常広城(つねひろじょう)
常広城の基本情報
通称・別名
- 恒広城、常弘城、鹿島古城
所在地
- 佐賀県鹿島市大字常広字古城(北鹿島小学校)
旧国名
- 肥前国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 不明
築城年
- 中世
主な改修者
- 鍋島信房
主な城主
- 有馬氏、鍋島氏
廃城年
- 文政4年(1821)
遺構
- 横堀跡
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板
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常広城の解説文
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【概要】
肥前の戦国大名龍造寺隆信は、天正4年(1576)の藤津攻略の後、家臣の鍋島信房(鍋島直茂の兄)に鹿島地方を治めさせた。信房は、現在の北鹿島の田代に城を築き、塩田常在寺や北鹿島森の五宮に別邸を設けた。
その後、信房は神代(長崎県南高郡国見町)に移るが、慶長14年(1609)、初代佐賀藩主鍋島勝茂は、弟の忠茂に鹿島2万石を分封し、ここに鹿島藩が成立。鹿島初代藩主忠茂が入った城も田代の城で、この城は2代藩主正茂の代まで続いたとされている。
【歴史】
常広城の創立についての詳細な経緯は良く分かっていないが、信房が築き、忠茂・正茂と続いた田代の城を、3代藩主直朝が修築整備し、承応元年(1652)に鹿島藩の居城として完成したものと考えられる。
4代藩主直條(なおえだ)が著した『鹿島志』には「本丸は松杉の中に在り、古よりこれを園と称し楽思(らくし)と名づく。池あり、林あり、園あり、圃あり、北隅を松丸という。西方の田畔はこれを乙丸と称す。四面食録の家連立す。南西には市陌(しはく)あり、漁村あり、軒を並べて字を連ね、江に傍って橋を架す、さきのいわゆる横蔵の古戦場なり。」と記している。
【立地・構造】
現在の北鹿島小学校がかつての本丸部分で、城は方形の本丸を中心に土手と堀で囲まれていた。周囲には家臣の屋敷もあり、南西方角の本町一帯がかつての城下として発展した。また、川にはさまれた低平地の平城であったため、塩田川から鹿島川まで南北に長大な土手を築き水害に備えていた。
この常広城は、文化4年(1807)に高津原に新しく城が築かれるまで鹿島藩主の館であり、新城ができた後には、この地は古城と呼ばれるようになった。
情報提供:佐賀県鹿島市