鹿島城(かしまじょう)

鹿島城の基本情報

通称・別名

鹿島新城、鹿島館、鹿島陣屋、鹿州城、高津原屋敷、高津原館、水避御殿

所在地

佐賀県鹿島市高津原字城内(鹿島高校)

旧国名

肥前国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

鍋島直彜(なおのち)

築城年

文化4年(1807)

主な改修者

主な城主

鍋島氏

廃城年

明治7年(1874)

遺構

曲輪、門、櫓、石垣、横堀(水堀)

指定文化財

県指定(赤門、大手門)

再建造物

説明板

周辺の城

蟻尾城(佐賀県鹿島市)[2.0km]
常広城(佐賀県鹿島市)[2.1km]
須古城(佐賀県杵島郡)[8.6km]
潮見城(佐賀県武雄市)[8.9km]
おつぼ山神籠石(佐賀県武雄市)[9.0km]
湯野田城(佐賀県嬉野市)[10.5km]
塚崎城(佐賀県武雄市)[11.8km]
佐留志城(佐賀県杵島郡)[14.9km]
鳥甲城(長崎県大村市)[15.6km]
梶峰城(佐賀県多久市)[16.7km]

鹿島城の解説文



鹿島城(かしまじょう)は、佐賀県鹿島市高津原城内にあった日本の城(平山城)。

立地・構造 

佐賀県鹿島市の多良岳の北東にある山地東端の丘陵上に位置する。高津原と呼ばれる丘陵は鹿島川に相対し標高は10 - 30 m程度ある。外郭は南北650 m・東西370 mで、家臣屋敷地も含まれ、その領域は後に郭内と呼ばれ、現在の自治区である城内区とほぼ同じ。本丸は南側の高所にあり、高津原屋敷や鹿島館と呼ばれた。支藩の政庁のため表向きは屋敷や館(陣屋)と称する一方、城郭の性質を備えていた。後年は「鹿島城」の通称が広まっている[1][2][3][4]

堀および大きな柵のある土塁を巡らせた城構えで、石垣は一部だけに配置されていた。建物は高いものでも2階建てだった。現存する大手門と赤門は佐賀県重要文化財に指定されているが、共に装飾金具の少ない簡素な造りの反面複雑な木組で、小藩としては大きな門構えであった。他に裏手の搦手門、東西の東門・西門があった。大手門と赤門の間は鍵型に曲がる登城路で、これに面して家臣屋敷があった。登城路と部分的に残る土塁は当時の景観を伝えるほか、本丸南には武家屋敷も残っている[5]

歴史 

佐賀藩の支藩である鹿島藩は初代・鍋島忠茂から9代・直彝まで常広城にいたが、鹿島川と塩田川の間の沖積地のため水害を受けることが多かった。このため直彜は文化元年(1804年)に幕府と本藩に移転を願い出て、翌文化2年(1805年)5月に許可を得た。常広城の居館を移転し、文化4年6月(1807年)に鹿島城は完成している。なお、翌文化5年の竣工と判明している赤門の例が示すように、一応の完成を見た後にも工事は行われたと考えられる。文化6年には歴代鹿島藩主を祀る松蔭神社も常広城内から遷座した。

その後1874年(明治7年)の佐賀の乱の際に鹿島城は焼失した。官軍の侵攻を目前にして藩士が自ら火を放ったと伝えられている。現在、跡地は本丸周辺が佐賀県立鹿島高等学校赤門学舎、武家屋敷地が鹿島高等学校大手門学舎(旧佐賀県立鹿島実業高等学校)、東部が旭ヶ岡公園になっている。

遺構・文化財 

赤門

高津原屋敷の表門で本丸御殿の正門にあたる。切妻造・桟瓦葺の薬医門で、向かって正面右に番所が付属、両側に漆喰塗りの土塀が続く[6]

丹塗りのため「赤門」と呼ばれるようになった。現在は鮮やかな朱色で、古い時代にはベンガラ色だったが、丹塗りが建築当初からなのかは判明していない。

赤門は領主の門であり、藩士はその傍の通用門を使用したとされる。現在は鹿島高等学校の校門として使用されており、1932年(昭和7年)からその名を冠して学校祭は「赤門祭」と称している。

修理が行われた際に「文化五戊辰閏六月廿八日」の日付を記した棟札が発見されている。その後「鹿島城赤門及び大手門」として1958年(昭和33年)1月23日に佐賀県重要文化財に指定された。続塀と棟札が附指定されている[7]

大手門

正面入口の門。切妻造・本瓦葺の高麗門で、背後に小屋根付きの控え柱が付き、赤門と同様に両側に漆喰塗りの土塀が続く。

1952年(昭和27年)の塗り替え以降現在まで丹塗りだが、それ以前は黒く塗られていた。

赤門とともに1958年佐賀県重要文化財に指定されている。

武家屋敷

城域内で搦手門に至る坂道は、片側が本丸部の堀と土手、向かいが武家屋敷の塀と門となっており、城下の静かな景観を残す。

茅葺きの屋敷は幕末期の家老原忠順の居宅で、鹿島市内で唯一残る家老屋敷。その欅を用いた素木造の門は「武家屋敷棟門」として鹿島市重要文化財に指定されている。門は1985年8月に台風で倒壊した後再建されている[8]

参考文献 

  • 【書籍】「鹿島市史 中巻 」
  • 【書籍】「角川日本地名大辞典 41.佐賀県 」
  • 【書籍】「佐賀県の歴史散歩 」
  • 鹿島市の文化財(https://www.city.saga-kashima.lg.jp/main/298.html)、鹿島市(鹿島市教育委員会・発行『鹿島市の文化財 ふるさと歴史探訪』より抄録)

鹿島城の口コミ情報

2024年06月15日 おかっぴき
鹿島城



大手門から登城すると鍵型に曲がりながら登ると途中に土塁などがあり非常に楽しめます。現在、高校の入口には赤門もあります。武家屋敷通りにも家老屋敷に門もあり良かったです。歴代藩主を祀る松陰神社もあり見どころがあります.

2024年03月11日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
たっちゅうさん(館中?)[鹿島城  周辺城郭]



佐賀県の嬉野市にある【たっちゅうさん】♪館中?居館跡か?と思い口コミします♪塩田町下久間の低丘陵地に『館中さん』(たっちゅうさん)と呼ばれる笠塔婆(供養塔)が建っています♪
塩田より武雄に通じる道筋の農村集落(現下久間)にある、たっちゅうさん♪

この碑は、佐賀藩祖・鍋島直茂の兄である鍋島信房の二男・鍋島助右衛門茂治を祀る笠塔婆です♪この笠塔婆は高さ1メートルの方柱形で軸部の上に笠が置かれています♪慶長18年(1613年)鍋島助右衛門茂治は、佐賀藩・2代目の藩主・鍋島勝茂から藩規にふれた罪で切腹を命じられてしまいます。
この笠塔婆は正保2年(1645年)の三十三回忌に建てられています。

鍋島助右衛門茂治と云う人物は戦国時代、天正19年(1591年)〜慶長18年(1613年)頃まで久間城の城主をしています♪(※久間城の場所は現在も不明です。鬼楤城とも云われていますが、その真相は分かっていません)龍造寺家臣団として奮戦しています☆豊臣秀吉の朝鮮出兵に際しては、兄・鍋島茂正と共に鍋島勢の中軸として奮戦しています♪
朝鮮出兵時など加藤清正軍が苦境に陥った時はコレを助けて功績を挙げています♪
この事が縁となり加藤清正からの懇望により、鍋島茂治の長女を清正の家老に嫁入りするという約束ができました♪ですが、帰陣後、鍋島勝茂の代に入ると他国との縁組は御法度となってしまいます…。。この御法度の中…肥後国からは使者が来ていて約束通り、長女を嫁として連れて行かれました。
そんな中、佐賀藩では成富兵庫茂安が肥後国へ嫁に行った長女を連れ帰り、帰国。
長女は佐賀城下の朝日町の威徳院に籠められ結果、自害してしまいました…。。
藩法破りの責任を問われた鍋島茂治・織部父子も切腹を仰せ付けられ、殉死を希望する家臣18名と共に、一挙に屋敷で自害。現場は血みどろの大惨事だったと伝わります。。

鍋島助右衛門茂治が城主をした久間城ですが、現在もその城郭は発見されていませんが、記述にはその名前が見える久間城です♪
鍋島助右衛門茂治が治める前の久間城は、久間薩摩守盛種により築城された城で、武雄・後藤貴明の家臣団の砦であります♪

たっちゅうさん→館中→館の中(やかたのなか)♪久間城はもしかしたら、たっちゅうさんの高台を利用したものだったのかもしれません♪この場所の字名は久間とも残っていました♪

2024年03月10日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
塩田吉浦館[鹿島城  周辺城郭]



佐賀県の嬉野市にある【塩田吉浦館】♪塩田吉浦館は現在の光桂寺境内に築かれていました♪

近世、江戸時代に入ると塩田の地は蓮池藩の飛地領となっていました♪
長崎街道の走る塩田の地は陸路交通、更に塩田川で海路交通を確保するなど、その存在は大きなものでした♪コレによって、塩田宿が形成され鹿島や太良地方、武雄、嬉野、更には西彼杵地方の分岐点として交通網の発達と共に、栄えた塩田です♪

塩田吉浦館の近隣には、平安時代の歌人である和泉式部をコンセプトにした公園があります♪和泉式部は白石町の福泉禅寺の裏山で鹿の子として生誕したという伝説がありますw
これは、福泉寺の薬師如来に、五丁出の大黒丸に子がないので、授かる様にと祈願して帰ると、裏山に女児が泣いていたそうなw
よく見ると鹿が女児を抱えていたので、薬師如来様の授けだとして、そのまま育てたと♪
和泉式部、7歳の時、西行弘法がこの地に来た時、歌問答をして、和泉式部が勝ちました♪やがて和泉式部は京へ登ったと伝承があります♪『太宰菅内志』にも類似した話が記されています♪福泉寺には『ふるさとに かへる衣の色くちて 錦のうらやきしまなるなん』と詠んだ歌が伝えられています♪
和泉式部公園内には宝篋印塔があり土地の人々は和泉式部の墓と伝承しています♪
因みに、ここ嬉野市塩田町にある『五町田』という地名は和泉式部の歌に感動した天皇から、和泉式部の育ての親に与えられた『五町の田圃』が由来と云われています♪
式部公園には吉浦神社もあり見所は多いです♪和泉式部の伝承は各地にありますね♪

さて本題の塩田吉浦館へ♪この塩田吉浦館は寛文5年(1665年)頃に鍋島直澄によって築かれました♪鍋島直澄は初代蓮池藩主で、寛文5年(1665年)家督を鍋島直之に譲った後に、蓮池藩の飛び地であった塩田に隠居館を構えて移り住んでいます♪
鍋島直澄は4年後の寛文9年(1669年)に没し、その娘の昭圭禅尼は直澄と早世した夫の松平好房の菩提を弔う為に光桂寺を建立しています♪

また、この地は塩田石工の集団が形成され、江戸時代には多くの石造物が製作されていて石工文化が花開いています♪
石造物♪面白かった♪

2022年10月09日 薩摩安房守義弘維新斎
鹿島城



肥前鹿島城址は、鍋島藩の支藩の城。
1807年、鍋島直彜によって築城された城は、佐賀の乱で殆ど焼失したようですが、現地に行くと赤門、大手門、石垣、堀などが割合と現存しています。
JR肥前鹿島駅から約1.5㎞の位置にあり、徒歩だと約15分掛かります。今は、県立鹿島高校、旭ヶ丘公園となっています。

2022年01月26日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
肥前浜宿[鹿島城  寺社・史跡]



佐賀県の鹿島市の浜町にある【肥前浜宿】♪長崎街道は多良往還の宿場町になります☆今日は城郭ではありません♪

長崎街道の宿場町として素敵な町並みを残しています☆この肥前浜宿は浜川の河口につくられた町並みとなっていて室町時代には町として成立してたと考えられています☆
キリシタン大名、有馬氏は此処にドミニコ会最大の天守堂を立てていたと伝えられています☆

肥前浜宿は江戸時代に大きく整備され鹿島藩の港町として海陸交通の要衝地、浜津・浜宿として栄えました♪
藤津郡村誌では『浜橋を中心とする金屋町、庄津、多々良川、中町、町添の五つ小字を纏めて浜町とした』と記しています☆
長崎街道は多良往還(多良海道)の宿場町としてまた有明海に臨む港町として豊かな町並みが形成されたと云う訳です☆
鹿島藩の【港町】として商人や船乗り、鍛冶屋等が住み発展をしました☆海道と小路が町のフレームを形成し道沿いや敷地背後に水路が走ります☆
浜宿の北東側は浜津(現北舟津、南舟津)ですが島原の乱の際にはココより鹿島藩家老・田中安心が一千余の軍勢を率いて、この地より船出、出陣しています☆更に鹿島支藩の番所も置かれていました☆

造り酒屋や白壁、素敵な町並みが残っています♪

2022年01月25日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
臥龍城[鹿島城  周辺城郭]



佐賀県の鹿島市にある【臥龍城】♪浜川の河口付近の小高い丘陵地に城郭は存在しました☆
この城郭は不明な点が多いです☆が丘陵地の下には宿が発展していたりと鹿島浜町の中心地であった事は間違いありません☆
『城の上』と呼ばれるこの地は鎌倉時代に原長門守貞光が築いた城郭と云われています☆
その後の歴史は何も無かったとは思えませんが歴史詳細が残っていません☆戦国時代には領域的には大村氏、有馬氏辺りの領地であると思われます☆後に龍造寺氏から鍋島氏へと転換していったのでしょう☆

集落内には泰智寺が残っています☆
この泰智寺は鹿島藩初代藩主・鍋島忠茂が、もともとここにあった智恩寺を他の場所に移してその跡に常広にあった深立山天徳寺を移建するも落成させ隆心寺としています♪
その後、鹿島藩2代目鍋島正茂が泰智寺と改名をしています☆江戸期(1650年)の浜町大火の時に寺門を残して焼失していますが、佐賀藩主・鍋島勝茂の援助を受け、鹿島藩3代目鍋島直朝が再建して今日に至ります☆泰智寺には鹿島藩初代藩主の鍋島忠茂、後夫人の墓所が残ります☆それと鹿島歴代藩主の遺髪を葬った墓所も残ります☆

残る遺構としては土塁、堀切(橋が掛かってます)、郭等、泰智寺にはキリシタン灯篭の様なものもありました☆現在は公園になっていますが城郭としての名残が今に残ります♪

2022年01月15日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
花頂山館[鹿島城  周辺城郭]



佐賀県の鹿島市にある【花頂山館】♪花頂山に立地した居館は鹿島鍋島家・3代目藩主の鍋島直朝の隠居地として造られました☆

低丘陵に独地した花頂山館は家屋を構え京都の花頂山に擬して名付けられたものとなります☆鍋島直朝の妻は花山院萬子ですが、故郷の京都を懐かしみ、眼下の水梨堤を琵琶湖になぞらえて竹生島まで置き側の小丘を丸山と呼びました☆また近くの丘を桜峰と称して鎮嶺閣を造り全山に多くの桜を植えて桜の名所ともしました♪因みに、この萬子は日本三大稲荷と云われる祐徳稲荷神社の創建者であります☆

現在、居館の中心部には思瓊神社があり、鍋島直朝を祀っています☆残る遺構としては石垣、土塁、郭、虎口、動線、堀、肥前鳥居などなどが残っています☆オススメは大手口の動線♪個人的に動線が好きなので此れに1票☆
肥前鹿島の歴史もまた面白いです☆

2021年09月20日 織田上総介晃司
鹿島城

旭ヶ岡公園石垣遺構の脇に駐車場があります。

現存遺構の赤門は鹿島高校赤門分舎の正門となってます。女子高生を撮影する変質者に間違われないように気をつけましょう(笑)

もう1つの現存遺構の大手門は生活道路として車が頻繁に門を通過するのでこちらも気をつけましょう。

秋から冬にかけて有明海の海苔の養殖風景(海苔ひび)が日本の原風景として見る事ができます。

2020年08月23日 あらし肥前守
鹿島城

旭ケ岡公園に無料の駐車場があります。
赤門は県の重要文化財に指定されており、鹿島高校の門となってます。石垣も綺麗に残っています。

鹿島城の周辺スポット情報

 大手門(遺構・復元物)

 赤門(遺構・復元物)

 武家屋敷棟門(遺構・復元物)

 石垣遺構(遺構・復元物)

 石垣(遺構・復元物)

 石垣(遺構・復元物)

 説明板(碑・説明板)

 鹿島城と旭ヶ岡公園(碑・説明板)

 弘文館跡(碑・説明板)

 臥龍城(周辺城郭)

 花頂山館(周辺城郭)

 塩田吉浦館(周辺城郭)

 たっちゅうさん(館中?)(周辺城郭)

 肥前浜宿(寺社・史跡)

 八天神社(寺社・史跡)

 祐徳稲荷神社(寺社・史跡)

 トイレ(トイレ)

 駐車場(駐車場)

 駐車場(駐車場)

 鍋島直彬公像(その他)

 相撲場(その他)

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