塚崎城(つかさきじょう)
塚崎城の基本情報
通称・別名
- 塚崎御船山城、武雄城、後藤山城
所在地
- 佐賀県武雄市武雄町大字武雄字小路
旧国名
- 肥前国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 後藤資茂
築城年
- 元永年間(1180〜1120)
主な改修者
- -
主な城主
- 後藤氏
廃城年
- 元和元年(1615)
遺構
- 曲輪、石垣
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑
周辺の城
-
潮見城(佐賀県武雄市)[3.1km]
おつぼ山神籠石(佐賀県武雄市)[3.9km]
須古城(佐賀県杵島郡)[8.2km]
住吉城(佐賀県武雄市)[9.4km]
梶峰城(佐賀県多久市)[10.1km]
湯野田城(佐賀県嬉野市)[10.9km]
常広城(佐賀県鹿島市)[11.1km]
鹿島城(佐賀県鹿島市)[11.8km]
蟻尾城(佐賀県鹿島市)[12.2km]
獅子ヶ城(佐賀県唐津市)[13.9km]
塚崎城の口コミ情報
2024年06月03日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
猪熊城[塚崎城 周辺城郭]
佐賀県の武雄市の北方にある【猪熊城】♪北側には徳連山(標高444m)が聳え、南側は尾根が広がり、猪熊山(標高131m)へと繋がっていたと思われます♪と言うのも、北側には国道498号線が走り、連なる山腹には工場がある為、往時を知る事が出来ませんでした。
武雄五塞の1城で別名、『猪の熊の塞』とも呼ばれています♪武雄五塞は猪の熊の塞、他は、諏訪の塞、白木の塞、磐井の塞、富岡の塞(全て過去に口コミ済)があり、恐らく、塚崎・後藤氏の関連城郭だと思われます♪
この猪の熊の塞は、磐井の塞と同様に塚崎城を守る東方最前線の砦で、辺りは、徳連山、杵島山や北側の鬼ノ鼻山、聖岳などに挟まれ、北方、大町、江北など狭隘な平野が眼下に広がります♪所謂、武雄盆地の東側の関門で要衝地となっています♪
『藤山考略』によると、常に武雄の重臣を配置して警備を厳重にしたとありました♪実際、築城年、城主等は不明な城郭なのであります。
遺構は主郭を中心に南北に郭を配した連郭式の縄張りです♪主郭は楕円形状になり南と北に虎口を設け、周囲は切り落としとなっていますが、全体に土塁が巡ります♪
南側には2つの郭が雛壇状に続き、コチラが副郭か?この郭と南側の出丸と思われる郭を遮断する様に、堀切が一条、竪堀と共に人の手が入ります♪この堀は谷側に向かい落ち込み、大手道(堀切、竪堀から西側)の様な動線があったのではないか?竪堀の遠く先には集落の存在を確認した為に、そんな気持ちになりました♪
2024年04月24日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
上滝城塞[塚崎城 周辺城郭]
佐賀県の武雄市の朝日町にある【上滝城塞】♪猪熊山(猪隈城)の南側の丘陵地で字名は北上滝に上滝城塞は存在しました♪
北東には伊万里へ抜ける場所で、西は武雄塚崎、東は白石、南は嬉野塩田へ抜ける場所であり長崎街道が走ります♪武雄市の東部に位置し現、杵島郡北方町に接しています♪
上滝城塞は、築城主、年代共に不明な城郭です☆
集落の東の田圃中に微高地があり弥生時代の遺物の散布地があります♪北西部の猪隈山東麓、現北方町との境にある朝日ダム付近には弥生中期の甕棺墓群集遺跡(北上滝遺跡)がありました♪昭和の初め頃のダム築造の工事中に発見された相当数の甕棺が出土していますが、結果的に未調査のまま破壊されてしまい遺跡の規模などは分かっていません☆が、古来より人々の生活を物語ります♪
『肥前風土記』にある盤田杵村(いわたき)は、この辺りと推定されています♪
平安時代後期には長島庄に属し、蓮華王院領です♪鎌倉時代には長島庄惣地頭橘薩摩氏の所領となり、室町時代には塚崎庄に加えられ塚崎後藤氏の領有地となっています♪江戸時代は佐賀藩武雄領です♪
江戸時代の天保郷帳には上滝村が2つ出て来ていて、1つの上滝村は438石、もう1つの方は776石と記載がありました♪石高の少ない方が現在の朝日町甘久字北上滝で、上滝要塞がある集落で、多い方が同字南上滝であろうと思われます♪
誰の城郭かイマイチハッキリとしませんが、やっぱり塚崎後藤氏の武雄東側の砦かな〜?と云う印象が強いです♪すぐ北側にある猪熊山にある猪隈城は塚崎後藤氏の支城群の1城と云われている為、南側に突き出した上滝城塞は所謂、出丸的な機能を果たしたのかもしれません♪
現在、上滝城塞のある丘陵地は墓地になっていて、2段の削平地の確認が取れます♪
2024年04月22日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
島山城[塚崎城 周辺城郭]
佐賀県の武雄市の花島にある【島山城】♪現在民家となっています♪土塁などがあるらしいのですが、未確認です♪
北には武雄川が流れて南側には嬉野塩田に抜ける街道、西には塚崎城のある武雄、北東には梶峰城がある多久、更に東は須古城がある白石とその更に東は佐賀平野が広大に広がりる交通の要衝地となります♪
武雄中央東部に位置していて、2つの丘陵地が残る他、周りは田園地帯となります♪
この小高い丘陵地の上が島山城であります♪
2つの丘陵地には古墳、箱式石棺墓が残り、古くから高台を古墳として利用しています♪
集落には条里制の遺構も残しています♪
平安時代後期には、長島庄となり、蓮華王院領として寺領となっていました♪武家の世が花開く鎌倉時代には、長島庄惣地頭である橘薩摩氏の領有となっています♪寛喜3年(1231年)武雄神社文書には『在花島村 田吉名田内坪 四云 東限太田大路 西限元歩射田畝 南限野波田 北限大河』と既に村名の記載がありました♪
室町時代に、この場所は塚崎庄に組み込まれ、塚崎後藤氏の所領となっています♪
別名を牟田城と呼ぶ、この城郭の城主は渋江公師♪永禄5年(1562年)後藤貴明が有馬氏への対抗措置として築き、渋江公師を配置して塚崎城の東側の守りを固めました♪街道ある要衝には城郭を置く♪本城を守る為の鉄則ですね♪
江戸時代には佐賀藩武雄領となっています♪
現在私有地となっている為、丘陵上は確認出来ておりません♪土塁の他にもなんか残っているのかなぁ〜??非常に気になります♪
2024年04月19日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
白木城[塚崎城 周辺城郭]
佐賀県の武雄市にある【白木城(白木の砦、白木塞)】♪城というよりは砦感満載です♪上西山と山内町踊瀬との境界線上にあり、標高194mのピークを中心に土塁線を配置します♪南麓は佐世保街道が走り、山内や有田へ通じる要衝地にあたります♪所謂、塚崎城の防衛線で、西の関門に当たります♪
塚崎城は後藤氏の本城である為に、街道の通じる場所には見張りを♪中世色が色濃く残ります♪この白木城は第5代目・後藤清明が築城したと伝わり、弟である西山後藤五郎公明を配置し、西山村を与えたと残っています♪
西山後藤五郎公明の『西山』は、地名から来ているものでしょう♪
白木城は北向きに馬蹄状に作られた山の標高194mに立地していて、階梯式の郭が認められます♪南側斜面は絶壁となっていて、自然の防御で城郭を守ります♪また稜線続く北東側の尾根には、堀切一条が確認できました♪また、その尾根先、林道入り口部に虎口状の窪みありでコチラが大手か?上西山集落側と繋がります♪ピーク部削平地は狭く居館には不向きな為、居館は別の場所でしょう♪それこそ、西山村かな〜?
因みに江戸時代後期には、武雄塚崎の刑場となっています☆武雄藩の家老、河原蟠平の碑が佇みます♪天保14年(1843年)河原蟠平は農民の貧困を救う為に領主に進言しますが、領主の反感を買い農民から惜しまれながらこの地で処刑されています☆
2024年02月23日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
御船山楽園[塚崎城 寺社・史跡]
佐賀県の武雄市にある【御船山楽園(鍋島庭園)】♪
御船山は、現武雄市の中心部に位置します♪3つの峰からなる奇岩の独立した小山です♪南から艫岳(標高211m)、帆岳(標高140m)舳岳(標高175m)から成ります♪
唐船に似ている事から唐船山とも呼ばれている、武雄市街から目に入るシンボリックな山になっています♪
そんな御船山の麓には幾つかの史跡が残っていて、北面の舳岳の中腹から麓にかけては後藤氏の『塚崎城』があり、東麓には武雄神社が鎮座します♪武雄神社側の中腹には『武雄城』があり、これは武雄神社の宮司の砦か?と思われます♪
南西側の斜面は急斜面となり流紋岩が露出し、奇岩が突出しています♪
帆岳と艫岳の間の谷間には羅漢谷と呼ばれる洞穴があり、行基が布教中に、弟子達と羅漢500体を刻んで安置したと伝えがあり、五百羅漢と称されます♪全国各地に行基伝説はあるので、伝承なのでしょうが…☆
さて、御船山楽園ですが、武雄藩・第28代領主・鍋島茂義が別荘を設ける為に約3年の歳月を費やし、この地に造園したと伝わります♪南西側の麓にお茶屋があり、躑躅を植え、池を作り、奇岩を眺める♪春には2000本の桜や20万本の躑躅、秋には紅葉と、見るものを魅了した『藩主庭園』は侘び寂びの効いたものとなります♪この景観に加えて遙か上方部には奇岩♪ある意味、パンチの効いた庭園ですね♪普通の庭石を並べて…のイメージではありませんw中国の山水画の様な御船山を背景にする事できっと、この庭園は成り立っているのでしょうw
庭園に関しては素人でありますが、御船山を庭石の代わりとするならば…それは私的には非常に深く趣を感じました…w
2023年12月16日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
長三溝[塚崎城 周辺城郭]
佐賀県の武雄市の北方町にある【長三構】♪現在は、木の元集落には僅かに濠の名残を残しています♪
志久城(リア攻めマップ登録済み)からは真西の集落内に、その砦は存在しました♪
北には長崎街道があり東には唐津方面への道を分岐し、西には小城、佐賀方面へ繋がる木の元♪南側は六角川が同様に東西に流れます♪西側には蓮華王院領、鎌倉時代には橘薩摩氏の所領でありましたが、室町時代の始めには塚崎庄に含まれ、塚崎城主・後藤氏の所領と続きます♪
龍造寺隆信が多久長信(龍造寺長信)に宛てた書状の中に『云長三構、今一所 堀ほらせ度候 一円夫丸事闕候 志久村之者共江被申付 ほらせられ候』とあり、長三構の濠を掘る作業に動員されていた様です♪この時に築かれた砦と思われます♪
この武雄、北方方面を固めた理由としては、南有馬日野江城の更には有馬氏、大村氏、更には塚崎後藤氏に対しての軍事面強化であるのでしょうね〜☆長崎街道が走る要衝地は、東は武雄、唐津、伊万里へと北には多久へ西には佐賀♪更には南下していくと、有馬領へと抜ける場所♪この場所は有馬方と、龍造寺方の境界線となっていたのです♪
天正2年(1574年)には有馬方に属していた須古城主・平井経治🆚龍造寺隆信は『須古城の戦い』で刃を交えていて、遂には平井経治の須古城は落城しています。。永禄6年(1563年)から始まり足掛け11年の須古城の攻防は4度行われ、龍造寺隆信は東肥前への足掛かりを模索していました☆
従って、杵島郡、武雄市北方の山間部、平野部、高台には小規模な砦群が集中していると思われます♪
2023年12月10日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
志久城[塚崎城 周辺城郭]
佐賀県の武雄市の北方町にある【志久城と稲主神社】♪
志久城の北には長崎街道があり唐津方面への道を分岐し北側には志久峠を経て多久へ通じる交通の要衝地となります♪南側は六角川が同様に東西に流れます♪南、東側は山間に沿う様に佐賀平野部が続き、西側には蓮華王院領、鎌倉時代には橘薩摩氏の所領でありましたが、室町時代の始めには塚崎庄に含まれ、塚崎城主・後藤氏の所領と続きます♪
この、志久城の詳細は不明です。城主は加々良氏とも云われています☆この加々良氏ですが、何者か?イマイチ判りませんが、九州探題職に就いていた渋川氏の子孫としての、出てくる人物か?と思われます♪
中でも渋川氏重の子孫は『加々良氏』を称して後藤氏に属していて、戦国末期には塚崎城主・後藤純明の子である兼明を養子に迎えています♪恐らくこの、『加々良氏』は同一族と思われます♪この渋川一族は近世に入ると、佐賀藩、鍋島氏・大村氏の家臣として仕えた事も知られています♪
志久城がある、志久集落は、南北朝時代、更には戦国時代には、その村名を確認出来ます♪長嶋荘の内となっています♪
応永4年(1397年)幕府が九州探題の渋川満頼をして、橘薩摩氏の庶流・渋江性淳の長嶋荘内、志久村以下を安堵しています♪
この渋江氏は、嘉禎2年(1236年)に、長嶋荘惣地頭として、讃岐国から入部した、橘薩摩公業の子、橘薩摩公義を始祖として、橘薩摩公義の3子、公村が渋江氏を称し、公茂が牛島氏を公光が中村氏を称しています♪が、志久城の『加々良氏』の事はやっぱり、判らず仕舞いでした。
天正2年(1574年)に、龍造寺隆信が、須古城主・平井経常の戦いで、遂には須古城が落城するのですが、この時龍造寺隆信は、須古城を隠居城として改修しています♪
龍造寺隆信が多久長信(龍造寺長信です♪龍造寺周家の3男)に宛てた文章の中には『云須古、普請申付候 志久、焼米、山口、多久之夫丸鍬鎌被申付』とあり、須古城の城普請に志久村は駆り出されています♪
他にも、龍造寺隆信書状の中に『云長三構、今一所 堀ほらせ度候 一円夫丸事闕候 志久村之者共江被申付 ほらせられ候』とあり、長三構の濠を掘る作業に動員されていた様です♪
現在、高まる丘のみが残りますが、後世の改変によって、城があったのかも、判らない状況になっています♪が、歴史はそこにあったのです♪
北側、領内にある稲主神社は宝治元年(1247年)武雄領主・後藤清明が創建したと伝わります♪
2023年12月09日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
後藤貴明隠居館[塚崎城 周辺城郭]
佐賀県の武雄市にある【後藤貴明隠居館】♪
塚崎城主・後藤貴明が隠居した居館跡となります♪現在、勇猛山の北麓であり光明寺のある境内に居館は存在しました♪
この光明寺は武雄領主だった後藤貴明夫妻と芦原鍋島家の菩提寺となります♪武雄領主だった後藤貴明の隠居館があった芦原の地に彼の死後、その菩提を弔う為に寺を建立したのが始まりと伝わります♪
この後藤貴明という人物は塚崎城主で天文3年(1534年)に大村純前の子として大村に誕生しています♪大村氏は有馬氏から純忠を養子にもらっていた為に後藤貴明は武雄の後藤氏に養子に出されています☆大村純忠は日本最初のキリシタン大名になっているのですが、後藤貴明は生涯、大村氏を恨み長崎大村領に度々攻め入りました☆
後藤貴明には実子がいなかかった事で平戸の松浦隆信から惟明を養子にもらいますが、後に実子である後藤晴明が産まれた為により、天正2年(1574年)に惟明が反乱を起こし後藤貴明は佐賀の龍造寺隆信の援軍を得て惟明を破っています☆
その後、龍造寺隆信と和議を繰り返しながら離反しては、幾度か戦っていますが、最後には龍造寺隆信の圧力に屈し、龍造寺隆信の三男・龍造寺家信を養子に迎え入れ、後藤氏は龍造寺氏の傘下となっています☆
後藤家信に家督を譲った後藤貴明は、この光明寺のある場所に隠居していて、天正11年(1583年)に50歳で亡くなっています☆
光明寺を登っていくと、基壇が連なります♪
基壇を登っていくと山門があり、そこに、後藤貴明夫妻と芦原鍋島氏の五輪塔があります♪が、行った日が夏場だった為に、膝下位の藪藪になっておりましたwビーサンに短パンで行ってたから、奥までは行きませんでしたwまた改めて行こうと思います♪
この背後には標高258mの勇猛山が控えています♪
2023年12月05日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
山代氏芦原館[塚崎城 周辺城郭]
佐賀県の武雄市にある【山代氏芦原館と青幡神社】♪現在は居館があった付近には、石塔群が残っています♪杵島山、勇猛山の北麓で、樺島山の南側の平野部に居館跡は存在しました♪
この、芦原集落は平安時代は蓮華王院領、鎌倉時代には橘薩摩氏の所領でありましたが、室町時代の始めには塚崎庄に含まれ、塚崎城主・後藤氏の所領となっています☆が、後藤氏は、この所領を肥後国の菊池武顕に譲っています♪菊池武顕田地寄進状(武雄神社文書)の中に正平19年(1364年)『長嶋庄葦原平倉内 安東左衛門尉跡田地廿六坪壱町』とあります♪
天正11年(1583年)佐賀藩祖・鍋島直茂から、鍋島姓を与えられた、松浦党の山代城の城主・山代茂貞(山代虎王丸)が芦原巴主として、入部し、塚崎後藤氏の領地を譲り受けます♪この時の居館が山代氏芦原館であります♪築城は天正15年(1587年)頃と云われていますが、定かではありません☆
江戸時代に佐賀藩が成立すると、山代氏は替地を与えられ移り、芦原の地は佐賀藩本藩領となっています♪
因みに、須古城で有名な、龍造寺隆信🆚平井氏の須古城の戦いです☆戦国時代に龍造寺隆信は4回攻め込むという、軍事行動を起こしています☆
この間には、塚崎後藤氏が取り込んだ養子、後藤惟明(父は松浦党の松浦隆信)が、義理父である後藤氏に反乱を起こします☆往時、白石、武雄方面を攻めたかった龍造寺隆信です☆龍造寺隆信と後藤貴明(大村純前の子)は、和睦を成立させ、須古の平井氏を抑え込む事に力を注ぎました☆須古城を破った龍造寺隆信は、対有馬氏、大村氏に対峙する様に、須古城の改修を考え、隠居城として強化しています♪その際に、塚崎・後藤氏は武雄周辺の給人、被官層から、後藤氏への忠誠を誓わせています♪そして、ここ芦原衆も8名の百姓が、この忠誠を誓っています☆
地名の由来ですが、北側にある六角川の氾濫地に形成された湿地帯のアシの原によるものだと考えられています♪その後六角川は、川幅は縮小され、田畑へ水を流す様に水路を掘られていますが、未だに氾濫をする暴れ川となっています☆
集落内にある青幡神社は、古くより『青幡さん』と呼ばれています♪青幡神社がこの地に勧誘されたのは、天正15年〜17年(1587年から1589年)の間と伝わります♪
コレは、芦原の地に入部した松浦党の山代城の城主・山代茂貞(山代虎王丸)が、先祖伝来の山代郷から芦原に伝えたとされています♪
冒頭にも記しましたが、居館跡には何も残りません☆でもソコには、確かに肥前の大きな流れの中に歴史がありました♪何もなくて良い♪勿論、遺構があるには越した事は無いけど、それでも良い♪忘れられない様に、記していきます♪
2023年11月23日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
宮裾館[塚崎城 周辺城郭]
佐賀県の武雄市北方町にある【肥前宮裾館】♪築城年等不明な城郭となりますが、橘薩摩一族の宮裾氏の城郭と考えられています♪
武雄の山手から西に広がる盆地の北側、南側は六角川と武雄川が合流します♪南北に伸びる低丘陵地の南端に城館は存在します♪現在は樋口神社が鎮座しています♪
宮裾と言う、村名は南北朝期頃より出てきています♪平安時代には杵島北郷として、後期は蓮華王院領として、長島庄が成立しています♪鎌倉時代には長島庄惣地頭、橘薩摩氏の所領となり、一族の橘佐渡四郎公高に譲られています♪後に、この橘佐渡四郎公高は宮裾姓を名乗り、コレが地名として残ります♪
戦国時代には宮裾氏は龍造寺隆信に敗れ、龍造寺氏の領地となっています♪
天正18年(1590年)豊臣秀吉から、本格的に龍造寺氏に所領として与えられますが、江戸時代の初期には水ヶ江龍造寺氏の流れを組む、多久氏が佐賀藩に上地して、佐賀藩領となっています♪
樋口神社の背後に人工的な堀跡があり、堀切が残り、削平地が南北に続きますが、神社横はグランドになっていて、大きく改変が行われています☆
2023年11月19日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
磐井の砦(磐井城)[塚崎城 周辺城郭]
佐賀県の武雄市にある【磐井の砦】♪中野集落の南にある独立低丘陵に磐井の砦は築城されました♪現在は磐井八幡社が鎮座します♪
6世紀に九州に君臨した『筑紫の君磐井』が朝鮮半島の新羅と結んで、大和朝廷に反乱を起こした際に、この低丘陵地に砦を築き、肥前エリアの拠点として大和朝廷軍と戦ったと云う伝承があります♪砦が築かれたのが、524年と伝わり『磐井の乱』が527年、3年前には乱の伏線を張り込んでいたのかなぁ?
往時、武雄にある柄崎周辺(現朝日町付近)から、現高橋駅付近、あるいは磐井の砦のある盆地周辺が高橋ノ津と呼ばれる海、もしくは低湿地だったと思われる為、多少の起伏、高低差があれば、それは防御になります♪有明海がこの付近まで食い込んでいたのでしょう♪
『…神功皇后新羅御討征ノ折船中ニ於いて大己貴命、素サ鳴命、事代主命ノ三神ニ勝軍ノ始要ヲ折ラレ異賊ヲ討チ肥前国杵島郡高橋ノ津ニ帰還東上ノ途中、宮ヲ造リ三神ヲ祭リ給フ。』
神功皇后伝承が濃厚な肥前ですが、朝鮮半島を討ち高橋ノ津へ凱旋しているという伝承です♪筑紫の君磐井は高橋ノ津を港として、重要な拠点として抑えようとした♪伝承ながら無い話ではないですね♪
さて時を進めましょう♪室町時代の中頃には塚崎後藤氏の分家である中野後藤氏がこの丘陵地に砦館を築き、武雄領の北東側の守りとしています♪この時に勧請したのが、磐井八幡社となります♪
この中野後藤氏は、塚崎後藤氏の19代目・当主、後藤貴明の養子、惟明が養父の暗殺を企てた時、それに荷担して、断絶となっています⭐︎断絶となりますが、中野後藤氏は代々脈々と続き中野後藤氏8代目、清明の時に、鍋島直茂の家臣となったとされています♪
因みに、『葉隠』の山本常朝は中野後藤氏の傍系となります♪
2022年10月12日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
久津具城[塚崎城 周辺城郭]
佐賀県の武雄市の北方にある【久津具城】♪六角川と武雄川が合流する北側の標高34.5mの低丘陵に城郭は築かれました♪
歴史詳細は一切不明ですが、塚崎城の後藤氏の属城か?はたまた橘薩摩渋江氏の属城か?真相は分かりません…☆また改めて調べてみようと思います♪
低丘陵地の北方が1番高い場所になっていて主郭と思われます♪主郭と思われる場所の山頂部には山王神社の境内が残ります♪後の改変もあるでしょうが、この山王神社を取り巻く様に帯郭、腰郭が残ります♪さらに南側の尾根にも平地が拡がりますが墓地や農地になっています♪南側の梅林寺との間は道路になっているのですが、主郭部へ向かう、堀兼動線だったんでは無いか?妄想が拡がりました♪
2022年09月23日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
川良館[塚崎城 周辺城郭]
佐賀県武雄市の【川良館】♪現在は個人様宅です☆川良村は南北朝時代に北朝方の少弐頼澄・今川仲秋の連合軍が南朝方の後藤氏・肥後の菊池氏の連合軍と対峙し、激戦の場となった集落です☆この川良館は武雄後藤家18代目の後藤純明の館と伝わります♪後藤純明は17代目の後藤職明の養子♪後藤職明には子がいませんでした♪実父は橘姓渋江公勢♪実父の橘姓渋江公勢が毒水を飲んで死んだのを好機に渋江氏を攻略し、長島庄を自己の領地としています☆肥前国で龍造寺氏が台頭してくる前には島原・有馬氏に属した後藤氏です♪
龍造寺家兼や千葉喜胤と戦い勝利し、武勇を轟かせました♪
渋江公勢の三男(すなわち純明の実弟)である渋江公親が長島庄の旧領を回復すべく岸岳城主・波多隠岐守と平戸城主・松浦肥前守と共に攻め入ってきた際に防戦するも失敗し住吉城に退却☆三男・渋江公親は長島庄を回復していて日皷山城に入るも後藤純明は日皷山城を攻略し公親を敗走させました☆後藤純明は居館を塚崎城に移します☆
天文12年に後藤純明は少弐家臣の馬場頼周から龍造寺氏を計略にかける為協力を求められます☆馬場頼周は他にも有馬晴純や多久氏、波多氏、鶴田氏、馬渡氏など西肥前の豪族に協力を求めました☆龍造寺家兼の主君もまた少弐冬尚です☆
少弐家に対して叛旗を翻し兵を挙げたふりをしました☆少弐冬尚には龍造寺家兼が謀反を企んでいると信じ込ませます☆龍造寺氏を計略にかける為に龍造寺家兼には西肥前の豪族達の討伐を命じるよう働きかけました☆
龍造寺家兼は少弐冬尚が命ずるままに西肥前に攻め寄せましたが龍造寺軍は敗走☆龍造寺家兼が居住する水ヶ江城は逆に包囲されています☆馬場頼周は龍造寺一族の一部を少弐冬尚に謝罪に来させ残りは筑前に一時退避させる事が良いだろうと龍造寺家兼に提案☆
が、しかし馬場頼周により謝罪に来た時も筑前に退避しようとした時も途中で待ち伏せされて殺され龍造寺一族は滅亡の危機に陥りました☆馬場頼周にとって、龍造寺一族は目の上のタンコブだった訳です…後に龍造寺家は筑後蒲池氏に助けられ、佐嘉の地を回復させ九州三強の1人、龍造寺隆信が台頭してくるのはもう少し先の話です☆
あっ🫢話がそれたw川良館の話でしたね…後藤純明は天文22年に、ここ川良館で没したと云われています☆川良館には土塁と思われる遺構が残ります☆
2022年09月21日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
川良古城[塚崎城 周辺城郭]
佐賀県の武雄市にある川良古城♪現在は運動公園が造成されていて遺構は消滅しています☆が地形はそのまま残っています♪
古くは河良として登場します☆
後に(明治16年)川良として出てきます♪
標高235mの柏岳の南麓に♪眼下には円応寺更には甘久川♪円応寺南西側の舌状台地に川良古城は存在しました♪
平安時代には長島庄に属していて蓮華王院領として、鎌倉時代は橘薩摩氏の所領でありました♪室町時代には塚崎庄が成立すると、此れに属しました♪塚崎城主・後藤氏の所領となっています♪
築城は塚崎後藤氏の17代目・後藤職明と云われています♪ただ規模は小さく砦館であったと考えられています♪
塚崎城主後藤氏は後藤職明の代に黒髪山まで勢力を伸ばしていたと考える事が出来て、黒髪神社の宮司の任免権を握っています♪
この後藤職明は戦国動乱の文明15年(1483年)に自衛の為に潮見城主・橘姓渋江公直と伊万里城主・伊万里仰と、鹿島の在尾城主・大村胤明、更には藤津の有馬氏?もかな?各領主と攻守同盟を結んでいます♪
川良古城の下には円応寺馬場という地名が残っていました
2022年09月20日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
諏訪山城[塚崎城 周辺城郭]
佐賀県の武雄市にある【諏訪山城】♪別名を諏訪砦、八並山砦と呼びます☆
後藤家の6代目の後藤常明の弟である後藤共明が八並村を与えられて分家したとされています♪鎌倉時代の前期になります♪
後藤共明は分家するとこの諏訪山丘陵に城郭を構え居館しました☆
以降、八並後藤氏と称しています♪
弘安4年(1281年)元寇襲来時に八並後藤氏の3代目の後藤信明は白馬に乗って出陣してしまった為に敵の標的になり、一斉攻撃を受け戦死しています☆
その為に八並村では明治まで馬の飼育をしなかったと伝わります☆
諏訪山丘陵の東麓からは須恵土器が多数出土しています☆
天正2年(1574年)八並後藤氏の11代目の後藤和明は、塚崎城主の塚崎貴明に謀反を企てた養子、惟明に荷担した為に領内から追放され八並後藤氏は断絶しています☆
諏訪山城は諏訪神社のある南北に長い丘陵に築かれています♪神社の北背後には円形の土壇が残り、丘陵地は削平地となっています☆
諏訪山城の城内には『八並さん』と呼ばれる石塔が残ります♪更に眼下の長崎街道には八並の石塔が残ります♪
2022年09月19日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
富岡城[塚崎城 周辺城郭]
佐賀県の武雄市にある【肥前・富岡城】♪武雄温泉駅の北側の丸山丘陵(天神山)に城郭は存在しました♪眼下には長崎街道が走ります♪平安時代から鎌倉時代までは長島庄に属しますが、その後は一三世紀、十四世紀に成立した塚崎庄に属しています♪
塚崎城主・4代目の後藤宗明は三男の後藤信明を分家にして富岡村を与えています♪
富岡後藤氏となった信明は丸山丘陵(天神山)に城郭を形成☆居城としています♪
塚崎城の東の守りを受け持ちました♪
戦国時代には龍造寺隆信の三男、龍造寺家信が塚崎城主の20代目に迎えられると、後藤幸明は武士を捨て長崎に移住し商人となっています☆その後は、また再び富岡後藤氏の直轄地に戻っています♪
この肥前・富岡城を築いた際に、天神社を勧請していて、この天神社を城と村の守神とした事で、天神山と呼ばれる様になりました♪
幕末には武雄領は鋳砲に成功した洋式銃の試射を、南側にある白岩丘陵に向けて行っています♪
明確な遺構は竪堀状の掘り込み、切岸、削平地♪現在は公園になっています♪御船山が綺麗に見えました
2021年09月20日 織田上総介晃司
塚崎城
駐車場はありません。
主要部の曲輪は武雄高校と住宅街の間にあり、住宅街側から階段を上ると曲輪(公園)に塚崎城碑があります。
車で移動して(リア攻めマップ参照)デイケアセンターの送迎用の駐車場を間借りして写真だけ撮りました。
塚崎城の近くに武雄温泉。南西に進むと嬉野温泉があります。
嬉野温泉では豆腐が温泉に浸かり豆腐の人生の角が取れて丸くなったような温泉湯豆腐を食べることができます。
「ちょっと何言ってるのかよくわからないんだけど」と思う方か、どんな湯豆腐か気になる方は食べに行ってみては…