獅子ヶ城(ししがじょう)

獅子ヶ城の基本情報

通称・別名

獅子ケ城、獅子城、猪ヶ城、鹿家城

所在地

佐賀県唐津市厳木町岩屋字犬の谷他

旧国名

肥前国

分類・構造

連郭式山城

天守構造

築城主

源披

築城年

治承年間(1177〜1181)

主な改修者

主な城主

源氏、鶴田氏

廃城年

文禄2年(1593)

遺構

曲輪、石垣、竪堀、堀切

指定文化財

県史跡(獅子城跡)

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

日在城(佐賀県伊万里市)[7.3km]
岸岳城(佐賀県唐津市)[7.9km]
梶峰城(佐賀県多久市)[8.0km]
青山城(佐賀県唐津市)[10.4km]
塚崎城(佐賀県武雄市)[13.9km]
小城城(佐賀県小城市)[14.4km]
おつぼ山神籠石(佐賀県武雄市)[14.9km]
千葉城(佐賀県小城市)[15.4km]
潮見城(佐賀県武雄市)[15.5km]
須古城(佐賀県杵島郡)[15.7km]

獅子ヶ城の解説文



獅子ケ城(ししがじょう)、または鹿家城・獅子城は、佐賀県唐津市厳木町岩屋・浪瀬にあった日本の城(山城)。佐賀県指定史跡[1]

概要 

松浦党の源披が治承年間(1177年~1181年)に築城したと伝えられる[2]

唐津市厳木町にある白山の山頂、標高228メートルに位置し、城の周囲は急な崖となっている。有明海と玄界灘の分水界に近く防衛の拠点となったが、息子の源持が平戸に移ったため廃された。

その後、天文年間(1532年~1555年)頃に松浦党の鶴田前が城主となり復興している。大友氏や龍造寺氏、後藤氏などの勢力の境界に位置し、天文13年(1544年)には龍造寺氏は攻撃したが失敗し、翌14年(1545年)には5日間占領したものの奪回されている。

永禄年間(1558年~1570年)には波多氏が数回にわたって来攻したが、撃退している。天正5年(1577年)に波多親が上松浦松浦党の首領となると、城主の鶴田賢はこれに服属した。やがて波多氏が追放されると文禄2年(1593年)に後藤氏の家臣となり、城は廃された。その後は寺沢広高が改修して石垣のある城となったが、元和元年(1615年)頃、再び廃城となったという。1991年(平成3年)3月30日に佐賀県の史跡に指定された。

参考文献 

  • 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典(41.佐賀県)』、角川書店、1982年

獅子ヶ城の口コミ情報

2023年12月29日 龍馬備中守【】
鶴田氏館[獅子ヶ城  周辺城郭]



佐賀県唐津市の厳木にある【肥前・鶴田氏館】獅子ヶ城のある白山から東に突き出す支尾根の先端部に立地♪眼下には岩屋集落が広がります♪往時は鶴田氏、平時の際の居館♪現在は鶴田神社として集落の方の崇拝の場になっています♪
鶴田氏館の『鶴田氏』♪嵯峨源氏を称する松浦氏の一族です♪岸岳城主の波多源次郎持の二男の【波多来】が鶴田太郎を称した事に始まります♪
蒙古襲来時に活躍した事で幕府から佐里・泊・牛牧などの所領を安堵されるも、南北朝時代から室町時代における鶴田氏の動向はよく分かっていません♪が、恐らく波多氏の一族として惣領家と行動を共にしていたのでしょう♪

南北朝期において一族の松浦党は北朝方として活躍し、鶴田氏も合戦に出ていたのでしょう♪

戦国時代初期に少弐政資が筑前・高祖城を攻撃した時、惣領家・波多氏、相知・有浦氏と共に、この鶴田氏も少弐氏に加担し出陣しています♪

鶴田因幡守伝の代に日在城主である大河野氏の後継者が絶えており、鶴田伝の長男・鶴田直が後継者に迎えられています♪
その結果、鶴田氏は日在城に本拠を移していて廃城となっていた獅子ヶ城を再度、修復し2男の鶴田前が城主となりました♪この鶴田氏は東肥において、波多・草野氏らと並ぶ勢力として活躍していきますが…。。また、鶴田氏も時代の波に翻弄されていく…。。

この北部九州は鎌倉時代から室町時代にかけて勢力を奮ったのは大宰少弐に補された武藤少弐氏です☆周防国・大内氏が北九州に進出して来ると少弐氏と大内氏の抗争が繰り返され次第に少弐氏は劣勢に傾いていきました☆
この環境の中、少弐氏の被官だった龍造寺氏はジワジワと勢力を拡大していき少弐氏の屋台骨を背負う存在へと成長します♪龍造寺氏の存在を妬んだ少弐氏の重臣・馬場頼周は主君である少弐冬尚を動かし一計をめぐらし、有馬・松浦一党の決起を少弐氏に対する反抗とみせかけ龍造寺氏に討伐を命じました。馬場頼周は主力の出払った龍造寺氏の本拠、水ヶ江城攻略を狙った訳です!
この時に龍造寺軍は鶴田前の拠る獅子ヶ城を包囲し攻撃しましたが容易に落とせませんでした。
そりゃそうだって獅子ヶ城を見たら分かります♪要害城となる獅子ヶ城をみたら納得♪龍造寺軍は一隊を割いて波多氏の本拠地、岸岳城、更には鶴田氏の本城である日在城の攻撃に向かわせました☆
龍造寺軍が分散したことを知った岸岳城主・波多興は龍造寺軍を前後から包囲し攻撃して、潰滅的打撃を与える勝利を得ています☆この敗戦の後、龍造寺氏は馬場氏の謀略によって一族の多くが討たれ大きく勢力を失墜しますが、後の龍造寺隆信の出現により盛り返します。さて、同族である波多氏と家督を巡り対立した日在城主・鶴田直は岸岳城に招かれ謀殺されてしまいます。兄の死を知った獅子ヶ城主・鶴田前は岸岳城を攻めましたが、岸岳城は落とす事が出来ませんでした。この時の果敢な戦いぶりにより鶴田前の武名は上がり松浦党の盟主となるまでに知れ渡っています♪
その後、波多氏と鶴田氏は和睦しますが今度は、衰退した龍造寺氏を継ぎ、大内氏の援助を得て勢力を回復させた龍造寺隆信が獅子ヶ城を攻撃します。
龍造寺隆信が勢力を拡大させる事を危惧した豊後国・大友宗麟は佐嘉城を攻撃!(※今山の合戦です)波多氏・鶴田氏・草野氏の上松浦の3氏はそろって大友氏の味方をしています★今山の戦いに勝利した龍造寺隆信は窮地を脱した事で上松浦三氏を征服しようと侵攻を進め、またしても鶴田前の守る獅子ヶ城に攻め寄せました!
鶴田前は勇将であり龍造寺軍の攻撃に屈する事なく激戦がおこなわれています。この事態に前の弟・鶴田勝は、みずから使者となり龍造寺軍に出頭…。和平を乞うた為に和睦となりました♪鶴田前も城を開き草野氏攻略の先陣を担っていき、生き残る術を参画していきます★
こうして、龍造寺隆信に従っていった事で島原・有馬氏にそそのかされた波多鎮・伊万里治・有田盛の3氏は獅子ヶ城を攻撃!
不意をつかれた鶴田前は加番として獅子ヶ城に在城していた龍造寺河内守・馬渡主殿らと防戦🔥これに日在城の鶴田勝も援軍を出し、波多勢らと戦いましたが、遂に鶴田前は城外の戦いで壮烈な戦死を遂げています…。。

龍造寺隆信も獅子ヶ城に向け援軍を出し波多氏らを追い払うと逆に岸岳城を包囲、攻撃しました🔥岸岳城の波多鎮は龍造寺軍に降伏。更には伊万里氏、有田氏もそれぞれ降伏し龍造寺氏と和睦しました☆戦死した鶴田前は、その武勇と民衆に施した仁政から神として祀られ、現在も『鶴田神社』として崇敬を集めています♪

そして、獅子ヶ城を中心に活動した鶴田越前守前の墓所も残っています♪

2023年12月20日 RED副将軍
獅子ヶ城



松浦党の鶴田氏の居城を寺沢広高が総石垣造りに改修した名城🏯

オススメ度 ★★★★★

文治年間(1177年〜1190年)に源披により築かれたと云われます。
源披は、松浦党の祖である源久の孫とされ、当地一帯を領して築城したのが獅子ヶ城とされます。源披の子の源持が平戸へ移った際に廃城となったとされます。
天文年間(1532年~1555年)には松浦党で日在城の鶴田直の弟である鶴田前により再建。
龍造寺氏や波多氏が幾度と侵攻するも撃退したとされます。
1577年に波多親が上松浦松浦党の首領となると鶴田賢は従属します。
1593年、文禄の役における軍律違反により波多親は改易。鶴田氏は野に下り廃城となりました。
波多氏に代わり唐津藩には寺沢広高が入部し、唐津城の支城として獅子ヶ城を総石垣造りの城に改修したとされます。
1615年、元和の一国一城令により廃城となったと考えられています。

見所
標高207mの白山に築かれており、切り立った岩壁上にあります。
西端の山頂部が本丸であり、東へ井戸曲輪、二の丸、二の丸を取り囲む三の丸と続き、本丸南下に一の曲輪、二の曲輪が連なります。総石垣造りの曲輪群であり、一部に天然の岩壁が剥き出しで利用されています。
本丸は北西と南東に虎口が開口し、南東虎口は井戸曲輪から三の丸へと続きます。
二の丸は天然の岩壁に囲まれた険峻な造りです。
三の丸東下の駐車場から更に東へ下りると出丸があり、こちらも石垣造りです。

行き方は、県道32号から城域の東下の駐車場まで車道が付いており、整備もされているので気軽に訪れることができます。

2023年05月02日 伊豆守十郎
獅子ヶ城

石垣の城に圧巻。さすが秀吉の側近の城。

2023年04月06日 龍馬備中守【】
源披墓所[獅子ヶ城  碑・説明板]



佐賀県の唐津市にある【源披墓所】♪源披(峯五郎披)は源頼朝が鎌倉幕府を開き征夷大将軍になる頃に平戸島・紐差の地頭職を安堵され、松浦党の始祖・源久の孫にあたる人物です ♪

嵯峨源氏渡辺氏の祖の渡辺綱の曾孫とされる渡辺久(源久)を祖とします♪後に地名に由来した『松浦』を名乗る訳ですが、渡辺綱に始まる渡辺氏を棟梁とする摂津国の滝口武者(大内守護、天皇警護)の一族と伝わります♪水軍として瀬戸内を統括した渡辺党の分派とも伝わります♪本流とされる摂津の渡辺氏は摂津源氏の源頼政一族の配下でありましたが『肥前の松浦党』は平家の家人で源平合戦においては当初、平家方の水軍でした♪が、壇ノ浦の戦いで劣勢が見えた平家方から源家に付き、源家に加勢♪源家の勝利に終わったのは歴史の通りです☆

この壇ノ浦の戦いでの功績により鎌倉幕府の西国御家人となり九州北部の地頭職へと成ります♪が、同環境にあった秋月氏や蒲池氏、菊池氏と同じく、元平家家人の九州御家人を信頼していない源頼朝は九州へ少弐氏・島津氏・大友氏などを送り込んでいて、松浦家は、この『下り衆』の下に配置されました☆その配下の中でも、一段と勢力を奮っていきました♪

肥前松浦地方を中心に松浦家の一族は後に48つに分かれていて松浦党や松浦四十八党とも呼ばれました♪獅子ヶ城の鶴田氏も、岸岳城の波多氏も松浦から派生された一族です♪平戸から広がりを見せた一族は肥前北部の歴史に触れると多く登場してきます♪蒙古襲来時にもその卓越した海上戦術で戦い歴史に名を残していく松浦氏です☆

南北朝時代に入ると後醍醐天皇を中心とする倒幕勢力は各地で蜂起☆九州でも博多の鎮西探題・北条英時が守護であった大友氏・島津氏・少弐氏などの軍勢に攻められ滅亡する始末…☆中央での倒幕勢力が次第に大きくなると松浦党諸家はそれぞれの家長の判断で、ある一族は後醍醐天皇の軍勢催促の綸旨に応じ、また、ある者は北条英時の元に馳せ参じています☆京都での権力争いに敗れた足利尊氏は再起を期して九州に逃れていますが、この時、松浦党の一部の家々は、これを迎え撃った南朝方の菊池武敏側の軍に付きました☆しかし多々良浜の戦いで足利尊氏の勝利が明確になると松浦党はたちまち足利側に寝返り、以降も継続的に存命☆先代である松浦党の祖である源久、その曾孫である源披♪彼らが築いた硬い基盤☆戦国時代、秀吉による島津征伐の際に、秀吉は松浦氏の勲功を賞し平戸以外の領地に転封しようとしますが『累代の苦心によって得た土地であるから、後世末代まで現所領の安堵の確証を賜りたい』と言上し秀吉は所領の『永代安堵』の誓約を与えたとも云われています☆

時代の暗雲に揉まれ続けながらも強く、逞しく生き抜いた松浦家♪変わらず、その所領を安堵し続ける、その手腕とこだわりに、尊敬すら覚えました☆ずっと行きたかった源披の墓所♪今はヒッソリと静かに佇んでいました♪

2022年09月25日 あらし肥前守
獅子ヶ城



県道32号の城跡入口に「獅子城跡入口」の石碑が建ってます。三の丸入口近くに駐車場があり、600m位舗装された道となっています。
曲輪、石垣、虎口、堀切、井戸とかなり状態の良い遺構が残ってます。
続100名城に選ばれなかったのが不思議なくらいです。
駐車場から高低差があまり無く、通路もよく整備され、案内板も各所にあり気軽に行けるお勧めな城跡です。

2021年03月09日 さすらいの征夷大将軍慶誾尼☆寧
獅子ヶ城



厳木(きゅうらぎ)多久(たく)有料道路浪瀬I.Cより車で5分で着きます。
道路右側にちゃんとした標識があり、あたしでも見落とすことはありませんでした。
右側の道沿いに上がって行くと、上には広い止め放題の駐車場があります。
ただのだだっ広い原っぱなのでトイレなどはありません。
二、三日お天気がいい後に行かないと
駐車場や城跡は泥濘むのではないかと思います。
カラカラのお天気でしたが『足元注意』の看板の前では必ず躓いたり滑ったりとお恥ずかしい限り…笑

標高228mの白山に、本丸、井戸曲輪、二の丸、三の丸、一の曲輪、二の曲輪、出丸で構成。
周囲は断崖絶壁に囲まれた天然の要害。
岩盤が剥き出しの二の丸以外は絶壁の上に石垣が築いてる。
石垣や石ころまでもが苔むしていて、テンション上がります凸
写真撮る時は十分に注意して下さいね
撮影に夢中になって、石ころが崖下に落ちて行く音を聞いたら青ざめました…
いや〜危ない、危ない




2020年11月21日 関白さかえちゃん
獅子ヶ城



岩と石垣の天然要塞❗曲輪のはっきりわかる松浦党の素晴らしいお城🏯

2019年01月06日 織田上総介晃司
獅子ヶ城

県道32号に案内板があり、細い山道を登ると三の丸脇に駐車スペースがあります。
トイレはありません。

天然の岩盤と断崖。巨岩、石垣を駆使して築き上げ、縄張りの妙もあって見ごたえのある城です。
説明板も随所にあり見落としも減るでしょう。
続百名城に選ばれなかったのが不思議なくらい。

出丸に行くのも忘れずに。

2017年10月31日 カーネル
獅子ヶ城

唐津線厳木駅から

駅前通りを西に向かい、県道32号で左折して南へ

県道は緩やかだけどずっと登りですが、穏やかな道です。鶴田神社の先、駅をでて30分のあたりで、県道32号の北側に獅子ヶ城の石碑が建っているので右折して北上します

さらに10分登ると駐車場。右に5分進むと出丸

戻って反対側に進むと、三の丸、二ノ丸、堀切、三の曲輪、二の曲輪、櫓跡、戻って一の曲輪、井戸曲輪、本丸、全域にわたって石垣とどこも見どころ満載です。案内も丁寧で、わかりやすいです
大満足で駅に戻りました

駅から往復して2時間半でした


2016年12月31日 縫殿允北御前
獅子ヶ城

厳木多久道路の浪瀬インターから車で10分ほど。
車同士が行き違うのに苦労しそうなグネグネ道を登ると突き当たりに駐車できる原っぱがあります。
トイレはありません。

2013年07月03日 唐獅子牡丹
獅子ヶ城

岩山の山頂部に累々と築かれた石垣作りの城だ。獅子ヶ城は岩屋と浪瀬にまたがる独立た岩壁で、足がすくむくらいの絶壁です。敵が容易に攻め落とすことができない山城とは、このような城だと思いました。
ここで足を滑らしたり、転倒したら、確実に死ぬだろうなと思いました。
この城は何度か廃城になった後、初代唐津藩主寺沢氏の時、現在見られる石垣作りの城に改造し、瓦葺きの建物、櫓、門などを建てた。
一国一城令で、全国の城が、破却されだす頃、この城も破却され廃城となった。

獅子ヶ城の周辺スポット情報

 二の丸(遺構・復元物)

 源披墓所(碑・説明板)

 鶴田氏館(周辺城郭)

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