常広城(つねひろじょう)
常広城の基本情報
通称・別名
- 恒広城、常弘城、鹿島古城
所在地
- 佐賀県鹿島市大字常広字古城(北鹿島小学校)
旧国名
- 肥前国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 不明
築城年
- 中世
主な改修者
- 鍋島信房
主な城主
- 有馬氏、鍋島氏
廃城年
- 文政4年(1821)
遺構
- 横堀跡
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
鹿島城(佐賀県鹿島市)[2.1km]
蟻尾城(佐賀県鹿島市)[4.1km]
須古城(佐賀県杵島郡)[6.7km]
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潮見城(佐賀県武雄市)[8.0km]
塚崎城(佐賀県武雄市)[11.1km]
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佐留志城(佐賀県杵島郡)[12.7km]
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陣の森城(佐賀県小城市)[16.8km]
常広城の解説文
常広城の口コミ情報
2022年01月16日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
大殿分館[常広城 周辺城郭]
佐賀県の鹿島市にある【大殿分館】♪別名を能古見大屋敷と呼びます☆蟻尾城の東部の水田地帯に立地しました♪歴史詳細は不明です☆が、大殿分集落の『大殿分』の地名は中世の所領、配分地(藤津大村氏)の名残と云われています☆したがって蟻尾城主・藤津大村氏の館だったんでは無いか❓と考えます☆
平安時代にこの付近にあったとされている金剛勝院という寺院があります☆現在、集落内には蓮厳院という寺院が残っていてこの蓮厳院は金剛勝院の一院だったとも考えられてます☆
金剛勝院はカナリ大規模な寺院だった様ですが戦国時代の兵火にかかって消失したと伝わります☆
地名としても院の馬場、杉の馬場、立馬場、坊中道、金剛、禅籠、伽藍、堂の上、蓮池、学頭、八大竜王、松原、浄願など地名が散在しています☆往時のこの地は栄え賑わった事が考えられますね☆
そこで…中世にこの地を領した藤津大村氏です☆此処が大村氏の居館だとしても何ら不思議はありません☆遺構としては土塁がシッカリ残っています♪が、この土塁、少竹藪で茂っていました…☆
因みに筒口山下には室町時代から江戸時代にかけての中世石塔群が残ります☆
2022年01月14日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
森岳城[常広城 周辺城郭]
佐賀県の鹿島市にある【森岳城】♪森集落内にある城郭は五の宮神社の小独立丘に存在しました☆
鹿島エリアは戦国時代、龍造寺氏🆚有馬氏のバチバチの場所となっていて、この森岳城もそんな外部環境の中から出来た城郭です☆
龍造寺隆信は、神埼郡の蒲田江城主の犬塚弾正忠鎮家に築城を命じて有馬攻めに備えました☆
この森岳城を起点にした犬塚弾正忠鎮家は龍造寺隆信の藤津攻略に功を立て120町余を賞与されています☆
五の宮神社の裏側にある三基の五輪塔は、この犬塚弾正忠鎮家とその側室の墓塔と伝わります☆
遺構としては削平地、石列、麓の濠などが残っています☆また森岳城の麓にある五の宮神社には江戸時代に造られた肥前鳥居が残っています☆
2022年01月13日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
横造城[常広城 周辺城郭]
佐賀県の鹿島市にある【横造城】♪戦国時代は有馬氏に属した出城で鷲の巣城、松岡城と共に藤津郡(旧名)を支配しました☆
天正4年(1576年)には龍造寺隆信の藤津攻めの際に総勢6500の兵により攻撃を受け、大攻防戦の末に落城☆
鹿島誌には『義純(有馬の事)深町美作守をして鹿島の横蔵城に拠らしむ 嬉野越後守其の附城土丸に在り構へて密かに隆信(龍造寺の事)に応ず 隆信急に発して須古城に到り 吾が祖鍋島加賀守直茂に命じて師を帥ゐて横蔵城を攻めしむ 直茂兵を廻らして塩田より以て 鷲巣山に登り其の塁を抜きて直ちに進みて横蔵を襲ふ 敵兵江を障へ水を遮る 嬉野越後・犬塚弾正等江を渡りて先登し諸軍之に次ぎ 急かに撃ちて相戦ふ 城陥る…按ずるに乙丸は往古の二の丸なる乎 倭俗城営を構へ 以て平日居る所を本丸・甲丸といふ その別廓に至つては則ち二・三丸といひ或いは乙丸と称す』と残ってます☆
激戦の具合が描かれていると共に城郭の呼称等が描かれています☆
鷲の巣城を攻略した後に背後から鹿島川を渡って横造城に襲い掛かったという事になります☆乙丸は横造城の二の丸と推定されます☆広大な鹿島の平野♪往時は大規模な平城だったのでしょうね☆今は静かな住宅地になっています☆
この戦に敗れた有馬勢は鷲の巣城、松岡城、鳥附城などの諸城も落とされ藤津は龍造寺隆信の手に落ち統治下に組み入れられていきました☆龍造寺隆信は有馬氏への配慮からか佐賀藩祖・鍋島直茂の兄にあたる鍋島豊前守信房を鹿島に配置し後に鹿島鍋島藩の母体(常広城)を築き上げていきました☆
横造城付近には朱が映える願行寺があります☆願行寺の山門は常広城から移した門と云われています☆横造城を包む様に濠が回り込みます☆圃場整備が入りますがその片鱗を今に残します☆
2022年01月12日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
鷲ノ巣城[常広城 周辺城郭]
佐賀県の鹿島市にある【鷲ノ巣城】☆高津原の丘陵が北東に伸びる先端に立地し、杵島の山並と有明海を望み、鹿島の平野を眼下に見下ろす事が出来る絶好の位置に城郭は存在しました☆
鷲ノ巣城は戦国時代に有馬氏の支城となっていて、浜の松岡城、北鹿島の横造城、塩田の鳥附城と共に龍造寺方に対する最前線として機能しました☆
鷲ノ巣城は岩永大炊頭が城主を務めた以降は岩永将監忠清、岩永和泉守忠茂、岩永久右衛門前忠が続き岩永氏の城郭でありました☆
有馬氏が藤津へ侵攻してきた際これに服属した様です☆
龍造寺氏🆚有馬氏のバトル♪横造城の戦では藤津の諸将の多くは龍造寺方に付きましたが、この岩永和泉守忠茂は最後まで有馬氏に属して戦いました☆
龍造寺氏の支配下に入ると鷲ノ巣城には嬉野与右衛門尉が入城しますが、鹿島鍋島家の時代に入ると廃城になります☆
かつて城郭のあった場所は大部分が削り取られ今は思瓊神社が残っています☆縄文時代、弥生時代、古墳時代に及ぶ鷲の巣遺跡もあった場所で今は住宅地の場所ではありますが古くからの歴史を残しています☆
因みに城郭の南西側には五輪塔が残ります☆この五輪塔は岩永忠茂の墓だと伝えられています☆
概要
肥前の戦国大名龍造寺隆信は、天正4年(1576)の藤津攻略の後、家臣の鍋島信房(鍋島直茂の兄)に鹿島地方を治めさせた。信房は、現在の北鹿島の田代に城を築き、塩田常在寺や北鹿島森の五宮に別邸を設けた。その後、信房は神代(長崎県南高郡国見町)に移るが、慶長14年(1609)、初代佐賀藩主鍋島勝茂は、弟の忠茂に鹿島2万石を分封し、ここに鹿島藩が成立。鹿島初代藩主忠茂が入った城も田代の城で、この城は2代藩主正茂の代まで続いたとされている。
歴史
常広城の創立についての詳細な経緯は良く分かっていないが、信房が築き、忠茂・正茂と続いた田代の城を、3代藩主直朝が修築整備し、承応元年(1652)に鹿島藩の居城として完成したものと考えられる。4代藩主直條(なおえだ)が著した『鹿島志』には「本丸は松杉の中に在り、古よりこれを園と称し楽思(らくし)と名づく。池あり、林あり、園あり、圃あり、北隅を松丸という。西方の田畔はこれを乙丸と称す。四面食録の家連立す。南西には市陌(しはく)あり、漁村あり、軒を並べて字を連ね、江に傍って橋を架す、さきのいわゆる横蔵の古戦場なり。」と記している。
立地・構造
現在の北鹿島小学校がかつての本丸部分で、城は方形の本丸を中心に土手と堀で囲まれていた。周囲には家臣の屋敷もあり、南西方角の本町一帯がかつての城下として発展した。また、川にはさまれた低平地の平城であったため、塩田川から鹿島川まで南北に長大な土手を築き水害に備えていた。この常広城は、文化4年(1807)に高津原に新しく城が築かれるまで鹿島藩主の館であり、新城ができた後には、この地は古城と呼ばれるようになった。