鷹征夷大将軍鍛治
須古城
須古高城(別名、隆城)は有馬家家臣平井氏の居城です
須古小学校に隣接する須古三近堂コミュニティセンター裏の駐車場から登城出来ます